──坊ちゃま。
──坊ちゃま、起きて下さいませ。
──本日は旦那様が一緒に朝食を、と。
──お忙しい中、坊ちゃまのためにお時間を取って下さったんですよ。
──さぁさぁ、お召し替えを。
──旦那様をお待たせしてはいけませんよ。

「……ぅん……ぃま、……ます」

気持ちよく眠っていたところに複数の人の気配。
慌しい朝の気配に、知らず眉を顰める。
いつもならば多少は目溢しをしてくれる使用人たちも、屋敷の主人がいるときはピリピリとした空気を漂わせている。
厳格のひと言に尽きる主人の前では、一分一秒の遅れ、髪の毛ひと筋ほどの乱れも赦されない。
さして会話のない、無駄に大きなテーブルの端と端に離れた食堂での味気ない朝食。
出される料理が美味しいのか美味しくないのかも、よく分からない。
料理人がいるから味は確かなのかも知れないが、食事は彼にとってただ栄養を摂取するための行為でしかなかった。
食事が終われば父を見送り、私立の学校へ車で送り迎え。
帰ってきてからも家庭教師が入れ替わり立ち代わりするため、外で友達と遊ぶ時間などなかった。
教えられる科目は日によって違い、音楽や美術、運動などの時間もあったが、気持ちが安らぐ時間などなかった。
身体を動かすことは嫌いではなかったけれど、体力作り以上の楽しさを覚えるような余裕はなかった。
ピアノもヴァイオリンも、やらされているという感覚の方が強く、どちらかといえば嫌々やっていた。
もし安らぐ時間があるとすれば、それは眠っている数時間のみ。
だから、彼にとって至福の時間とは、眠っているそのときだけだった。
──それが、いつだっただろうか。
声楽の先生が、キーレンジの広さを褒めてくれたことがあった。
まだ声変わり前のボーイソプラノだった頃。
出来て当たり前、という指導員たちの中で、彼女だけは素直に手を叩いて笑顔を見せてくれた。
だから、それからはその時間が楽しみになったものだ。
変声期を迎えて声はだいぶ低くなったが、それによってキーレンジは更に広くなった。
高音はファルセットを含めればそれまでと変わらず、低音も出るようになったからだ。
褒めてくれるのが嬉しかったから、音楽──とりわけ声楽は他の勉強以上に頑張るようになった。

──それなのに……。

「──辞めた?! どうして?!」
「さぁ、わたくしたちは何も……」

顔を見合わせる使用人たちに、苛立ちが募った。
父に訊いても「他の教師を用意する」と言うばかりで答えにもなっていなかった。
真実を知ったのは、それからだいぶ経ってから。
後任の、音楽教師というには随分と派手な服装をした女から、ベッドの上で聞かされた。

「本当に、お父様譲りの綺麗な顔」
「……」
「あの女も馬鹿ね。旦那様の何が気に入らなかったのかしら?」
「え……?」
「あら、いけない。これは内緒の話だったわ」

その女は、父の愛人のひとりだった。
母はいなかった。
死んだわけではないらしいが、物心ついた頃にはもうその姿はなく、写真なども一切残されていなかった。
代わりとでも言うように、父の周りには常に女の姿があった。
職業柄そういった後ろめたい関係を持つことは憚られるだろうに、特に気にした様子もない。
ただ、メディアに暴露されるような下手は打たず、またそういう関係を吹聴して回るような馬鹿な女を選ばないだけの力と眼は持っているようだったが。
どうやらあの声楽教師は、父を拒んだために解雇されたらしい。
言い知れぬ憤りを感じ、久方ぶりに家に帰った父に詰め寄った。
問い詰める自分を冷たい瞳で見下ろした父は、どこか嘲るような笑みを浮かべた。

