「ねぇシェラ、昨夜の『しゃべってKnight』見た?!」
「あぁ、うん。見たよ。似合ってたね、王子様」
「もうヴァンツァーのためにあるような衣装よねぇ~!!」

シャーミアンがきゃあきゃあ言って騒いでいるのは、『しゃべってKnight』という深夜のトーク番組のことだ。
司会者が十代から二十代を中心に爆発的人気のアイドルユニット『PICAЯRESQUE』のふたりということもあり、深夜番組にしては異例の十%超の高視聴率を弾き出している人気番組だ。
ユニット名が『ピカレスク』──『悪漢』ということもあり、小悪党に扮した司会者ふたりが、貴公子やお姫様に扮したゲストたちに様々な質問を投げかけ、ときにドッキリ企画を催し、普段見られないゲストの素顔を暴いて行こう、というコンセプトだ。

「今までヴァンツァーって『黒』のイメージがあったんだけど、白も意外と似合うんだね」
「そうなの、そうなの!! ボタンとか肩章が金で、マントの裏地は赤で!! あんなに派手なのに、さりげなく着こなしちゃうんだもん!!」
「その辺、さすがだよね」

大学近くのカフェでパフェをつつきながらの語らいだ。
今日はふたりとも一、ニ、四限の講義に出席するため、一時間半の空きがあった。
そうすると、今日のように昼食代わりに巨大パフェを選ぶことも少なくない。
しかも、まるっきり女の子どうしの会話だ。
最初はさして興味なさそうに、でもその宝石のような菫の瞳だけは雄弁に『ぷちファン』をしていたシェラだったが、今ではシャーミアンと対等に話せるまでになっていた。
シャーミアンは自分の『布教活動』が大成功した、と嬉しそうだ。
まだファンクラブには入っていないものの、シェラも一人前のファンとしてシャーミアンと語っていた。

──けれど、必要以上に熱く語るようなことはなかった。

興奮すると、言わなくてもいいことまで言ってしまいそうになるからだ。
画面を通さず本人と会話をし、部屋にまで上がってもらったというミラクル。
これは、そうそう人に──しかも、生粋のファンであるシャーミアンには話せない。
まったく興味のない人間でも、『芸能人』という特殊な職業の人間を見れば多少なりとも興奮する。
それがファンともなれば、目の前であの美貌に微笑まれ、あの声で話しかけられたりしたら、腰が砕けるどころの話ではない。
せっかくあのダサい格好で本人と分からないように生活しているようなのに、騒がれたりしたらあのマンションから引っ越してしまうかもしれない。

──そんなの、ヤだ。

正体が発覚してからは、顔を合わせると挨拶をするようになった──とはいえ、数えるほどだけれど。
それでも嬉しいことに変わりはなく、ヴァンツァーを間近で見られたときは暴れる心臓と戦い、彼が隣の自宅に帰ったり、仕事に出かけてからはベッドの上できゃーきゃー騒ぎ、しばらくふわふわと夢見心地な様子で笑っている。
これが外だったら完全に不審者だ。

──それでもいい!

自分でも性格が悪いと思うのだが、ファンとしてはずっと年季の入ったシャーミアンよりも、自分は彼に近いところにいるのだと思うとちいさくはない優越感があった。

──はぁ……嫌な子だ……。

そう思って、チラッ、とシャーミアンの表情を伺う。

「わたし、あそこでドキッ、としちゃった」
「……どこ?」
「レティーがヴァンツァーに、絆創膏のこと訊いたとき」

レティーというのは、『PICAЯRESQUE』のメインヴォーカリストであるレティシアの愛称だ。
アイドルと呼ぶにはもったいないくらいの伸びのある声に、アクロバティックなダンスを得意としている。
相方であるイヴンも歌いはするが、彼はギタリストである。
ふたりとも、端整な容貌と良い意味でそれを裏切る飾らない性格が、老若男女問わずにウケている。
『宴会や合コンで場を盛り上げてくれそうな芸能人ランク』というものがあれば、間違いなくトップを争うふたりだ。
『芸能人』というよりは『芸人』の域に近いが、だからこそ彼らは非常に話術が巧みだった。
何気ない会話の中からゲストの魅力を引き出していく手腕は、きっと天性のものなのだろう。

