奇跡の出逢いからひと月。
シェラは毎日朝晩、超絶美形で背が高くて脚も長くて声が良くて猫好きでやさしくて礼儀正しくて笑顔なんてちょーキュートな芸能人抱かれたい男No.1のアーティストとめくるめく夢のような日々を──過ごしているわけもなく。
「……はぁ」
やはり多忙なのだろう。
あれから一度も顔を合わせていない。
記憶が飛ぶほどの睡眠不足など経験したことのないシェラだったので、ファンであるかどうかは別としても彼の体調が気になるところであった。
それに。
「猫、どうしてるんだろう……?」
仕事場に連れて行っているのだろうか。
それとも、ペットホテル。
まず間違いなく、彼のあの様子で家に置き去りということはないだろう。
「──はっ、まさか」
彼女に預けてるとか、むしろ彼女が家に来て面倒見てるとか、でもって彼女の待つ家に帰ってきて、
『──ただいま、Honey♪』
ちゅー、とかやっちゃったりなんかしちゃったりして。
「……────うわぁぁぁぁぁぁああああぁああぁぁぁぁぁ!!!!!!!!」
軽く──否、だいぶ錯乱状態にあるシェラだった。
「シ……シェラ?」
唖然として呟くキャリガン。
天使のような美少女──にしか見えないシェラ──の上げた奇声にざわつく店内。
ふたりは昼食を摂るために大学近くのオムライス専門店へ来ていた。
物憂げでどこか色気の漂うシェラにドキドキしていたキャリガンだったが、頬を染めてもじもじし出したかと思えば含み笑いをし、ため息を吐いてはブツブツ呟いて奇声を発する連れに先ほどからハンバーグオムハヤシが全然減っていかなかった。
シェラはといえば、その外見を目一杯利用してレディースセットを注文している。
ナスとベーコンのトマトソースオムライスにミニサラダ、デザートのパルフェに紅茶と盛りだくさんの内容だったが、百面相をやっていたというのにいつの間に全部食べたのか。
「……彼女可愛いのかな、やっぱり可愛いよな可愛いに決まってるよな、だってあの顔であの身体であの声であの性格……女になんか不自由していないに違いない──あああ、でも可愛さだったら私だって負けて──いやいや待て待て私は男だ……」
今度は紅くなったり青くなったりしながら頭を抱え出したシェラに、キャリガンは周囲に頭を下げながらその細い肩を叩いた。
叩く傍から払い落とされていくのだが、気を引こうと頑張っているとテーブルの上でシェラの携帯が振動した。
ようやく我に返ったらしいシェラがフリップを開けると、「──あ」と呟いた。
「私はキャリーと『ポメの樹』ですよ~、っと」
「……なに?」
「ん~? ポーラが、どこにいるの~? っていうから」
「──来るって?」
「さぁ? まだ返信来てないし」
「……じゃあ、ぼくはそろそろ」
「何で? いればいいじゃん」
「……いや、一昨日姉ちゃんが風呂上りの楽しみに取っておいたアイス食べちゃってから、どうも機嫌悪くて……」
シェラと一緒にいたいのはやまやまなのだが、『お嫁さんにしたい女の子』にランクインしている姉は怒らせると鬼のように恐ろしかった。
「ありゃ。食べ物の恨みは恐ろしいからね」
「もしここに来るようなら、シェラからも上手く言っておいてよ」
「りょーかーい」
しゅたっ、と敬礼したシェラに、「ここ、奢るから」と言って伝票を手にするキャリガン。
「──え、悪いよ」
「いいって、いいって。その代わり、姉ちゃんのこと、よろしく」
悲壮感の漂う顔でパチン、と手を合わせるキャリガンに、シェラは苦笑して「ごちそうさま」と頷いた。
話しても上手くいかなければポーラの好きそうなお菓子を作るよ、と言えば、キャリガンは「天使様!!」と感謝して店を出て行った。
その後姿を見送ったシェラは、
「きっと、兄さんにとっての私って、あんな感じなんだろうなぁ」
弟って可愛いなぁ、とちいさく笑った。