「惚れていたのか?」
「なっ! ちがっ──」
「その割には身持ちが悪い。──シャーリーは良かったか?」
「──っ!!」

首筋に残された痕を目聡く見つけた男は、着替えを済ませると息子に告げた。

「十八になったら、お前にも社交場へ出てもらう。お前はこの家の跡取りなのだから」
「……嫌だ」
「お前に拒否権はない」
「っ……──絶対嫌だ!!」

そのまま家を飛び出した。
大嫌いな顔は髪と眼鏡で隠して。
好きな歌を歌って。
友人と呼べる存在も作らせてはもらえなかったから行く場所には困ったが、お金には不自由していなかったからどうにでもなった。
そんなとき、彼に出会ったのだ。
ことあるごとに「世間知らず」と馬鹿にしてきたが、こちらの素性を訊かれたことは一度もなかった。

「わたしにとって価値があるのは、きみの顔と声だ。きみがどこの誰だろうと関係ない」

きっぱりと言い切られた言葉に、どこか安堵した。
姓を名乗るのは嫌だったから、名前だけを告げた。
今では、それが芸名となっている。
歌やダンスのレッスンは、厳しかったけれど嫌ではなかった。
むしろ、好きなことを好きなだけ出来るということが嬉しくてたまらなかった。
拾われて二年余りでデビューが決まり、それからはあっという間の五年間──家に連絡を入れたことは一度もない。
捜索願が出された形跡もないが、当然こちらの存在は知っているのだろう。
それでも呼び戻されないということは、それだけの価値しかないということ。
庶子のふたりや三人いてもおかしくはない父だから、そちらに家を継がせるのかも知れない。
正直、どうでも良かった。
それより、今の自分には必要としてくれる人たちがいる。
それが何より大事だった。

──それに……。

「……シェラ」

好きな人が出来た。
怒ったり笑ったり、赤くなったりびっくりしたり。
とても忙しく表情が変わる可愛い人。
自分よりも年下なのに、料理も家事も何でもこなすしっかり者だ。
食事を美味しいと思ったのなんて、初めてかも知れない。
見た目だけは綺麗で欠点のない、出来上がった料理ばかりを見て育ったから、食材がどうやって調理されるのかも知らなかった。
だから、彼の料理を口にするたびにわくわくしたのだ。
あたたかくて、美味しくて、幸せな気持ちになれる食事の時間が、何よりも楽しみだった。

「シェラ」

女の子みたいな名前で、女の子みたいに綺麗で、でもしっかり者でちょっと気が強くて。
怒らせると怖いけれど、包み込んでくれるようなあたたかい笑顔を浮かべる──母親って、あんな風なのかな、と思ったりする。

