──ズダンッ!!

壁に強か背中を打ちつけ、息が詰まった。
口の中に鉄の味が広がる。
歯は折れていないようだが、顔は腫れるに違いない。

「っ……きみと違って顔で商売しているわけではないが、傷がつくと泣く男がたくさんいるんだがね」
「知ったことか」

吐き捨てるような台詞。
頭上から見下ろしてくる藍色に、マズいな、と内心嘆息した。
眼鏡や髪で隠されていない生来の美貌に、冷徹なまでの怒りが宿っている。
こういう表情をすると、ぞくり、とくるほどの、官能的なまでの美貌の主だったのだと気づかされる。
しかし、普段が普段だ。
まさか、出会い頭いきなり殴られるとは思っていなかった。
事務所の廊下とはいえ、他に人の姿はない。
格闘技の類は習得していないがトレーニングを積んだ二十代の肉体に、スタミナには自信があるとはいえ三十代が敵うわけがない。
誰か通るまで何とか会話を成立させておかないと、冗談ではなく命に関わるかも知れない。
無理やりに笑みを作ったら、ズキン、と左頬に痛みが走った。
しばらくは、まともにものが食べられないだろう。
こんな風に人から殴られるのは何年ぶりだろう、と思い、ちいさく嗤った。

「殴られる理由くらい、聞いてもいいだろう?」
「本気で言ってるのか?」

嘲るような口調。
一度だって、こんな表情は見たことがない。
商売柄人を見る眼には自信があったのだが、こんな猛禽が隠れていたとは思いもよらなかった──まぁ、かの大女優の血を分けた男が気弱なわけがないのだが。
それを知ったのは最近であったし、本人も知らなかったのだからナシアスに分かろうはずもなかったのかも知れない。
それでも、この青年のこんな表情を、『見たくない』と思う自分がいることだけは確かだ。

──だから、本人に頷かせるように言ったのに……。

怠慢な大女優様だ、とため息を零す。

「わたしが何をしたと?」

壁に背中を預けるようにして身を起こして息を吸えば、骨が軋んで咳が零れた。
頭がふらつく。
身構える暇もなく殴られたのだから、脳震盪を起こさなかっただけマシなのかも知れない。
相手が誰であろうと弱みなど見せる気のない男は、脚に力を入れるとゆっくりと顔を上げた。

「……信用、してた」
「ヴァンツァー?」
「口は悪いし、態度はデカいし、鬼みたいなスケジュール組むけど……きっと俺の一番の理解者はあなたなんだって……社長でも、レティーでも、他の誰でもなくてあなたなんだって、思ってた……」
「……」
「……────やっと、……見つけたのに……」

震える声に、ナシアスは殴られた痛みも忘れて目を瞠った。

ある日、シェラのもとに宅急便が届いた。
差出人は、『ジンジャー・ブレッド』。
シェラはくすっと笑った。

「どこのジンジャーさんですかぁ~」

大国の大女優と同じ名前だ。
もちろん、さして音楽や映画に詳しくないシェラだとて彼女の名前と主演作品くらいはいくつか知っている。
ちょっと怪しいな、と思いはしたが、箱を開けてみた。
随分軽い荷物だな、と思っていたが、入っていたのは封筒とビデオテープ。
封筒の中身は手紙のようで、内容は『ビデオを見て』といった感じのことが書いてある。
ますます怪しい。

