指定された場所は、五つ星ホテルのスイート。
お忍びということで極力人目を避けるため、ヴァンツァーはナシアスとふたりでその場所へ向かった。
SPを部屋に待機させながら我が家のように寛いだ表情をしているその人は、まさに『女王』であった。
早朝だというのに完璧に化粧し、上品なスーツに身を包んだ彼女は内側から輝くように美しかった。
今まで顔を合わせてきた女優や歌手とは、その身から発される威圧感にも似た存在感からして違った。
活躍の場が実力主義の国だということもあるのだろう。
とうに不惑を数えているはずのその人は、二十代だと言われても納得してしまうような肌の艶と力強い瞳をしていた。
凛とした空気に、『世界』とはこういうものなのか、と納得させられるとともに、彼女と仕事をすることが出来る栄誉を与えられたことに身体が震えた。
それも、この女王自ら指名してくれた、という話だ。
あのナシアスが最優先でスケジュールを組む理由の一端が見えた気がした。

「はじめまして、ミズ・ブレッド。お会い出来て光栄です」

優雅な仕草で立ち上がった彼女は、差し出された手を握り返すとちいさく笑った。
不思議そうな顔をしているヴァンツァーに、一国の首相にも匹敵するほど多忙だと言われる大女優は悪戯っぽい笑みを浮かべて言った。

「ジンジャーでいいわ、──坊や」
「……」

耳を心地良くくすぐるような声での挨拶だったが、さすがにむっとしたヴァンツァーだ。
確かに自分の方がずっと年下で、芸暦も浅い。
彼女にとっては赤ん坊のようなものかも知れないが、これから一緒に仕事をしようという人間に対して『坊や』はないだろう。
わざわざ読み取るまでもなく表情にありありと表れていた感情に、大女優はころころと鈴が転がるような声で笑った。

「そういう嫌そうな顔をすると、やっぱりあの人に似ているわね」
「……ミズ・ブレッド……?」
「ジンジャーでいいのよ」

それとも、と続けられた言葉に、ヴァンツァーもナシアスも絶句した。

ジンジャー・ブレッドとの仕事は、彼女の名声とも相俟って映画の公開やCDの発売に先駆けて話題騒然となった。
ただでさえ分刻みで動いていたスケジュールの中に、国内のマスコミ各局のインタヴューや記者会見はもとより、海外メディアまで加わってカメラに追われる日々。
いくら若くて精力的に仕事をこなしているヴァンツァーだとて、気の休まる暇がない。

「忙しそうだね……疲れてる」

心配そうな顔になって頬を包み込んでくる天使に、「平気だよ」と返した。
華奢な手を取って指先に口づける。
それでもまだ不安そうな顔をしているから、もう一度「大丈夫だよ」と言って細い身体を懐深く抱き込んだ。
こうして一緒に眠るようになって、何度目の夜だろう。
シェラが起きている時間に帰宅出来るときは、必ずどちらかの家で一緒に眠ることにしていた。
互いの部屋の鍵も交換してある。
何をせずとも、ただ傍にいるだけで心が安らぐ。
こんな風に大切に思える相手が現れるなんて、想像もしていなかった。
心のどこかで、父のようにはなりたくない、幸せな家庭を作るんだ、と思ってはいても、それがどういうものなのか分からなかったのだ。
『愛しい』と思う気持ちすら、一生分からないままなのか、と怖くなった日もあった。
けれど、今は違う。
こんなにも可愛くて、大切な人がいる。

「ごめんね」
「え……?」
「オフ、なかなかもらえなくて……どこにも連れていってあげられない」

申し訳なさそうな顔をする多忙なアーティストに、シェラはくすっと笑って首を振った。

「こうして一緒にいられれば、幸せだから」

きゅっと抱きつくと、仰向けになったヴァンツァーの胸の上に乗せるようにして抱きしめられた。

「……重いよ?」
「幸せの重み」

そんなことを言って笑うから、シェラも笑みを浮かべてちいさなキスをした。

「……あったかい」
「うん」
「とくん、とくん、って……いってる」

胸に耳を押し当てて心音を聴いていたら、視界が反転した。
仰向けにされ、妖艶な美貌に天井が隠される。
間接照明だけの薄暗い部屋でも、どれだけ綺麗な男の人なのかが分かる。
近づいてくる美貌に、そっと瞼を閉じた。
啄ばむようだったキスがだんだんと深くなってきて、こくん、と喉を鳴らして唾液を飲み込む。
唇が離れたときには少し息が上がっていて、身体が疼いていることをありありと感じた。
男どうしでこんなことを、という戸惑いはほんの少しあったけれど、背徳感は最初からなかった。
だって、好きな人に触れたいと思うのは、当たり前のことだ。
本当は、いつだって触れていたい。