──シェラは、とても鈍感だった。
大学の講義は、教員たちが学会に出席したり外出をしたりすることで、休講となることも少なくない。
また、学生によっては『自主休講』と称してサボタージュを決め込んだりもする。
今日のシェラがそうだった。
というのも、今日の履修科目はニ限の東洋史学特殊講義と四限の史学方法論なのだが、四限は教授の都合で休講となった。
ニ限は出席を取らず試験さえパスすれば良いというスタイルの教授なので、シェラは休講情報を携帯で確認した瞬間に『自主休講』を決めたのだった。
「ん~、何しよ?」
しばらくうんうん唸っていたが、やがてポンッ、と手を叩いた。
「──マロンケーキだ」
きらーん、と眼を光らせ、いそいそと買出しに出かけたのだった。
シェラは料理が趣味だった。
少し年の離れた兄は料理人で、ちいさい頃からよく試食係りにされていた。
見慣れた食材が見たこともないような料理に変わるのを、「──魔法みたい!!」と手を叩いて喜んで見ていた。
にんじん嫌いだったシェラがそれを食べられるようになったのは、兄の作るキャロットケーキが非常に美味だったからだ。
両親は共働きで、それなりに裕福な家だったから家政婦がいた。
けれど、家政婦の料理よりも兄のそれの方がずっと好きだった。
母は仕事はバリバリこなすが、お世辞にも家事に向いているとは言えない人だったので、シェラにとって『母の味』といえば兄の作った料理のことだった。
特に甘味に目がない兄だったので、デザートの類は頻繁に作ってくれた。
ガトーショコラと紅茶のシフォンケーキは絶品だ。
秋になると作ってくれるスイートポテトやマロンケーキも、砂糖を控えたやさしい甘さがとても好きだった。
「皮剥くのが大変なんだけどねぇ……」
けれど、明日はポーラとシャーミアンとが喜ぶな、と思うと、多少の苦労は何でもなかった。
「女の子って、ホント芋栗好きだよね」
そう思ったら、何だかさつまいもも使いたくなった。
スイートポテトもいいが、さつまいもを使ったアップルパイも捨て難い。
けれどマロンケーキとアップルパイの両方は、作るのはいいとしても食べるのが大変だな、と思い、スイートポテトに決めた。
ほくほくしながら家に帰り、早速キッチンで調理に入る。
このマンションの良いところは、大きなオーヴンが備え付けてあるところだ。
ケーキを一度にニ台焼けるのが嬉しい──普通、男のひとり暮らしでオーヴンがそんな使い方をされることはないのだが。
昼過ぎには作り終わるだろう。
何なら、明日と言わず今日シャーミアンたちを呼んでお茶会にしてもいいな、と思い、あとでメールでもしてみよう、と決めた。
一番仲の良い学友が女性というところが、何ともシェラらしい。
「……この量の砂糖見たら、食べたくなくなるかもだけど」
毎回毎回、ケーキを作ると恐ろしい量の砂糖が消費される。
ダイエットに余念のない女の子からしたらケーキは大敵だろう。
シャーミアンもポーラも全然太っていないのに、やれカロリーが、とか、最近体重が、と気にしている。
「女の子は、ちょっとくらいぽっちゃりしてる方が可愛いと思うけど?」
そう言ったシェラをジロリと睨み、
「──聞いた?」
「聞いた、聞いた」
「シェラなら分かってくれると思ってたのに」
「とんだ爆弾発言だわ」
「自分は女の子みたいな可愛い顔して」
「その上ダイエットとは無縁のモデル体型」
はぁぁぁぁぁ、とため息を吐く友人に、何だか居心地の悪くなったシェラは持ってきたロールケーキを申し訳なさそうにしまおうとした。
「──ストップ」
しかし、ガッ、と手を押さえられ、思わず「ひっ」と喉を引き攣らせた。
「何でしまっちゃうのよ!」
「え……だって、ダイエット……甘いもの、ダメなんでしょう?」
「それとこれとは話が別よ」
「シェラのケーキ、美味しいんだから!」
