──Kissして

そう言って、片目を瞑って見せる。
何度思い返しても、勝手に頬が緩む。

「……かっこ良かったなぁ」

絶対に目が合った。
他の誰でもない自分にウィンクして、『Kissして』とささやいた。
それが、シェラがヴァンツァーのファンになった一番大きな要因だ。
ただの歌詞の一部、曲の間で何度か繰り返されるサビの部分だったが、一番最後だけは他と違った。
他の部分は会場からも『Kissして!』の声が上がる。
しかし、ラストだけはバックバンドの演奏がピタリ、と止み、ヴァンツァーが甘い低音でささやく声だけが耳に届くのだ。
間近で見ているファンはもちろん、スクリーンに映し出されるヴァンツァーの美貌を見ているファンの中でも、毎回何人か失神者を出すことで有名な曲である。
ささやきのあとには後奏が流れるのだが、それは怒号のような女性の声に掻き消される。
その演奏技術および歌唱力の高さから、彼のファンには男性も多い。
怒号のような歓声には、時々男性の野太い声も混じって聴こえる。
歌っているときは非常に静かな観客だちだから、その歓声は凄まじいものがある。
というのも、ヴァンツァーのファンは行儀が良いことで有名だった。
彼が歌っている間は客席からは声が上がらず、求められたとき以外は手拍子すらもない。
それはノっていないからではない。
ホール全体余すところなく手が高く上がり、ケミカルライトの光が会場を埋め尽くす。
それでも一万人以上を収容する会場でヴァンツァーの歌声がフレーズのひとつひとつ、ビブラートの掛かり方まではっきりと聴き取れるのは、彼自身の歌唱法、歌唱力もさることながら、皆が彼の歌を聴きたいと思って耳を澄ましているからだ。
普通ライヴでは、ホールの音響や客席からの声、手拍子の音で完璧にすべての歌詞を聴き取れる歌い手などほとんどいない。
しかし、ヴァンツァーは違う。

【 ──ヴァンツァーのライヴは、全部の歌詞が完全に聴き取れる。そんなことはありえない。 】

彼のライヴに招待されたとあるロック歌手が、同じアーティストとして驚愕と賞賛をもってそう言った。
ヴァンツァーは『アイドル』ではなく『アーティスト』なのだ、と言われる所以であり、彼自身の努力と、彼の歌を聴きたいと願うファンの思いがあったからこそ実現した奇跡だった。
もちろんファンも一緒に歌詞を口ずさむこともあるが、それは決してヴァンツァーの演奏の邪魔にはならないし、またヴァンツァー自身の驚異的な肺活量と声量も、それを許さなかった。
代わりに、歌が終われば喝采と彼の名を呼ぶ声で会場に嵐が起こる。
ヴァンツァーというアーティストは、実に多才だった。
確かな歌唱力を基礎とし、激しいロック、キュートなポップス、泣けるバラード、何でも歌いこなす。
彼自身もギターを手に歌い、時折ピアノの弾き語りをして見せるのはファンにとって楽しみのひとつだった。
また、バックダンサーを従えてダンスも披露して見せる。
自分自身を『完璧主義』と公言しているだけあり、その腕は確かにアイドルと呼ぶには突出し過ぎていた。
そんな彼は、デビューからたった五年で押しも押されぬこの国のトップアーティストのひとりとなった。

「また行きたいなぁ……」

シェラも参加したライヴのDVDは秋から冬に発売予定だが、先日ライヴの模様が一部テレビ放映された。
それは、ライヴ会場に来られないファンのために、という趣旨であったらしい。
四時間にも及ぶライヴのうちのごく一部だが、ファンは歓喜したという。
それを録画したものを見ながら、シェラはぼんやりとそんなことを考えていた。

「……『Kissして』、だってぇ~。ふふふ……」

先ほどから、何度も同じ場面を繰り返し見ている。
自分は男だ。
誰が何と言おうと男なのだが、やはりかっこいいものはかっこいいのだ。
ライヴでだって、彼の名を呼ぶ野太い声があちこちから上がった。
絶対に『Kissして!』と言った男だっているはずなのだ。
ライヴ初参加のシェラにはそんなことを言う余裕はなかったのだが、隣のシャーミアンは大きな声で叫んでいた。