「ヴァンツァー」

にっこりと笑って名前を呼ばれると、それだけで幸せだ。

「ヴァンツァー」
「はい」
「ヴァンツァー、起きて」
「うん」
「──ヴァンツァー」

ひと際はっきりと聴こえたその声に、ぱっちりと目を開ける。

「……あ、れ……?」

覚醒しない頭でぼんやりと瞬きを繰り返していると、ぬっ、と影が落ちてきた。

「……シェラ」

長い睫毛に縁取られた菫色の瞳を見つめ返し、ぽつり、と名前を呼んだ。

「起きた?」
「あ……はい」

どうやら、膝枕をしてもらったまま眠ってしまったらしい。
何だか部屋の中が薄暗い。

「今、何時?」
「もうすぐ七時」
「え? ご、ごめん……ずっと膝枕しててくれたの? 脚、痛くない?」

一時間以上経っている。
慌てて起き上がると、天使のような美貌がにっこり笑って「大丈夫だよ」と言ってくれた。

「でも……」
「私は大丈夫なんだけど、そろそろ夕飯の用意をしないとお腹空いちゃうかな、と思って」

ゆっくり眠れた? と訊いてくる天使に、「うん」と頷きを返した。

「それなら良かった」
「……」

昔の夢を見ていたからか、やさしい笑顔にたまらない気持ちになって、ヴァンツァーはシェラを抱きしめた。

「ヴァンツァー?」
「……あのね」
「うん」
「もうひとつ、お願い」
「うん。なぁに?」

顔を見られないように抱きしめたまま、ヴァンツァーはちいさな声で呟いた。

「──……ハンバーグと、オムライス」

が食べたい、と言ってくる国内屈指の歌唱力を誇るアーティストに、シェラは「可愛いなぁ、もう」と返したのだった。


ちょっと遅めの夕食を摂っているとき、季節外れの台風はやってきた。
鳴らされるインターフォンに玄関へと向かったシェラは、ドアスコープの向こうにいる人物──正確には人物『たち』に一瞬頭が真っ白になった。
そして、「シェラ~?」と呼ぶ声がドアを隔てた外から聞こえてきても、『どうしよう、どうしよう、どうしよう』とあわあわしていた。
開けて~、とコンコンドアを叩いてくる兄に、痺れを切らした母が「何ならわたしが」と力づくでドアをこじ開けようとするに至ってようやくシェラは鍵を開けたのだった。

「ど、どどど、どどど、どうしたの? 皆揃って……」

冷や汗をだらだら流しながらそんなことを訊いてくる娘──もとい、息子に、真っ赤な髪をした大柄な女性は言ったものだ。

「どうしたの、じゃない。お前が帰って来られないというから、わたしたちが来ただけだ」
「だけ、って……来るなら来るって言ってくれれば良かったのに」
「迷惑だったか?」
「そんなことあるわけないでしょう? でも、うちには四人眠れるほどお布団ないし……」
「何を言っているんだ。積もる話があるんだから、寝かせるわけがないだろう?」
「……」

心底不思議そうな顔をして酒瓶を渡してきた母に、シェラは乾いた笑いを浮かべて「でーすーよーねー」と呟いた。
とりあえず、とばかりに新年の挨拶を済ませた紅一点──色々な意味でそうは見えない──は、「それより」とシェラに訊ねた。

「お前の男はどこにいるんだ?」
「──はい?!」
「いるんだろう? 彼氏が」
「あの……」
「男が出来たんでもなけりゃ、お前が帰って来ないわけないからな」

父までにやにやと笑っていて、シェラはどうしたものかと思った。

「──シェラ? どうかしたの?」

タイミングの悪さにかけては定評のある男がダイニングからやってきたので、シェラは内心で「来ちゃダメ~~~~!」と叫んだのだが、時既に遅し。

「おーおー。きみか!」

ずかずか、と部屋の中に入ってくる赤毛の女性に、ヴァンツァーは戸惑いの表情を向けた。

「……あ、あの……?」
「息子が世話になっているな」
「息子……──あ、シェラの」
「母のジャスミンだ。よろしくな」
「あ、はい。こちらこそ」

ぺこり、と頭を下げて手を差し出すと、ものすごい力で握り返されてびっくりしてしまったヴァンツァーだ。
だって、シェラの母親だという女性は自分と同じくらい身長がある上に、凄まじい握力をしているのだ。
何か格闘技でもやっているのだろうか、と思いつつ、シェラが見た目に反して力持ちなのはこの母親の影響なのかも知れない、とも思ったりした。

「へぇ。結構タッパあるじゃねぇか。──いくつだ?」
「あ……百八十八です」
「細く見えるが、鍛えてるな」
「えぇ、まぁ……」

やはり自分よりも背の高い、それもかなりの美男子に握手を求められ、こちらの握力にもびっくりした。

「……シェラの、お父さんですか」
「あっはっは」
「……」

突然笑い出されてびっくりしてしまったヴァンツァーだ。

「おい、『お父さん』だってよ」
「何も間違ってないだろうが」
「いや、だってよ。こりゃあもう、義理の息子宣言ってことだろう?」
「──え?」
「あぁ、そうなんじゃないか? なぁ、青年」
「え……? あ、あの……?」
「しかしあれだな。きみはその長い前髪は何とかならんのか?」

