「──あれ。ここってペットOKだった?」
クリスマス・イヴ。
シェラとともに出迎えてくれたちいさなお姫様を見て、女性ふたりは顔を見合わせた。
一応声をひそめて訊ねてくるシャーミアンに苦笑して首を振ったシェラは、とりあえずふたりを室内に促した。
空調の効いた部屋は、一段と寒さを増した外気に晒されていた女性陣の強張った身体をやわらかく解していく。
シェラはふたりをダイニングテーブルに促し、本日のメインディッシュに瞳を輝かせている女性たちにすぐにホットレモンを作ってやった。
代わりに、シャーミアンたちからは誕生日プレゼントをもらった。
カシミヤのマフラーはいいとして、『うるつやぷるん』がキャッチコピーのリップクリームその他スキンケアセットはどうしたものか──炊事をするからハンドクリームはありがたかったが。
まるっきり女の子への贈り物だが、シェラは苦笑ひとつで済ませるとふたりに事情を説明することにした。
当のお姫様は他人に懐かないというヴァンツァーの言葉通り、シャーミアンとポーラの近くにも寄ろうとはしない。
ただ、威嚇をしたりしないから、嫌っているというわけではなさそうだ。
シェラの足元から、様子を伺うようにしてふたりの顔を見上げている。
「ペットはダメなんだけど、ちょっとだけ預かってるんだ」
「預かる?」
「誰から?」
「んーと……」
何やら言いにくそうにしているシェラに、ぱちくり、と瞬きした女性たちは声を揃えた。
「「──やっぱりロマンスが生まれたのね?!」」
ちょっとそこに座んなさい、まずはじっくりたっぷり詳しくその辺の経緯を聞かせてもらうわよ、と鼻息を荒くしている友人たちに、シェラは「違うってば」と前置きした。
「何か、海外に行くとかで……でも、この子がペットホテル嫌がったんだって」
「えー、あんなに嫌ってたのに、それだけの理由で預からないでしょー? あのシェラの剣幕だったら、管理人か大家に言いつけそうだし」
「いや、いくら私でもそんな……」
「そもそも、いつの間に言葉を交わすような関係になっちゃったわけ?」
「なになに、実はそんな悪い人じゃなかったとか?」
──ぎくっ。
「挨拶もまともにしなかったのは体調悪かったからで、実は礼儀正しい人だったとか?」
──ぎくぎくっ。
「「でもって、実はちょーミラクルスーパー美男子だったとか?!」」
──ぎくぎくぎくっ。
適当に喋っているはずだというのに、どうしてこう女性というものは妙に鋭いことを口にするのだろうか。
ひくり、と頬を引き攣らせているシェラは、どうにか表情を取り繕った。
「や……やーだなーもー……そんなわけないでしょう! ど、動物に罪はないし!」
「あー、やっぱりシェラも女の子だったのねー」
「イイ男に弱いのねー」
「ってゆーか、ギャップの勝利よ」
「いや、あの……」
「あー、第一印象最悪って、王道よね」
「そうそう。最初が悪い分、あとは良くなっていくだけだもの」
「……あのね」
「ロマンスの神様が微笑んじゃったのね」
「これは、年越しはふたりですると見たわね」
「間違いないわよ。『除夜の鐘? 鳴ってないよね?』みたいな」
「ゲレンデが溶けるような恋しちゃうに違いないわよ!」
「あー、熱い、熱い!」
「いや、あの、ふたりとも……」
ちょっと落ち着いて、と話に割って入ろうとするが、無理に決まっている。
「そっかー。海外に行くんじゃなかったら、今頃ふたりで熱いクリスマス・イヴを過ごしていたかも知れないのねー」
「もうわたしたちなんかとは、遊んでくれなくなっちゃうんだろうなー」
「寂しいけど、こればっかりは仕方ないものねぇ」
「……あ、あの、シャーミアンさん、ポーラさん……?」
「じゃあ、今夜はシェラの『初・彼氏』記念ね!」
「いいわよ、いいわよ。可愛いシェラのためですもの! 今夜は大いに食べて、大いに飲むわよー」
おー!! と威勢良くがっちり腕を組むふたりに、シェラは乾いた笑みを浮かべた。
──んなー?
