~ 三年後 ~

三年の月日は、長いようでいてあっという間で──やっぱり、長かった。
画面の中で活躍するヴァンツァーとは対照的に、シェラは何だかぼんやりと毎日を過ごしていた。
引っ越すことも出来ず、今もあのマンションで暮らしている。
空室だった隣の部屋に若い男が越してきたのは、いつだったろうか。
バンド活動をしているのだ、というその男に、「頑張って下さいね」と愛想笑いを浮かべたことは、何となく覚えている。
就職活動も積極的にはしていなかった自分に、まさか助手の話が来るとは露ほども思っていなかった。
さして優秀な学生でもなかったのになぜ、と問うた自分に、どこかぼんやりとした印象のある黒髪の教授は言った。

「毎回一番前の席で瞳をきらきらさせていたきみと話すのは、楽しいだろうと思ってね」

研究者という健康なイメージのない変わり者集団の中でも、特にものぐさなことで有名な教授だ。
けれどその能力は抜群で、大好きな歴史の話をするときに子どものような瞳になるのが可愛らしい人だった。
山のような文献に埋もれて、あーでもない、こーでもないと議論を戦わせつつ、シェラの作ってきたお菓子で午後のティータイムを過ごしては転寝をする。
そんな毎日が、とても楽しかった。
彼が院生と結婚をすることになった、と聞いたときは心の底から嬉しくて──ほんの少し、寂しかった。
次の春に卒業したら結婚するのだという。
とても、お似合いのふたりだ。

「先生にはもったいないくらいの美人ですね」と言ったら、「わたしもそう思うよ」と苦笑するのがおかしくて、お腹を抱えて笑った。
是非、結婚式には招待して欲しい、と言ったら、快諾してくれた。

──幸せになって欲しいなぁ。

それは、心からの本音だ。
葉が、紅く染まっていく季節。
だいぶ肌寒さを感じるようになってきて、ぼんやりと空を見上げた。
皆、それぞれの道を行く。
自分は、どこへ行こうとしているのだろう。
と、軽くため息を吐きながら歩いていたら、校門前が何やらざわついているのに気づいた。
何だろう? と首を傾げて鞄を肩に掛け直したシェラは、人垣の向こうに黒塗りの車をみとめた。
そうして、そこに軽く寄りかかっている長身に息を呑んだ。
思わず、脚を止めた。
艶やかな黒髪に、真っ白いスーツ。
サングラスで顔を隠していても、その圧倒的なまでの存在感は到底隠せない。
ぴたり、と歩みを止めたシェラに、周囲から浮き上がって見える男が顔を向けた。
口許にだけ笑みを刻み、す、とサングラスに手を伸ばす。

──まずい。

ただそれだけを念頭に、シェラはその男に向かって駆け寄った。

「久し振り」

サングラスを外すことはやめたらしい男の、艶を増した低い声に背中が震えた。
いくら聴いても聴き慣れることも、聴き飽きることもない、──聴きたくて仕方なかった声。

「……っ」
「シェラ?」

込み上げてくるものがあったが、その感情に浸るには周囲のざわめきが大きすぎる。
たとえ彼の正体が分かっていなかったとしても、大学構内にこの出で立ちは目立つなという方が無理だ。
目に力を入れ、ごくり、と呑み込むことで零れそうになるものを何とか堪え、シェラは男の身体をぐいっ、と押した。

「車、乗って」
「──え?」
「いいから乗る!」
「……──はい」

思わず、といった感じで頷いた男はシェラに運転席に押し込められた。
シェラ自身も助手席に乗り込むと、「出して」と言った。
無言で従った男によって、ブラックメタリックの車体は夕暮れの街路を走り出した。
そこから約二十分間、マンションに着くまでふたりはほとんど無言だった。
駐車場に車を留めると、男は助手席に回ってドアを開けた。
ちら、と見上げたシェラだったが、軽くため息を吐いて車を降りた。

