ラファエルは語る

──音が、響かない。

あれ? と思ったのは授業の合間に自主練習をしているときだった。
特に体調が悪いわけでもないし、何か思い悩んでいることがあるわけでもない。
けれどどんな曲を弾いても相棒はいつもと同じようにお喋りしてくれなくて、何か機嫌を損ねるようなことをしたかな、と首を傾げた。
だが、さして心配はしていなかった。
この相棒は非常に気難しくて、気分が良いときはそれこそ天上の音楽を奏でてくれるが、へそを曲げるとどんなに宥めすかしてもそっぽを向いたままなのだ。
綺麗に歌ってくれよ、と思いながら弾けば『誰にものを言ってるの?』とばかりに音を響かせてくれるのだけれど、本当に、自分の周りは女王様ばかりだ、と苦笑した。

「──もういい」

ぴしゃり、とよく響く低い声が頭上から叩きつけられた。
思わず首をすくめてしまうほど、大きくはないけれど、強い声だった。

「やる気がないなら、出て行ってもらって構わん」
「──あ、いえ、俺は」
「今の君の音を聴いても、時間の無駄だ」
「……」

他にも数人の学生がいる中、アルフレッドは息子にそう言い放った。

「出て行きたまえ」
「……」

返す言葉がなくて、でもここに居続けることも出来なくて、キニアンは頭を下げると教室を出た。
その授業のあと、食堂でランチをつつきながらため息を零していたキニアンの元へ、ヴァイオリン専攻で同じ講義を受けているアシュリーがやってきた。

「──出て行きたまえ」
「……お前まで」
「マエストロはいつでも、誰にでも厳しいけど、あれはないわよねぇ?」
「……いや、俺が悪いんだと思う」
「確かに、いつものあなたの音とは違ったけど」
「全然、口きいてくれないんだ」
「──は?」
「何話しかけても、宥めても、そっぽ向いたままで……」
「……はぁ」
「ちょっと怒ってやろうかと思ったんだけど、でもこいつが悪いわけじゃないし」

傍らのチェロケースに目を遣り、深々とため息を零す。

「早く機嫌直してくれないかなぁ……」
「……何か、恋人に対する言葉みたいね」
「恋人じゃないよ。まぁ、相棒みたいなものだけど」
「この子、名前何だっけ?」
「あぁ、【ラファエル】」
「それは……また……何というか、ありがたい名前だわ……」
「男前な女王様だよ」
「あなたの周りって、そんなのばっかりね」
「俺もそう思う」

自分もそのひとりだという自覚はあるのか、アシュリーはキニアンの隣に腰をおろした。

「で。リアル恋人とは、会ってるの?」
「んー……二週間くらい会ってない」
「毎週末は会うんじゃなかったの?」
「そうなんだけど、何か忙しいみたい」
「──フラれそうなわけ?」
「……本気でヘコむからやめてくれ」

がっくりと肩を落としたキニアンを、アシュリーは面白そうに笑ってみせた。

「ベタ惚れね」
「はいはい、どうせ片想いですよ……」
「──片想い? だって、もう四年付き合ってるんでしょう?」
「何年付き合おうと、俺の片想いなの」

頬杖をついてランチのプレートを見つめるキニアン。
アシュリーは目をぱちくりさせて言ってやった。

「──スランプの原因って、ただの欲求不満なんじゃないの?」
「え?」

これには目を瞠ったキニアンだった。
アシュリーが言っていたことが真実かどうかは別として、カノンに会いたいという気持ちがあるのは確かだ。
二週間前に「これから忙しくなるから、あんまり連絡できないから」と言われてから、カノンからは一度もメールも電話もない。
キニアンは一度だけメールをしたが、翌日まで返事がなかったのは初めてのことだった。
だから余程忙しいのだろうと思って、それからは連絡をすることも控えていた。
邪魔はしたくないし、負担になりたくもない。
人間誰しも優先させる物事と順位というものがあり、カノンにとって今はそれがキニアンではないということなのだろう。

「……ま、最優先にしてもらったこともないけど」

言ってみて虚しくなった。
片想いなのは分かりきっているが、以前に付き合った女の子なら二週間でも三週間でも放っておいた自分が、と考えると、ため息しか出ない。

「デートする時間がないなら、ちょっとの時間でも会いに行けばいいのに」
「……迷惑に決まってる」
「一応恋人なんでしょう? ストーカーでなく」
「……俺も人のこと言えないけど、もう少し言葉を選んでくれ」
「連絡取れないうちに自然消滅とか、そっちの方が嫌じゃない」
「……胃が痛くなってきた」
「だから、会いに行っちゃえばいいのに」