「えー……何だろう。見たらやたら高額な費用が請求されるえっちぃ映像とかかなぁ……」

全然興味ないぞ、と思いはしたが、それとは別のところで好奇心が働く。
大女優を名乗る人物がどんなものを送ってきたのか、見たくなるのは人情というものだ。

──けれど、見るべきではなかった。

見なければ、もしかしたらずっと幸せな日々が続いていたかも知れない。
何も知らず、何も考えず、ただ好きな人と一緒に暮らしていられたのかも。

「…………っ」

声も出せず、食い入るように画面を見つめていたシェラは、歪む視界に己が涙していることを知った。

『 急だけど、明日の仕事夕方からになったんだ。
今日、ちょっと遅くなるかも知れないけど、行ってもいい? 』

どれくらいぼんやりとしていただろう。
涙は渇き、電気もつけない暗い部屋の中で蹲っていた。
他の人とは変えてあるメールの受信音がリビングに鳴り響き、自分でも笑ってしまうくらいに大きく身体が震えた。
見ようかどうしようか迷ったけれど、結局メールを開いた。
文面を見たら、また涙が溢れてきた。
携帯を投げ出し、ソファに突っ伏す。
頭の中に、次々と楽しかった思い出が蘇る。
もう、あんな風に笑い合うことなど出来ないのだろうか。
一緒にいるだけで幸せで、楽しくて、やさしい気持ちになれる日々。

──……奪うなら、最初から与えないで。

そうすれば、こんな苦しさも、切なさも、知らないで済んだ。
人を好きになる喜びも知らなかったかも知れないけれど、でもこんなに胸が痛くなることはなかった。
しばらく返信を渋っていたシェラだったが、いい機会なのかも知れない。
最初から、住む世界の違う人だなんてことは分かっていた。
それでもこうして出会い、心を通い合わせることが出来た奇跡。
何に感謝をすればいいのか分からなかったけれど、もう、それだけで満足した方がいいのだ。
欲張りになって、結ばれるはずのない人との幸福を願ったりしたから、取り上げられてしまうのだ。

『 うん、待ってる 』

それだけの文面を打つ間も、涙が止まらなくて画面が見えなかった。
震える手で、何度も文章を打ち直した。
結局送ったのはあれだけ。
顔を合わせないメールでは、余計なことまで書いてしまいそうだったから。
だから、極端に短いメールになってしまった。
いつもなら労いの言葉とか、夕飯のメニューとか、たくさん、たくさん書くのに。
変に思われるかも知れないけれど、どうせ、顔を合わせればすぐに終わるのだ。
終わらせなければならない。
もう、十分夢を見させてもらったのだから。

「……笑ってバイバイ、しなきゃ」

無理やり笑みを作ろうとして失敗し、涙腺が決壊したかのように溢れてくるものを我慢出来ず、声を上げて泣いた。
顔を洗っても、濡れタオルで冷やしても引かない瞼の腫れに、帰ってきたヴァンツァーは驚いた顔をしていた。

「どうしたの……?」

心配そうな顔で見つめられて、また涙が溢れた。

「──シェラ?」

伸ばされた手を逆に掴んで、押し返した。

「……シェラ?」

怪訝そうな声音に、俯いたままシェラは告げた。

「……今まで、ありがとう」
「シェラ? 何言って」
「すごく、楽しかった。ヴァンツァーと一緒にいられて、幸せだった」
「シェラ、ちょっと待って」
「これからも、ずっと応援してる」
「ちょっと待ってって! 何言ってるの?!」

