今日という日ほど、男子高校生がそわそわする日はないかも知れない。
──二月十四日。
言わずと知れた、製菓メーカーの陰謀渦巻くX-Dayだ。
今年は平日であったが、カイン校は特にこういったイヴェントを規制するような校則はない。
生徒の自主性を重んじる校風のため、ハメを外しすぎない限りは教員も何も言わない。
朝、登校してから下校するまで。
勝負は約八時間。
靴箱や机の中はおろか、校内隈なく甘い匂いで満たされている気がする。
それでも、両手に余るほどもらえる男子もいれば、義理ですらもらえない男子ももちろんいる。
アリス・キニアンは例年前者であったが、今年は靴箱に鍵をかけ、机の中は教科書で満たし、面と向かって渡してくる女子には申し訳ないが断りを入れた。
それというのも、去年天使の皮を被った女王様を激怒させてしまったためだ。
もともと甘味は好まないので、壁にまで染み付いていそうなチョコレートの匂いだけで胸焼けを起こしそうだった。
「……もらえんのかな、俺」
去年も家族のために焼いたガトーショコラをお義理でいただいた。
甘さ控えめのそれは素直に美味しいと思ったが、今年もお裾分けがある保証はどこにもない。
いくら甘いものが得意ではないとはいえ、一応彼氏らしきものではあるのだから、手作りなんて贅沢は言わない、せめて板チョコくらいは欲しいところである。
──しかし、あっという間に放課後になってしまった。
こういうとき、無愛想で良かったなぁ、と思うのだが、キニアンは顔に出さないまでも結構落ち込んでいた。
──……やっぱりなかったか……。
分かっていたことだが、ため息が零れるのは仕方のないことと言えた。
「──キーニアンくんっ!」
どこか上の空だった部活も終わり、先輩と同級生に囲まれた。
このパターンは、何となく先が読める。
「もらったの? もらったのかな???」
「……えっと……?」
「とぼけんなって。もらったんだろ、カノンちゃんから」
カノンを天使だと信じて疑っていない先輩たちや同級生の一部から、キニアンはときどき小突き回されることがある。
あくまでもじゃれあいの延長であるとキニアンは認識していたし、恋人の存在を羨ましがられるというのは男として気分がいい。
しかし、今日のキニアンは苦笑して首を振った。
「……残念ながら」
「──は? もらってないの?」
「はい。チロルチョコのひと粒たりとも」
「──マジで?! お前フラれんの?!」
「……やめて下さい」
それは本気でヘコむ、と項垂れたキニアンだった。
もう、いつ飽きられるのかと気が気ではないのだから。
そんなキニアンの様子を見た仲間たちは狂喜乱舞し、
「──あ、キニアン君は可哀想な子だから片付け代わってあげる」
とか言って率先してボールを片付け、体育館をモップ掛けした。
何だか本気で情けなくなってきたキニアンは、バンバン肩を叩いて「ま、落ち込むなって」「次があるさ」と告げて去っていく仲間たちを見送り、最後に体育館を出た。
部室で着替え、一応携帯を確認し、メールの一通も入っていないことに更に落ち込んで寮へ向かった。
「──あ、雪だ……」
はらはらと舞い落ちる白い雪。
体育館の中で走り回っているときは気にならなかったが、道理で朝から寒いはずだ、と吐いた息が白く染まる。
今日はシャワーでなく湯に浸かろうか、と考えて寮の入り口まで来たキニアンの視界に、白い影。
白いのに影というのもおかしな話だが、それを目に留めた瞬間、キニアンは瞠目して駆け出した。
「──おま……何やってんだよ」
この寒いのに、と咎める口調になってしまうのも仕方のないことだろう。
白いコートを着た銀髪の少年が、建物の外に立っていたのだから。