何で分からないのかしら、と眉を顰める友人に、キニアンは大袈裟なまでのため息を吐いた。

「女々しい男だって思われたらどうするんだよ……」
「その発言と今の態度が十分女々しいから大丈夫」
「……フォローになってないだろうが」
「四年も付き合ってるんだから、相手もあなたのこと分かってるわよ。そんなに気にすることないと思うけど」
「何て言って会いに行くんだよ」

この言葉に、アシュリーは呆れ返ってしまった。

「恋人に会いに行くのに、『会いたい』以外の理由が必要だったなんて初耳だわ」
「忙しいからしばらく連絡取れないって言われてるんだぞ?」
「メール返してきてくれたんでしょう? だったら別に迷惑なんかじゃ」
「あいつは、よっぽど嫌いなやつからじゃなきゃ、人の言葉を無視したりしないよ」
「ノロケてくれるわね」
「そういうことじゃなくて。だから、そんなあいつが翌日まで返信してこなかったっていうのは、何か事情があるに違いないんだ」

何だかんだいっていつも気づけばすぐに返信をくれるカノンだから、携帯の電源を切っていたか、気づかないほど立て込んでいたかのどちらかなのだろう。
それが分かる程度には、鈍感だのKYだの言われるキニアンでもカノンのことは理解していた。

「だったら、向こうから連絡寄越すまで何もしないわけ?」
「それは……」
「あたしはあんまりあなたの恋人のことを知らないし、別に悪く言うつもりもないけど。──これって、浮気されてるときのパターンじゃないの?」
「──は?」
「新しい男が出来たから、あなたとは少しずつ距離を取ろうとしてるんじゃないの、ってこと。あ、もちろん本気で言ってるわけじゃないわよ? たとえ話だからね?」
「……」

しかし、既にキニアンの表情は暗く沈み込んでいる。
しまった、と舌を出したアシュリーだったが、まぁ、これでこの顔は男前でチェロの腕も一流のくせに、どうにも恋愛下手で何だか放っておけない大型犬みたいな青年が動く気になるなら、それはそれでいいか、と思うのだった。
彼女には歳の離れた弟がいる。
まだ幼稚園に通っている弟は、実家に帰ると「おねえちゃん、おねえちゃん!」と纏わりついてくるわけだが、何だかその弟を見ているのと同じ感覚なのだ──我ながらとても失礼な話だと思うので、本人には言わないことにしているが。

「ここまで来たら、当たって砕けてみたら?」
「……九割方砕ける気がします」

これには目を丸くしたアシュリーだ。

「呆れた。あなた、恋人に愛されてる自信とかないわけ?」
「ありません」

カノンに聞かれたら殺されそうな台詞だが、偽らざる本音だった。

「あいつは、頭いいし、美人だし、ちょっと我が儘だけどいい子だし。俺なんかが相手にされるわけないんだよ」
「じゃあ別に砕けたっていいじゃない」
「良くないだろうが」
「たまたま付き合ってもらっただけなら、たまたまフラれたって一緒でしょ?」
「……」
「まぁ、あたしには別に関係ないけど」

でもね、とアシュリーは真剣な顔つきになった。

「あなたの音があのままなのは、絶対嫌なの」
「……」
「あたしはあなたの音が好きなの。もっともっと聴きたいの。マエストロだって、そう思ったからああ言ったんだと思うわ」

ちょっと言いすぎだとは思うけど、と心の中でつけ加える。

「分かったら、さっさと砕けて来なさいよ」
「……砕ける前提かよ」
「自分で言ったんじゃないの。あたしは、一パーセントでも望みがあるなら動くべきだと思うけど」

しばらく無言で見つめあって──否、睨み合っていたふたりだが、先にキニアンが根負けしてため息を零した。

「はいはい。じゃあ連絡してみますよ」
「あ、結果教えてね」
「何で?」

美人なヴァイオリニストはにっこりと笑った。

「──興味本位」

本当に、自分の周りにはこんなのしかいないらしい、とがっくり肩を落としたキニアンだった。


『──はい』

授業が終わり、アパートに帰って電話を掛けてみた。
意外と早く出てくれて、ほっとしたのはいいけれど、何と言えばいいのか分からなくなってしまった。

『アリス?』
「あー……元気?」

馬鹿か、と自分が情けなくなったが、言ってしまったものは仕方ない。

『うん、まぁ』
「忙しいみたいだな」
『そうだね』
「……」

別に、機嫌が悪そうな声じゃない。
電話にも出てくれた。
それなら、きっと嫌われているわけではないのだろう。

『アリス? 何か用事?』
「いや……その……」

言葉が続かない。
怪訝そうに名前を呼ばれ、『ええいっ』と心を固めて話を切り出した。

「次の土日って、会えないか?」
『ごめん。来月の二週目まで平日も週末も無理』
「──……あ、そう、なんだ……じゃあ、それ以降なら平気なのか?」
『今のところ』
「そっか……」