肩を掴まれ、その力強い腕に決心が鈍りそうになる。

「……っ」

だって、好きなのだ。
誰よりも、大好きなのだ。
かっこいいところも、可愛いところも、おっちょこちょいなところも、やさしいところも、全部好き。

「……大好き」

泣き顔は見られたくなかったけれど、ちゃんと伝えたい。

「ずっと、大好きだよ……」

──だから、アメリカへ行っても……どこへ行っても、応援してるから。

「……行ってらっしゃい」

『さよなら』なんて、言えるわけがないのだから。


ようやく人を愛せたのに、どうして、と呟かれた台詞に頬よりもずっと胸が痛み、「あぁ、そうか」と納得した。

──……わたしは、この子のことが好きなんだな。

もちろん恋愛感情ではない。
だが、この子の信頼を裏切りたくない、と思う程度には、気に入っているらしい。
らしくもないが、何もかも誤算だらけだ。
初めて見た。
この子が泣く姿を。
睡眠時間を削ってスケジュールを組んでも泣き言ひとつ言わずについてきて、口では文句を言っても仕事となれば切り替えてみせる。
年齢の割りに子どもっぽいところはあるけれど、逆に『No 』を言わない──言ってはいけないと思っている節があるというのは分かっていた。
出会った頃も思春期特有の不安定さは見え隠れしていたが、それでも辛いとか苦しいとか辞めたいとか、そんなことは一度も言ったことがない。
いつだって、どんな仕事だって楽しそうにしていた。
これが天職だ、とでも言うように、全身でそれを訴えるように仕事をしていた。

「今まで、反対なんてしてこなかったじゃないか……この前のデートだって、『年相応に楽しむのも、たまにはいいだろう』って」
「……」
「何で、今になって……」

流れる涙はそのまま、奥歯を噛み、拳を握る。

「……やり方が汚い。何で、俺に言わないでシェラに」
「……」
「仕事の邪魔になるとでも言ったのか? 俺が仕事を疎かにしているとでも? スキャンダルが怖いとか?」
「ヴァンツァー、わたしは」
「シェラに訊いても、何も答えてくれない。それが俺のためだ、って……そればっかりだ」
「……」
「何だよ、俺のためって。誰が決めたんだ、そんなこと」
「……わたしも、きみのためだと思っているよ」
「ナシアス!」

ほんの少しでも口を開くたびにズキズキと痛みが走るが、そんなことはどうでも良かった。
こんな怪我など、数日もすれば治るのだから。
だが、ジンジャーの言う通り、この世界で成功するために必要なのは、実力よりも運よりも、何よりもまずタイミングなのだ。

「ヴァンツァー、聞きなさい」

諭すような口調に、子ども扱いされたと思ったのか美貌が顰められる。
構わずにナシアスは言葉を続けた。

「この話を持ってきたのは、ジンジャーだ」
「……──まさか、あの人が、シェラに……?」
「わたしもあの子にどんな話をしたのかは聞かされていないがね。彼女はきみの才能を高く買っている」
「それは俺の問題だろう? どうしてシェラに」
「聞け、と言っている」
「……」
「世界に女王として君臨する人が、親子の情だけでこんな申し出をするとはわたしは思わない」
「……」
「肉親の情に囚われて曇る程度の眼なのか、と、彼女自身が謗られる可能性すらある。だから、彼女はきみをひとりのアーティストとして見ている。その上で、一緒に仕事をしたいと望み、今はきみの成長と成功に力を貸すとまで言ってくれている。これがどれほど幸運なことか、分かるかい?」
「……感謝しろとでも?」
「違う。──利用しろ、と言っているんだ」
「──……ナシアス?」

目を瞠る青年に、若干様変わりした美貌のマネージャーは不敵な笑みを浮かべた。

「ジンジャーも、そう思っている。自分を踏み台にして、昇れるところまで昇れ、と」
「……まさか……そんなの、あの人には何のメリットも」
「きみだけでなく、彼女は才能のある子たちに活躍の場を与えようとしている。趣味だ、と彼女は言っていたが、もしかしたら罪滅ぼしなのかも知れない」
「え……?」
「これはわたしの推測だけどね。子どもの成長を近くで見守ることが出来なかった彼女なりの、贖罪なんじゃないか、とわたしは思う」
「……」
「彼女の手を取るも取らないも、きみ次第だ。だが、きみの存在は以前から知っていたであろう彼女が『今だ』と言うなら、わたしはそれが最善なのだと思うよ。これはほとんど第六感だ。彼女の、成功者としての直感が、そう告げている。だとすれば、その手を取るのは『いつか』ではなく、『今』なんだ」
「……」