「いいなぁ……私もあんな風にかっこ良ければ、女の子に間違えられないのになぁ……」

艶やかな黒髪に、深く澄んだ青い瞳、色白の肌でさえ脆弱に見えない鍛えられた長身に長い手足。
その妖艶なまでの美貌は、テレビ番組などで共演する女性ゲストの方が霞んでしまうほどだ。
はぁ、とため息を吐いて視線を落とした瞬間、携帯の時計が目に入って息を呑んだ。

「──っと、いけない!」

そろそろ家を出ないと、二限の講義に間に合わなくなる。
夏休み中の集中講義だ。
通常の講義ならばともかく、しっかりきっちり出席確認がある。
名残惜しそうに録画機器とテレビの電源を切り、慌てて鞄を引っ掴んで家を出る。
こういうときに限って鍵がなかなか締まらないというのは、万人共通なのだろうか。
それとも、自分だけが鍵と鍵穴にまで馬鹿にされているということだろうか。
どちらにしろ、異様に腹が立つことだけは間違いない。
やっと締まった、と思い時計を確認する──バスが来るまであと三分、ここはマンションの六階。

「──うわ、ギリだ!」

駆け出そうとして、右からの衝撃に弾かれて左肩が壁にぶつかる。

「いっ、たぁ……」

何だ、と思ってぶつかってきた方を見れば、背の高い男がいた。
男性としては標準よりも若干ちいさめの身長であるシェラよりも、頭ひとつ分近く長身だ。
白いシャツに、グレーのパーカー、ブラックデニム──秋口の街ならばどこにでもいそうな服装の男だ。
しかし、今時珍しいくらい真っ黒な頭で、前髪は目が隠れるほど長く伸ばされ、セルフレームの黒縁眼鏡のおかげで顔の造作などまったく分からない。
青白いほどに色の白い男だとしか、分からなかった。

「ちょっと!」

思わず怒鳴れば、男はちらっとこちらを見た──気がしたのだが、すぐにふいっ、と視線を逸らして行ってしまった。
絶句したシェラだった。
いくら冷たい、冷たいと言われる都会だって、あんな男は見たことがなかった。

「……何なの、あれ!」

ちょっと私より背が高いからって!
ちょっと私よりガタイがいいからって!!
ちょっと私より脚が長いからって!!!!
ひとにぶつかっておいて謝りもしないって、何様?!

「ド最悪だ、あの男!!」

男の来た方にはひと部屋しかない。
ということは、あの男は隣人だということになる。
しかし、今まであんな男は見たことも会ったこともなかった。
かといって、最近誰かが引っ越してきたわけでもない。

「ふん! いるかいないか、分からないくらい存在感ないんだ!!」

ちょー感じ悪いし、あの風体からしてオタクで根暗に違いない!!
顔だって絶対絶対不細工なんだ!!
そう内心で叫び、ベーッ、と舌を出す。
せっかくお気に入りの映像で気分良く朝の時間を過ごしていたのに、あの男のせいでその日一日、シェラは最悪な気分で過ごすこととなった。

──もちろん、講義にも遅刻したのだった。


「──って感じで、ちょー最悪じゃない?!」

大学構内のカフェテリアでまるで女子高生のような話し方をしているが、シェラは男だ。
そして、彼の向かいには育ちの良さそうな美人と、大きな瞳が可愛らしい女性たち──『両手に花』なはずだというのに、周囲からはどう見ても『女の子三人組』にしか見えなかった。