その足元で、ビアンカが不思議そうな顔をしていたのだった。
はぁぁぁぁ……。
母国では数十万とも数百万ともつかない熱狂的なファンを持つ美貌の主が、深く、特大のため息を零した。
サファイアかラピスラズリと見紛うような藍色の瞳には憂いの色が濃く、彼の美貌に陰を与えているが、その陰さえも彼の美しさを引き立てるエッセンスであった。
撮影の合間、太陽の差し方ひとつにも煩く注文をつけるカメラマンのおかげで、二時間、三時間程度の空き時間が出来ることはザラだった。
そのために、十日間もの撮影スケジュールを組んだのだ。
小規模とはいえ十数人のスタッフが機材を行き来させている様子に、観光客や地元の人間が注目している。
ヴァンツァーの存在は知らずとも、何かの撮影が行われていることは誰の目にも明らかで、中には携帯やカメラで写真を撮ろうとする人間の姿も見受けられた。
しかし、スタッフの倍以上の警備員がそれをさせない。
撮ってしまったデータを消去させている様子も見られる。
そんなスタッフたちの苦労など雲の彼方。
ヴァンツァーは広場の噴水横に置かれたキャンプ用の椅子に腰を下ろし、久々にぼんやりと出来る時間を過ごしていた。
手の中で琥珀を弄び、そのつるり、とした表面にきめ細かな肌を思い出す。
触れたことなどないけれど、きっと綿菓子のようにやわらかいに違いない。
──カシャッ。
すぐ近くでシャッターの切られる音がして、ヴァンツァーは顔を上げた。
「……バルロ」
見遣った先には、逞しい長身に、悪戯っ子のような瞳の美丈夫。
癖のある黒髪に縁取られた端正な容貌は、どこぞでホストでもしていそうな雰囲気である。
だが、彼こそが太陽の位置どころか雲の流れ方にまで文句をつける自称『世界一我が儘なカメラマン』であった。
「今の、消してくれよ」
「やだね」
にべもなく言い放つ男に、ヴァンツァーは若干眉を顰めた。
「『売れる写真』を撮るつもりはさらさらないが、いいものはいい。あの顔が表紙だったら、今度の写真集は飛ぶように売れるぞ」
「ため息吐いてぶすくれてる男の顔なんか見たって、楽しくないだろう」
「いいや、違うな」
にやり、と笑ったカメラマンは、ファインダー越しにヴァンツァーの瞳を覗き込んだ。
「──ありゃあ、恋焦がれている男の瞳だ」
お前のファンたちにはたまらんだろうよ、と言って笑う男に、ヴァンツァーは藍色の瞳を丸くした。
「……恋? 誰が」
「お前だよ、『童帝』陛下」
揶揄するような物言いに、カチン、ときた。
「……やめろよ、その呼び方」
「似合ってると思うがな。『抱かれたい男No.1』が、極度の恋愛音痴とはね」
「別にそんなんじゃ」
「お前は見た目と違ってどこかぼーっとしてるところがあるからな。どうせ、筆下ろしだってどこぞの女に乗っかられたクチだろ」
「……」
「しかも年上だな。真っ赤な口紅の似合う、颯爽と風を切って歩くようなイイ女だ」
「……」
ぽかん、と口を開けている青年に、バルロは思わず吹き出した。
『何で知ってるんだ』と雄弁に語っている青年の表情に、言ってやった。
「カメラマンの洞察力を、ナメてもらっちゃ困るな」
に、と口端を吊り上げる様子が男くさいのに魅力的で、ヴァンツァーは思わずそっぽを向いた。
遊び慣れている様子も腹立たしいが、そのことで悪い噂が立ったり、記事になったりしないのも面白くない。
「惚れた女でもいるのか?」