ぬっ、と伸びてきた女性にしては逞しい腕にヴァンツァーは固まり、シェラは思わず「あああああああっ!!」と声を上げた。
ジャスミンは動きを止めて背後を振り返り、「何だ?」と訊ねた。

「あ、あの……お腹、空いてない?」
「ペコペコだ。走り通しだったからな」
「運転してきたのは俺じゃねぇか」
「座っているだけでも体力は消耗するんだぞ」
「──え、車で来たの?!」

びっくりするシェラに、「呆れちゃうでしょう?」と声を掛けるのは優美な美貌の青年。
一瞬女性かとも思ったが、こちらもかなり長身であったし、身体の線は女性のそれではなかった。
芸能界でもちょっと見ないくらいの、どこか秘密めいた雰囲気の美青年だ。

「飛行機のチケット取るのが面倒だから、って車にしちゃうんだから」
「……電車でも良かったんじゃ」
「休みの日でもないと運転出来ないから、したかったんだって。シェラから連絡もらってすぐに出てきたけど、やっぱり結構かかるね」
「……そりゃそうだよ……」

呆れるやら感心するやらで忙しかったシェラだが、呆然として動けないでいるヴァンツァーに気づいてとりあえず皆をダイニングへ通すことにした。

「──改めて。父のケリー、母のジャスミン、兄のルーファスです……」

向かい側に座る三人を紹介され、ペコリと頭を下げる。

「こちらは……」

名前を言ってしまってもいいものか、と隣を確認したシェラの視線を受けて、ヴァンツァーは自ら名乗った。

「……ヴァンツァーです。ヴァンツァー……ファロット」

告げられた名前に、シェラは内心で驚いていた。
初めて、この青年のFamily nameを耳にしたからだ。

「ヴァンツァーか。うん、いい響きだな」
「……ありがとうございます」

ぺこり、と頭を下げる青年に、ジャスミンは「しかし」と少し眉を寄せた。

「やはり、その髪はいただけんな。目が余計に悪くなるぞ」
「あ……はい、すみません……」

髪を上げようとするヴァンツァーに、シェラは「いいよ」と言って袖を引いた。
両親や兄が知っているかどうかはともかくとして、彼は有名人なのだ。
何か差し障りがあってはいけない。

「……大丈夫」

その手をそっと外して微笑すると、ヴァンツァーは髪を上げて眼鏡も外した。
露わになる美貌に、向かいの席にいた三人は揃って目を丸くした。

「うわぁ、いい男」
「相変わらず面食いだな、シェラ」
「何で顔を見せないんだ。もったいない」

この反応からして、三人はヴァンツァーのことを知らないらしい、と判断してほっとしたシェラだった。
そういえば、あまりに多忙で娯楽に分類されるメディアには非常に疎い家族だったことを思い出す。
映画すら、年に一度見るか見ないかだった。
そんな家族の中で育ったから、シェラも大学に入るまでは流行りの歌すら知らなかったのだ。

「ごめんなさい。これ、伊達眼鏡で……あまり、好きじゃないんです……この顔」
「贅沢な悩みだ」
「女の子にモテたくて死にそうになってる男の子たちに聞かれたら、殺されそうな台詞だね」
「だが、きみの顔はどこかで見たことがあるな……」

しげしげ、と穴が開きそうなほどに見つめられたヴァンツァーは、苦笑しながら居心地悪そうにちょっと身を引いた。

「職業は?」
「……ミュージシャン、です」
「ほう。そうすると、収入は不安定なんじゃないか?」
「まぁ……」
「お母さん! 失礼だよ!」

不安定どころか、チャートは常に上位にランクイン、テレビやCMも数多くこなしているから、こんな賃貸マンションに住んでいることの方が不思議なくらいの収入はあるはずだ。