黙り込んでしまったヴァンツァーだったが、軽く伏せられたその瞳には先ほどまでの強烈な怒りや激情は宿っていない。
落ち着いて、物事を見極めようとしている眼だ。
ほっと息を吐いたナシアスである。
この状態ならば、どのような答えをこの青年が出そうと、自分はそれを尊重する。
行かない、と言うなら、それはそれでいいと思っている。
もったいないとは思うが、強い意志もないのに成功するほど、この世界は甘くない。

「……結局、俺ひとりが子どもなんですね」
「彼女は『女王』の他に『魔女』のふたつ名でも呼ばれるくらいだからね。きみみたいなひよっ子が敵うわけがない」
「俺がこんなだから……何の力もないから、シェラを傷つけた」

泣いていた。
好きだ、と。
ずっと好きだ、と言って、泣いていた。
あんなに胸が苦しかったことなんてない。
嫌いになったわけじゃない。
お互いに想い合っているのに、どうして離れなければいけないのか。
この国でも出来ることはたくさんある。
まだ、始まったばかりなのだ。
この国で、シェラの傍で、走ることだって出来る。

──でも、きっと自分はもっと高い場所へ行きたくなる。

勝手に動かれて腹が立った。
何の相談もなしに、置き去りにされたようにお膳立てだけが進み、一番大切な人まで泣かせた。

──……それでも、自分の力を試したいという気持ちは確かにある。

納得出来なかったのは、自分の意見を無視して話が進められたこと。
それは、自分がその高みにいないからだ。
話し合いに参加させてもらえるだけの、力がないから。

「──だったら……」

次に顔を上げたヴァンツァーの瞳には、確固たる意志があった。
ナシアスでさえ、その眼光に射抜かれ、瞬きも出来なくなったほどに強い力。
そう、この真っ直ぐな瞳。
もったいない、と思ったのだ。
まず声に惹かれ、脚を止めた。
人前で歌うことには慣れていない、どこか『いい子ちゃん』な印象の歌。
そこから抜け出したくて、もがいている声音。
だが、声の通りとキーレンジの広さは抜群で、面白い素材だと思った。
近寄って邪魔な前髪を上げ、その美貌に驚いた。
不思議そうに見上げてくる藍色の瞳は突然の出来事に驚いてはいたけれど怯えはなく、頼りなくはあったけれど何より真っ直ぐだった。
こんな馬鹿正直に真っ直ぐなまなざしをしている人間が、この世の中にどれほどいるだろう。
もしこの瞳のまま、歪むことなく真っ直ぐに成長したら──そう思って、連れていく気になったのだ。
ヴァンツァーはその真っ直ぐな意志を持った瞳で告げた。

「だったら、──誰も手が出せないくらい、上に行く」
「……」
「世界なんか、ただの通過点だ」

きっぱりと言い切られた台詞に、ナシアスはゆっくりとその美貌に笑みを刻んだ。

──さぁ、まずは世界を取りに行こう。


顔を合わせるのは正直辛かったけれど、それでもヴァンツァーは何度かシェラの家へ赴き、一緒に食事をした。
どちらかといえばシェラの方がさっぱりとしていて、笑顔で迎え入れてくれることが寂しくもあった。
さすがに一緒に眠ることはないけれど、今までのように食後にリビングでお茶を飲むくらいの時間は設けてくれた。