「や、でも砂糖結構使って」
「あ、あ、あ、あ、あ!! 聴こえません、聴こえません!!」
「今日は何?」
「あぁ、うん……珈琲ロールケーキ」
おずおずと差し出した容器は音速で取り上げられ、ふたりは瞳をきらきらさせて蓋を開けた。
「や~ん、美味しそう」
「あ~ん、すごい良い香り~」
いただきます、と学内のカフェで紅茶だけ注文してティータイムを過ごすのは、最早週一ペースだった。
思い出したら何だか余計に楽しくなってきた。
そうして、はた、とタルト生地を作る手を止めた。
「……あの人って、甘いの食べるのかな?」
もしそうなら、今度お茶に誘って──と考えて、「無理、無理」と首を振った。
睡眠時間を削って働いて、家にもあまり帰って来ないような人なのだから、学生のように土日が休みなはずもない。
芸能人のスケジュールなど知らないが、シャーミアンによればヴァンツァーなど休みは数ヶ月に一度あればいい方だというし、平日だとて一日休みであることは少ないという。
「お気楽な学生とは、やっぱり世界が違うよなぁ」
仕事でなくても、ジムに通ったり、ヴォイストレーニングを行ったりしているのだろう。
「……んもぅ……せっかくお隣さんなのにぃ……」
ぷぅ、と頬を膨らませたシェラは、いつの間にか生地を捏ね回していたことに気づいて慌てた。
タルトやクッキーの生地は、捏ね過ぎるとあのサックリ感がなくなってしまう。
「ま、大丈夫でしょ」
よしよし、と生地を纏めて冷蔵庫に入れる。
そうする間にさつまいもが茹であがったので、お湯を捨てて木ベラで崩す。
バターを入れて練り、砂糖とミルクを混ぜると「あー、もー、このまま食べたい!!」と甘い誘惑に唆される。
どうにか堪えて弱火にかけながら水分を飛ばし形を整え、卵黄を塗って熱したオーヴンに入れる。
あとはオーヴンに頑張ってもらおう、と思っていると、か細い声がどこからか聴こえてきた。
何とはない既視感に、シェラはリビングの窓の方へ目を遣った。
「──うわっ、ちょっと!!」
ぴと、とありえない高さに黒猫の肌色の腹部が見えている。
網戸に爪を引っ掛けて登ったらしいが、シェラの胸の高さまで登ってきている。
「お前、そのまま動くなよ!!」
落ちたら大変だ、と慌てて窓を開ける。
仔猫が落ちないようにそっと網戸を開ければ、シェラの心配などよそに身軽に網戸から跳び降り、たたた、と室内に駆け入る。
「──ビアンカ?!」
窓を閉めようとしたシェラの耳に、思わず胸が高鳴るような声が聴こえてきた。
もしや、と窓の外に顔を出せば、ベランダどうしを区切る衝立の向こうから眼鏡をかけていない生来の美貌がひょっこり覗いていた。
思わず「きゃあああああ!!」とか叫びそうになりそれは内心に止めたシェラだったが、気づいたらしい青年は「あ、こんにちは」と頭を下げた。
反射的に頭を下げ返したシェラだったが、青年が「よいしょ」とばかりにベランダ越しにこちらに来ようとしているのに気づいて青くなった。
「──うわぁあぁぁああぁ?! 何やってるんですか!!」
「え? 何って、ビアンカがお邪魔して……だから迎えに」
「だったら玄関から来て下さい! 危ないじゃないですか!!」
「あぁ、大丈夫ですよ。こう見えても運動神経にはちょっと自信があるんです」
にっこりと微笑む青年に、くらり、と眩暈を感じた。
「そんなことは知ってますそんなことを言ってるんじゃないんです人様の家に入るときは玄関から入って下さい泥棒じゃないんですから!!」
ひと息で言い切ったシェラに、ぽかん、としていた青年はしばらくして「……はい」と頷いた。
ベランダをよじ登っていた青年は長い脚を戻すと、部屋の中に入っていった。
「……アーティストって」
やっぱりどこか人と違うんだな、と妙に納得して、シェラも家に入った。
黒猫のお姫様は、ちゃっかりソファの上で丸くなっている。