「大事なことだぞ、シェラ。お前の幸せな結婚生活がかかってるんだからな」
「もう! ヴァンツァーとはそんなんじゃないの! それに私は男で」
「──え? 違うの?」

男どうしで結婚もないでしょう、と言おうとしたシェラだったが、びっくりしたような声が隣から上がったのでつられてびっくりしてしまった。

「……え?」
「あ……ごめ……俺、てっきりシェラも俺のこと好きなんだと……」
「え? あ、いや、好きだけど」
「あ、え、でも今『そんなんじゃない』って……」
「え、だって、別に結婚とか、そんなんじゃ」
「あ……そうか」

ようやく、この国では同性どうしの結婚が認められていないことに気づいたらしい。
どこか落ち込んだ様子の美青年に、シェラはただただ驚くばかりだった。

「えっと……ヴァンツァーは、そういうのも……考えてた、の……?」
「ん? あ、いや……結婚っていうのは違うかも知れないけど……」

どう表現していいのか分からない、といった感じの表情になった青年に、ジャスミンがズバリ訊いてみた。

「きみは、シェラを幸せにする自信はあるのか?」
「ちょ、お母さん!」

何を言い出すんだ、と顔を真っ赤にしたシェラは、ちらり、と隣を盗み見た。
口を噤んでいた青年は、やがてぽつり、と呟いた。

「シェラを、幸せに……する自信は、ありません」

それはそうだろう、と思いつつも、分かりきっていたはずの答えにシェラの胸は痛んだ。
遠い人なのだ。
たまたま隣の部屋になっただけ。
本来、出会うはずもなかったのだから。
だから、未来を望んではいけない。
それは、自分自身も先ほど口にした通りだ。

「──でも」

俯いたシェラの耳に、否定の言葉が届く。

「シェラといると、俺はすごく幸せなんです」
「……」
「だから、シェラが飽きるまで、一緒にいてくれたらなぁ、って思います」

あまりにも穏やかな顔でそんなことを言うから、ジャスミンたちは目を真ん丸にし、シェラはちいさく吹き出した。

「……ぷっ。ヴァンツァーらしい」
「そう? っていうか、どうして笑うの?」
「天然」
「……皆して俺のことそうやって馬鹿にする……」
「馬鹿になんてしてないよ。可愛いなぁ、って思っただけ」
「嬉しくないよ……」
「えー? 私は可愛いヴァンツァー好きだよ?」
「……」
「──あ、そうか。『ヴァンツァーは俺の嫁』だ。そうかそうか、こういうときに使うのか。よしよし、うちにお嫁においで」
「……」

ポン、と納得顔で手を叩いたシェラを見てへらっ、と情けない顔で笑う男前に、ケリーたちは顔を見合わせた。
そうして、声を揃えたのである。

「「「──これが、今流行りの『草食系』か」」」

まぁ、シェラがいいならそれでいい、と納得した酒豪三人に可愛がられることになったヴァンツァーは、この後意識がなくなるほど飲まされたのだった。


休暇はあっという間に終わり、ヴァンツァーはまた帰宅が不規則な生活に戻ることとなった。
シェラの冬休みはもう少しあったわけだが、それも終わって講義が始まった。
とはいえ、来週、一月末から二月の頭にかけて期末試験が行われ、それが終わればまた二ヶ月近くの長い休みがやってくる。
それまで辛抱、辛抱、と本日も四限までの講義をどうにか寝ないで帰宅したシェラに、嬉しいプレゼントが届いていた。

