素人の撮影した画像であろうとも、現像に手は抜かない。
そんなものは、玄人としての矜持が許さない。
それはアナログだろうとデジタルだろうと同じこと。
むしろ、デジタルの方がアナログにはなかった処理が増えることもある。
だから彼は不眠不休で、愛すべき『童帝』陛下の御ために画像を一枚一枚確認し、画像に含まれた微細なゴミ取りや色調補正まで行い、それこそ写真集として出せるだけの画質に調整した。
我ながらよくやる、と、とりあえずカメラに収められた画像すべてを処理し終えた彼は、疲労が酷すぎて開けていることもままならない目を閉じて目頭の内側を揉んだ。
時計を確認すると、午前二時。
よくもまぁ、八時間程度で終わらせたものだ。
「終わったのか?」
のんびりとした声が掛けられ、バルロは椅子に身を沈めたまま背後を振り返った。
ソファにゆったりとその長身を横たえている男は、クッションを背中にあて、腹の上に乗せた端末を弄っている。
薄暗い室内で、端末の画面が発する光に金髪が淡く映し出される。
「……パネル以外はな」
吐き捨てる、というよりはちょっと拗ねた口調になった男は、もう座っていられない、とばかりに立ち上がって全身の凝り固まった筋肉を解した。
関節はゴキゴキ言うし、いくら肩を回しても、首や目を揉んでも、まったく疲労が回復しない。
バルロが隣を空けろ、と言えば、迷惑そうな顔をしては見せたものの、金髪の男は長い脚をソファから下ろした。
空いたスペースに腰を下ろすと、バルロはごろん、と横になった。
「──……膝を貸すと言った覚えはないが?」
「貸せと言った覚えもないな」
しれっとした口調で言い切った年下の男に、ナシアスは呆れた視線を向けた。
「高いぞ」
「お前の王子様のご要望にお応えしてるんだ。これくらいはサービスしろ」
「印刷がまだだろう? パネルもだ」
「俺の腕は超一流だが、魔法使いじゃないんだ。百枚も保存出来るアルバムなんてここにはない」
「だったら」
「わざわざ印刷しなくても、デジタルフォトフレームがあるだろう」
「それこそ、そんなものがあったか?」
「山ほどあるだろうが──そこに」
バルロが億劫そうに指差したダンボールに、ナシアスは眉を上げた。
「デジタルフォトフレームのカレンダーなんて馬鹿高いもの買うヤツがいるのか、って思ったが、お前の王子様の人気は相当らしいな」
「マネージメントをしている人間の腕がいいからね」
「ひとつくらいなくなっても分からんだろう」
「容量は足りるか?」
「何なら音も入れてやるよ」
瞼を閉じてしまった男に、ナシアスは「おい」と声を掛けた。
「仕事が出来ない」
「三十分経ったら起こせ」
「その間わたしに待ちぼうけをしていろ、と?」
「俺の可愛い寝顔が見られるんだから、役得だろう」
自信満々に言い切られた台詞に、「可愛い、ねぇ……」とぼやく。
「顔はともかく、お前の尊大さを愛でられるほど、年は取っていないな」
そうは言いながらも、端末をテーブルに置いたナシアスは、バルロの癖のある黒髪をゆっくりと梳いている。
規則正しい呼吸を漏らし始めた男は、半ば夢へと誘われながらも金髪の麗人に注文をつけた。
「起こすときは、キスで起こせよ」
言うなり、すぅ、と眠りに落ちてしまった男に、ナシアスは仕方なさそうな微笑を浮かべたのだった。
「──ちょっ! 何で?!」
午前六時。
ようやく解放された、と足取りも軽くバルロのところへ向かったヴァンツァーは、素っ頓狂な声を上げた。
指定した通り、写真もパネルも出来上がっていた。
──しかし。
「こ……こんなの、渡せるわけないだろう?!」
ほらよ、とばかりにバルロが差し出してきたのは、昨年発売された彼のカレンダー用デジタルフォトフレームで。
高級感も感じられる黒い卓上サイズのそれには、しっかりはっきり白字で彼の名前が刻まれていたりする。