軽くため息を吐くと、今度はピンポーンとチャイムの音が聴こえてきたので、玄関へ向かう。
「はー…………い」
ドアを開けたシェラは目を丸くした。
「……どうも」
そこには、ついさっきまでいたはずの超絶美形の色男ではなく、ダッサい眼鏡に長い前髪がうざったい隣の男がいた。
その変貌ぶりに、正体を知っているシェラでも唖然としてしまった。
「……何で、眼鏡かけて髪下ろしてるんですか?」
「え? あぁ、これ、マネージャー命令なんです。一歩でも外に出るときは、この格好しろ、って」
「…………隣じゃないですか」
「はい。でも、三歩くらいは外に出ますから」
「……………………」
頭痛が酷くて瞬きしか出来ないシェラに、男は小首を傾げて見せた。
「……視力、悪いんですか?」
「いいえ。両目とも一.五あります」
「だったら外して下さい」
「え、でも」
「伊達眼鏡も長い前髪も、目に悪いです。せめて前髪は上げて下さい」
「えっと……」
「それやめるまで、ビアンカは人質──猫質です」
「──えっ?!」
「前髪上げますか? 飼い主やめますか?」
「……」
困惑したような顔で、青年は前髪をかき上げた。
流行遅れの黒縁眼鏡はそのままだが、まだ見られるようになった。
「よろしい。どうぞ」
「……お邪魔します」
ぺこり、と頭を下げ、青年はシェラのあとについて室内に入った。
「──うわぁ……部屋綺麗ですね」
感心したように呟く青年に、「同じような間取りでしょう?」と首を傾げるシェラ。
ソファの上にいる仔猫を抱き上げようとし、戸惑ったようにシェラを見つめる藍色の瞳。
「何ですか?」
「……寝てます」
「はい。そのようですね」
「……起こすの、可哀想なんですけど」
どうしよう、と目で問い掛けてくる青年に、ぱちくり、と瞬きする。
シェラは、カジュアルダウンした美貌の主に訊ねてみた。
「甘いもの、お好きですか?」
「……はい?」
「スイートポテト作ったんです。猫ちゃん起きるまで、ティータイムにしましょう」
「はぁ……」
「これからお仕事ですか?」
「いえ、今日は久々のオフなので」
「じゃあ決まりですね。珈琲と紅茶と、どちらがいいですか?」
「あ、珈琲で」
「分かりました。座ってて下さい」
言うと、シェラはキッチンへ向かった。
内心、小躍りして奇声を発したいのをどうにか堪え、お湯を沸かして彼の分の珈琲と自分の分の紅茶を用意する。
そうする間に、スイートポテトが焼き上がった。
オーヴンを開けると、ほの甘い香りがキッチンに充満した。
「あぁ、もう、匂いからして完璧」
こちらに関してはさして難しいこともない。
作り慣れたものでもあるので、大丈夫だろう。
お盆にお茶とお菓子の用意をしてリビングへ運ぶ。
じっと猫を見つめていた青年が、ふと顔を上げる。
静かにテーブルにお盆を置くと、珈琲とスイートポテトを彼の前に置いた。
「どうぞ」
「……いただきます」
これまた律儀に頭を下げ、フォークでひと口大に切ったポテトを口に運ぶ。
トップアーティストが自分の作ったものを口に入れるというのは、何とも言えない感慨がある。
もぐもぐ、と口を動かしていた青年は、ちょっと驚いたような顔をしてシェラに訊ねた。
「……これ、あなたが?」
「はい。お口に合いませんでしたか?」
「──いえ! 美味しいです」
「良かった」
ふるふる、と首を振る青年に、シェラはにっこりと微笑んだ。
自分もひと口食べたが、文句なしだ。
ヴァンツァーはしげしげとスイートポテトを眺め、珈琲を飲んでまた目を丸くした。
「──……お店で飲むみたいだ」
「大袈裟ですよ。珈琲も紅茶も、お菓子もそうですけど、分量を間違えなければ誰でも美味しく出来ます」
「……俺は無理だな」
苦笑して頬を掻く青年は、少し恥ずかしそうな顔をして言った。
「俺、料理とか全然ダメで。トーストも毎回焦がすんです」