「……そんなんじゃない」
「気になるなら、一発ヤっちまえばいいだろうに」
「──出来るわけないだろう?!」
思わず声を荒げたが、バルロがにやり、と笑ったのではっとした。
しまった、と思ってもあとの祭。
がっしりと肩を組んでくる四つほど年上の男に、抗う術などない。
「ほぉーう。どんな女だ? やっぱり年上か?」
「……違うって言ってる」
「じゃあ年下か? 何か、お前が年下の女を可愛がってるってイメージが湧かんな」
「違うって」
「あぁ、男か」
「──っ……」
こともなげに呟かれた言葉に、心臓が跳ねる。
ポーカーフェイスを装うには、彼はまだまだ若すぎた。
バルロは「なるほどねぇ」などと言ってヴァンツァーの肩をぽんぽん叩いている。
「もう告ったのか?」
「……」
「何だよ、やっぱり『童帝』か」
「……煩いな」
「それともお前がネコか?」
「違うよ」
「じゃあ、お前の顔なら余計なこと言わずにキスして押し倒せば一発だろうが」
「放っておけよ」
「あ? 何だ、お前、もう余計なこと喋っちまったのか?」
「煩い」
「だーかーら。あれだけ喋るなって、あいつにも言われてるだろうが」
「──もう、放っておいてくれよ!!」
本気で苛立っているらしい青年の態度に、バルロは目を丸くした。
そうして、しゃがみ込んで椅子に座る青年を見上げる。
怒っているというよりは、どうしていいか分からなくて苛立っている、といった感覚の方が強いのかも知れない。
弟を見るような目になったカメラマンは、舞台から一歩降りると嘘のようにおとなしくなってしまう青年に訊ねてみた。
「とりあえず、当たってみたらどうだ? それとも、全然脈なさそうなのか?」
口を噤んでいたヴァンツァーだったが、やがてポツリ、と口を開いた。
「……嫌われては、いないと思う」
「だったら、うだうだしてても仕方ないだろう。昔から言うだろう? 『押してダメなら押し倒せ』って」
「……どんなマイルールだよ。あの人もそうやって口説いたのか?」
呆れたように、しかしちいさく吹き出したヴァンツァーは、でも、と言葉を続けた。
「相手、一般人だし……迷惑だよ」
「やってみなけりゃ分からんだろうが」
「男に好かれたって、嬉しくな──」
言いかけてはっとしたヴァンツァーは、「悪い」と呟いた。
「別に、謝ることじゃない。俺もあいつも、そんなことは百も承知だ」
「……すごいな」
「何が」
「どうやって口説いたんだよ」
「顔と身体」
「……」
「あとは、──ココだ」
軽く叩かれたのは左の胸で、ただただ瞬きを繰り返す。
「本気でぶつかれば、本気の答えが返ってくる。結果がどうであれ、な」
「……」
「最悪なのは、うやむやなまま進んじまうことだ。居心地はいいかも知れんが、大抵そういうのは長続きしない。後味も悪い」
「……」
「ま、ダメだったら自棄酒くらい付き合ってやるよ」
仕方ねぇな、といった感じで口端を持ち上げる男に、ヴァンツァーは目元を緩めた。
「──バルロ」
背後から耳に馴染んだ声が掛かり、しゃがみ込んだままバルロは首を巡らせた。
「何だ?」
「何だ、じゃない。お前の子分たちが、腹減らしの雛鳥みたいに指示をくれと口開けて待ってるぞ」
腕組みをして見下ろしてくるスーツ姿の金髪美人の言葉に、バルロは盛大なため息を零して立ち上がった。
「ったく。ちったぁ自分の頭で考えろ、っていうんだ」
