正月二日。
いくら美味しい料理でも、ひとりで食べたのでは味気ない。
それでも、現在飼い主がいない寂しさからか、『デレ期』突入中のビアンカが傍にいるから半減してはいるのだけれど。
ローストビーフも、中心部の塩気のないところをやったら『もっとちょうだい!!』とねだってきて、そのちいさな身体から発される必死の様子が可愛くて仕方なかった。
とはいえ、テレビはどれも前年のうちに撮り溜めた正月番組ばかりで、マンネリ気味だ。
それも家族と一緒に見ていれば、多少は話題のタネになったのだろうけれど。

「……つまーんなーい」

はぁ、とだらしなくテーブルに突っ伏す。
毛足の長いラグの上に直接座り、はちみつを垂らした紅茶を啜る。
ビアンカも隣で丸くなり、時々あくびをしている。

「初詣は兄さんたちと行く予定だし……」

時計を見ると午後二時。
普段は休講があると大喜びする学生だが、こういうときは授業が懐かしくなったりするものである。
もちろん、また授業が始まったら、どうやって休もうかと画策する日々が続くようになるのだけれど。

「お前のご主人は、いつ帰ってくるのかなぁ……」

帰国を待ち侘びている、というよりも、早く何とかこの惰性から抜け出したい、というのが本音なのかも知れない。

「う~~~~~。こういうときは料理に限る!!」

それも、甘いものだ。
今家にある材料で何が出来たか、と首を捻ったとき、インターフォンが鳴った。
はっとしてビアンカと顔を見合わせ、「偵察してくるから、ちょっと待っててね」と言い置いて玄関に向かう。
ドアスコープから覗くと、一見怪しげな人物。
帽子を目深に被ったその人が不審人物でないことをよく知っているシェラは、喜色満面になってドアを開けた。

「──お帰りなさいっ!!」

きらきらとした笑顔で迎えると、青年は一瞬面食らったような表情になった。
けれど、帽子と眼鏡でも隠せないやわらかな笑みを浮かべて、「ただいま」と応えた。
CDやDVDではずっと聴いていた声だったけれど、やっぱり本物は何倍も素敵だ。
低いのに甘くて、決して大きくはないのに聴き手の心を掴んで離さない。

「どうぞ。ビアンカが待ってますよ」
「あぁ、うん。でも、その前に……」

外は寒いから、と青年をとりあえず玄関の内側に招き入れ、何だろう? と首を傾げる。

「ちょっと過ぎちゃったけど……Merry Christmas, and Happy New Year. それから──Happy Birthday、シェラ」

そう言って手にした紙袋から手のひらより少し大きいくらいの箱を取り出す。
淡いオレンジ色のラッピングが、寒い冬に仄かなあたたかみを添える。
細い白と銀のリボンが華やかに箱を包み、幸福感を演出する。
しかし、菫色の瞳を真ん丸にして動こうとしないシェラに、「あ、あれ?」と少し慌てた様子になった青年は帽子を取った。
帽子と眼鏡を外していないから受け取ってもらえないらしい、と思った彼は、鞄の中に帽子をしまうと眼鏡も取った。
そうして、生来の美貌が露わになる。
それでもシェラは彫刻のように突っ立ったままで、藍色の瞳が不安そうに瞬く。

「……シェラ?」

呼びかけても返事もしない。

「あの……怒ってる? ビアンカ押し付けちゃって」

これにも答えてもらえず、えっと、と頬を掻く。
差し出した手の上の箱をどうしたものか、と内心ひどく焦った青年に、しばらくしてようやく声が掛けられた。

「……なんで?」
「え?」
「これ、なに……?」
「え、あ……あの、誕生日……だったんだよね? ビアンカ、預かってもらったお礼もあるし……その……」
「わざわざ、買ってきたの……?」
「あ……いや、あの……撮影の合間に、マネージャーがクリスマスだからって半日オフくれて……いや、本当はクリスマスなんて過ぎちゃってたんだけど……あっちって、クリスマス前後は店閉まっちゃうから……でも、せっかくのオフだし、街歩いてたら、たまたま目に留まって……」

しどろもどろになりながら、極力何気ない風を装おうとしている。
ステージ上の自信はどこへ行ったのか、長身がちいさく見えるくらいだ。
しばらく無言の時が流れ、やがて青年はため息とともに差し出した箱を引っ込めた。