「あぁ。『猫に引っ掻かれました』ってヤツ?」
「そうそう! レティーもイヴンも、『ホントに猫なの~?』とか言って! 同じ事務所だけあって仲良いらしいよ」
「ちょっと困った感じで笑ってたよね、ヴァンツァー」
「もう、あの顔がちょー可愛かったの!!」
「あはは、確かに」

笑って頷きながら、内心ぺろっと舌を出していたシェラだ。
シャーミアンには悪いが、自分は彼が猫を飼っていることも知っているし、『困ったちゃん』な顔をすぐ傍で見たこともある。
これが本当にとっくに成人した男か、と思いたくなるくらい可愛かった。
ステージの彼も、ライヴDVDの彼も、一万人以上のファンを前にしても臆することない存在感を醸し出し、誘うような瞳と指でこちらを魅了してくるというのに。
同一人物なのかを疑うくらいに、その印象は違った。
ステージに立つ彼はどこまでも人を惹きつけておきながら、触れたいと思う気持ちすら躊躇わせるほどの美しさだというのに、拾った仔猫を抱いている姿はまるで少年だった。
結構、素顔を晒しても誰も気づかないのではないだろうか──まぁ、類稀な美貌だから注目は浴びるだろうけれど。

「ヴァンツァーって、浮いた噂ひとつ聞かないのよね」
「事務所がもみ消してるんじゃないの?」
「やっぱりそうかなぁ? あの顔じゃあ、女が放っておかないよね」
「だろうね」
「──まぁ、シェラは女の子側だけど」
「……違うから。それ違うから」
「うそー。わたし、シェラとだったら一緒にお風呂入れるけど」
「……私が困るから」

がっくりと項垂れるシェラに、シャーミアンはケロッとした顔をして訊ねた。

「シェラって、女に興味あるの?」
「──……シャーミアンさん?」

ちょっとそれはどういう意味だろうかじっくりたっぷり時間をかけて膝を突き合わせて話をしてみようか、と引き攣らせた顔に書いているシェラに、シャーミアンは可愛らしいまでの仕草で首を傾げた。

「だって、学部の男の子でシェラ狙いって子、結構いるよ?」
「──はぁ?! なに、それ!!」
「なに……って、知らないの?」

そっちの方が信じられない、と目を丸くするシャーミアンに、シェラは愕然とした顔になった。

「……は? え? なに……男……?」
「並みの女の子より可愛いもんね。気持ち分かるわ。わたし、もしシェラのこと好きになったらイケナイ道に奔っちゃったんじゃないか、って勘違いしそうだもん」
「……何なの、それは」
「そっかー。シェラって相当ニブいのね」
「そんなことないよ」
「あるって。あ、じゃあもしかして……」

じっと見つめてくる友人に、声を出す元気もないから疲れきった表情で「なに」と訊ねる。
シャーミアンは「ふぅん、そっかぁ。可哀想~」などと呟いている。

「……なに?」
「何でもない」
「気になるよ」
「だって、本人のいないところで言えないもの」
「本人って誰?」
「だから、言えないってば」
「……あっそ」

じゃあいいよ、と呟き、少々乱暴にパフェにスプーンを突き刺して掬ったコーンフレークを口に放り込む。

「ふふっ。膨れてるシェラも可愛い」
「……全然嬉しくないんですけど」
「あら。『可愛いね』って言われたら『ありがとう』ってにっこり笑えば、それで男はイチコロよ?」
「だから、男にモテても嬉しくないの!」
「じゃあ、どんな子がタイプなの?」
「──え? それは……」