「……おめでとう」
「──え?」

ぽつり、と呟かれた言葉に、男はようやくサングラスを外した。
画面の中では何度も見た──しかし、生身では三年振りに見る懐かしい藍色に、自然と胸が熱くなる。

「今朝……全米、一位」
「あぁ、見てくれたんだ」

にっこりと微笑む美貌。
同じ笑顔のようでいて、そこに孕まれる精悍さを増した色気に思わず目を逸らした。

──遠い、人だ。

そんな風に思うのは、きっとおかしい。
もともと、彼は芸能人、自分はただの大学生。
住む世界が違う。
たまたま友人に連れられて行ったライヴで彼のファンになって、偶然部屋が隣で、──ほんの短い間、一緒に時を過ごした。
それだけ。

「……」

眩しくて直視出来ないでいるシェラの横で、男は後部座席のドアを開けた。

「ありがとう」

そうして、両手にいっぱいの真っ赤な薔薇の花束を差し出した。
きょとん、としてしまったシェラだ。
全米──ひいては世界一を取ったアーティストに花を渡すのは、どちらかといえば自分の役目のはずだ。

「……なに、これ?」
「迎えに来た」

薄く微笑む美貌に、シェラはちょっと考える顔つきになったが、やがて納得した。

「あぁ、そうか……行こう」
「シェラ?」

花束を受け取りもせずにエレベーターホールへ向かうシェラに、不思議そうな声が掛けられる。
振り返りもせずにエレベーターを呼び、ふたりで乗り込む。
六階までの僅かな時間も、シェラにとっては狭い空間にふたりきり、という緊張を強いられるものだった。
玄関の鍵を開け、家の中に一歩入ったところで、肩越しに「ちょっと待ってて」と呟く。
花束を抱えたまま目をぱちくりさせている男はそのまま、部屋の中から黒猫を連れてきた。

「はい」

最初に会った頃は手のひらに乗るくらいだった仔猫も、今ではしなやかな肢体を持つ成猫になった。
相変わらずきょとん、とした顔をしている怖いくらいの美青年はなんだか以前のままの彼のようで、シェラは苦笑した。

「ビアンカのお迎えに来たんでしょう? でも、いくら女の子のお迎えだって言っても、白いスーツで真っ赤な薔薇はちょっと気障かもよ?」
「……」
「ヴァンツァー?」
「…………………………………………ぷっ」

いきなり腹を抱えて壁にもたれ、大笑いし出したスーパースター。
長身を軽く曲げて笑う姿も文句なくかっこいいが、シェラは困惑の表情を向けた。

「……ヴァンツァー?」

ビアンカを抱いたまま首を傾げるシェラにひとしきり笑いを向けると、ヴァンツァーは目許の笑みを深めた。
その笑みの奥の瞳の強さに、背筋が伸びた。
今、世界中の女性を騒がせている美貌。
それが、目の前にある。
じっと見つめられる居心地の悪さに視線を逸らせば、「そうだね」と呟く声。

「でも……」

ふわり、と身体の周りに熱が増える。
軽く腕を回すようにして抱きしめられたのだ、と頭で理解するまでに、結構な時間を要した。

「──両方」
「え……?」
「両方。ビアンカと、──シェラを、迎えに来たんだ」
「……」

抱きかかえたビアンカごと抱きしめられたシェラは、ぱちぱち、と瞬きした。
よく分かりません、と菫色の瞳は雄弁に語っていて、ヴァンツァーは更におかしそうな顔になった。

「それとも、もう恋人がいるのかな?」
「……」

うん? と訊ねてくる藍色の瞳に、シェラは少し眉を寄せた。

「──『いる』、って言ったら……どうするの?」

怒っているような、それでいて戸惑っているような顔になったシェラに、ヴァンツァーは無邪気とも取れる笑みを向けた。

「うん────別れたらいいと思うよ」

きっぱりと言い切られた言葉に、シェラは絶句した。
本当にしばらく口が利けなくなった。
顔と身体は文句なしなのに生活能力皆無で、声は良いのに口を開けば途端に弱気になる。
ステージに立っているときはMCでも何でも楽しそうにこなすのに、トーク番組は苦手ときている。
シェラの知っている『ヴァンツァー』は、そういう男だった。