「アルバムって言ったじゃないか!」
真っ赤な顔をして声を荒げている声量には定評のあるアーティストに、バルロは煩そうな視線を向けた。
何せ、たった三十分の仮眠以外ほぼ休みを取っていないのだ。
やることはやったのだから、とっとと帰って本格的に寝たいというのが本音である。
「高級アルバムだろうが」
「そうじゃなくて、俺はプリントして」
「デジタルならほぼ劣化しない。どうせ渡すなら、その方がいいだろう」
「……」
「俺からのちょっとしたプレゼント付だ」
「何だよ、それ……」
「健闘を祈るよ──『童帝』陛下」
「バルロ!」
ひらひらと手を振って行ってしまった男の背中を見送り、ヴァンツァーは困惑の表情を浮かべた。
あんなに熱心に画面を見ていたのだから、彼──非常に違和感がある──はきっと喜んでくれるだろう。
しかし、ちょっと無理を言ったからって、何もわざわざこんな恥ずかしい意趣返しをしなくても良いではないか。
「……こんなの渡したら、『どんな自信家だ』って笑われるに決まってる……」
「坊やには、それくらいでちょうどいいと思うけど」
掛けられた声に、ヴァンツァーは振り返った。
ほとんど睡眠らしい睡眠もとっていないだろうに、細身のスーツはくたびれた様子もなく、白皙の美貌には疲労の色の一片すら見えない。
化け物か、と思うほど隙のない男に、ヴァンツァーは思い切り顔を顰めた。
「……あんまりしつこいと、俺も『女王様』って呼びますよ」
「それは楽しいね。──ピンヒールで踏みつけて啼かせてみたくなる」
くいっ、と女にするように顎を持ち上げられ、ヴァンツァーは思い切り眉を吊り上げた。
身長は自分の方が上だというのに、何だろうかこの屈辱感は。
「せっかくの綺麗な顔なのに、隈が酷いな……」
「誰かさんの呼び出しのおかげで、寝ていませんから」
「巧く押し倒せていても、眠れなかったんじゃないかい?」
「──ナシアス!」
揶揄する男の言葉に、思わず声を荒げた。
くすくすと楽しそうに笑った男は、「行くよ」とだけ告げて歩き出した。
否を返す気のない青年は、態度だけはおとなしく、しかしその端麗な容貌にはもったいないほどの仏頂面をぶら下げて付き従ったのである。
シェラもその日は、一睡もしていなかった。
「……っていうか、眠れるわけないし」
だって、「好きだよ」と言われたのだ、「好きだよ」と。
あの美声で、あの美貌と澄んだ青い瞳に見つめられて、「好きだよ」と。
もう、何度だって頭の中で繰り返してしまう。
彼を見送ったあとはしばらくぼーっとしていたシェラだったが、しばらくしてことの重大さに気づいた。
──えええええええええ???!!!
時計を見たら三時間以上経っていて、それにも「──ぅえええええええ???!!!」と驚いた。
それを見ていたビアンカはもっと驚いた。
夢か幻か、と思ったが、彼からもらったオルゴールはちゃんとリビングのテーブルの上にあったし、言葉の抑揚までしっかりと覚えている。
いつもの妄想とはわけが違う。
本物のヴァンツァーが、本物の声で、本当に自分のことを「好きだ」と言ったのだ!
「え、え、え、どどど、どどどどど、どうし、どど、どうし……えええええええ???!!!」
延々そんなことをキッチンやソファの上やベッドの上でやっているうちに、夜が明けてしまったのだ。
朝には帰ってくると言っていたが、その前にこの異様な心拍数をどうにかしないといけない。
どうしよう、どうしよう、と部屋を行ったり来たりしていたシェラは、とりあえず頭を冷やそう、と外に出た。
ちゃんとコートを着て出たものの、
「さむっ!!」
玄関を開けただけで家の中に逆戻りした。
カタカタ震えている身体を抱きしめる。
何だこれ、朝の空気ってこんなに冷たかった……ってか、痛かったっけ?
