kiss

──キスが、好き……。

初めは、悪ふざけみたいなものだった。
あの男は、こちらがあいつにとって何か不利だったり、都合の悪いことを口にしようとすると、その口を塞いできた。
軽く触れるだけだったり、息もできないくらいだったり、文字通りの意味しかないその行為は様々だったけれど……。

──それが、ひどく……嫌だった。

こちらが真剣に腹を立てているときでさえ、あいつはそれを誤魔化すみたいに……。
何の表情も浮かべず、ときにからかうように微笑んで。

──あの男にとっては、何でもないことだから……。

慣れていることだから……私のことなど、考えてはいないから……だから、あんなに気紛れに触れられる。
あの男は気づいているに違いない。
私が……行者であったこの私が、さほど『経験』を積んではいないのだ、ということに。
口づけひとつで感情を波立たせ、言いたいことも言えなくなる。
簡単に話を逸らせる便利な手だ、とあいつは思っているに違いないのだ。

──だから、嫌だった。


シェラとヴァンツァーが一緒に暮らし初めて、もうすぐ四年が経つ。
卒論作成に追われているシェラであったが、それ以上に多忙なのがヴァンツァーである。
朝は早いし、夜は遅い。
深夜十二時を回る前に帰ってくることの方が少ないくらいだった。
その日はたまたま早かった──とはいえ、それでも帰ってきたのは九時過ぎだった。
食事の用意は必要ない、と言われていたが、ひとり分作るのもふたり分つくるのも同じこと。
ヴァンツァーの分は、用意してある。
本当に必要なければ、明日自分が食べればいいだけのことなのだから。
ほとんどヴァンツァーの扶養家族と化している現状に居心地の悪さを感じているシェラは、せめて家事くらいは、と思っているのだ。
卒業すれば自分ももっと稼ぐことができる。
そうすれば、少しはヴァンツァーに近づけるはずなのだ。
──そんな意思を自分の中で固めて、シェラは同居人を迎えた。
様子がおかしいことは、すぐに分かった。
今朝出かけるときには、体調を崩した様子は見られなかった──否、具合が悪いわけではないのだろう。
ただ、いつもと違う。

「……ヴァンツァー?」

やや心配気に、背の高い男を見上げる。
落ちてきて藍色の瞳はまどろんでいるようにとろり、と煙っていて、一瞬熱でもあるのか、と思った。

「ヴァン──」

もう一度声をかけようとした瞬間、腕を取られて壁に押し付けられた。

「な──」

抗議の声を上げる間もなく、その口は強制的につぐまされた。
代わりに、舌と唾液の絡む音だけが、静かな廊下に響く。
その音がいやに耳について、シェラはゾクリ、と背を震わせた。
我が物顔で口腔内を蠢く熱の感触に、眦が濡れる。

「っ、や……ん」

もがいたところで、この男から逃れられないことはよく知っている。
しかし、いつものような戯れのキス以上の何かを感じる気がして……──それが怖かった。

「──嫌……?」

ようやく唇だけは解放してくれた勝手な男が、何か言っている。
けれど、シェラの耳にはまともに届いていない。
酸欠と、早鐘を打つ心臓のせいで、思考は停止状態にあるのだから。

「……何が、嫌なんだ?」

いっそ甘ったるいくらいにやさしい声。
耳元を、吐息が掠める。

「んっ」

肩を揺らすシェラの脚の間に、自分の脚を割り入れるヴァンツァー。
胸が密着するほどの距離に人の熱を感じ、それにも肌が粟立つ。
──嫌、だった。

「……や……」
「だから、何が?」

まるで、「怒らないから言ってみろ」と子どもを宥めるような口調。
なぜだか分からないけれど無性に泣きたくなって、でもそれが嫌で……シェラは薄く涙の膜の張った瞳で男を睨みつけた。
その眼光が刃であれば、ヴァンツァーの喉など容易く掻き切ることができたであろう程に強い光。
射殺されそうな視線ですら、長身の男は心地良さ気な微笑を浮かべて受け止めている。
それこそ、「やれるものならやってみろ」とでも言いたげに。
あらゆる意味において、シェラにそんな真似はできない。
悔しくて、歯がゆくて──けれど、最も胸を占めるのは『切なさ』で。
唇を噛んで、溢れそうになる涙を止めようとした。

「……こんなこと……」
「こんなこと?」
「こんな……キスなんか……どうして」
「ほぅ? 口づけに理由が必要とは、寡聞にして知らなかったな」
「黙れ! 少なくとも、お前には必要だ!」

おかしそうにちいさく笑う男に、シェラは声を荒げた。
壁に押し付けられ、手首をきつく拘束されたままで。
涙のせいか、それとも怒りのためか、照明を反射する菫の瞳はとても美しい。
その瞳を正面から見据え、意外な程やわらかく微笑んだヴァンツァーは言った。