「……え?」
「そいつと別れて、俺にしなよ」
「……」

三年前よりずっと精悍な顔になったというのに、真っ直ぐに見下ろしてくる瞳だけは少年のようで、シェラが頷くと信じて疑わない表情でそんなことを言う。

「……何か、性格変わった」

思わず呟けば、ちいさく吹き出す。

「まぁ、あっちは欲しいと思ったものは力づくでも取りに行かないと、とてもじゃないけど生き残れないから」
「……」
「どうしてもそいつがいい、って言うなら、──うん、いいよ」
「え?」
「しばらくそいつに預けておく──ちょっとの間だけね。でも、すぐにもっといい男になって、絶対シェラの方から『抱いて下さい』って言わせるから」
「──なっ?!」

菫の瞳を瞠って真っ赤になるシェラに、あはは、と笑う。
その間もずっと抱きしめられたままで、すぐ近くにある美貌を直視出来なくて目を逸らした。
頬だけでなく首も、彼に触れられている身体も全部熱くて、何だかそれが悔しくて顔を顰める。

「そうか……彼氏、いるんだ」

返事がないのを肯定と取ったのか、そう呟き、シェラの頬に手を這わせる。
なぜ『彼氏』に限定するんだ、と言おうとして、真っ直ぐに見つめてくる藍色に何も言えなくなった。

「そうだよな……もともと可愛かったけど、今は……もっとずっと綺麗になった」
「……」
「男が放っておかないよな」
「……」
「──……何か、悔しいな」

軽くため息を吐き、ほんの少し拗ねたような口調になる男に、僅かに首を傾げる。

「……ヴァンツァー……?」
「やっぱり俺にしなよ」
「……」
「そいつがどんなヤツか分からないけど、俺の方がシェラのこと好きだもん」

二十七にもなって語尾に『もん』とかつける男もどうかと思うのだが、そんなことよりもその自信はどこから湧いて出てくるのか知りたかった。
これが、『世界一』というものなのか、と妙な納得をしてしまったりする。

──なー

と、今まで大人しくしていたビアンカがシェラの腕の中で鳴き出した。
そこでようやくシェラから身体を離したヴァンツァーは、くすくすと笑って黒猫の額を撫でてやった。

「こっち来るか?」

──んなー

もぞもぞと動き始めた黒猫の脇に手を入れて受け取った男は、金色の瞳も美しいお姫様に顔を寄せた。

「ビアンカは、俺の方がいいと思うよな?」

──んなー、んなー

「だろう? お前からもシェラに言ってやってくれよ」

そんなことを言って、ちらっと上目遣いになる。

「……」

頭ひとつ分近く背が高いくせに、年上のくせに、スーパースターのくせに。
そんな可愛い顔するなんて、反則だ。

「で? 返事は?」
「……」
「シェラ?」

むぅ、と口を尖らせるシェラに、余裕たっぷりの笑みを浮かべた男は腕の中の黒猫をやさしく撫でている。
その仕草が、まるで『お前はどうするんだ』と言っているようで面白くない。
大きな手のあたたかさもやさしさも、──力強さも、自分は知っている。
それが、今、猫に占領されてしまっているのだ。
むぅぅぅぅ、とますます渋面になるシェラを前に、ヴァンツァーはビアンカに話しかけた。

「あー、残念だなぁ。ビアンカは、ちゃんと『おかえり』してくれたのにな」

──なーぉ

「三年間、すごい頑張ったんだけどなぁ」

──んなーぉう

同意するように目を細めて鳴くビアンカ。
そんなこと、知ってる。
だって、ずっと見ていた。
実力主義、弱肉強食の世界で生き残るだけではなく、トップを取るということは生半可なことではなかったに違いない。
顔も身体も引き締まり、服越しに感じる肉体の強靭さはこの国にいた頃とは比較にならない。
もちろんこちらでもトレーニングを怠っているわけではなかったのだろうが、それだけ周囲から求められるもののレヴェルが高くなったのだろう。
もともと『完璧主義』を公言して憚らなかった男は、更にストイックになって帰ってきた。

──そう、帰ってきたのだ。

「……金髪美人と、浮気してたんでしょ」
「金髪美人なマネージャーが怖くて、誰も近寄って来なかったよ」
「…………ホントは、私のことなんか、忘れちゃってたくせに」
「シェラのことばっかり考えてた」
「………………そ、そういうこと、皆に言ってたんでしょ」
「本当だよ。トップになったら帰る、って約束したから」
「──え?」
「最初から決めてたんだ。だから、ナシアスとジンジャーに、とりあえずこの国でトップになったらシェラを迎えに行くからって言ったんだ。あのふたりを納得させるには、世界一くらい取らないと」