「……ダメだよ。明日も、早いんでしょう?」
「うん……でも、欲しい」
「……」
「もっと、シェラに触れていたい」

でも、と開きかけた口は塞がれてしまった。
お互いに、だいぶ慣れた行為。
手探りだった初めてのときは辛さの方が勝っていたが、今ではそれぞれの感じる場所もよく分かっている。
若い肉体はすぐに熱くなり、ただ互いを感じることだけに没頭する。
零れる吐息に部屋の湿度が上がり、衣擦れの音に煽られる。

「……声、聴かせて」

痺れるような甘い声が、脳まで犯そうとする。
いやいや、と頭を振れば、カリッ、と耳を噛まれて涙が零れた。
耳はやめて、と言っているのに、残酷なまでに美しい笑みを浮かべて、そこばかりを執拗に攻め立てる。
甘えるような声が鼻に抜け、咄嗟に息を殺して唇を噛んだ。

「ダメだよ。切れちゃうから」

ちゅっ、と宥めるように額にキスをされて、指先で口を開かされる。
口を閉じようとすれば、指を噛んでしまう。
思わず、きゅっと眉を寄せて見下ろしてくる美貌を見つめ返した。
最近ちょっと、意地悪になった。
初めてのときは「大丈夫? 辛くない?」と何度も訊いてくれた。
やめて、と言えばやめてくれた。
そう言うと近頃は決まって、「だって、好きなんだろう?」と聞く耳を持たない。
どこでそんな台詞を覚えてきたのか。
もちろん、本当に嫌がればやめてくれるのだけれど。

「……ぁ、め……」

苦しい、と潤んだ菫色の瞳が訴えてくるのに笑みを返して耳朶に唇を押し付け、そのままささやく。

「シェラのイイところ、教えて」
「……────っ!」

声にならない声を上げて、大きく背中が反る。
抑えつけているわけではなく、感じすぎて声が出せない。
おかしくなる、と指を押し出すように舌を動かして懸命に喋る姿は淫らなのに清冽で、ぽろぽろと零れる涙を啜れば、ほぅ、と浅い吐息が漏れる。
極めたところでようやく口内を蹂躙していた指が抜かれ、深く息を吸うことが出来た。

「苦しかった?」
「……そ、ぉ……言った」

呼吸をするのも苦しかったけれど、拗ねたように唇を尖らせれば「ごめん」と呟いて鼻の頭や頬にキスが降る。

「だってシェラが可愛いから」
「……いつもそればっかり」
「本当だもん」

子どものように綺麗に笑う顔はいつものヴァンツァーで、少しほっとする。

「……もう、おしまい」
「えー」
「可愛い顔しても、だぁめ。寝ぼすけなんだから」

きゅっと鼻を摘んでやると、「みー」っと痛がるフリをする。
じゃあ、じゃあ、とヴァンツァーはひとつ提案をした。

「今度休みがもらえたら、一日中いちゃいちゃしてくれる?」
「……」
「だったら今日は我慢する」

最大限の譲歩だ、とでも言わんばかりの表情に、ひどい頭痛を覚えたシェラだった。
ついさっきまでこちらを完全に手玉に取って翻弄していた超絶美形の色男はどこへ行った、と嘆くばかりである。
おかしいだろう。
同一人物なんだぞ、これが。
四つも年上で、何万人というファンがいて、数ヶ月に一度しか休みがもらえなくて、それでも最高のパフォーマンスをして見せる、アーティストなのだ。
そんなことを考えながら目の前にある美貌をじっと見つめる。
これ以上ない、というくらいに整っている造りなのに、表情はあどけない。
高校生の男の子だと言われても納得してしまうくらいだ。
年齢よりもずっと幼い青年は、焦れたのか「返事」と催促し出した。

「はいはい」
「……何か嫌そう」
「あまりの残念さにびっくりしてるだけです」
「……残念って言うな」
「だってもう、仔犬みたいで」
「……『仔』は余計だよ」
「犬はいいんだ」
「だってシェラ、犬とか猫とか好きだろう? 俺もビアンカみたいに可愛がってもらいたい」
「……」

真剣な顔をしてそんなことを言うから、しばらく呆然としてしまった。
そうして、ベッドの上で腹を抱えて大笑いした。

「何で笑うの?」
「だ、だって……可愛いって言うと、怒るくせに」

ひーっ、ひーっ、と肩を震わせている、見た目は天使だけれど意外と男前な恋人に、ヴァンツァーは唇を尖らせた。

「可愛がられるのはいいの。可愛いって言われるのは嫌なの」
「我が儘だなぁ」
「アイドルだもん」
「──ぷっ!」
「あっ! また笑った!」

ほんの少し前までの色っぽい雰囲気など雲の彼方。
裸のまま、ベッドの上でじゃれ合う。
腹筋が痙攣を起こすのではないか、というくらい大笑いしたシェラだったが、やがてどうにか笑いを抑えると目元の涙を拭って言った。