「あ、お帰り」
「お……お帰りじゃないよ。何やってんだよ」
「んー、待ってた」
にこっ、と微笑む顔はとても可愛いのだが、寒さのために頬は赤くなっている。
「……待ってるなら、中で待ってろよ」
心配になってカノンの頬に触れる。
つい先ほどまで運動していたキニアンの手は温かく、だからこそ、余計に頬の冷たさが強調された。
「あぁ……もう……こんなに冷たくなってるじゃないか……」
馬鹿だなぁ、と呟き、気のやさしい少年はとりあえず寮の中に入るよう促した。
「平気。すぐ帰るから」
「じゃあ送ってくよ」
「ううん、大丈夫──父さん来てくれてるから」
「──え……?」
カノンの指差した先に、黒いエアカー。
確かにそれならば安心だが、何となく面白くない。
「……何でこんなところに?」
「父さん? ぼくが呼んだから」
「違うよ。お前」
「ぼく?」
「こんな時間まで、何してんだよ」
この寒いのに、と少し咎める口調になる。
怒っているのではない。
心配しているのだ。
雪が降るほどの寒さの中、屋内ならばともかく外で待っているなどとんでもない。
「何って……」
菫の瞳が真ん丸になる。
そんなことを言われるとは思っていなかった、という顔だ。
カノンの表情を見て、キニアンはぱちぱちと瞬きをした。
「カノン?」
「……いらないならあげない」
ふい、と頬を膨らませ、横を向いてしまう。
「は? 何が?」
「いいもん。他の人にあげちゃうから!」
「だから、何が」
「~~~~今日渡すものなんて、決まってるでしょう?!」
このKY! と柳眉を吊り上げているカノンを見て、キニアンははた、と気づいて若葉色の目を瞠った。
「──チョコ?!」
「他に何があるの?!」
この鈍感! と怒鳴られる。 その剣幕にたじたじのキニアンだ。
「いや……だって、お前、昼間は何も……」
「昼間渡さなきゃいけないわけ?!」
「いや、そんなことないけど……」
「でもいらないんでしょ」
「──いや、いる! いるよ!」
「甘いの嫌いじゃん」
「お前がくれるなら食べるから!」
だから下さいお願いします、と頭を下げる彼氏に、カノンはふふん、と鼻を鳴らした。
「欲しい?」
「はい」
「どうしても、欲しい?」
「下さい」
「じゃあ、車まで来て」
「──え?」
「荷物車に置いてきた」
「…………」
さっさとエアカーに向かって歩き出したカノン。
そのあとを、小走りでついていくキニアン。
傘は持っていなかったが、雪はぱらぱらと降っているだけだから差さなくても平気だろう、と判断する。
エアカーに着くと、キニアンは運転席のヴァンツァーに挨拶をした。
「……こんばんは」
「あぁ」
「アリス、あれ」
「──え?」
あれ、とカノンが指差すのは、後部座席の奥にある手提げらしい。
「欲しかったら自分で取って」
「……はいはい」
待ち伏せしてた可愛いカノンはどこかへ行ってしまったらしい。
もはやいつもの女王様だ。
失礼します、と言って車の中に上半身を入れたキニアンは、「えいっ!」という声とともに押しやられてシートに倒れ込んだ。
「──ちょ、カノン!」
「しゅっぱーつ!!」
「はぁ?!」
何言ってんだよ! と声を荒げるキニアンはそっちのけ。
ヴァンツァーは滑るようにエアカーを発進させた。
「え、ちょ、ヴァンツァー! 何してるんですかっ!」
「──あぁ、忘れていた」
ほら、と寄越されたのは、1枚の紙切れ。
「──……外泊許可証じゃないですか……」
「父さん、身元の確かな成人だから」
「……そういうことじゃないだろうが。ふたりして何してんだよ」
「だからー、アリスはー、今日はうちにお泊りなの!」
にこぉ、っと微笑む天使の美貌に、キニアンはあんぐりと口を開けた。