うわー、頭キンキンしてきた、冷凍庫の中ってこんな感じなんだ、今度アイスとか魚とかしまうときに「頑張れ」って声掛けることにしよう。
そんなことを考えたシェラは、マフラーと手袋を取りに部屋に戻り、再度覚悟を決めて外に出る。
寒いは寒いが、冴えた空気が気持ちよくもある。
外に出たついでにコンビニでおでんでも買おうか、とエレベーターを降りた。
この寒さを癒すには、あたたかい紅茶も良いがやはりおでんだろう、と思うのだ。
そうして、エントランスを出たところでマンションの前に真っ赤な外車が横付けされたことに気づく。
派手だなぁ、と感心していると、助手席から見知った顔が降りてきた──否、正確には、見知った眼鏡と帽子だ。
服装は昨日のまま。
寒さで忘れていたドキドキが蘇る。
もう、全然寒くなんかなくなっていた。
こちらに気づいたらしい青年が軽く会釈をしてきたので、シェラも慌てて会釈を返した。
何やら大きな荷物を抱えた青年は車中には見向きもせずにマンションへ入ろうとしたが、その前に運転席のウィンドウが降りた。
現れた金髪の美青年に、シェラはほわぁ、と口を開けた。
優美な印象の、貴公子然とした美形だ。
金髪の友人は何人もいるが、男の長髪が見苦しく見えないのは滅多にない。
色の薄いサングラスの奥に見える瞳が、何やら蠱惑的だ。
決して女性的ではないけれど、凛としていながらどこか妖艶な雰囲気を持った、大人の男という感じだった。
彼と同じ芸能界の関係者だろうか、と思って思わずじっと見つめてしまった。
その視線に気づいたのか否か。
金髪美人は嫣然と微笑み、そして、
「坊や」
そう呼ばれ、ヴァンツァーは思い切り顔を引き攣らせた。
振り返り、足早に外車へと引き返す。
「……嫌がらせですか」
「さすがに若いね。羨ましい体力だ」
「……何を」
「寝かせなかったのはわたしだが、次に会うときまでにその隈を何とかしなさい」
綺麗な顔が台無しだよ、そう言って、彼はヴァンツァーの唇に掠めるようなキスをした。
「────っ、ナシアス!!」
激怒する声にも涼しい笑みを浮かべた男は、ひらひらと手を振ると、ちらり、とシェラに視線を流して車を出した。
「……何なんだ、あの人は」
忌々しげに吐き捨てたヴァンツァーは、マンションに入ろうと振り返ってはっとした。
「……あ、あの……え、と……今のは、その……」
菫の瞳を真ん丸にして立ち尽くすシェラに、彼はどう弁明すればいいのかまるで見当もつかなかったのである。
枕元で携帯が鳴ったと思ったら、「開けろ」という簡潔な内容だけを告げて電話が切れた。
ふらふらとした足取りでほとんど寝惚けながら玄関の鍵とチェーンを開け、電話の主を自宅に招き入れる。
招き入れられた人物はさっさと踵を返して部屋の奥へと戻ってしまった男に気を悪くした風もなく、勝手知ったる他人の家とばかりに鍵とチェーンを掛け直した。
「来るなら来るって言えよ」
大きなあくびをしながら喋る男は、ダイニングもリビングも通り越して真っ直ぐ寝室へと向かった。
あとをついていく男も、それを咎める様子も不思議がる様子もない。
「たまたま気が向いたんだよ。文句でも?」
「二時間の間に気が変わって、俺はなんてラッキーな男なんだろうなぁ」
全然そんなことは思ってなさそうな平坦な口調でそう言うと、男はごろん、とベッドに横になった。
「わたしを放っておいて寝る気か?」
「せっかくうとうとしかけたところだったんだ」
「チェーンなんて掛けて寝るからいけないんだ。女の子じゃあるまいし。そうすれば勝手に入って来たのに」
「はいはい、俺が悪ぅございました」
「……本当に、可愛くない」
「お前に言われたくないな」
軽口の応酬をしていても既に半分夢の中に入ってしまっている男の横に、上着を脱いで潜り込む。
「……お前なぁ……上着だけじゃなくて下も脱げ。その上等なスーツが皺になるぞ」
「なら寝巻きくらい寄越せ」
「その辺に入ってるスウェットでも、好きに着てろ」
「シルクのパジャマくらい用意しておけ。気の利かない男だな」
「お前がここに着て、服なんか着てたことがあったかよ」
背中を向けて寝る体勢の男の肩を掴んでこちらを向かせる。
「──じゃあ、脱がせてくれ」
端正な容貌を上から見下ろし、形の良い唇を持ち上げると、黒い瞳が呆れた色を浮かべた。
「……お前のその体力はどこから来るんだ」
化け物か、と呟く男に、水色の瞳が悪戯っぽく煌く。
「──『姫始め』と、いこうじゃないか」
「……使い物にならなくても知らんぞ」
「わたし相手に勃たない役立たずなんて、切り落としてやろう」
「……っとに……我が儘だな」
深くため息を吐いて額を押さえる男に、ナシアスはにっこりと微笑んだ。
