「──イタリア?」

理由の如何は分からないが、シェラの交友関係は圧倒的な割合で女性が主だった。
しかし、普通健全な男子学生が多くの女性と交友を深めている、と言えば多少色っぽい話題がついて回りそうなものであるのだが、シェラの場合それがまったく、本当にまったく、これっぽっちもなかった。
本人は「男としての魅力がないのか」とひどく落ち込んでいるのだが、ある意味それは正しい認識だった。
特に仲が良いのは同じ史学科のシャーミアンと、仏文科のポーラだ。
時間があればこのふたりと昼食をともにしている。
今日もそうで、先にカフェへとやってきていたふたりがテーブルいっぱいに広げているパンフレットに、シェラは眼の色を変えた。
それは彼が古代ローマ史を専攻しているからだ。
話を聞けば、シャーミアンとポーラは春休みを利用して海外旅行へと行こうとしているらしい。
大学の試験は二月の頭で終わり、以降は夏同様長い休みとなる。
ひたすら学問に打ち込むものもいれば、バイトに勤しむものもいるし、彼女たちのように長期の休みを利用して旅行するものもいる。

「この間もどこか行ってなかった?」
「「夏休みはフランス~」」

夏休みとはいえ、九月になれば八月よりは安い値段で旅行に行ける。
学生の特権のようなものだ。
ポーラのたっての希望で目的地が決まり、だからこそ今回はシャーミアンの希望を叶えよう、ということになったらしい。
ポーラはおっとりして見えるが、専攻のフランス語はもちろん、ロシア語、イタリア語、スペイン語、ポルトガル語にオランダ語まで不自由しないという才女だった。
ヨーロッパ圏であれば、どこへ行っても大抵日常会話以上の言葉のやり取りが出来る。

「年に二回も海外? すごいね」

目を丸くするシェラに、ふたりは「「そのためにバイトしてるんじゃな~い」」と声を揃えた。

「いや、それにしたって、そんなに働く時間あるの?」
「目的のためなら、何でも出来るわ!」
「夏休みって、稼ぎ時よね!」

ね~、と微笑み合うふたりは、シェラにも同行を勧めてきた。

「──私?」
「行きたいって、顔に書いてあるわよ~」
「メインはヴェネツィアだけど、ローマにも行く予定なの」
「行きたい!!」
「でしょう?」
「三人で行きましょうよ~」

繰り返すが、シェラは男だ。
しかし、こうして国内外問わず女性から旅行に誘われることも少なくない。
そして、決まって、「部屋は一緒でいいわよね? その方が安いし」と言われるのだ。
まったく意識されていない、完全に同性扱いだ。
菫の瞳をきらきらさせていたシェラだったが、直後がっくりを肩を落とした。

「……ダメ。行けない」
「どうして?」
「旅行代なら、今からバイトして貯めても間に合うわよ」
「……そういう問題じゃない」

女性ふたりは顔を見合わせた。

「ものすごく行きたい。もう、そりゃあ、心の底から行きたいし、もし行けたら単位いくつか落として留年してもいいくらい行きたい」
「……それは問題だと思うけど」
「でも、そんなに行きたいなら」
「ダメなんだ……私は、この国から出られないんだ……」

何やら深刻な表情になったシェラに、女性ふたりは心配そうな顔になった。

「……なに? 何か理由があるの?」
「親の遺言で海外に行っちゃいけないって言われてるとか」
「父も母も、どっちもえらくピンピンしてます」
「じゃあ何?」

はぁ、と深くため息を吐いて項垂れたシェラは、ぽつりと呟いた。

「……んだ」

よく聞き取れなかった言葉に、シャーミアンが「え?」と聞き返した。

「……め、んだ」

今度はポーラが「なぁに?」と訊ねた。
シェラは益々深く俯いて、こう言った。

「……………………飛行機、ダメなんだ」

これには絶句した女性ふたりだ。

「……高所恐怖症ってこと?」
「うちマンションの六階」
「そうよね。じゃあどうして?」

首を傾げるポーラに、シェラは「だって!」とその手を取って顔を寄せた。
キスでもしてしまいそうな距離に、当のポーラは平然としていたが、周囲の男子学生が騒ぎ出した。
どこかでシャッターを切る音も聴こえた気がする。
しかし、本人たちは全然気にした様子もなく、話を続けた。