「~~~~~~~~~~っ!!!!」

ポストに入っていたそれを目にするなり、あまりの衝撃に叫ぶことさえ出来ず、ぷるぷると震える手でそれを握り締め、飛び跳ねたり転げ回ったり無意味に腿上げをしたりしたい衝動と戦っていたシェラだったが、自宅に帰り着くと叫びたいとき恒例の寝室へ猛ダッシュした。
そうして、枕に顔を埋めると「にゃあああぁぁぁあぁぁぁっ!!!! あーたったあぁぁぁあぁぁああぁぁあっ!!!!」と力の限り叫んだのであった。
ちょっと落ち着いたところでもう一度握り締めていたハガキに目を遣る。
間違いない。
年末に応募しておいた、音楽番組の公開収録入場券だ。
時期的にも、期末試験が終わってからだから何の問題もない。
ほわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ、と瞳をこれ以上ないくらいに輝かせたシェラは、ベッドの上でゴロゴロしながらハガキを見つめ続けていた。
もちろん、目当てはヴァンツァーだ。
彼以外にも十数組のアーティストが出演し、数週に渡って放送される番組の収録なのだが、場所が規模の小さな──とはいえ二~三千人は収容出来るが──ホールなので、当たるかどうか不安だったのだ。

「……うわぁ……またヴァンツァーの歌が生で聴けるよぅ……」

既に感涙にむせびそうになっているシェラだった。
いくら隣に本物がいるとはいえ、プライヴェートのヴァンツァーと仕事中のヴァンツァーではこれが同じ人間か、と思うくらいに違うのだ。
そらもう、びっくりするくらい違うのだ。
家にいるときの可愛いヴァンツァーも好きだが、やはりステージ上の超絶かっこいいヴァンツァーだって大好きなのだ。

「うわぁ……何歌うんだろう? 新曲かなぁ……どんな曲だろう……かっこいい系かな、可愛い系かな」

そういえば、そういった曲に関する話はしたことがなかった。
もちろん、ミュージシャンの命とも言える楽曲に関しては、おいそれと話など出来ないのだろうし、その方が次にどんな曲が生まれるのか楽しみも増えるというもの。
自分は音楽に関しては何の役にも立たないし、いちファンとして彼を応援し、見守ることが何よりの貢献だとも思う。

「どんな曲だって、クオリティ高いに決まってるもんね」

ふふふ、と笑ってハガキにキスをすると、リビングに飾ってあるあのデジタルフォトフレームの横に置いた。
と、ソファの上に投げ出していた携帯が振動する。

「──あっ」

受信したメールを開けば、そこには噂のアーティストの名前。
『今日のお姫様』と題されたメールには、黒猫のお姫様が首輪をつけている姿が添付されていた。
赤いバンドに赤いリボンがつけられているそれには、鈴の代わりなのかビアンカの瞳と同じ金色の石が留められていた。
黒い被毛によく映えるそれは、シェラが採掘した琥珀だった。
ヴァンツァーが、自分がもらった琥珀を首輪につけたいと言い出したので、どうせなら、とビアンカの瞳によく似た金色の琥珀をあげることにしたのだ。
ワイヤーを細工したもので琥珀を包んでいるのだが、我ながら白眉の出来だ。

『 琥珀、ありがとう。
お姫様もゴキゲンです。
今までは首輪するの嫌がってたのに、 「もらってあげてもいいわよ」って言ってます(笑) 』

そんな風に書かれた文面に思わず笑みが零れる。

『 気に入ってもらえて何よりです。
可愛い女の子にプレゼントを贈るのは、
男の務めですから(^^)v 』

そんな風に他愛ないやりとりをするようになった。
一応、『恋人』の部類に入るのだろうか。
もちろん、内緒の関係なのだけれど。
ヴァンツァーの事務所では、何人か知っている人がいるらしい。
反対されたりしないのか、と訊けば、嘘か本当か「『スキャンダルを起こしてこい』って煩いくらいなんだ」と笑っていた。
それでも、現在絶賛売出し中のアーティストで人気商売だから、大っぴらには出来ないのだけれど。

「……それでもいいんだ。幸せだもん」

ふふっ、と笑ったシェラは、夕飯の用意をしながら「もしデート出来たら~」と想像を膨らませていたのだった。




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