ポンッ、と浮かんできたのは、濡れ羽色した黒髪と、宝石のような青い瞳。
女にもないような美貌だが、それは明らかに男のもので。

「──…………い、色白のび、美人」

嘘は吐いてない、と思いつつも、勘の良いシャーミアンがじっと瞳の奥を覗いてくるのが恐ろしい。
ドキドキ言う胸を押さえながら睨むようにして見つめ返していたシェラだったが、やがてシャーミアンがため息を吐いて視線を逸らしたのでほっとして肩の力を抜いた。

「シェラ以上の色白の美人って、誰よ」
「……知らないよ。それに、私は別に美人じゃ」
「ない、なんて言わせないわよ。こんな、ニキビもしみもひとつもない綺麗な肌しちゃって。あー、腹立つくらいすべすべ!!」

指先でするすると頬を撫でられ、シェラは居心地悪そうに身じろぎした。
別に嫌ではないのだけれど、くすぐったいのだ。

「……シャーミアンの方が、綺麗だよ」
「ありがとう」

本当に、にっこり笑って礼を言った。
でもやっぱり、美人な女の子がにこにこ笑っているのは、とても可愛いと思うのだ。
そうだ、そうだ、自分の感性は間違ってない、とひとり頷く。
きっと自分はものすごい面食いなのだ。
だから、綺麗な顔したひとは皆好きなのだ、そうだ、そうだ、父も母も兄も皆美形だ、と自分に言い聞かせる。

「──あ、そうだシェラ」
「うん?」
「冬休み、どうしてる?」
「冬?」
「そう。先生たちもたまには気が利くから、クリスマスイヴとクリスマスは休講じゃない? そうしたらもうそこから冬休みだし、どうしてるのかな、って。──あ、二十三日はシェラの誕生日だから外すわね」
「え、別に何もないけど」
「やだー。あとひと月以上あるんだから、彼氏出来るかも知れないじゃない!」
「……だから何で彼氏限定……?」

兄さんと同じこと言う、とぼやくシェラに、シャーミアンはふふっ、と笑った。

「じゃあ、クリスマスはOK?」
「うん。平気」
「よし! じゃあポーラも呼んで女三人でクリスマスパーティーしましょう」
「根本的に間違ってるけどね」
「いいじゃない。シェラの家でシェラの作った料理とケーキを食べる! もちろん食費は払うし、シャンパンはわたしとポーラで用意するから」

その台詞に、ちょっとドキッとしたシェラだ。
何せ、隣人は超有名人な上に、シャーミアンは大ファンときている。
もし顔を合わせたら、眼鏡と前髪で隠していてもシャーミアンには分かってしまうかも知れない。

「そんなのは別にいいんだけど……うちなんかでいいの? どこか予約入れたりとか」
「シェラの料理が食べたいのよ。本当に美味しいんだから」

掛け値なしの本音に、悪い気がするはずもなく。

「──うん。じゃあ、その予定で」

ポーラにも言っておくわ、と微笑む友人に頷き、シェラは店の外へと目を遣った。
ひらひらと舞い散る葉が、風に遊ばれる。
つい先日まで夏だと思っていたのに、もうコートやブーツ姿の人があちこちで見られる。
すぐに、冬がやってくる。

──クリスマスは、やっぱりお仕事なのかな……。

そんなことを思って、ぬるくなった紅茶を啜った。


やはり、彼は仔猫を仕事場に連れて行っているという。
置いていくのは心配だし、何より時間が不規則な商売なので突然帰ってこられなくなることもあり、そうすると育ち盛りの仔猫がお腹を空かせてしまう。

「でも、スタッフにも誰にも懐かなくて……ずっとケージの中にいるんですよ。開けても、出て来なくて」

はぁ、とため息を零してマグカップで珈琲を啜る美青年。
シェラの希望で前髪は上げているが、『マネージャー命令』だという眼鏡はかけたまま。
見ていないところでまで命令を遵守させるとは、一体どんな鬼のようなマネージャーなのか。
それでも美形だと分かる青年が、熱い珈琲で眼鏡を曇らせている姿は微笑みを誘う。