「……食事、どうしてるんですか?」
「外で食べたり、買ったり……食べなかったり」
「──ダメですよ、そんなの!」
思わず声が大きくなり、はっとして仔猫を見遣る。
すーすーと気持ち良さそうにソファを占領している姿にほっとした。
「身体が資本じゃないですか。外食ばっかりなのも、食事を抜くのも、絶対ダメですよ」
「そうですよねぇ……気をつけます」
苦笑してまたポテトに手を伸ばす。
さして甘味は好みそうもない青年だったが、すべて平らげてくれたことが純粋に嬉しかった。
「ごちそうさまです」と頭を下げられ、大したものでもないので逆に恐縮してしまったシェラだ。
自分の分を食べ終わった青年は、ソファに腕を置いて飼い猫を見つめている。
リラックスした表情に、思わず見入る。
本当に、その眼鏡さえなければ、と思うシェラだったが、それは贅沢すぎる望みだろう。
こんなことをシャーミアンに言ったら、えらい騒ぎになるに違いない。
多忙なアーティストが束の間飼い猫を愛でる時間を設けられたのだから、邪魔することはない。
その様子を真横で見られているだけでも、奇跡みたいなものだ。
しかし、あまり見つめているのもどうなのだろう、とシェラは空いた皿をキッチンへ下げに行った。
軽く洗い物を済ませてリビングへ戻ると、ヴァンツァーはまだ眠っているビアンカをじっと見ていた。
何だかそれが、玩具をもらった子どもみたいで、シェラはちいさく笑った。
「そういえば、どうしてこの間びしょ濡れだったんですか?」
仔猫を起こさないよう、静かな声で訊ねる。
訊ねられた青年は座り直し、ビアンカからシェラへ視線を移した。
「あぁ、お風呂に……こいつ、あんまりお風呂好きじゃなくて」
「──それで、洗ってる途中で逃げられちゃったんですか?」
「はい……」
苦笑する顔が可愛い。
「でも、何でまた? 家の中で飼ってるんですよね?」
「えっと……ミルク、零しちゃって」
頬を掻く様子に、シェラはちいさく笑ってビアンカを見遣った。
「お前、そそっかしいんだね」
「──あ、いや、俺が」
「──え?」
「俺がひっくり返したんです」
「……」
「……えっと……?」
「…………………………………………ぷっ」
吹き出したシェラに、「え? え?」と瞬きしている様子がまた可愛い。
本当にこの人は自分よりも年上で、しかも全国に何百万人というファンのいる超有名アーティストなのだろうか。
実は双子の弟とか、影武者とかなのではないだろうか。
そんなことを思って笑っていると、ふにゃ、と鳴いてビアンカが目を覚ました。
「あ……起こしちゃったかな」
「昼寝は気持ち良かったか?」
飼い主に抱き上げられ、膝の上へと移った仔猫は、なー、と鳴いて頭を擦り付けた。
「すみません。ご馳走になった上に、こんなに長居してしまって」
その台詞に、もう帰るのか、と思ってしまった。
口が利けただけでもミラクルなのに、家に上がってもらって、手作りのお菓子を食べてもらい、これ以上何を望むというのか。
「いえ……」
「さ。帰るぞ」
──にゃー
立ち上がる青年に、シェラはほとんど何も考えないでこう言った。
「──夕飯、食べに来ませんか?!」
不思議そうな顔をしている青年に、シェラは慌てて弁解した。
「り、料理が趣味なんです! でも、ひとり暮らしだから食べてもらう人もいなくて……ひとりで食べるのって、味気ないし……」
やましいところなどないのだ、と示すように喋るシェラに、眼鏡の奥の藍色の瞳が笑みを刻む。
「……じゃあ、お言葉に甘えて」
──奇跡って、何度でも起こるんだ。
シェラは何でもないような顔をして頷きながら、忙しなく脈打っているはずの心臓が止まりそうになるほどの衝撃に耐えたのだった。
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