「────そんな男が好きなくせに」
陽はまだ昇り始めたばかりだった。
「あの……シェラ」
呼びかけると、一瞬はっとした表情を浮かべたシェラはむすっと口を引き結び、踵を返してエントランスホールへと向かった。
慌ててそのあとを追いかける。
「シェラ!」
「朝から大きな声を出さないで下さい」
「……ごめんなさい、あの」
「何ですか」
「誤解です」
「誤解? 何が」
言葉のやり取りをしていても、ちらりともこちらを見ようとしない銀髪の佳人に、ヴァンツァーは困惑の表情を浮かべた──とはいえ、その顔は帽子と眼鏡に大半を隠されていたのだが。
エレベーターに乗り込み、狭い密室にふたりきりになる。
気まずい思いをしているのはヴァンツァーだけなのか、懸命にシェラの顔色を伺おうとしているが、まったく目を合わせてもらえない。
「さっきの……」
「お熱いことで。夏が来たのかと思っちゃいました」
「だからそれは誤解で」
「誤解? 何が誤解なんです? 人前でキスなんてして」
「だからそれは」
「あーやだやだ、芸能人って、皆さんああなんですか。──破廉恥な」
「は、破廉恥って……シェラ!」
何とも情けない、しかし悲鳴のような声を上げてエレベータを降りてズンズン歩いていってしまう背中を呼び止めると、シェラはジロリ、と長身の青年を睥睨した。
「ちょっとでもドキドキした私が馬鹿でした」
ふいっ、と顔を逸らし、自宅の玄関を開ける。
「ビアンカ連れてきますから、待ってて下さい」
「シェラ」
「──ストップ!」
一緒に家の中に入ろうとしたらぴしゃり、と止められ、ヴァンツァーは敷居を跨ごうとしている脚を慌てて外に出した。
「ま、っ、て、て、く、だ、さ、い」
「……はい」
思わずしゅん、として項垂れる。
まるっきり叱られた子犬だ。
やがて黒猫を抱いて連れてきたシェラに、ヴァンツァーはダメ元で話し掛けた。
「あの……シェラ」
「何ですか、色男さん」
「……あ、あの……あんなところ見られて、幻滅されたかも知れないけど」
「別に幻滅なんてしてません。呆れているだけです」
「……誤解なんだ……あれはマネージャーで」
「へー。芸能人って、あんな美人なマネージャーと家の前でキスしたりするんですか」
「違うんだ! あの人、何か今日はふざけてて」
「ふざけてようが真剣だろうが、キスはキスでしょう?」
「違う! 俺はしたくなんてなかった」
「どうだか」
「本当だ! 俺はシェラとしたかったのに!」
告げられた内容と声の大きさに、シェラは思わず目を瞠った。
ヴァンツァーはそんなシェラに構わず、俯き加減でまくし立てた。
「あの人、俺のこと玩具か何かと勘違いしてて……いや、腕はいいんだけど、でも、そういうの差し引いても何か扱い酷くて……まるで子どもで、ぼ……『坊や』とか呼ぶし、やめてくれ、って怒ってるのに、そんな俺の顔見て面白がってるドSで……俺をここまでしてくれたことには感謝してるし、嫌いじゃないけど、でも、恋愛感情とかじゃなくて……だから……」
困った顔をして、一生懸命に弁明しようとしている青年を黙って見ていたシェラだったが、やがて『ぷっ』と吹き出した。
「……え?」
「すぅごい、情けない顔」
「……」
ズン、と一気に重くなった空気と表情に、シェラはくすくすと笑った。
「何か、あのマネージャーさんの気持ち、分かるかも」
不思議そうな顔をする超絶美形のアイドルに、シェラは悪戯っぽく笑って見せた。
「いちいち反応が可愛いから、つい遊びたくなっちゃうんですよねぇ」
「……それって」
「反省、してますか?」
「──あ、はい!」
こくこくと頷いたヴァンツァーを、シェラはちょいちょい、と指で招いた。
少し躊躇った後に玄関に脚を踏み入れたヴァンツァー。
背後でドアが閉まる。
「帽子と眼鏡は外す!」
ビシッ、と言いつけられて、慌てて言われた通りにする。
ひとステージ一万人超、ツアーでは延べ二十万人以上を動員する国内屈指の実力派アーティストとはとても思えない。
まるで普通の青年だ。
「男に二言はないですか?」
「え?」
「今更、『やっぱり冗談でした』とか言っても、ダメですよ?」
「えっと……?」
「ビアンカが証人──証猫です」
「はぁ……」
整いすぎて怖いほどの美貌だというのに、きょとん、と頭ひとつ分下を見下ろしてくる瞳は驚くほど可愛らしい。
そんなヴァンツァーに、シェラは軽く首を傾げて言った。
「──好き?」
私のこと、好き? とそう訊ねてくる少女のような青年に、ヴァンツァーは一瞬目を瞠ったあと、ゆったりと微笑んだ。
「────はい。シェラが、好きです」
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