だから、三年間必死で、それこそ死に物狂いで走り続けたのだ、と言う。
証拠だ、と言わんばかりに、首にかけていた琥珀を服の中から出してみせる。
ちゅっ、とそこに口づける。

「毎日こうやって。早く、逢いたかったから……シェラに、逢いたかったから」

世界を魅了し続けている声で、そんなことを言う。
自分が『かっこいい』と、『スーパースターなのだ』と知っているくせに、ちょっと困ったように笑って見せる。

「ほら、早く」
「……」
「シェラ」

呼ばれる名前の甘さに、勝手に顔が熱くなる。
誰が呼ぶのでも同じ名前のはずなのに、ヴァンツァーだけ違う。
この声に呼ばれると、胸がぎゅっとなるのだ。
痛くて、苦しくて、──でも、幸福で。
ずっとずっと、この声で呼ばれたかった。

「……り」
「聴こえない」
「……おかえり」
「うん。それから?」
「……なに、それから、って」

唇を尖らせ、上目遣いに恨めしそうな顔をするシェラに、ヴァンツァーはにっこりと微笑んでみせた。

「俺に、して欲しいことがあるんじゃないの?」

言われた途端、ぽんっ、と湯気が出るほどシェラの顔が真っ赤になった。
もじもじ、そわそわ、あたふたし出したシェラを見て、ヴァンツァーは声には出さず喉を鳴らして笑った。

「言わないならしない」
「……」
「それとも、別にいらないのかな」
「…………いる」
「じゃあ、何て言うの?」

子どもをあやすような口調に、腹が立つ。
ステージから降りたら、画面から一歩離れたら、途端に子どもっぽくなってたのはヴァンツァーだったのに。
何なんだ、その上から目線は。
生意気だ、ヴァンツァーなのに。

「ほーら」
「……」
「聴こえない」
「……て」
「聴こえません」
「……」
「──アメリカ帰っちゃおうかなぁ」
「──やだ!」

反射的に顔を上げた先には、にやり、と意地悪な笑みを浮かべる美貌。
自信家になった上に意地まで悪くなった男に、シェラはきゅっと眉を顰めて唇を尖らせた。
しばらくじっと睨めっこを続けていたが、「ほら」とばかりに眉を上げられてシェラは大きく息を吸った。

「~~~~~~~~~~~~~っ、キ、……わ、私にもして!」

半ば自棄になって叫んだシェラに、ヴァンツァーは満ち足りた笑みを浮かべた。

「はい────ただいま……」

ビアンカを片手に抱いたまま、軽くシェラの顎に指を添える。
吸い上げるように唇を食むと、ビアンカは居心地抜群の腕の中からぴょん、と飛び降りた。
それに軽く目線を流して礼を言えば、『あとでたっぷり缶詰で返してもらうわ』とばかりに部屋の奥へと行ってしまった。
空いた腕でシェラの腰を抱き、もう一度唇を啄ばむ。

「……前は、こんないやらしいキスしなかった」
「そう?」
「やっぱり可愛い女の子と遊んでたんだ」
「やきもち?」
「──違う!」
「可愛いなぁ」
「なっ──んっ、ぅ……」

怒ろうとしたらぐいっ、と腰を引き寄せられ、重なる唇から舌が滑り込んできた。
ぞくっとするその感覚に、シェラは思わず逞しい身体を押し返した。
それでも腕の力は緩むことなく、余計に背中と腰を支える手に力が込められた。
ぎゅっと目を瞑って暴れようとするシェラなど知らぬ風に、薄い舌を吸い上げ、時に歯を立てる。
そのたびにびくっ、と反応するのが可愛くて、つい意地悪をしたくなる。
逃げる舌の脇や裏側をくすぐるように舐め、綺麗に整った歯列をなぞり、こくり、と唾液を飲み込む喉を指で辿る。
そこに軽く爪を立ててやると、ひと際大きく身体が跳ね、鼻に抜ける甘い声を上げた。
ちゅっ、と音をさせて唇を吸い、紅く熟れたそこを舐めた。
潤んで揺れる紫水晶に、ヤバいなぁ、と呟く。
不思議そうな顔で小首を傾げるシェラに、耳打ちする。
途端に暴れ始める華奢な肢体を緩く拘束して、ヴァンツァーはくすくすと笑った。