「……ごめん。突然こんなことされても、迷惑だよね……お礼が、したかっただけなんだ。ビアンカのこともそうだけど、何度かごちそうにもなってるし……」

ごめん、と苦笑してシェラの顔を見た青年は、ぎょっとした。

「──ちょっ、シェラ?」

はらはらと涙を零す清らかな精霊のような美貌に、心臓がおかしな動きをしている。
トレーニングをしているときも、ダンスレッスンをしているときも、四時間のステージをこなしているときだって、こんな心拍数に達したことはないだろう。
そんなに迷惑だったのか、と何度も謝る青年に、シェラは顔を覆って呟いた。

「……困る、そんなの」

ズキッ、と胸が痛んだのはなぜか。
分かっていたけれど無視をして箱を紙袋にしまい、「ごめん」と頭を下げた。
喜んでもらえると思った。
ファンだと言っていたから、自分からのプレゼントなら受け取ってくれるだろう、と──そう、驕りたかぶっていたのだ。
ちょっと売れてきて、ファンからはきゃーきゃー騒がれて、メディアにもどんどん取り上げられるようになって。
ちやほやされて、傲慢になっていたのだろう。
何でもかんでも、自分の思い通りに動くわけない。
当たり前だ。

「……ほんと、ごめん……」
「……ダメだよ……そんなこと、しちゃ……」
「うん……」

紙袋の持ち手をぎゅっと握り、これ以上ないというくらい項垂れる。
もう、早くビアンカを連れて帰ってしまおう、と唇を噛んだ青年の耳に、ささやきが届く。

「──……本当に、好きになっちゃうよ……」

はっとして顔を上げると、やはり顔を覆ったまま、肩を震わせて泣いている。
華奢なその肩を引き寄せたくて、でもそんなこと出来なくて。
どうしていいか分からないでいるヴァンツァーの前で、シェラは言葉を続けた。

「ダメだよ……これ以上、贅沢にさせないで……」
「シェラ……?」
「期待、しちゃうよ……特別なんだって、……勘違いしちゃう……」
「……」
「……私は、馬鹿だから……ヴァンツァーにとってはよくあることでも……私には、全部が特別だから……」

言葉を交わせることも、プライヴェートを垣間見られることも、ひとつひとつが全部特別。
『たくさんのファンの中のひとり』と、『たったひとりのアーティスト』では、全然違うのだ。
プレゼントを受け取ってしまったら、嬉しくて──嬉しすぎて、舞い上がって勘違いしてしまう。

「────好きだよ」

今度はシェラがはっとして顔を上げる番だった。
濡れた睫毛の奥から、じっとこちらを見つめてくる藍色を見つめ返す。

「……俺は……シェラが、好きだよ」

けれどすぐに居心地悪そうに目が逸らされてしまったから、シェラは「うそ」と呟いた。

「嘘じゃない! 本当に──」

大きな声を出してしまい、慌てて口を噤む。

「……皆、言うんだ。俺は、恋をしているんだって……よく、分からなくて……シェラは男だって分かってるんだ。だから、そんなことない、って……コレは、恋なんかじゃないって……」
「……」
「でも、気になるのは本当で……」

手にした紙袋をちょっと持ち上げて、ちいさく唇を歪める。

「半日オフもらったときも、嬉しくて。あぁ、これでプレゼントを買いに行ける、って」
「……」
「でも、何を贈ったらいいのか分からなくて……半日しかないのに、って、すごく焦った。俺、誰かにプレゼントなんて贈ったことないから……どういうものが好きなのかも分からないし……」

苦笑する青年に、シェラは「上がって」と言った。
でも、と首を振ろうとする青年に、ちいさく笑う。

「……Happy New Year. ……おせち料理、食べませんか……?」

見上げてくる紫水晶のような瞳に、ほんの微かな笑みを口許に浮かべて、ヴァンツァーは頷いた。


逢いたくて仕方なかったくせに、ツンと澄ました様子で出迎えたビアンカ。
ヴァンツァーは「ただいま」と挨拶をして抱き上げた。

──なーぅ

お姫様にしては、細く可愛らしい声で鳴くものだから、ヴァンツァーはくすくすと笑って色々と話しかけた。
その間にシェラは作って置いた料理の数々をテーブルに並べた。

「カニクリームコロッケ、好き?」
「──大好き!」
「じゃあ、それ食べて待ってて。揚げてくるから」

シェラがちいさく吹き出すと、きらきらと子どもみたいに瞳を輝かせた青年は、ひとつ提案をした。

「見ていてもいい?」
「いいけど……揚げるだけだよ?」
「うん。邪魔はしないから」

何だか想像していたキッチンの様子みたいだな、と思ったら顔が熱くなったが、シェラは冷蔵庫から取り出した俵型のそれを熱した油の中に入れた。
ジュワ~、と威勢の良い音を立てる鍋の中身を、対面式のキッチンの向こうからしげしげと眺めている藍色の瞳。