「──だって鉄の塊だよ?! 飛ぶわけないよ、そんなもの!!」
「…………………………………………石器時代の人間がいるわ」
「…………………………………………思考回路も、古代ローマが中心なのよ」
「おかしいよ! 何で重力に逆らうの?! ニュートンに喧嘩売ってるんだよ?!」
「ケプラーが『売られた喧嘩は高価買取中です』って言ってたわよ」

シャーミアンが呆れた顔でテーブルに頬杖をついて呟く。
涙目になっているシェラはそれはそれで可愛いのだが、今の彼女たちにとっては『つつくと楽しい愛玩動物』よりも、目先の海外旅行の方が大事だった。

「じゃあ、たっぷり土産話持って帰ってくるからね」

ポーラが邪気などまったくない笑みを浮かべれば、シャーミアンも、

「あら、『ローマ法王饅頭』くらい買ってきてあげましょうよ」

と微笑んだ。
そんなふたりを見て、シェラは思った。

「……男女の間に友情は存在しないって、本当だったんだ」

耳聡く聞きつけたふたりは、「「失礼しちゃうわ」」と頬を膨らませた。

「男女間にだって、友情は存在するわよ」
「そうよ。本当に信用ならないのは、女どうしの友情よ」

「「ね~」」と微笑を交わすふたりに、シェラはぐったりとした様子でテーブルに突っ伏した。


暇だ暇だ、と言われる学生だとて、それなりに課題というものは存在する。
史学科の学生にとって必修単位の古文書学では、毎回授業中にも古文書を解読するが、課題として一枚ないし二枚の古文書を持ち帰らされる。
持ち帰る分に関してはさほど価値の高くないものに限られるが、自分が生まれるずっと以前に存在していたものに直接触れる機会というのは歴史が好きなものにとっては堪らない瞬間だ。

「……ダメだ。全然読めない」

そう言って、古文書辞典から顔を上げシャープペンシルをテーブルへと投げ出す。
語学や古典文学もそうだが、読めるときはいくらでも読めるのだが、読めないときはどんなに簡単なものでもまったく読めない。
少なくとも百数十年は開かれなかった古文書をピンセットで注意深く開く瞬間はドキドキしたが、開いて中にざっと目を通した瞬間、シェラは悟った。

──今日はダメだ。

読めるときには、それこそ辞典の力などさして借りずとも読める。
しかし、今日の文書に関しては書き手の癖がかなり強い。
崩し方が独特な文字の羅列に、早々に降参した。

「……それもこれも」

全部あの美人な友人たちがいけないのだ。
講義が終わった帰り道、シェラはふと目に留まった旅行代理店の店先から、いくつかパンフレットを抜き出してきた。
家に帰ってパンフレットの写真に脳内で自分を合成してみたり、ちょっと地中海の動画を検索してうっかり二時間とか浸っちゃったり、夕飯はパスタにしたり。
そんなことをしているうちに課題があることを思い出したのだが……もうダメだ。
「うにゃああああ」と奇声を発してリビングに寝そべる。
頭の中は既に『ローマの休日』だ。
親善旅行の最中、お忍びでローマの街へと繰り出す王女──もちろん自分──と、しがない新聞記者の青年の報われない恋の物語。

「あぁ……ローマの街でヴァンツァーとジェラート……くふっ」

自分が男だとか、ヴァンツァーも男だとか、そんなことは雲の彼方だ。
含み笑いをしている自分の気持ち悪さなど構うことはなく、シェラは妄想を続けようとした──が、そのとき携帯の着信音が静かな室内に響いた。
『ノクターン』が鳴るのは、ひとりだけ。

「んもぅ……何だよ」

寝そべったままで携帯を開く。
電話を掛けてきた人物に恨みはないが、少々唇を尖らせて通話ボタンを押す。

「もしもーし」

ごろん、と横になって電話に出ると、少し笑った声が『食べてすぐに寝ると牛になるよ』と言ってきて慌てて飛び起きた。

「……み、見てるの?」
『まさか。シェラの行動パターンくらい、お見通しだよ』
「いや、兄さんだったら盗撮とか盗聴くらいやりかねないし……」
『失礼だなぁ。ぼくはいつでも、シェラのことを考えているだけだよ』
「はいはい。あんまりブラコンが酷いと、彼女に捨てられるからね」
『大丈夫、大丈夫、今も隣にいるから』
「……彼女放っておいて弟に電話って、それどーよ?」
『可愛い弟が都会でひとり暮らしなんて、心配じゃないか』
「もう慣れた」
『──悪い虫とか、ついてないだろうね』