「お休み取れたらね」
「──いいの?」
「うん。いつも頑張ってるご褒美」
「やった! ありがとう、俺頑張る!!」

ぎゅっと抱きしめてくる腕の強さに、自然と笑みが浮かぶ。
本当は、わざわざ『ご褒美』だなんて言う必要はないのだ。
いくらでもあげる。
自分があげられるものなら何だって。
それ以上のものを彼は生み出し、楽しくて幸せな気持ちにさせてくれるのだから。

「ヴァンツァー」
「うん?」
「──大好き」

ちゅっ、と向かい合わせになって顎先にキスをする。

「うん」

すると、笑みを深めた美貌が近づいて額にキスをくれる。
たったそれだけのやり取りが、この上もなく幸せ。

「俺も。大好きだよ」

誰よりも。
世界でひとりだけ。
他に何もいらない、とは言えないし、言ってはいけないのだけれど、それでもシェラを愛せたことがこんなにも幸せだ。
だから、この幸福が少しでもシェラに伝わるように、ぎゅっと抱きしめた。

「……俺なんかを好きになってくれて、ありがとう」

ほんの少し、声が震える。
歌っているときは、どんなに身体を動かしていてもそんなことはあり得ないのに。
ステージに立っているときは、自分の身体でコントロール出来ないところなど何ひとつとしてない。
けれど、シェラの前だとダメだ。
もっとかっこいいところを見せたいのに。
案の定、横になったまま抱きしめた身体が小刻みに震えている。

「ふふっ。甘えん坊」
「……違うよ」
「かーわいーんだー」
「俺はかっこいいの」
「ステージの上ではね」
「……普段の俺がダメダメみたいじゃないか」
「ダメじゃないよ、可愛いだけ」
「……」
「いいじゃん。普段頑張ってるんだから、可愛く甘えたっていいと思うよ?」
「……」

ちょっと考える顔つきになったヴァンツァーは、おずおずと訊ねた。

「……頑張ってない俺は、何も出来ない、いいところなんてひとつもない、ダメダメな男かも知れないよ?」
「生まれてきたことに意味のない人間なんていないんだよ」
「……」
「──って、うちの母が私を女装させるために言ったことなんだけどね。私、ちいさい頃は女の子に間違えられるこの顔があんまり好きじゃなくて。そうしたら、母たちが『わたしたちはシェラが可愛いと嬉しいからそれでいいんだ』って」
「……」
「それを聞いて、『あ、そっか。それでいいんだ』って思ったんだ。だから、ヴァンツァーもそれでいいんじゃないかな? 少なくとも、私はヴァンツァーが甘えてくれると嬉しいな」
「……」
「こんなに可愛くなるのは私の前だけなのかな~、とか思うと、すごい嬉しくなるんだよ」

へへっ、とはにかむシェラを、ヴァンツァーはもう一度抱きしめた。
ちょっと息苦しいくらいの抱擁にも、シェラは相手の身体をそっと抱き返した。

「今度のお休みには、思う存分いちゃいちゃしようね」
「……うん」

でもとりあえず、とヴァンツァーはにっこり笑った。

「今から一緒にお風呂入ろうね」

シェラはくすっ、と笑って「りょーかーい」と答えた。


「──恋人はいるの?」

分刻みのスケジュールの中、どうやってこの国まで来たのか。
アカデミー賞など嫌というほど受賞している大女優は、レコーディングを終えたヴァンツァーに賞賛の拍手を送ると唐突にそう切り出した。

「……どうしてですか?」
「あの人の息子だったら奥手なわけがないと思うんだけど、遊んでそうな感じもしないし」

少女のように肩をすくめる銀幕の大スターに、ヴァンツァーは軽くため息を零して「いますよ」と答えた。

「そう。──じゃあ別れなさい」
「──は?」
「その子と別れて、アメリカへいらっしゃい」
「……何の話ですか……?」
「言った通りよ。あなたは、あっちで成功するすべてを持っている。ルックスも、歌唱力も、ダンスパフォーマンスも──それから、わたしという強力なコネクションも」
「……」
「いくらこの国で売れてたって、対象はたかが一億人。わたしと一緒に来れば、その十倍の人間があなたを見るようになる」

ただの事実だ、という風に淡々と話す女優に、ヴァンツァーははっきりと眉を顰めた。

「それと、恋人と別れることと、どういう関係が?」
「こっちでは、ニュースにもなってないみたいだけど」
「発表してませんから。相手にも迷惑がかかる」
「相手は一般人?」
「だとしたら?」
「おやめなさい。話題にもならないわ」
「……」