「それが、遅刻の理由?」

訊ねてくるシャーミアンに、シェラは鼻息も荒く頷いた。

「でも、ドラマなんかだと、そういう出会いから恋が始まったりするのよね~」

ふふっ、と頬を染めるポーラに、シャーミアンも「するする~」と声を揃えた。
女性ふたりが「「きゃあ~」」と歓声を上げるのに、シェラは猛然と抗議した。

「そんなわけないでしょう?! 礼儀知らずだし、暗~い感じだし、性格悪いし!!」
「謝らなかったのは悪いと思うけど……」

ポーラが呟けば、

「性格とか、暗いかどうかなんて、分からなくない?」

シャーミアンが首を傾げる。

「分かるよ! だって謝らないんだよ?!」

どんどん声が大きくなるシェラに、シャーミアンは「まぁ、落ち着いて」と苦笑した。
この三人、とても見目が良いので、非常に目立つのである。
一番の要因は天使かビスクドールかというようなシェラの美貌だが、シャーミアンはミスコンに推薦されるほどの美人だったし、ポーラは子リスのような雰囲気が可愛らしくて『お嫁さんにしたい女の子』ランキング上位者であった。
今も、ちらちらと彼女たち──通行人視点だ──を見ている男子学生は少なくない。

「はぁ……ヴァンツァーだったら、絶対そんなことしないよねぇ……」

ぐったりとした様子でだらしなく机にうつ伏せるシェラに、食いついたのはもちろんシャーミアンだ。

「どういうこと?」
「え? だって、ヴァンツァーってすごく礼儀を大事にする人でしょう? シャーミアンから借りた雑誌に書いてあった」
「そうだけど」
「ファンも大事にするし」
「うん。でも、何で芸能人と比較するの?」
「──へっ?」

きょとん、と目を丸くしてしまったシェラだ。

「え、あ、いや……何となく……?」

本人も困惑した表情である。

「ほ、ほら、最近CD聴いたりDVD見たり……──と、とにかく、あいつは最悪だったの!!」

ふいっ、と顔を背けるシェラに、女性ふたりは顔を見合わせて肩をすくめたのだった。

「──シェラ!」

四限の講義のある学部棟へ向かう道で呼び止められ、シェラは振り返った。

「キャリー」

視線の先には、シェラと同じ史学科の学生である青年──キャリガンがいた。
彼はポーラの弟であり、シェラたちの後輩にあたるのだが、いくつかの必修科目が一緒だったこともあり仲良くなったのである。
シェラよりも少し身長は高いが、童顔とも取れる可愛らしい顔立ちを本人は気に入っていないらしい。

「シェラ、西洋史概論遅れてきたでしょう」
「うん、よく知ってるね」
「……いや、ぼくも同じの取ってるから」
「あ、そうか」
「授業後すぐ出て行っちゃったから言いそびれたんだけど、……ノ、ノート、貸そうか?」

元々そそっかしいところのある青年だったが、今は更に早口だ。
頬は僅かに紅潮し、拳には力が入っている。
それに対し、シェラはにっこりと笑った。

「ありがとう。でも、ノートはシャーミアンが見せてくれたから」
「え……」
「さっき一緒にご飯食べたときに写したから、もう大丈夫だよ。遅れたのも十五分くらいだし」
「そっか……」

明らかに落胆している青年に、シェラはこてん、と首を傾げた。
キャリガンは慌てて首を振った。

「な、何でもないよ。平気ならいいんだ」
「うん。ありがとう」

美貌の天使ににっこりと微笑まれ赤面する学友に、シェラはやはり首を傾げた。

「風邪?」
「な、何でもない、大丈夫、姉さんぼくは元気デス!!」
「キャリー?」
「ホント何でもない! ぼ、ぼく、次、教養棟で講義だから」
「あ、うん」

シェラが「じゃあね」と言う前に、キャリガンは駆け出していた。

「……何だ、あれ?」

駆け去る青年の背中を見送ったシェラだったが、次の講義のことを思い出して教室へと向かった。


ゆったりと時間が流れているようなリビングで、向かいにいる美貌を見つめる。
ソファはあるのに、ふたりとも毛足の長いラグの上に腰を下ろしている。
片方の青年の手には一本のギターがあり、長い指で弦を爪弾く。
間接照明以外には明かりの灯されていない薄暗い室内。
よく通る低音の美声に、うっとりとして耳を澄ませる。
少し俯き加減で弾き語りをするその姿は、自分だけが知っているもの。
艶やかな黒髪も、青い瞳も、今は自分だけのものだ。
リクエストしたバラードナンバーに、快く応えてくれた彼。
こんな我が儘を聞いてもらえるのも、自分だけの特権だ。
やがて、最後の和音を奏でて曲が終わった。
少し瞳を潤ませて拍手をする自分に、淡く微笑む。