「……捨てられてたから、人が怖いのかな」

膝の上で寝ている仔猫の額をそっと撫でる。
すーすー健やかな寝息を立てている仔猫は、先ほど缶詰に焼いた魚をほぐして入れてやったらお姫様としてはあるまじき速度でごちそうを平らげていた。

「でも、シェラさんには懐いてるんですよね」

そう言って、口許にちいさく笑みが刻まれる。
そんな何でもないような仕草にドキリ、とちいさく心臓を跳ねさせるのも、もう何度目になるだろうか。
どうやら、ビアンカは家に帰ってくるたびに、ベランダからシェラの部屋を訪れているらしいのだ。
そのたびに、今度はちゃんと玄関から訪ねてくるようになった青年を家に迎え入れることになった。
というのも、当のビアンカがシェラの家のソファに居ついてしまって帰ろうとしないのだ。
家に帰ったら空気を入れ替えるために窓を開けるのだというが、網戸は閉めておけばいいのに、と思わないでもないシェラだった。
そうすれば、仔猫に逃げられることもないだろうに。
けれど、ビアンカに感謝したいというのがシェラの本音だった。
冒険が好きなお転婆お姫様のおかげで、自分はこうしてこの国のトップアーティストとご近所付き合いが出来ているのだから。
仔猫の空腹とともに人間たちの空腹を満たすもの、片手を超えるくらいになった。