「シェラ」
「なに?」
「もし……嫌じゃなかったらなんだけど」

言葉を濁すヴァンツァーに、シェラは軽く首を傾げた。
腕の中にいるビアンカの喉をくすぐってやれば、ゴロゴロと気持ち良さそうに喉を鳴らす。

「……ビアンカ、もらってくれる?」
「──え?」
「連れていくことも出来るけど、飛行機はやっぱりリスクもあるし」

もちろん、無理にとは言わないけれど、と呟いてビアンカに向けられた瞳がやさしくて、だからこそ、シェラは頷いた。

「大事にします」
「ぷっ。何かお嫁にもらうみたいだね」
「『お嬢さんをぼくに下さい』って?」

冗談めかすシェラに、ヴァンツァーは明るく笑った。

「──……大丈夫だから。安心して行ってきて?」

そんな風に言って綺麗に微笑んでくれるから、たまらない気持ちになった。
心が震えるというのは、きっとこういうことを言うのだろう。

「……シェラ」
「うん?」
「……最後に……キス、してもいい?」
「……」
「おまじない。向こうでも頑張れるように」

迷ったけれど、シェラはちいさく頷いた。
ありがとう、と言って、軽く触れるだけのキスに、涙が零れた。
ヴァンツァーは華奢な身体を抱き寄せ、ささやくように言葉をかけた。

「……今まで、本当にありがとう。シェラを愛せて……幸せでした」

自分の幸福は、ここで終わり。
短い時間ではあったけれど、間違いなく、今までの人生で最高に幸福だった時間だと言い切れる。
もしまた逢うことが出来るなら、そのときは笑って。
今は、声が震えるのを堪えることが精一杯だけれど、そのときは。

「……行ってらっしゃい、ヴァンツァー」
「行ってきます。シェラ」

──あなたの笑顔が、見られるように。

「アメリカへ拠点を移すんだって?」

この国最後の音楽番組の収録が終わり、スタジオの廊下を歩いていたとき、そう声を掛けられた。
三十を超えてなお若々しい美貌と肉体、卓越した演技力で国内外から名優として評価の高い俳優だ。

「はい」
「そうか。じゃあ、また来年から『抱かれたい男No.1』に返り咲きかな」

このアスティン・ウェラーという男は、ヴァンツァーがNo.1になる以前は十年連続で選ばれ続け、殿堂入りを果たしている。
その美貌と長身もさることながら、モデル出身で服装にも細やかに気を使う彼は今でも若い女性たちからの支持が篤い。

「そんな嫌そうな顔をする人には、初めて会いました」
「当然だね。僕には何の価値もないランキングだ」

軽く肩をすくめた洒落者の男は、爪の先まで整えられた長い指でヴァンツァーの顎を取った。

「きみがその評価をくれるのであれば、喜んで受け取るけれど?」
「ナシアスから、あなただけはやめるように言われています」

唐突に出された名前に、アスティンは目を丸くし、次いで苦笑した。

「まったく……あの女王様のつれないことときたら……」
「どこが良くて口説いたんです?」

悪い意味ではなく、単純な興味本位としてヴァンツァーは訊ねた。

「うん? だって美人だろう?」
「そうですね」
「美人を見たら、口説かないと失礼じゃないか」
「……」

にっこりと微笑む美貌の男に、ヴァンツァーは目を真ん丸にした。
そうして、何か信じられないものを見るような顔つきになって再度訊ねた。

「……性格が破綻していても?」
「僕は、破綻というほど悪いとは思わないけどね」
「鬼ですよ、鬼」
「ははっ。それはきみのことを気に入っているからだよ」
「……はい?」
「よく言うだろう? 『好きな子ほど苛めたい』って。同じことさ」
「……何か、ものすごく屈折してませんか?」
「そこがまた可愛い」
「……」

何だか頭痛がしてきて額を押さえたヴァンツァーに、アスティンはくすくすと笑って言った。

「冗談はさておき、彼は相手のルックスでも性格でもなく、才能に恋をするんだよ」
「だったら、あなたも申し分ないでしょう?」
「そこが難しくてね。彼は完成したもの、しかかっているものに興味はないのさ」
「……」
「発育途上──それも、生まれたての雛鳥を見ているのが好きなんだよ。僕も、あと十年早く彼に出会っていれば、違っていたかも知れないけれどね」