「……あんまり、楽しくないでしょう?」

苦笑しながら、付け合せのキャベツを千切りにしていく。

「そんなことないよ。魔法みたいだ……」

危なげなく包丁を操る手元をじっと見つめながら、感嘆のため息とともに零れた言葉に、シェラは思わず笑ってしまった。

「私も、昔そう思った」
「魔法みたい、って?」
「うん。料理する兄さんの手を見て、そう思ったんだ」
「すごいよね。何でもない材料が、すごい美味しい料理に変わるんだ。魔法だよ、これ」

わくわく、と書いてある顔が可愛くて、シェラは幸福な気分になった。
綺麗なきつね色に揚がったコロッケの油を切り、リビングへ運ぶ。

「召し上がれ」
「いただきます」

まずは揚げたてのカニクリームコロッケから、とナイフを入れると『サクッ』という何とも幸せな音がして顔が綻ぶ。
その表情を見ているシェラまで幸せな気持ちになるような、そんな顔だった。
皿の横に添えられたタルタルソースをつけて口に入れると、思わず「ふふっ」と笑みが零れる。
言葉などなくとも、その表情だけですべて伝わってくる。

「美味しい。すごく美味しい」
「ありがとう」
「こっちの茶色いソースは?」
「あぁ、それはカニ味噌。一匹捌いたから、ついでにソースも作ったの」
「──え? カニを捌くの?」
「うん。実家から仕送りとは別に時々野菜とかお肉とか魚とか送られてくるの。毛ガニがあったから、お正月だし豪勢にしてみよう、と思って」
「……これ、自分で作ったってこと? 冷凍じゃないの?」
「もちろん。時間はたくさんあるから、ベシャメルソースも作ったし」
「……すごいな。シェフだね」
「そんな大層なものじゃないけど……うん、でも、そう言ってもらえると嬉しいです」

はにかむように微笑むシェラに、ヴァンツァーは今度はカニ味噌で作ったというソースをつけて食べた。
美味しいものを食べると、どうして笑ってしまうのだろうか。
厚めに切られたローストビーフも、本格的なレストランで食べるものと何ら遜色がない。

「ローストビーフなんて、家で作れるんだ」
「実はこれが一番簡単。塩・胡椒して焼くだけだから」

あはは、と笑うシェラの前で、青年は並べられた料理をぺろり、と平らげた。
空腹だったというのもあるけれど、何より本当に美味しかったのだ。

「美味しかった。ありがとう」
「こちらこそ。いつも美味しそうに食べてくれて、ありがとう」

ふふふ、と笑ったシェラに、ヴァンツァーは何気なく呟いた。

「うん……やっぱり、そうやって笑ってる方がいい」
「──え?」
「可愛い」
「……」
「──って、男相手に失礼だよね……ごめん」

ペコリ、と頭を下げる腰の低いトップアーティストに、シェラはもじもじとしながらお願いをしてみた。

「あ、あの……」
「うん?」
「お、お願いが……」
「お願い?」
「その……あの……──やっぱり、プレゼント、もらっても……いい?」

上目遣いに訊ねてくる少女のような青年に、ヴァンツァーはにっこりと微笑んだ。

「もちろん」

そうして、紙袋ごと渡してやった。
開けてもいいか、と訊ねてくるシェラに頷きを返す。
ラッピングを丁寧に剥がし、中から出てきたものに瞳を瞠った。

「……きれーい……」

硝子細工のオルゴールだ。

「ヴェネツィアングラス。ウィンドウに飾ってあったのがすごく綺麗で……」
「──ヴェネツィア? ヴェネツィアに行ってきたの?!」
「え? あ、うん……ヴェネツィアとローマ」
「──えええええ!!!! いーなー!! いーなー!!」