「──とりあえず、三年分と一番になったご褒美、ってことで」


「それじゃあ」
「お疲れ様」

同僚に挨拶をして、落ち葉舞い散る道を行く。
いくらも進まないうちに、ブレーキ音、そしてドアが開き、閉まる音。
視線を上げれば、車にもたれて腕を組んでいる長身。
この広い国で知らぬ人間などいないであろう青年は、サングラスのひとつもかけずにじっとこちらを見つめてくる。
白いセーターに淡い紫のストールを垂らし、長い脚をユーズドジーンズに包んでいる男が、ふと笑みを浮かべる。

「おかえり」
「ただいま」

自然な仕草で腰を抱いてくる男に、笑みを返した。

「こっちは慣れた?」
「うん。みんな、いい人たちだよ」
「そう。飛行機乗って来た甲斐があったね」
「……もう絶対乗らない」
「大丈夫だって。また抱っこしててあげるから」
「抱っこなんてされてません! 頭抱えててもらっただけです!」
「可愛かったなぁ、びくびく震えてて。仔うさぎみたいだったもんなぁ」
「……すぐそうやって馬鹿にするんだから」
「褒めたのに」
「嘘ばっかり」
「俺が嘘吐かないの、知ってるくせに」
「……」
「ありがとう。一緒に来てくれて」
「別に……」
「新婚旅行は、イタリアにしようね」
「──えっ」

本当?! という風に瞳を輝かせるシェラに、ヴァンツァーは「うん」と頷いてキスをした。

「……人が見てる」
「いいんだよ。見せてるんだから」
「……」
「イタリア行ったら、もっと堂々といちゃいちゃ出来るんだろうなぁ」

いい国だ、と言わんばかりの笑みに、軽くはない眩暈を覚える。
超有名人である自覚があるのかないのか、この国ではキスも挨拶代わりなのをいいことに人目を憚らない。
そんな恋人にため息を吐いたが、結局は苦笑ひとつで許してしまうのだ。
車に乗り込むと、この後の予定を話す。
何せ多忙な男の三ヶ月振り休暇だ。
といっても四日間なのだが、それでも楽しみにしていたことは間違いない。

「レストラン、予約入れてある」
「どこ?」

訊ねて返ってきた店の名前に、シェラはひくり、と頬を引き攣らせた。
セーターにジーンズなんて格好をしているから、今日は軽く食事をしてゆっくりするのかと思えば。

「……ドレスコードあるじゃないか」
「うん。どこか寄って着替えていけばいいよ」
「もう、この前みたいなのは嫌だからね」
「どうして? 似合ってたのに」
「いーやーだっ!」

ハンドルに片手を乗せて機嫌良さそうに笑っている男に任せておくと、背中の大きく開いたドレスだの裾のひらひらしたワンピースだのに着替えさせられてしまうのだ。

「シェラ」
「……なに」
「────お願い」

ちゅっ、とキスをしてきた男にシェラは眉を吊り上げた。

「~~~ヴァンツァー!」
「ダメ?」
「……」

最近映画進出も果たした男は日々その演技力に磨きをかけており、眉を下げる美貌は悲壮感でいっぱいだ。
しかも、妙な可愛さがある。
いつもそうだ。
いつも、この捨て犬みたいな瞳に絆される。

「……どうしても、ダメ?」

これで「ダメだ」と突っ撥ねると、しゅん、と耳と尻尾を垂れさせてしまう。

「……………………………………………………分かった」

悩みに悩み、胃が痛くなるほど悩んで出した結論は、結局『Yes 』だ。
仕方ない。

「──ありがとう」

にっこりと浮かべられた満面の笑みが、たまらなく好きなのだから。
もう、この笑顔には勝てないのだ。
この笑顔が見たくて、わざと答えを焦らしている自分がいたりもするのだから末期だ。

「その代わり」
「うん?」
「ほら」
「なに?」
「……分かってるくせに」
「シェラの口から聞きたいな」

精悍な美貌に少年のような笑みを乗せた男に、シェラはぷくっと頬を膨らませた。

「──Kissして!」




END.

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