シェラは大袈裟なため息を吐いた。

「……悪い虫になるのは、普通男の私でしょう?」
『シェラくらい可愛かったら関係ないよ。……嫌だなぁ、今度帰ってくるときに無愛想で全然可愛くない弟がもうひとり出来るとかだと』
「兄さん!」
『あはは、冗談だよ。──元気なら、それでいいんだ』

やさしく耳に届く肉親の声に、シェラは胸があたたかくなった。
何だかんだ言って、ちょっと過保護なんじゃないか、という父も母も兄も、大好きなのだから。

「……今度の休みには、そっち帰るよ……うん。うん……はい」

じゃあね、と言って電話を切る。

「──よし! ちょっとやる気が出たぞ!!」

だからお前は明日な、と古文書に宣言する。
そうして、食事の皿を片付け、シェラはキッチンに篭り小麦粉やら砂糖やらと格闘することにしたのである。

──気分転換には料理が一番! 疲れたときには甘いものだ!!

鼻歌を歌いながら焼いたガトーショコラは、明日の昼には美人な友人たちの口へと運ばれることになるのであった。


何だかんだ言って、結局古文書をやっつけるのは土日になってしまった。
月曜に古文書学があるから、どうしても今日中に終わらせなければならない。

「──んよしっ! 出来た……ことにする!!」

よしよし、よく頑張った私、と自分の頭を撫で、シェラは古文書と原稿用紙を片付けた。
気づけば古文書を睨みつけ始めてから既に二時間が経過している。
集中したら小腹が空いた。
紅茶を淹れて冷蔵庫からプリンを取り出す──蛇足ながらプリンは大好物で、ぷっちんプリンをぷっちんしてしまう邪道な輩には正義の鉄槌を喰らわせるほどだった。

「──至福」

ほにゃあ~、と甘いものを食べて相好を崩す様子は、まるっきり女の子である。
天気はいいし、風は気持ち良いし、課題は終わったし、プリンは美味しい。
もう他に言うことはないほど、幸せな気分だった。
息抜き、息抜き、と思ってテレビをつけ、目ぼしい番組を探す──と、シェラは思わずスプーンを取り落とした。

華やかなヴァイオリンとピアノの旋律。
深い森の湖の畔に、一輪の花。
白い花弁は、朝露に濡れてきらきらと輝いている。
そこに現れたひとりの青年──この景色に溶け込むような、夢のように美しい青年だ。
緩やかに額に落ちかかる黒髪が彩る白皙の美貌、細身だが脆弱な印象は与えない長身。
青年が花に触れると、それは一本のリップスティックになった。
白と銀の、高級なイメージを前面に押し出したコスメティックブランドらしい上品な外観だ。
蓋を開け、ほんの数ミリ出したリップクリームを唇に宛がう。
女性よりもずっと色気のある仕草で唇の上を滑らせれば、潤いが漲るように水の波紋が広がる。
男が化粧する時代、リップクリームをつけるくらい何もおかしなことではないが、彼には秘密めいた雰囲気がある。
青年はこちらに気づいたように視線を流し、ゆっくりと唇を持ち上げて微笑する。

「──うるつやぷるん」

女性タレントが同じリップクリームのCMでイメージキャラクターを務めていたときは可愛らしい印象だったというのに、同じ台詞でも彼が口にするとどこか淫靡な印象を与える。
このCMのコンセプトは『Kissしたくなる唇』。
最後に、青年はまるで画面のこちらにいる女性の唇にリップクリームを塗るような仕草で呟く。