掴みかからんばかりの勢いになるシェラに、ヴァンツァーは目を丸くした。
そうして、彼の大学での専攻を聞いて納得したのだ。

「──あ、じゃあ」

鞄からごそごそと取り出したのはデジカメで、映し出された画面を見た瞬間、シェラはちいさく悲鳴を上げた。
夢に見た憧れの景色が、何枚も何枚も映し出されている。

「カメラマンがすごい我が儘で、待ち時間が結構あったから自分でも撮ってたんだ。あんまり巧くないけど……」
「……すごーい……きれーい……」

デジカメを持つヴァンツァーに寄り添うようにして画面を見つめるシェラ。
頬がくっつきそうな距離で、それを意識してしまった途端、『抱かれたい男No.1』のはずの男は煩く喚く心臓と戦うハメになった。
シェラはただただ一心に、食い入るようにして画面を見つめている。

──それなのに俺は……!

頭の中で兄貴風を吹かせるカメラマンの言葉がエンドレスリピートされ、冷静と情熱の間で翻弄されまくることになってしまった。

──……全部バルロのせいだ!

肩や腰を抱きたい衝動と、一応『告白』らしきものをしたとはいえ返事を聞いていない、という律儀さの間で揺れ動く。
そうこうする間に、シェラの手がデジカメに伸びる。
次の画像へ送ってくれ、という意思表示らしいのだが、手が触れた瞬間、中学生男子のようにびっくりしてしまい、怪訝そうな顔が見上げてきた。
焦点が合わなくなるほどの距離で見ても本当に女の子のように綺麗な顔で、思わず固まってしまう。
肌はしみひとつないし、血管が透けそうなくらい色素は薄いし、睫毛は長いし唇は艶やかでやわらかそう。
目の前の男前がそんなことを考えているとは露も知らないシェラは目をぱちくりさせたが、ヴァンツァーが『へらっ』と笑うと興味の対象をデジカメに戻してしまった。
それはそれで傷つく、とは思いながらも、あれこれ質問してくるシェラに答えてやっていた。
自分よりも強い興味を引いている写真や街を羨ましいと思いはしたが、きらきらした瞳と笑顔が本当に可愛くて、この笑顔が見られたからいいか、と思ってしまう。

「あ~~~~、やっぱり行ってみたいなぁ!」

すべての画像を見終わると、背後のソファに背中を預けるようにして脱力するシェラ。

「行かないの?」
「……飛行機、嫌い。あんなもの、飛ぶわけないんだ……」
「──ぷっ」
「あ、笑った!」
「ご、ごめん、でも……」

どうしても我慢しきれずに笑い出す気さくな男前に、シェラはぷっくりと頬を膨らませた。

「……皆して、そうやって馬鹿にするんだから」
「馬鹿にしてるつもりはないよ」
「してる!」
「可愛いなぁ、って思っただけ」
「……」
「ほんと、可愛い」
「……」

むすっとした顔を作ったシェラは、「色んな人に言ってるんでしょう」と眉を顰めた。
ヴァンツァーは苦笑して首を振った。

「言わないよ」

そうして、じっと菫色の瞳を見つめる。
見詰め合っていると磁石のように引き合うのは、何かの魔力だろうか。
目を伏せて俯こうとするシェラの唇を追いかけて、顔を傾けた。

──と、静かなリビングに鳴り響く『ゴッドファーザー』。

はっとして顔を背けてしまうシェラに、ヴァンツァーは着信の相手に真剣な殺意を抱きながらも電話に出た。
出なければ、殺されるのは自分の方だと知っているからだ。

「……はい」

不機嫌になるのは仕方ない。
けれど、受話器の向こうで告げられた言葉に、ヴァンツァーは思わず「はぁ?!」と声を荒げた。

「週明けまでオフだって言って……だって…………はい……はい……」

声がどんどん低く、また不貞腐れたものになっていく。
電話が切れるとパチン、と乱暴にフリップを閉じた。
魂まで抜け出すのではないか、というほどの深いため息を吐くと、携帯を鞄にしまう。

「シェラ」
「……は、はい!」
「申し訳ないけど、もう少しビアンカを預かっていてもらってもいいかな?」
「──え?」
「本当は今日からオフだったんだけど、ちょっと確認しなきゃいけない仕事が出来ちゃって……今から出ないといけないんだ。明日の朝には帰ってくるから」
「あ、はい……それは、全然構いませんけど……?」
「気に入った写真、ある?」
「え?」
「お詫びに、プリントしてくる。素人の撮ったので悪いけど」
「──え、いいです、いいです! そんな、悪いし」
「いいから」
「……じゃあ」