何だか拍子抜けするほどあっさり断られて、自分が落ち込んでいるのかどうかすら分からなくなった。

『ごめん。ぼく、これからちょっと予定あるから』
「え? あ、あぁ……うん。悪かった」
『じゃあね』

プツリ、とそこで電話が切れた。

「……予定」

どんな予定なんだろう、とか、誰かと会うんだろうか、とか。
もやもやしたものが腹の中いっぱいに溜まっていって、思わず頭を抱えた。

──……かっこ悪ぃ……。

頭の中で、何度も話す内容をシミュレートしたというのに。
声を聴いたらそれだけで舞い上がってしまって、嬉しくて、何も言えなくなってしまった。

「……ちょっと、疲れてた……かな」

耳には自信がある。
機械を通していようと、そんなものは大した障害ではない。
いつもよりほんの少しトーンが低くて、掠れた声だった。
喉を痛めているわけではないだろうから、寝不足か、疲労が溜まっている証拠だ。

「悪いことしたなぁ……」

本当に忙しいのだろう。
もしかすると、何か邪魔をしてしまったのかも知れない。

「やっぱり掛けなきゃ良かった」

はぁ、と深くため息を吐くが、後悔したところであとの祭りだ。
ごろっとベッドに横になり、ぼんやりと天井を見上げる。
銀色の髪と菫の瞳の、微笑めば天使のような美貌が現れる。
手を伸ばしても、届くわけもなく。
急速に離れていく面影。

「……やば……」

衝動といってもいいほど、触れたいと思った。
やわらかな髪に。
滑らかな頬に。
ふわふわとしたマシュマロのような唇に。
たまらなく、口づけたかった。

「あー……もう……」

くしゃり、と髪を掴んでも、一度覚えた渇望はそうそう容易く消えてはくれない。
カノンは何かに必死に取り掛かっているというのに、自分は愚かな欲求を覚えている。
自身を慰める気にもならず、キニアンはまんじりともせずに夜を過ごした。

「うーわー……すぅごいクマ」
「男前が台無しだな、アル」

気の毒そうな声で口許を押さえているのはアシュリー。
面白がる声でキニアンの肩に腕を回したのは、ヴィオラ専攻のケビンだ。

「マエストロの喝が効いてるのか?」
「違うのよ。恋人にフラれそうなんですって」
「あぁ。そりゃ寝てる場合じゃねぇな」
「……お前ら、他人事だと思って」
「「だって他人だし」」
「……」

きっちりと声を揃えての台詞に、キニアンはテーブルに突っ伏した。
友情とはかくも儚いものか、と思ってしまう瞬間である。

「次のマエストロの授業には出るでしょう? ってゆーか、出てくれないと三重奏にならないのよ」
「……心配するのはそっちかよ」
「当たり前じゃない。あなたのチェロが一番弾きやすいんだから」
「あぁ、それは俺も思う」
「でしょう? 何ていうか、妙な癖がないのよね」
「そーそー。でしゃばらないっていうか」
「そのくせ、しっかり支えてくれるのよ」
「悔しいけど、いい音出すよな」
「……お前たち……」

どうやら慰めてくれているらしい友人たちに、うっかり涙目になる青年。

「──で? もうフラれたの?」
「……」

グサリ、と突き刺さるアシュリーの言葉に、キニアンは精一杯の虚勢でもって言ってやった。

「……来月になれば会えるよ」
「あら。命拾いしたのね」
「昨日電話したら、すごい疲れてる声でさ……ほんとに、忙しいんだと思うんだ」
「どこに通ってるんだったっけ?」
「……イル・ヴァーレ」
「「──はぁぁああ?」」

驚きを通り越して素っ頓狂な声を上げる音楽家の卵たち。
ケビンはあんぐりと口を開けている。

「……また、おっそろしく頭がいいところに。あそこの入試、司法試験より難しいって聞いたことあるぞ」
「実際、頭がいいって表現が申し訳ないくらいだよ。一度見聞きしたことは忘れないんだと」
「よく相手にしてもらえたわね」
「俺もそう思う」
「はぁ~。すげー才女だな」
「女じゃないぞ」
「「──え?」」

当然のような顔で爆弾発言をする友人に、アシュリーとケビンはぽかん、とした表情になった。

「女じゃないって……じゃあ、男?」
「あぁ」
「あぁ……って……あなたの恋人って、男なの?」
「そうだけど? あれ、言ってなかったっけ?」
「「……」」

思わず顔を見合わせた友人たちに、キニアンは苦笑した。

「なに。幻滅した?」

気色悪いと思われても仕方ないのかも知れない。
だが、カノンが男なのも、自分が彼に惚れ込んでいるのも、また可愛くて仕方ないのも、事実なのだ。

「「──なぁ~んだ」」

しかし、キニアンの予想に反して友人たちは気の抜けた声を上げた。

「俺、こいつが女に入れあげてる姿って想像つかなかったんだよな」
「あたしも」
「ってゆーか、この愛想のなさで女の子の前でデレてるところとか、見たくないし」
「そうなの! どうしても彼女のご機嫌取りしてるっていうのが腑に落ちなかったのよね」
「「男なら納得」」