「──きみにKissしたい……」

次のCMが流れても、シェラはしばらく呆然としていた。

「……なんじゃ、ありゃ……」

びっくりした。
ものすごくびっくりした。

「いやいや……『うるつやぷるん』て……」

言わないだろう、あの顔で。
しかし、妙に似合ってしまっていたのが逆に新鮮だった。

「あー、でも、やっぱりあの顔で『Kissしたい』とか言われちゃうと、ドキドキしちゃうよなぁ~」

ふふふ、と相好を崩し、上機嫌で残りのプリンをぱくついた。

──んなー。

開けたバルコニーの窓から入ってくる心地良い秋風に、そんな細い声が乗せられてきた。
何だ、と思って目を遣れば、何やら蠢く黒い物体。

「まっくろくろすけ……?」

そんなことを思いながらプリンとスプーンをテーブルに置き、黒いものに近寄る。

「──猫だ」

しかも、まだ仔猫だ。
細い爪でカリカリと網戸を引っ掻いているのに、慌てて網戸を開けてやる。
よいしょ、うんしょ、とばかりに段差をよじ登り、室内に入ってくる黒猫。

「──うわっ! お前、びしょ濡れじゃないか!!」

黒いから分からなかったが、仔猫が通ったフローリングの床には点々と水滴が零れ落ちていた。
そして、そのずぶ濡れの身体をシェラの脚に擦り付けてきたのである。
何でこんな天気のいい日にこんなに濡れてるんだ、とか、そもそもここは六階だぞどうやって入ってきたんだ、とか考えることは色々あったのだろうが、とりあえず。

「ストップ!」

仔猫に通じるかどうか分からなかったが、黒くてちいさな生き物はぴたり、と動きを止め、シェラを見上げてきた。

──なー?

ちょっとだけ首を傾げるような仕草が堪らなく可愛くかったが、それどころではない。

「風邪ひくから、ちょっといい子で待ってるんだよ!」

──んなー?

「動いちゃダメだからね!!」

ピシッ、と指差すと、シェラはクローゼットからタオルを引っ張り出してきた。
ふかふかに洗い上げたタオルで仔猫を包み込んだところで、インターフォンが鳴る。

「はーい」

応えはしたものの、誰だろう。
宅配便を頼んだ覚えはないし、友人が訪ねてくる予定もない。
とりあえず仔猫を拭いてから、と思っていると、立て続けに二度、三度とインターフォンが鳴らされた。

「──はーい、今行きまーす!!」

若干イラッとしながら、シェラは声を張り上げた。
ある程度仔猫の身体を拭いたところで、「いい子にしててね。しー、だよ?」と唇の前に指を立てた。
というのも、このマンションはペット禁止だったからだ。
もしドアの向こうにいるのがこのマンションの住人だった場合、見つかったら面倒なことになるかも知れない。
ちいさな身体が冷えないようにタオルに包んでやり、玄関へと向かう。

「はーい」

ガチャリ、とドアを開ければ、影が落ちてくる。
それによって相手が自分より長身だと分かったのだが、見上げた先の人物にシェラは思わず眉を顰めた。

「あなた……」

うざったい前髪とダサい黒縁眼鏡──シェラの『好きな人』堂々のワースト一位の隣の男だ。

「……何の用ですか」

つっけんどんな態度になるのも仕方ない。
こういう陰険そうなヤツにあの仔猫が見つかったら、何を言われるか分かったもんじゃない。
とりあえず玄関の外で話をしよう、と思って出ようとしたら、肩を押された。

「ちょっ!」
「──ビアンカ」

あろうことか、男は家の中に脚を踏み入れようとしてきたのだ。

「ちょっと! 何するんですか!!」
「ビアンカ」
「はぁ?!」
「猫だ。黒い猫が来ただろう?」
「は? 猫……って、あれ、あなたの」
「いるんだな」

心得た、とばかりに、男はシェラの肩を押して家の中に侵入を図った。

「冷たっ……ちょ、あなたびしょ濡れ!!」

男の着ている服もあの仔猫同様黒かったから気づかなかったが、そういえば髪も濡れている。
だからどうしてこんな天気の良い日にずぶ濡れになれるのだ、と思いつつ、シェラは男の身体を押し返した。
掴んだ肩が想像以上にがっしりとしていてびっくりした。
だって、オタクで根暗な男の身体なんて、ぶよぶよのデロッデロで見るも無残に決まっている。

「何だ」

苛立ったような低い声も、よく聞けば耳に心地良い。
オタクで根暗な男の声なんて、妙に甲高いかガラガラで思わず耳を塞ぎたくなるようなものに決まっているのに。

「……だ、あ、あなた、そんなびしょ濡れで人の家に」
「すぐ連れて帰る」

言ってまだ部屋の中に入って来ようとする男に、シェラは先ほどと同じように「ストップ!」の声を上げた。
すると仔猫と同じように、男はぴたり、と動きを止めた。

「連れて来ますから、ちょっと待ってて」
「ビアンカは俺以外に懐かない」
「いいから、黙って待ってなさい!!」

ビシッ、と指差すと、足音も高らかにリビングへ向かう。
まったく、何なんだあの非常識男は。
ぶつかっておいて謝りもしなければ、まともに挨拶もしない、しかもずぶ濡れの身体で他人の家に上がり込もうとする始末。

「お前、ご主人様を間違えたんじゃないの?」

──なー?