「っ、はぁ?!」
「あ、そのチョコは本物ね。あげる」
「ありがとう……──って、違うだろ?!」
「何が?」
「何がじゃないよ。何だよ、泊まるって」
「部屋ならいくらでもあるぞ」
「ヴァンツァーまで何言ってるんですか!」
「──アリス」
「…………」
名前を呼ばれ、よく躾けられた犬のように黙り込むキニアン。
「今日は何の日?」
「……ヴァレンタインデー」
「ぼくはチョコあげたの。アリスは受け取ったの。契約成立でしょ?」
「契約って……」
そんな大袈裟な、とぼやくキニアン。
「だってさー、父さんとシェラはもちろん一緒に過ごすでしょ? ソナタもライアン呼んでるし、ぼくだけ独りなんて、嫌だもん」
「……カノン」
ぷぅ、と頬を膨らませた恋人に、キニアンは仕方ない、といった感じで苦笑した。
「ホワイトデー、何が欲しい?」
世間様では、倍返しから三倍返しが相場らしい。
この女王様のことだから、値段はともかく、もっと無茶なご希望があるかも知れない。
そう思ったのだけれど。
「別にいらなーい」
「──え?」
首を傾げたキニアンに、カノンはにっこりと微笑んでその細身の身体に抱きついた。
「その代わり、今日はずーっと、ぎゅってしててね?」
「…………」
あまりにも可愛いその仕草と台詞に、キニアンは一瞬固まった。
そして、ボソッと呟いた。
「……ヴァンツァー……ちょっと、見ないフリしてもらえます?」
「あぁ、じゃあ、今度チェロを教えてくれ」
「──喜んで」
ファロット邸に到着するまで、あと5分。
END.
【おまけ】
部活帰りに拉致られたキニアンは、ファロット邸のリビングで珈琲を振舞われていた。
彼が到着した頃には既にライアンも来ており、シェラとソナタと団欒の時を過ごしていたらしい。
「あ、アー君おかえり」
にっこりと微笑んだシェラに出迎えられたキニアンは、思わず緑の目を瞠った。
「え……?」
「おかえりなさい」
「……ただいま」
そう返してみて、自分がその言葉を久々に口にしたことに気づいた。
何だか、胸があたたかくなった気がする。
広いリビングは暖房だけの効果というわけではなく、とてもあたたかい。
「お兄ちゃんからチョコもらってると思うけど、おれからもあげるね」
そう言ってライアンが差し出してきた包みを思わず受け取ってしまい、キニアンは『どうすんだよ、これ』という顔になった。
ちらっと隣の女王様を見れば、こちらもライアンから包みを渡されている。
特別不機嫌そうではないし、ライアンには「ありがとう」と言っていた。
じっと包みを見下ろしたキニアンだったが、
「これすごいんだよー!」
というソナタの声に顔を上げた。
「開けてみて」とせっつく少女に、カノンの顔色を伺いつつも包みを開けるキニアン。
「──ぅ、わ……すげー……」
大学では彫刻を専攻しているライアンだったから、手先が器用なことは分かっている。
それでも、思わず感嘆のため息を零した。
それもそのはず、ライアンからもらった箱の中には、ちいさいとはいえチョコで出来た胸像が入っていたのだ。
「マーライオンみたいだよね!」
大興奮のソナタは、自分の分も見せてくれた。
カノンもさすがに目を瞠っている。
「これ、彫ったのか?」
「あはは、まさか。さすがにチョコは溶けちゃうからね。型を作ったんだよ」
「型?! それって、めちゃくちゃ手間かかるんじゃ……」
「んー、でも楽しかったし。みんな喜んでくれたから」
シェラとヴァンツァーの分もあるようで、どれも本人そっくりだ。
「型があるからまたいくらでも作れるし、チョコじゃなくて人形焼とか作っても楽しいかもね」
「あー、それいい! シェラ、今度作って」