何がどう納得できたのか詳しく聞きたいところである。

「だからね、つまり」

アシュリーが何か言いかけたところで、キニアンの携帯が鳴った。
「悪い」と友人たちに断って電話に出る。

「──はい……えぇ、平気ですよ。どうかしたんですか? え? あぁ……すごく嬉しいんですけど、俺、たぶん出禁なので……」

情けなく眉を下げて苦笑する。

「来月の二週目まではダメって言われてて……えぇ。すみません」

電話だというのに、律儀にもぺこり、と頭を下げる。

「──あ、はい。是非。楽しみにしています。それじゃ」

電話を切ったキニアンの前には、三日ぶりの食料にありついた遭難者のような顔をした友人ふたりがいたのだった。
誰、と両側から訊ねられたキニアンは、別に隠すことでもないので正直に話した。

「はぁ~。お前、彼氏……ってのも変か。恋人の親と電話で話したりするわけ」
「うん。気さくな人だよ。料理が絶品で、今も『食べにおいで』って」
「よく行くの?」
「最初は申し訳ないなぁ、と思ってたんだけど、ほんとに美味くてさ。シェラも──あぁ、その人の名前な。すごく嬉しそうにしてくれるから、遠慮はしなくなったな。その代わり、片付けは手伝うけど」
「へぇ。お姑さんのこと、名前で呼んでるんだ?」
「そうしてくれ、って言われてるから」

男に『お義母さん』もないだろうと思うし、というのは一応控えておいた。

「なぁ。恋人の写メとかないの?」
「言うと思ったよ」
「あるんでしょ?」
「あるけど」
「「見せてよ」」
「……まぁ、別にいいけど」

本人の許可は取っていないが、まぁ、特に何も言わないだろう。
そう思って携帯を開く。

「「……」」

キニアンから受け取った携帯の画面を見つめたまま固まるふたり。
そんな変な写真見せてないぞ、と思ったキニアンは首を傾げた。

「……ちょー可愛い」

ぽつり、と呟いたアシュリーに、「うん」と返す。

「これ、男だろ……?」

呆然となっているケビンに、これまた「うん」と返す。

「天使みたいだよな」
「「──ノロケか」」

真顔で言い切るキニアンに、両脇からツッコミが入る。

「可愛い顔して我が儘なんだけどさ」

そこがまた可愛いんだ、というのは心の中にしまっておいた。
ファロット一家との交流でだいぶ原型はなくなっているが、彼は本来とても硬派なのだ。
そのわんこキャラでかなり忘れられがちだが、イケメン担当なのである。

「そりゃあ、これだけ可愛ければ我が儘なんていくらでも叶えてやりたくなるだろう」
「っていうか、親にも我が儘言わないんだよ、こいつ」

自分だけが特別扱いされているようで、また頼られてもいるようで、非常に気分がいい。

「えー、これだけ可愛いなら、お母さんも美人なんでしょ?」
「父親も、双子の妹も、揃ってすごい美形。街歩くと視線とどよめきが煩いくらいだよ」
「お前が言うんだから相当だろうな」
「俺、醜いまんまのあひるの子になった気分」
「ほんと、よく相手にしてもらえたわね」
「な」

大真面目な顔で頷く青年と、ほぉぉぉぉ、といった感じで携帯を見つめる友人ふたり。
ちょっと嫌な予感がする。

「「実物見たーい」」

言うと思ったが、キニアンは苦笑して「ダメ」と首を振った。

「いいじゃない。減るものじゃなし」
「そうだ、そうだ。男の嫉妬は見苦しいぞ」
「……煩いよ」

ひくり、と頬を引き攣らせたキニアンだったが、ダメなものはダメだ。
カノン自身は「別にいいけど」と言うに決まっているのだが、何か嫌なのだ。

「ふぅん。来月まで、この可愛い天使ちゃんはお預けなわけね」
「解禁になったら、ご飯食べにおいで、ってさ」
「お前、スランプの原因、ただの欲求不満だろ」
「……アシュリーにも言われたよ」
「間違いないな」

うんうん、と頷くケビン。
はぁ、とため息を零すキニアン。

「高校一緒だったからさ。あんまり長く会わないのって、耐性なくてな」
「あら。会えない時間が愛を育てるのよ?」
「イロイロと試練の時ですよ」

苦笑する男前に、友人たちは笑顔で大丈夫だ、と言ってやった。

「「──とりあえず次のマエストロの授業が一番の試練だから」」  




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