きょとんと金色の瞳を丸くしている仔猫を抱き上げ、ふん、と鼻を鳴らす。

「何が『俺以外に懐かない』だ。こんなに大人しいじゃないか」

ザマァミロ、と舌を出し、クローゼットからもう一枚タオルを取り出す。
玄関へ向かい、突っ立っている男にずいっ、とタオルを差し出した。

「……何だ」
「拭いて下さい。この子がまた濡れます」

別にこの男が風邪をひこうと何だろうと構わないが、こんなにちいさな仔猫では風邪ひとつが命取りになりかねない。
男は何か言いたそうにしていたが、タオルを受け取ると濡れた腕や首を拭き始めた。

「ちょっとこの子にドライヤーかけてきますから、ちゃんと拭いておいて下さいね」

有無を言わせず、シェラは洗面所へと向かった。
熱くないように身体から離してやり、濡れた身体を乾かす。
すると、艶やかな黒い毛並みが現れて思わず微笑む。

「お前、美人だね」

──んなー

目を細め、大きく口を開けて鳴く猫に、シェラはくすくすと笑った。
そうして、あらかた乾いたところで再度玄関へ向かい────息が、止まるかと思った。

「──ビアンカ!」

そう言って微笑むのは、芸能人『抱かれたい男』二年連続第一位の美貌。
かき上げられた艶やかな黒髪に、深く澄んだ藍色の瞳、もうちょっと低かったら歴史が変わってしまうのではないか、というような通った鼻梁に、思わずキスしたくなるような形の良い唇。

──んなー

驚いて身動きも取れなくなっているシェラの腕の中から飛び降りた仔猫は、一目散に主人である美青年の元へと駆けていった。
長い脚を曲げずに腰から身体を折って仔猫を抱き上げる柔軟性の高い肉体、にゃーにゃー鳴いている仔猫に「このお転婆」と微笑みかける笑顔、──何よりその、聴衆を魅了して止まない天から与えられた低音の美声。

「くすぐったいよ」

ぺろぺろと頬を舐められて嬉しそうに細められる瞳はやさしくて、シェラは思わず胸の前で手を握った。

「……ヴァンツァー……?」

その呟きに、男ははっとしたように慌てて手にした眼鏡をかけ、前髪を掻き下ろす。
流行遅れの黒縁眼鏡も、一度素顔を見てしまった後では何の意味もなかった。

「なん……え……?」

あまりの驚きに言葉を紡げないでいるシェラ。
ふたりの間に、しばし沈黙が訪れる。
そうして、この国のトップアーティストである男は困ったようにため息を吐いて頬を掻いた。

「……言わないで、下さい」

ステージや画面の中ではあんなに自信に溢れた男が、僅かに目を伏せてそう呟いた。
しばらく返事も出来ずに目を瞬かせていたシェラに、男は「お願いします」と軽く頭を下げた。
びっくりしてしまって、シェラはおろおろして手を振った。

「い、いいい、言いません! あなたがここに住んでるなんて!!」
「──は?」
「……え?」

互いに目を丸くし、顔を見合わせて黙り込む。
しばし考えていたようだったが、美貌の男は「あぁ」と納得したように呟いた。

「俺じゃなくて、こいつのことです」
「──へ?」
「猫……ここ、ダメでしょう?」
「はぁ……」
「ご迷惑はお掛けしませんから、内緒にしてて下さい」
「……」

お願いします、と今度は深く頭を下げてくる。
その腕は大事そうに仔猫を抱えていて、シェラは思わず訊いていた。

「大事な、猫なんですか?」
「……捨てられてたんです。こんなにちいさいのに……」

また捨てるなんて、出来ませんから、と言ってやさしく微笑み、仔猫の額を撫でてやる。
仔猫は気持ち良さそうに「なー」と鳴き、ゴロゴロと喉を鳴らしている。
それに笑みを深める美貌に、シェラは見惚れてしまった。
黙ってしまったシェラに、仔猫から顔を上げた男は言った。

「こいつ、本当に俺以外に懐かないんです。何度も他に飼い主探そうとしたんですけど、ダメで……しかも黒いから、あんまり飼いたがる人もいなくて」
「そんな……美人なのに」
「──でしょう?」