「──シェラ」

名前を呼ばれて、心臓が跳ねる。
もう慣れたことであるはずなのに、いつまで経ってもドキドキする。
ここへおいで、とばかりにラグを叩く。
おずおずと隣へ行けば、コツン、と頭が寄せられた。
肩と頭が触れ合ってから、そっと手が重ねられる。
ぴくっ、と反応したら喉の奥で笑うから、「笑わないで」と少し拗ねたフリをした。

「ごめん……──あんまり可愛くて」

そのひと言で、全部赦せてしまうのはどういうわけだろうか。

「……キス、してもいい?」
「き、訊かないでよ」

顔を真っ赤にした自分にやはり「ごめん」と呟いて、彼はそっと唇を寄せてきた。

「……むふっ」

息を切らして走る。
もう、脚はとっくに限界を迎えていた。
走ることには慣れていないし、そんなことは淑女のすることではない、ときつく窘められていた。
けれど、迫り来る戦火はそんなことを許してはくれなかった。
捕まれば殺される。
もっとひどい目に遭わされるかも知れない。

「ぐえっへっへ。見つけたぜ、お姫様よ」

下卑た声とともに現れた、熊のような大男。
にたり、と笑みを浮かべただらしない口許と、ギラギラと光る黄色く濁った眼に背筋が凍る。

「いや……来ないで……」

脚がすくんでしまい、もう逃げることすら出来ない。
震える手を胸の前でぎゅっと握る。

──あぁ、きっと自分はこの熊にあーんなことやこーんなことをされて、外国に売り飛ばされて、一生太陽を見られないような生活をするんだ。

泣き出しそうになるのを必死に堪えている自分に向けて、熊男の手が伸ばされる。
もうダメだ、そう思って目を閉じた直後、「ぐええぇぇ!」という声とともに、ドシン! とすごい音がした。
恐々と目を開ければ、熊男は地面に倒れており、代わりに背の高い男が立っていた。

「──大丈夫ですか?」

跪き、そっと手を差し伸べてくるその男の美貌に、思わずぽーっと見惚れた。
白皙の美貌に落ちかかる黒髪、青玉石のような瞳、容姿自慢の貴族の女性たちよりもよほど美しい男だ。

「……あなたは……?」

びっくりして動けないまま呟けば、美貌の騎士は微笑を浮かべた。

「お迎えに上がりました──わたしの姫君」

そう言って青年は上品な仕草で取った指先に、そっと口づけた。

「……あー、やっぱり王子様イイよねぇ~ふふふ……」

にやにやしてリモコンを操作する。
シャーミアンが貸してくれたDVDは会員限定モノで、特典映像としてステージのメイキングなども含まれていた。
スタジオでギター片手に弾き語りをしている練習風景や、衣装合わせの様子などもあった。
時々スタッフやカメラに向けられる微笑みが本当に自分に向けられているようで、これは女性ファンには堪らないだろう。

「──って、私は男だって……」

昔から家族や親戚、近所の人や通りすがりの人にまで女の子のような扱いを受けてきたから、うっかり女の子の視点に立ってしまうことがある。
別に男が好きなわけではないし、可愛い女の子は好きだ。
しかし、どうも女の子の方が自分を男扱いしてくれないのである。
シャーミアンとポーラはその良い例であった。

「……絶対同性だと思ってるよなぁ」

はぁ、とがっくり項垂れる。
気を取り直して次のチャプターに進めた瞬間、シェラは思わずリモコンを取り落とした。

「──……か、可愛い……!!」

上手く声にならず、ほとんど吐息だけで叫ぶという器用な真似をして見せたシェラだったが、それも道理。
画面にアップになっているのは、ヴァンツァーが撮影スタジオの脇で転寝をしている様子だったのだから。
シャーミアン曰く、彼の平均睡眠時間は三時間──なぜそれで動けるのか、という話だ。
待ち時間だったのだろうが、パイプ椅子の上で腕を組んで目を閉じている。
スタッフたちが大きな声を上げてセットなどを用意している横で寝られるのだから、余程疲労が溜まっているに違いない。