これ、と言ってシェラが見せてきた画像を確認すると、「分かった」と頷いた。

「ビアンカ、もうちょっと待っててくれな」

──んなー

いいから早く行ってきなさいよ! と背中を押してくれるお姫様を抱き上げ、額にキスをする。

「料理、美味しかった。ありがとう」
「……こちらこそ。プレゼントまでいただいちゃって」
「じゃあ、行ってきます」
「……行ってらっしゃい」

そうして見送られたヴァンツァーは、迎えにきた美貌の敏腕マネージャーに言ってやった。

「どこかに隠しカメラでも仕込んでるんですか?」
「おや。お楽しみの最中だったかい?」
「そんなところです」

いつものように狼狽するでも怒り出すでもない努めて平静な様子の青年に、ナシアスはくすくすと笑った。

「そう──じゃあ、わたしからもお詫びをしなくてはいけないね」
「泣いて怖がるからやめて下さい」
「随分な言い草だ」

気にした風でもなく喉の奥で笑いながら運転をしている男は、ちらりと助手席を見遣って訊ねた。

「プレゼントは渡せたみたいだね」
「……何で知ってるんですか」

やっぱり盗撮でも、と言外に問う青年に、ナシアスは微笑した。

「伊達に年は取っていないよ」

確か現在三十二歳だという話だが、ヴァンツァーと同年代だと言われても頷いてしまうような美貌だ。
夜の街で声を掛けられたあのときから、まったく年を取っていない。
マネージャーなどではなく、彼自身が『商品』として芸能界で生きていくことも可能だろうに。

──……マフィアの情婦とかやらせたら、右に出る者はいないに違いない。

そんな物騒なことを考えつつ、事務所へ到着したヴァンツァーは今朝まで一緒にいた男に声を掛けた。

「バルロ」
「よぅ。女王様に呼び出されたって?」
「うん。だから、頼みがあるんだ」
「何だ、その『だから』ってのは」
「一蓮托生、だろう?」
「……」

苦虫を噛み潰したようになったバルロは、「用件は」と訊ねた。

「大したことじゃないんだ。これ、プリントしておいて」
「お前のデジカメ? どれをだ」
「全部」
「ぜ────……お前、百枚以上撮ってなかったか?」
「うん。それでアルバム作って。あ、それから、えーと……あ、これだ。これは、パネルに引き伸ばしておいて」

にこにこと綺麗な『アイドルスマイル』を浮かべている青年に、バルロは頬を引き攣らせた。

「……いつまでに?」
「うん? そんなに急がないよ。──明日の朝まででいいんだ」

それじゃあ、俺行くから、と手を振って行ってしまった青年の背中を見送り、手にしたデジカメを見下ろしたバルロは深々とため息を零した。
事務所へは荷物を置きに来ただけで、機材の片付けも今回の撮影データの確認も済んだから、これから帰って休もうとしていたというのに。
あの超鈍感おっとり男がこうも強硬手段に訴えてくることは正直あまりない。
自分の仕事には妥協しないし、スタッフにも同じクオリティを求めてはいるが、押し付けるような形で頼みごとをすることはないと言ってもいい。

「まったく……何したんだよ、ナシアス。ありゃあ、相当機嫌悪いぞ」

いつの間にか背後に佇んでいる男に恨みがましい視線を向ける。

「『童帝』坊やにも、春が来たらしいね」
「何だ。濡れ場にでも踏み込んだのか?」
「近いものがあったらしい。まぁ、あの子のことだから、押し倒そうかどうしようか葛藤しているときにわたしからの連絡が入った、ってところだろうけど」
「そりゃあ、殺されても文句は言えねぇな」

にやり、と唇を吊り上げた男に、ナシアスは美しい笑みを浮かべた。

「うん。だから、代わりにお前が死んでおいてくれ。わたしは仮眠を取る」
「……」
「二時間経ったら起こせ」

それだけ告げると、否が返ると思っていない──というよりも、言わせる気のない金髪の麗人は、ゆっくりと仮眠室へ向かった。
残された男は、がっくりと項垂れて先ほど機材を片付けた自分の仕事場へと向かった。
あのふたりが自分以上の激務をこなしていることが分かっているからこそ、男として泣き言など言えるわけがないのだった。




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