「『さん』って、つけなくていいですよ? ヴァンツァーさんの方が年上ですし」

苦笑して甘めに淹れたミルクティーを口に含む。
青年は僅かに首を傾げ考えているようだったが、やがてにこっと微笑んだ。

「──シェラ?」
「────っ????!!!!」

危うく紅茶を吹き出すところだ。 どうにか堪えたが紅茶が気管に入りむせてしまう。
大丈夫か、と心配そうな顔になる青年を、片手を上げることで押し止める。
彼に触れられでもしたら、鼻血を出して卒倒し兼ねない。

~~~~ああっ、もう!!

いや、確かに『シェラ』でいいとは言ったが、何も『小首傾げ』と『微笑み』のオプションはつけなくてもいいではないか。

──……これ、眼鏡かけてなかったら心臓止まってたかも……あぁ、ほら、おかしいよ、脈おかしいよ……絶対異常だよ、血圧二〇〇とかある自信あるもん……うあぁ、手ぇ震えてるし、紅茶零れる……。

熱くなった頬を隠すために俯いて悶々とそんなことを考えていたシェラだったが、顔と身体と声が売り物の男はそんな様子には気づかないように言葉を続けた。

「あ、じゃあ俺のことも呼び捨てにして下さい」
「──で、出来ません!」

思わず弾けるように顔を跳ね上げた。
余程、『出来るかそんなこと!』と言いたかったが、男は不思議そうな色をその藍色の瞳にたたえて瞬きをした。

「どうして?」
「ど……だ、で、ですから、あなたは年上で」
「気にしないけど」
「げ、芸能人で」
「関係ないよね?」
「だ……と、とにかく! ~~~無理っ!」

いっぱいいっぱいになって、ともすれば泣きそうになって顔を歪めているシェラに、青年は呟いた。

「……そっか」

何だか思い切り落胆している声音だと思ってしまうのは、気のせいだろうか。
ちらっと横目で見れば、項垂れて仔猫を撫でている。
これだけ騒いでも、仔猫は目覚める気配すらない。
その猫と同じ黒いシャツに、インディゴブルーのジーンズ姿の青年。
ちょっと前まであんなにダサいと思っていたのに、これだけの美形が着ているというだけでヴィンテージに見えるから不思議だ。
けれど長い手足は持て余し気味に投げ出され、姿勢の良いはずの背は少し曲がっている。
はぁぁぁぁ、とため息を吐きそうなその様子は、どこか仔犬のようだ。
ご主人様に素っ気なくされて耳と尻尾を垂れさせている姿と重なる。

「……ダメだって、ビアンカ」

いや、なぜそこで猫に話しかける。
っていうか何だその悲しそうな顔は。
別に『さん』つけたから何だというのだ。
ステージ上でのあのオーラはどうした。
あれか? 演技か? これは演技なのか?
この人は歌だけでなく、演技もいけるのか?
そうか、あれだな、これから俳優業にも打って出ようという魂胆なんだな。
だから、一般人をからかって楽しんでるんだ。
そうだ、そうだ、そうに違いない。

そう、自分の中で結論づけたシェラだった。

「……………………────ヴァン、ツァー……」

が。
ぽつり、と呟いた。
静かな室内でも、耳を澄ませていなければ聴き取れないほどの声。
それでも、真っ赤になって俯いているシェラに青年は一瞬驚いた顔を向け、やがてゆっくりとその美貌に笑みを浮かべた。

「──はい、シェラ」

シェラはますます深く俯いた。 もう、顔と言わず耳と言わず、首も、全身余すところなく真っ赤になっていることは間違いないと思われた。
これまでの人生において、人の名前を呼ぶだけのことがこんなに恥ずかしいことがあっただろうか。
そして、名前を呼ばれることが、こんなにも嬉しいことがあっただろうか。

──うわぁ……どうしよう……絶対おかしいと思われるよ……同じ男なのに、名前呼ばれただけでこんなに赤くなって、顔なんて見られなくて……やだ……恥ずかしい……。

自分の家だというのに全然落ち着かなくて、シェラはひたすら身を縮めていた。
その様子に、青年が心配そうな顔になる。

「……えっと……俺、何か困らせるようなこと言いました……?」
「──え……?」
「やっぱり、呼び捨てにされるの嫌だった……とか?」
「い、いえ! ぜ、ぜぜん!!」

妄想──もとい、想像の中では何度も名前を呼ばせていたけれど、まさか本当に呼んでもらえるとは思っていなかった。
耳にしてすぐに好きになったあの声で、微笑みすら浮かべて、ふたりきりのときに呼んでもらえるなんて、本当に夢みたいだ。
自分の方こそ、何か彼の気に障るようなことをしでかしはしないかと心配になる。

──……『もう来ない』とか、言われたらどうしよう……。

彼のファンだとか、この顔と声が好きだとか、そんな打算的なことよりも、誰かと一緒に食事をしたり、お茶を飲んだり、他愛無い話をしたり──そんな時間がなくなってしまうことが寂しかった。
そんなことが気になって上手く返事が出来ないでいるシェラに、形の良い唇が僅かに歪む。

「……すみません。調子に、乗りすぎました」
「そんなっ」