『──ヴァンツァーさーん、お願いしまーす!!』

スタッフの声に、す、と瞼が持ち上がる。
ほんの一瞬の後。

『……──はい』

答えた声と表情は、寝起きとは思えないほどに冴え渡り、真剣だった。
そして、スチール撮影が行われる。
カメラに向かってポーズをキメ、時に満面の笑みを浮かべて見せる彼は、疲れも眠気もまったく感じさせない。
思わず見入ってしまったシェラだ。
これが、『プロ』なのか、と。
尊敬に近い念まで抱いてしまった。

「……それに引き換え」

思い出すのは、礼儀知らずな男のこと。
あれから二週間が経つが、あの男には一度も会っていない。
鉄筋のマンションだからそれなりに生活音は防音されているが、靴音やドアを開ける音も聞かない。

「一日中部屋の中でえっちなDVDとか、漫画とか、アニメとか、見まくってるに違いない」

でもって、外に出るのは深夜のコンビニとかそれくらいなんだ、間違いない。
さいてー、と吐き捨てるように顔を顰める。
せっかく天気の良い休日だというのに、何だかこちらまで最低の気分になってしまった。

「あーもー、続き見ようっと」

マグカップに手を伸ばし、空であることに気づいた。

「ありゃ」

一度DVDを止めて、キッチンへ向かう。
『ヴァンツァー』のCDを聴いたり、DVDを見たりする時間は、リラックスタイムと決まっている。
だから、お気に入りのフレーバー・ティーを飲みながら鑑賞するのだ。

「──何か、甘いの食べたいかも……」

冷蔵庫を開けても、求める甘味はなさそうだ。
かといって、今から作る気にもならない。
仕方ない、と息を吐き、シェラは財布を手にした。

「こういうとき、コンビニって便利だよね~」

ふふっ、とはにかんで家を出る。
今日は鍵も一発で締まるし、天気は良いし、風は気持ち良いし、最高だな。
と、にこにこしながらエレベーターホールへ向かう。
ちょうど上がってきたエレベーターが開く。

「──あ」

そこにいたのは、目下シェラの中で『世界ド最悪な男ランキング』堂々の一位である隣の男だった。
今日も、前髪は邪魔そうだし、眼鏡はダサいし、破けたデニムとスニーカー、長袖のシャツを肘まで捲くった残念な格好をしている。
そして、無言でシェラの横を通り過ぎた。

「──ちょっと、あなた!」
「……」

ホールに響く声に、長身が振り返る。
意外と姿勢が良いことに、非常に違和感がある。

「謝って下さい」

眉間に皺を寄せてそう言い募れば、男は軽く首を傾げた。

「この前、ぶつかっておいて謝りもしなかったでしょう?」

忘れたとは言わせない、と言うシェラに、男は少し考えているようだったが、やがてぺこり、と頭を下げた。
そうして、すたすたと部屋の方へ行ってしまったのだ。

「………………………………なに、今の」

あれで謝ったつもりなのか?
冗談だろう。
しかも、今のなんか絶対悪かったと思っている態度ではないし、『とりあえず頭下げとけ』くらいの勢いだった。

「……ありえない」

何なんだ!
ホントに何なんだ!!
どんな風に躾を受けてきたんだ!!!!
言いたいことは山ほどあったが、今更追いかけていって怒鳴りつけたところで、あの男の態度が改まるとは思えなかった。
だから、シェラは憤懣やるかたない思いをしながらコンビニへ向かい、山のようにシュークリームやらエクレアやらプリンやらを買い込んだ。
家に帰って、玄関を開ける前に隣の玄関に向かって舌を出し、バタンッ、とドアを閉めてやった。
紅茶を淹れて、テーブルの上に甘味を広げ、DVDの再生ボタンを押す。
流れてくる美貌のアーティストの特典映像にもさして癒されない苛立ちを抱えながら、シェラはシュークリームに噛り付いた。

「──あの、ド最悪の童貞ヤロウ!!!!」

聞かれたって構うもんか、と思いながら、シェラはそう叫んだのであった。




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