残念そうに肩をすくめてはいるけれど、さほど深刻な口調ではない。

「きみの方こそ、『抱かれたい男No.1』の割には、浮いた噂を聞かないね?」
「……フラれました」
「ほぅ?」
「アメリカ行って、もっと大きくなって来いって」

まだ胸は痛むけれど、それを隠すことなく苦笑するヴァンツァーに、アスティンは微笑した。

「あぁ、じゃあちゃんと言ってあげたんだろうね?」
「何を、ですか?」
「嫌だな。決まってるじゃないか」

成熟した男の色気をこれでもか、というくらいに振り撒いて歩いている男は、唇に指を当てて言った。

「お前の方から『抱いて下さい』って言いたくなる男になって帰ってくるよ、ってさ」


出発の日までは、すぐだった。
既に組まれていたスケジュールをこなし、アメリカでの生活や仕事のことはすべてジンジャーサイドとナシアスに任せた。

「きみが決めたことなら、応援するがね」

そうは言いつつも「ふぅ」とため息を零すのは、端整な容貌に整えられた髭も魅力的な壮年の男。
芸能プロダクション『タウ』の社長であるジルだ。

「──まったく。あなたという人は、意外と往生際が悪いですね」

呆れたように腕組みをするナシアスに、ちょっとばかり恨めしげな視線を向ける。
そうすると、その精悍な顔立ちの細面に、どこか少年のような可愛さが宿る。

「そうは言うが、ナシアス。わたしは完全に除け者じゃないか」
「当たり前じゃありませんか。この子はわたしが拾ってきたんですから」
「所属アーティストから『半年後に全米進出が決まりました』と言われた責任者の無念など、お前には分からんのだろうな」
「手加減なしで殴られたわたしの痛みも、あなたには分からないでしょうけど」

むむむ、と拗ねたように睨んでくる黒い瞳に、ナシアスはツン、と顎を反らしてやった。

「……お前は、わたしに対して特別に険があるな」
「わたしの誘いを断る変人なんて、あなたくらいのものですよ」
「姑が恐ろしくてね。おちおち浮気などしておれんよ」
「──よく言いますよ。幼な妻をもらってデレデレと鼻の下を伸ばしているくせに」
「そんなことは」
「あります。年齢なんて、半分以下じゃありませんか。あなたがヴァンツァーくらいの年の頃に生まれたんですよ?」
「……それを言ってくれるな」

まだまだ未成年の少女と結婚したことに対して、多少の負い目はあるらしい。
苦笑する貴族的な容貌の男に、ナシアスはどこか勝ち誇ったような笑みを浮かべた。

「──まぁ、わたしたちが帰ってくるまでに捨てられていることのないように」
「出来るだけ早く帰ってきてくれ」

わざとらしくため息を零す責任者に、ナシアスは今までの雰囲気とは打って変わってくすくすと笑った。
あんな会話をしているが、このふたりはいわば戦友のようなもので、お互いの能力というものに絶大の信頼を置いている。
だからこそ、ジルはヴァンツァーの渡米を許可し、ナシアスは安心して事務所を空けられるのである。

「──では、行ってきます」
「あぁ。きみたちの活躍に、期待しているよ」
「必ず応えますよ──この子は」

そうだろう? と訊ねるナシアスに、ヴァンツァーは力強く頷いた。

空港には、報道陣はもとより、ファンも詰め掛けていた。
配置された警備員を押し退けんばかりの勢いだ。
元からざわついていたロビーだったが、ヴァンツァーが現れたとき、ざわめきは怒号のような歓声に変わった。
今日は顔を隠しておらず、スーツに身を包んでいる。
手を振り、名前を呼んでくるファンに応えるように薄く笑み、時折手を振り返していたヴァンツァー。
彼の視線がファンを見ているようでいてそうでないというのに気づいたのは、きっと金髪のマネージャーとその横を歩くカメラマンだけだっただろう。
何かを探すように彷徨っていた視線がある一点を凝視し、ほんの一瞬だけ脚が止まった。
胸の前で手を握るその人に見せるように、自分も胸に手を当てた。

今は服の下に隠された太陽の欠片。

彼の大好きな紅茶と同じ色をしたそれに、

──再会のときを、約束した。




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