「──理由が必要なのは、お前だろう?」
「な……?」
「答えてみろ。なぜ、嫌なんだ?」
「……」

嫌味でも、作ったものでもない笑みに、なぜかシェラは落ち着かない気持ちになった。
答えに窮する。

「……だって……私もお前も男で……」
「だから?」
「──だから、だと?!」

それがどうした、と言わんばかりの男に、シェラは目を瞠った。

「男どうしだから? 気持ち悪い、か?」
「──そんなこと言ってない!」
「だったら何だ」
「……」

思わず否定を返してしまったシェラだが、言葉が続かない。
そもそも、自分がなぜあんな言葉を持ち出したのかすら分からない。

「気持ち悪い、触れられるもの嫌だ。だったらそう言え──二度としない」
「──……っ」

突きつけられた言葉に傷ついた瞳になるのはなぜかシェラで、迷子の子どものように瞳が落ち着かない。
何と返せばいいのか分からない。
けれど、不思議なことに、否定の言葉に嘘はなかった。
嫌悪など感じていない。
それは、真実。
だからこそ、どうして「嫌だ」と言ったのか分からない。

「……」

──違う。

「……だって……」

分からないのではない。

「だって……」

藍色の瞳を直視できなくて俯いた。

「逸らすな」

シェラの左手を解放した手で、細い顎を掴む。
反射的に視線を交わしてしまい、シェラは息を呑んだ。
深く、底の見えない瞳。 けれどそれは冬の夜空のように澄んでいて、一度合わせてしまえば逃げることなどできなかった。

「っ、ぁ……」
「嫌なのだろう?」
「……」
「跳ね除けないのか?」
「……」

これがからかう口調であれば怒鳴ることができるのに。
静かで、見たこともないくらいに真剣だから、誤魔化すことも、嘘を吐くこともできない。
しかし、真実を口にしてしまった後にどんな反応が返ってくるのか分からないことが恐ろしくて……。

──あぁ、そうか。

「……こわい……」

ぽつり、と呟く。
瞬間、紫の瞳から、雫がひと粒。

「怖い?」

驚くほどやさしい指が、頬伝う涙を拭う。
その、壊れ物を扱うような仕草も怖くて、次から次へと溢れる涙を止められなくなった。

「や……」

緩慢な動作でその手を払い除けようとするが、抵抗しない男の腕が離れていくのを引き止めるように、皺ひとつないスーツを掴んだ。

「……いやだ」

言葉と噛み合わない態度に、自分自身が一番戸惑っている。
もう、何が『嫌』なのか、よく分からない。

「嫌だ……怖い……」

眠くてぐずる赤ん坊のように、シェラは眉を寄せて唇を尖らせた。

「何が嫌だ? 何が怖い?」
「……知らない」
「俺を引き止める理由は何だ?」
「知らないっ!」

『引き止める』という言葉を使われたことが嫌だったのか、シェラはヴァンツァーを突き飛ばした──はずだったのに、ふたりの身体は離れない。
それどころか、シェラの腰を引き寄せてヴァンツァーは眼下の頤に手をかけた。

「シェラ」

最近、この男は自分の名前をよく呼ぶ。
呼ばれれば、動けなくなることを知っているからだ。
だから、シェラは悔しくて顔を顰めた。

「……お前は、いつもそうだ……」

何も言わず、ヴァンツァーはシェラの言葉を待った。

「……キスだって、名前だって……いつだって、お前が主導権を握るための手段でしかないんだ……」

そう。
きっと、それが『嫌』なのだ。
その行為が『目的』なのではなく、『手段』であること。
それが、『嫌』なのだ。
自分の唇も、名前も、身体の自由さえ、この男にとっては道具でしかないということ。
その事実を突きつけられたことに、ひどく胸が痛む。

──所詮、自分はその程度の存在でしかない。

月になるなど、論外だ。
この男の行く先を照らし、導く存在になど、なれようはずがない。

──ヴァンツァーは、それを望んでいない。

分かっていたことなのに、頭で考えているだけなのと実際目の当たりにするのとでは、雲泥の差がある。

「それが?」

どうでもいい、とでも言いたげな口調に、シェラは思わずかっとなった。

「お前にとって瑣末なことでも、私にとっては──」

ひと息でまくし立てようとした言葉は、眼前の男によって阻まれた。

「──誰にとって、何だと……?」

掴まれたままの右の手首が、更に締めつけられる。
その痛みよりも、急激に低くなった声にシェラは口をつぐんだ。

「答えろ。誰にとって、何が瑣末だと?」
「……」
「シェラ」
「……」

なぜ自分が責められなければならないのか分からず、シェラは身を捩ってヴァンツァーの腕から抜け出そうと試みた。
それが無駄であることは、誰よりもよく知っているのだけれど。
しかしだからこそ、シェラは余計に頑なに、ヴァンツァーを振り払おうとした。

「──好きでもないくせに、私に触るな!!」

腹の底からの絶叫を、直後シェラは後悔した。
触れられるのを嫌がっているわけではないと言いながら、矛盾したことを口にしている。

しかもこの言い方では──。

「──好きだ」

低い、静かな美声が紡いだ言葉に、シェラは弾かれたように顔を上げた。
そこには、真剣な──しかしどこか焦燥の見え隠れする美貌があった。

「……ヴァンツァー?」

鼓動が速い。
頬が──否、身体が熱い。
男に掴まれた手も、男のスーツを掴む手も、カタカタと震えている。
呆然としているシェラから一瞬たりとも瞳を逸らさず、ヴァンツァーはいつになく慎重に口を開いた。

「お前を好きだと言ったら……お前は、俺のものになるのか……?」  




END.

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