この綺麗な顔をした人が大先輩で、また女性でなかったら殴っていたかも知れない。
所詮、この人もあの男と一緒か、と思うと、身体中の血液を抜き取ってしまいたくなる。

「何の権限があって、あなたはそんなことを言っているんですか?」
「あら。子どもの幸せを願わない親はいなくってよ?」
「──ふざけるな」

あまりにも身勝手な言い分に、我慢ならなくなった。
普段関係者から天然だのおっとりだの言われているが、さして気長でないことは自分が一番よく知っている。
むしろ、癇癪は起こしやすい方だと言ってもいい。

「……あなたのことは尊敬していました。妥協を許さない仕事への情熱に、目標としていた部分もあります。それはきっと、これからも変わらない」

ひた、と相手の菫色の瞳を見つめる。
恋焦がれている人の瞳とはまた違ったその色彩を睨むように見つめ、きっぱりと言い切った。

「──でも、人としては最低だ」

それだけ告げるとスタジオを後にした。
色めき立つスタッフのことなど知らない。
相手が世界の大女優だから何だというのだ。
自分にとって人間の価値基準は、尊敬出来るか出来ないか。
地位も名誉も関係ない。

「ミスタ・ジャンペール」

ジンジャーは傍らで控えていた金髪の青年に声をかけた。
ナシアスは、面白がるような瞳で「はい」と応えた。

「何でしょう、ミズ・ブレッド」
「あの子は、いつもあんな風なのかしら?」

困った子だわ、とでもいうように頬に手を充てる大女優に、金髪の麗人はくすくすと笑った。

「可愛い顔をして、意外と短気ですよ」
「嫌だわ、誰に似たのかしら」

そこは賢明に口を閉ざしていたナシアスである。

「あなたはどう思う?」
「はい?」
「あの子を世界に通用するミュージシャンにしてみたいと思わない?」
「願ってもないチャンスですね。この国はどうしたって市場も狭いですし、その分サバイバル感覚が鈍くなる」
「でしょう? それなのにあの子ったら……あなたは、あの子の恋人を知っているの?」
「えぇ。可愛い子ですよ。しっかりしているし、芸能人と付き合っているからといって舞い上がるようなこともない。いい子ですよ」
「そう……別れてくれるかしら?」

じっとジンジャーの瞳の奥を覗くようにして目を合わせるナシアス。 そうして、ゆっくりと口を開いた。

「……そちらから、攻略する気ですか?」
「だって、あの子きっと頑固ですもの。一度決めたら梃子でも動かないわよ」

可愛らしく唇を尖らせる様子に、ナシアスはため息を吐いた。
所属タレントたちの恋愛事情には、極力口を出さないのが事務所の方針だ。
公序良俗に反するようなことがない限り、大目に見るようにしている。
そうでなければ、彼らの士気にも関わってくる。
プライヴェートが充実していない人間が、仕事など出来るわけもないのだから。

「どうしても、別れさせる必要があるんですか?」
「──帰る場所があったら、どうしたって甘えが出るもの」
「……」
「向こうはそんなに甘くないわ」
「支えになってくれる存在かも知れない」
「生ぬるいこの国の芸能界なら、ちょっと顔が綺麗でそこそこ歌えれば売れるんでしょうけどね」
「……これは手厳しい」
「事実よ。向こうでは、この国の歌手や役者なんかより遥かに才能のある子たちが、機会に恵まれずに芽を出せないでいることが当たり前なのよ。あの子はすべてを持っている。それなのにたかが恋人の存在があるからというだけでそれを利用しないなんて、甘やかしすぎなんじゃないかしら?」

ナシアスに比べたらずっと華奢な女性だというのに、その威圧感たるや半端なものではない。
実力主義の世界で、二十年以上トップを走っているだけのことはある。

「とにかく、わたしはあの子を連れて帰るわ」
「ミズ・ブレッド」
「恋愛はいくつになっても出来るの。でも、この世界での成功はタイミングを逃したら絶対に手に入らない」
「……」
「あの子の声は、この狭い国で埋もれさせるにはもったいないわ。違う?」

世界進出は、ナシアスとて視野に入れていなかったわけではない。
しかし、それはまだ先のこととして予定していた。
各国でイヴェントライヴを行って、その反応を見てからでも遅くはない、と。

「分かりました」

軽く肩をすくめたナシアスは、年齢不詳の大女優に告げた。

「その代わり、最終的には本人に『Yes 』と言わせて下さいね」

とばっちりを喰らうのはごめんですから、と嘆くフリをする男に、ジンジャーは『にたり』と音がしそうな笑みを浮かべたのである。




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