「わたしではなく、本人たちに言うんだな」
「はいはい、女王様、っと」
「返事は一回」
「Yes, Her Majesty.」
「よろしい」
行け、と顎でしゃくるようにされたバルロは「可愛くねぇ」とぼやきつつも頭を掻いてアシスタントたちの元へ向かった。
「坊や」
「俺は『坊や』なんて名前じゃありません」
「そう。せっかくわたしからクリスマスプレゼントをあげようと思ったのに、そういう可愛くないことを言う子にはプレゼントはなしだね」
「プレゼント……?」
どうせナシアスのことだから、山ほど仕事の話を持ってきたに違いない、と胡乱気な顔になったヴァンツァーは、次の瞬間子どものように瞳を輝かせた。
男の部屋に女性を泊めたというのに当然のように何もなく、それどころかシャンパン片手に恋バナで一晩中盛り上がる始末だ。
リビングに敷かれた毛足の長いラグの上で語り明かし、夜明け近くなってあくびをしだした女性ふたりを寝室へ促す。
ベッドの大きさ的にもさすがに三人で眠ることは出来ないので、シェラはリビングのソファでビアンカと一緒に眠った。
昼前になって「「お腹空いたー」」と肩を揺さぶられて起こされたシェラは、「はいはいーっと」と眠い目を擦りながらも起き出し、キッチンへと向かった。
テーブルにいっぱい用意した料理は大部分が三人の胃袋に納められていたが、丸ごと一羽の鶏肉を完食するのはさすがに無理だった。
クリスマスの朝食──否、昼食は、その鶏肉とピラフの残りでリゾットを作った。
トマトの酸味が効いたそれは、昨夜「「もう三日は何も食べられな~い」」と豪語していた女性たちも瞠目の美味しさで、ぺろりと平らげてしまった。
「シェラはいいお嫁さんになるわねぇ」
「わたし、必要になったらシェラのところに花嫁修業に来ようかしら」
「あ、それいいわ。女にとって一番重要なのは料理上手であることらしいもの」
「そうそう。旦那様が帰ってきたくなるようなご飯を作れる女が、最終的には一番愛されるのよね~」
「もう、シェラってば満点じゃない。可愛いし、料理出来るし、家事は完璧」
「でもって、──ちょっと天然入ってる」
きゃはは、と笑いあう友人たちに、「まったく、勝手なこと言って」と思ったシェラだったが、美味しい、美味しいと笑みを浮かべて空腹を満たす女の子はやっぱり可愛い。
ダイエットなんてしなくていいのに、と茹でたササミをビアンカの食事の中にも入れてやった。
がっつきそうになって、慌てておしとやかなお姫様を装う様子がまた可愛らしくて、自然と笑みを誘う。
「それじゃあ、シェラ。良いお年を」
「新年会はどこかに飲みに行きましょうね」
「うん。寒いから、気をつけて帰ってね」
「ありがとう」
「──あ、次会うときまでに進展があったら教えてね」
「進展?」
首を傾げるシェラに、シャーミアンとポーラは声を揃えた。
「「んもぅ! 決まってるじゃない──隣の彼氏よ!!」」
だからそんなんじゃないったら!! と顔を真っ赤にするシェラに、ご馳走の残りを持たされた女性たちは機嫌良さそうに手を振って帰っていったのだった。
「まったく……」
パタン、と玄関の扉を閉め、鍵をかける。
──なー?
ごちそうのお礼か、すりすり、と身体を擦り付けてくるお姫様にシェラは微笑した。
「……早く、ご主人が帰ってくるといいね」
──んな~ぅ
「帰ってくるのは新年か……どこに行ってるのかな」
──なー?