「ふふ。楽しそうだね」
料理や手芸は大の苦手なソナタは、専ら食べるのが仕事だ。
「……そっか……ヴァレンタインって、男があげてもいいんだな」
「ぼくも男ですけど」
「え? あ、いや、そういうことじゃなくて」
「ぼくのはライアンのみたいにすごくないですけど、何か」
「いや、そうじゃなくてさ……」
大弱りのキニアンだ。 どうするかな、と困り果てた少年は、とりあえずもう一度「ありがとうな」と呟いてカノンからもらった包みを開けた。
「──プレッツェル?」
細長い箱の中には、こんがりとキツネ色に焼きあがった棒状のプレッツェル。
しかし、ココアパウダーを混ぜたようでもなく、普通のプレッツェルだ。
「はい、あーん」
プレッツェルを摘んだカノンは、それをキニアンの口に銜えさせた。
カリッ、と小気味良い音をさせて齧ったキニアンは、直後目を丸くした。
「あ……中、チョコだ」
しかも、あまり甘くない。
これは普通に食べられる。
「美味い」
「当たり前じゃん」
ぼくが作ったんだから、と得意気な顔をするカノンに、キニアンはしみじみと言った。
「俺、料理は全然しないから分からないけど、これ、作るの大変だったんじゃないか? チョコ入れる隙間作って焼き上げないといけないんだろ?」
しかも、そのあとにはチョコを注ぐ作業が待っている。
大変な手間であるに違いない。
「べ……別に大変じゃないし」
ふい、とそっぽを向くカノン。
シェラがくすくす笑っているところを見ると、結構大変だったらしい。
何だか嬉しくなったキニアンだ。
「カノン」
「……なに」
「これ、結構いっぱいあるだろ?」
「だから? 食べきれないとか言うわけ?」
「いや、そうじゃなくて──あとで、ポッキーゲームしようか」
カノンは菫の瞳を大きく瞠った。
「はぁ?! しないけど!!」
「なんで?」
「なんでじゃないよ! この恥知らず」
「いいじゃん────しよ?」
首を傾げる彼氏に、カノンは顔を真っ赤にしてわなわな震えている。
「そ、そんな顔したって可愛くないんだからねっ!」
「可愛くなくてもいいけど、しような」
「しないって言ってるでしょ?!」
「なんで?」
「なんでも!」
「いいじゃん。車の中ではあんなに──」
「うわぁぁぁ! 言うな、ばかっ!」
「なんで? 可愛かったのに」
「言うなったら!!」
赤い顔で必死に睨みつけている顔がたまらなく可愛くて、キニアンは『ちょっと可哀想かな』と思いつつもくすくすと笑っている。
「……天然こわー……」
ソナタがぼそっと呟く。
「アー君って、行くとこまで行ったら最強かもね」
ライアンも頷く。
「ヴァンツァー。車の中で何があったんだ?」
シェラが訊ねると、ヴァンツァーは珈琲カップで隠した口許を僅かに綻ばせた。
「見なかったことになってるんでね」
「……なんだそれ」
むっとした顔になるシェラに、ヴァンツァーはちいさく笑った。
「そうしたら、チェロを教えてくれるって言うから」
それはキニアンが言い出したことではなく、ヴァンツァーが交換条件として提示したものだったが。
「やっぱりお前ばっかりアー君と仲良くなってずるい!」
「男と男の約束だからな。守らないといけない」
どの口がそれを言うんだ、と柳眉を吊り上げるシェラをのらりくらりとかわしながら、ヴァンツァーは楽しそうに笑っている。
「……ライアン。このチョコは、もちろんあとで美味しくいただくんだけど……」
リビングの様子を見守っていたソナタが、ぽつり、と呟いた。
「……ちょっと、今はお腹いっぱいかも……」
困ったように笑うソナタに、
「おれも」
と、ライアンも太陽のような笑みを返して頷いたのだった。
今度こそ、END.