「社交辞令ですよね」
「ちがっ」
「俺、そういうのあんまり分からなくて」
「ちょ、ほんっ、ちが」
「昔からそうで、マネージャーにもよく怒られ──」
「~~~~~っ、ストップ!!!!」

勝手にひとりで話を進めようとする青年に我慢出来なくなったシェラは柳眉を吊り上げた。

「違います! 名前呼ばれるの、嫌じゃありません!! むしろ嬉しくてどうしよう、っていうか……はっ、違う、そうじゃなくて、と……とにかく!」

きょとん、と目を丸くしている青年に、シェラは消えてしまいたいような恥ずかしさとほんのちょっとの怒りに頬を紅潮させながら言ってやった。

「勝手に自分で納得して、勝手に答えを出さないで下さい! 違うって言ってるのに!!」

何だか泣きそうになってしまって、『馬鹿馬鹿馬鹿!』と内心で自分自身を罵倒した。
こんなことくらいで泣きそうになっていたら、絶対におかしいと思われる。
変なヤツだって思われて、近寄りたくなくなってしまうかも知れない。

「……違うのに……」

むぅぅ、と唇を尖らせて俯くシェラに、しばし呆けたような顔をしていたヴァンツァーはおずおずと口を開いた。

「あ、あの……泣かないで……?」

どうしたものか、と指先が彷徨う。

「泣いてません!」
「はい……」

シェラの剣幕に、伸ばしかけた手を握り込み、反射的に背筋を伸ばして頷いていた。
赤い顔をして零れそうな涙と格闘している少女のような青年。
俯いた頬に落ちるさらさらの銀髪が、部屋の照明に反射してきらきらと光っている。
じっと見つめていると、ちらっ、とこちらを見たと思ったらふいっ、と顔を背けられた。
やはり何かしてしまったのだろうか、と思っていると、『なー』という細い声。
視線を落とすと、今の騒ぎで目覚めてしまったらしい黒猫が、『ふわぁぁぁ、よく寝た』とばかりに伸びをしている。
そうして、ととと、と歩いていって、シェラの膝にぴょん、と飛び乗ったのだ。

──なーあ?

不思議そうに首を傾げている仔猫に、シェラはちょっと笑った。
そうして、ちいさな身体を抱き上げてやる。

「……ごめんな。起こしちゃったね」

──んなー

ひと鳴きして、抱き上げているシェラの手をぺろぺろと舐めた。
猫特有のザラザラとした舌の感触がくすぐったくて、シェラはくすくすと笑った。

「はいはい、どうしたの?」

──なーなー

手足をばたつかせて落ち着かない様子の仔猫に、ヴァンツァーが「あ」と声を上げた。

「──トイレ?」

指摘してやると、美人になること間違いなしの黒猫は、『うにゃーっ』と言って暴れ出した。
その姿が『レディーに向かってなんてこと言うのよ、この朴念仁!!』と叫んでいるようで、微笑みを誘う。

「そっか。ご飯いっぱい食べたもんね……そろそろ、お帰り」

青年に仔猫を渡し、意図的に見ないようにしていた時計を見る。
かれこれ、二時間以上もこうしていたことになる。
少しずつ、ほんの少しずつ話をする時間が増えていっているような気がして、とくとく、と鼓動が早くなった。

「もうこんな時間だったのか……すみません、また、長居しすぎました」

立ち上がり、ぺこり、と頭を下げる青年に、シェラも慌てて立ち上がって首を振った。

「こちらこそ。大したおもてなしも出来ませんで」
「いえ……本当に、料理上手なんですね。今日のもすごく美味しかった」
「兄がコックなので、時々教えてもらうんです。まだまだ本職には及びませんけど」

ぺろっ、と舌を出すとヴァンツァーはその美貌に仄かな笑みを浮かべた。

「今度時間が作れたら……料理しているところ、見てもいいですか?」

びっくりしてしまって、シェラは菫色の瞳を真ん丸にした。

「は……え? 見……え?」
「邪魔はしないようにしますから」
「あ、いえ……そんなのは別に構わないんですけど……」

えっと、と身長差のせいで自然と上目遣いになってシェラは申し訳なさそうに頬を掻いた。

「……全然、大したことしてませんけど……面白くないと思いますよ?」

それでもいいのか、と訊ねるシェラに、青年は嬉しそうな顔になった。

「楽しみにしてます」

その言葉が嘘ではないと証明するような軽い足取りで、青年は隣の部屋へと帰っていった。
見送ったシェラは、玄関の扉を閉めて鍵をかけると、思わずその場に蹲った。

──……なんぞ、あの可愛い生き物は……。

あれは勘違いする女の子が山ほどいるに違いない。
あんな綺麗な顔で、あんな風に微笑まれて、『きみの手料理が食べたいんだ』(←シェラヴィジョン)とか言われたら、そりゃあ今の今までなかった恋心も芽生えようというもの。

「……もぉ……心臓いくつあっても足りないよぅ……」

拗ねたように唇を尖らせるシェラの頬は赤く染まり、口許は堪えきれない喜びに綻んでいた。




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