「あったかい南の島とかだったら、羨ましいなぁ」
飛行機嫌いのシェラにとっては、夏場に北方へ向かったり、冬場に南国へ行ったりすることはかなり難しい。
国内でも、飛行機を使わずに移動出来る距離など高が知れているし、移動時間も掛かりすぎる。
「ご馳走用意して、待ってようね」
──うな~ん
シャーミアンとポーラにあれこれ言われたからか、もう気分は既に『新婚さん』だった。
そんなことはあり得ないし、男の自分に好意を持たれても嬉しくないだろうが、もしかしたらお友達くらいにはなれるかも知れない。
「でもって、何かの番組で『料理の上手な友達がいて』とか紹介されちゃったりして!」
きゃ~、とビアンカを抱き上げてキスをする。
ほんのちょっと迷惑そうな顔をしたビアンカだったが、『美味しいご飯をくれる人』という認識があるのか、呆れ返ってしまっているのか、されるがままだ。
「あ~、早く帰って来ないかな~」
新年は実家に帰る予定でいたことなど、すっかり忘れているシェラなのであった。
「うん、ごめんね……うん。三日か四日には、帰れると思うから……うん」
じゃあ、良いお年を、と言って電話を切る。
寂しそうな兄や母の声に、深くため息を吐いた。
友人たちを招いてのクリスマスパーティーの後片付けをし、まずは課題をやっつけよう、とテーブルに向かい。
既に頭の中が休日モードなので全然手が進まず、それでもどうにか三日でケリをつけた。
年越しそばや新年に食べる食材の買い出しに行く前に大掃除をしてしまおう、と部屋をピカピカに磨き上げた。
普段から綺麗にしているからさして手間もかからなかったのだが、すっきりと片付いた部屋に満面の笑みを浮かべ、気分良く買出しに出掛けたときに、去年はおせちを作らなかった気がする、と考えてはっとしたのだ。
新年は家族揃って長男の手料理に舌鼓を打つのが恒例。
大学に入ってシェラが独り暮らしを始めてからも、それは変わらない。
だから、今年もシェラが帰ってくるものだと思っていた兄は、驚いた声を上げた。
帰ってくると疑いもしていなかったので、確認の連絡を入れなかったのだ。
事情を話したら承知してくれたけれど、きっと電話の向こうで皆肩を落としていたに違いない。
その程度には、家族から愛されている自覚はある。
ヴァンツァーは十日程度と言っていた。
きっと、帰国は新年になるのだろう。
ビアンカを実家へ連れていってもいいのだけれど、帰国したときに愛猫がいないのでは彼が心配するかも知れない。
「……連絡先、知らないもんね」
当然のことなのだが、隣に住んではいても電話番号ひとつ知らない。
メールアドレスでも知っていれば、ビアンカの元気な様子を送ってやることが出来るのに。
「──ダメだ。どんどん贅沢になっていってるぞ!」
ぷるぷるっと頭を振る。
本当に、人間の欲というものは際限がなくて困る。
気を取り直して料理をすることにしたシェラは、キッチンにポータブルDVDプレーヤーを持ち込んだ。
もちろん、再生するのは今頃写真集の撮影に勤しんでいるであろうアーティストのDVDだ。
二十枚ほどの候補の中から、今日はコレ、と選んだのは先日発売になったばかりの自分が参加したライヴのDVDだ。
気をつけていないと画面を見ることに夢中になってしまって手が止まってしまうのだが、それは仕方ない。
「ぼーくのーそばにーいてーね、ずーっとずーっとそばにーいーてーね」
もう、歌詞なんて完璧に暗記しているし、歌えない歌なんてひとつもない──まぁ、ヴァンツァーの歌はキーレンジが広すぎて一般人男子を自認するシェラとしては音域がかなり厳しいわけだが。
しかし、半年やそこらでよくここまで、と我ながら感心してしまうシェラだった。
昔から気に入ったものへの傾倒ぶりはすさまじく、料理だって兄の魔法の手が自分も欲しくて始めたようなものなのだ。
今では、歴史書と料理本を読む時間が、ヴァンツァーの音楽に触れているときと同じくらい至福の時なのである。
「んもぅ~、言われなくても傍にいるよ~」
なぜか脳裏に浮かんでくるのは『お隣さん』な彼ではなく、ステージ上の超絶かっこいい彼なのだから現金なものだ。
「料理出来る子かぁ……やっぱり料理上手ってポイント高いよなぁ~」
疲れて帰ってきたら、美味しいご飯と可愛い奥さんが迎えてくれるって、理想だよなぁ、と呟きながら牛のランプ肉の塊に磨り潰した岩塩と胡椒、ローズマリーを擦り込む。