シェラの呟きに、男は顔色を明るくした。

「最初見つけたときはガリガリに痩せてて、ミルクも飲んでくれなかったんですけど、今じゃ缶詰ガツガツ食べるんですよ。捨て猫なのに毛並みも良くて、特にこの金色の眼なんかすごい綺麗ですよね。プライド高くて、捨てられてた箱の中でも『ここがわたしの城よ』みたいな感じで鳴きもせずに寝てたんですけど、最近は『一緒に寝てあげてもいいわよ』ってベッドの中に入ってくるのが堪らなく可愛くて。あ、ビアンカっていうのも、何かお姫様っぽいからつけた名前なんですけど──」

さすがの肺活量。
ほとんどひと息にそこまで言って、青年ははっとしたように口を閉ざした。

「あ……すみません、煩くして……帰ります……あの、こいつのこと」
「言いません」
「──本当ですか?!」
「うちの実家にも、猫たくさんいるんです。その子たちのこと、思い出しちゃいました」

眉を下げるシェラに、青年はぺこり、と頭を下げた。

「あ、そうだ……ごめんなさい」

思い出したようにそう言う青年に、シェラは首を傾げた。

「この前、何か怒ってましたよね……? 俺、全然覚えてなくて……言い訳にもならないんですけど、睡眠不足で時々記憶が飛ぶんです……ぶつかった、とか仰ってましたよね……? 本当に、すみません……」
「あぁ、全然。いいんです、別に」
「──え?」
「仕方ないことって、ありますよね。わざとじゃなかったんでしょう?」
「もちろん」
「じゃあ、いいです」

にっこりと微笑むシェラに、青年はほっとしたように息を吐いた。

「……何か、テレビと全然違いますね」

一万人のファンを前にしても揺るがない自信に溢れた表情と態度が、今日は何だか幼く見える。
言われた青年は、表情を曇らせた。

「はは……『お前は不用意に口を開くな』って、マネージャーにもよく言われます」
「──え?」
「『黙ってればいいのに』とか、『顔はイイのに、何か残念だよな』とか……だから、普段からあんまり喋らないようにしてるんですけど……」
「……」

それがこの前の『謝罪』の理由か。
口を開いてはいけない、とおそらくマネージャー辺りに言われているから、ぺこり、と頭を下げただけ。
もしかしたら、彼の中で『喋る』という行為自体が、何かトラウマのようになっているのかも知れない。

「あー……えっと、今のもオフレコで」

ファンの夢を壊したくないから、と苦笑する青年に、シェラはむくむくっ、と湧き上がってくるものを抑えきれずに口にした。

「──じゃあ……『シェラ』って呼んで下さい」
「え?」
「『シェラ』」
「……シェラ?」
「私の名前です。せっかくお隣さんなんだから、今度から顔を合わせたら挨拶しましょう」

内心ドキドキしすぎて心臓が口から飛び出しそうだったが、この青年に比べたら格段にお喋りである自信がある。
ちゃんと、にっこり笑って『良き隣人』を装うことが出来ているはずだった。
そんなシェラに、青年はきょとんとした顔を向けた。

「……失礼ですけど、珍しいお名前ですね」
「そうですか?」
「だって、男性で『シェラ』さんって、あんまりいないでしょう?」
「──……」

これにはシェラが驚いた。
初対面で自分を男だと分かる人間は、そうそういない。
不思議そうに首を傾げる青年に何と返したものか、と思っていると、くしゅん、とひとつちいさなくしゃみが聴こえた。
はっとして腕の中の仔猫に視線を落とす青年に、シェラは言った。

「あぁ、ごめんなさい。あなたも、猫ちゃんも風邪ひいちゃいますよね」
「いえ、こちらこそ、ご迷惑をお掛けしました」
「とんでもない。可愛い猫ちゃんの訪問は、大歓迎です」
「あ……」

俯く青年に、シェラは首を傾げた。

「いえ……それじゃあ」

そう言って頭を下げ、青年は隣の自宅へと戻っていった。
見送ったシェラは、突然のミラクルにしばらく玄関でぼーっとしていたが、やがてドアを閉めると寝室へ飛び込んだ。
ベッドにダイビングし、枕に顔を埋めたまま、大笑いしたい気持ちを抑えることなく手足をばたばたさせた。

「──最っ高!!!!」

きゃあ~~~~~、と枕を抱えて、ベッドの上をゴロゴロ転げ回るシェラなのだった。




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