一キロを超える塊肉だ。
どうせひとり、増えてもふたり分のおせちなのだから、好きなものを食べたい。
余ったら実家へ持っていけばいいのだ。
オーソドックスなおせち料理も何品か用意するけれど、変わりおせちも悪くないだろう。
「ローストビーフ、エビマヨ、カニクリームコロッケ~」
好物ばかりを頭の中に並べてご満悦だ。
どれもこれも、あたたかくてもちょっと冷めても美味しくいただける料理だ。
DVDから流れてくる耳に心地良い美声と、美味しい料理と、ちょっとお酒とかあったら最高だなぁ~と思うシェラだった。
「──あ、でも、料理上手もいいけど、ちょっとドジっ子っていうのも可愛いよなぁ」
そう、たとえば……。
「──それは砂糖。塩はこっち」
意気揚々とローストビーフ作りに取り掛かろうと腕を捲くったシェラが手にした容器は、背後から伸びてきた手に取り上げられてしまった。
「え?」
きょとん、として背後を振り向くと、ソムリエエプロンを身に着けた長身の青年。
真っ白い長袖のシャツを肘が出るほど捲くっている。
血管や筋の浮いた男らしい腕に、惚れ惚れしてしまう。
また、腰の部分が細く絞られた黒のベストが、彼の肉体のバランスの良さを際立たせている。
日焼け知らずの抜けるように白い肌なのに、脆弱な印象などまったく与えない鍛えられた身体。
シェラがぽわぁ~と見惚れていると、美貌の青年は苦笑した。
「砂糖漬けのローストビーフなんて、聞いたことないよ」
「……間違っちゃった」
てへっ、と舌を出すシェラに、くすくすと笑みを零す青年。
「まったく……しょうがないな」
つん、と額を小突くと、シェラは『にゃっ』と声を上げた。
「俺が見ていないと、ダメなんだから」
「そんなことないもん。ちゃんと作れるんだから」
「はいはい」
「あー、信じてないでしょう!」
ぷっくりと頬を膨らませるシェラに、青年はにっこりと微笑んだ。
「やれば出来るって信じてるよ────俺の可愛い奥さん」
「──とか言って耳ちゅーしちゃったりして~!!」
きゃー、と騒ぎながら音速で野菜を乱切りにしていく。
にんじん、玉ねぎ、セロリなど、ローストビーフを焼くオーブンに入れるのだ。
塩・胡椒した塊肉は、既に牛脂を引いたフライパンの上でジュージュー言っている。
あっという間に切り終わった野菜を余熱した天板に載せ、こんがり焼き色をつけた塊肉を野菜の上に置いて加熱。
一切の無駄のない、流れるような作業である。
どう頑張っても──否、頑張らなくても、『料理がちょっと苦手な新妻』を演じることはシェラには無理なようである。
最初の二、三日はビアンカもシェラの妄想大会にびっくりしていたようだが、今では飽きてしまったのか、呆れ返ってしまったのか、リビングのソファで気持ち良さそうに眠っている。
「はいはいー、次は玉ねぎ、ゆで卵にピクルスも刻んで、マヨネーズ、っと」
ものの数分で出来上がったタルタルソースを味見して、「ん~~~、美味っ!!」と身悶えている。
独り言が多くなるのは、独り暮らしをしている人間にとっては仕方のないこと。
咎めるものがいないから、ひたすらヒートアップするばかりだ。
『──Kiss して!』
そのときDVDプレーヤーから流れてきた声にはっとして、シェラはそちらに目を向けた。
「あれ、もうここまで進んじゃったの?」
やだやだ、ここは正座して見なきゃいけないんだから、と包丁を置く。
キッチンでは正座するわけにもいかないが、リビングで見ているときなどは、その前まで横になっていたとしても、この曲でビシッと起き上がるのだ。
「あ、ほらやっぱり」
広い会場の中、曲の終わりに『Kiss して』とささやく彼は、少し視線を落としてウィンクをした。
「絶対、目が合ったと思うんだけどなぁ」
しかし、それならこのマンションで顔を合わせたときに気がついても良さそうなものだ。
「……いっぱいいるもんなぁ、ファン」
たったひとりの観客のことなんて、覚えてないよなぁ、と肩を落とす。
それでも、実際に顔を合わせ、言葉を交わし、手料理まで食べてもらった奇跡は喜ばしいことなのだけれど。
「早く帰って来ないかなぁ……」
ほぅ、と悩ましげなため息を零し、シェラは料理の続きに取り掛かった。
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