Moon Stone

個人の邸宅とはとても思えない広さを持った、ほとんど林のような風体の裏庭。
麗らかな昼下がり、穏やかな気候のこの日。 何だか天使にも出会えそうな錯覚を覚えてしまうそこには、およそその雰囲気に似つかわしくない殺気が満ち溢れていた。
聞こえてくるのは小鳥のさえずりではなく、激しく打ちあうロッドの音。
時折色とりどりの小さな玉が飛び交い、またある時には銀色の糸鋸の刃が宙を舞う。
手持ちのアクリル玉を打ちつくしたのか、現在殺気の主たちはロッドで打ち合っていた。
対峙するのは、どちらも息を呑む美貌の持ち主だった。
ひとりは本当に天使かと見紛うような銀髪とアメジストの瞳を持った中性的な容貌と抜けるような白皙の青年。
光を弾く銀髪は肩にも触れないほどに切られており、なんとももったいない気がする。
細身の全身を動きやすい軽装に包み、可憐な少女のようなその細腕からは考えられないほどに鋭い一撃を繰り出す。
もう一方はといえば、黒髪と藍色の瞳を持つ、こちらも色白の青年だ。
銀色の青年とは対照的に恵まれた長身と鋼のように鍛え上げられた肉体を持つ美丈夫である。
だが決して見苦しいほどに筋肉の鎧を纏っているわけではない。
すんなりと均整の取れた素晴らしい肢体だ。
そのバネのような体から放たれる渾身の技は、銀色の青年のものよりも遥かに重みがある。
両者の技量はほぼ同等。
一撃の重みで黒髪の青年。
身軽さからの手数と陽動で銀色の青年が勝っている。
もうどれくらいの間ふたりで打ち合っているのだろう。
起床して食事を済ませ、胃の内容物が消化されてから訓練を始めずっとこの調子なのだから、優に三、四時間は経っていた。
呆れるようなスタミナである。
黒髪の美丈夫はともかく、細身の銀色のどこにそんな力があるのか。
ひとえに彼の生来の負けず嫌いの賜物だろう。
特に、眼前の妍麗な美貌の青年にだけは負けたくなかった。
しかし、ほとんど気力だけで闘っているようなものだ。
激烈な技の応酬を受けていた腕は、しびれ始めている。
そう自覚してから数回打ちあった後──。

「あっ」

短い驚愕と共に、手の中からロッドが弾け飛ぶ。
それと同時にほとんど無意識に距離を取り、相手のロッドの間合いの外に逃れる。
それでも相手の動きが止まることはない。
銀色の青年が腰に小太刀を差していることを知っているからだ。
むろん銀色の青年は焦ることなく腰に手を伸ばして小太刀を掴み応戦しようと身構える。

「──っ!」

その瞬間何かに恐怖したかのように少女のように愛らしい顔が歪んだ。
引き抜いた小太刀を下げたまま、微動だにできないでいる。
黒髪の青年は目前だった。
が、銀色の天使の異変に気付いたのであろう。
勢いに逆らって動きを止めた。
それでも物音ひとつ立てない。

「シェラ?」

小太刀を手にしたまま怯えて震えている同居人に、ヴァンツァーは訝しげに声をかけた。

「──……あ?」

その声に我に返ったのか、シェラはゆっくりと視線を上げる。
見慣れた美貌が目前にある。
かつて己の手にかけた、息を呑むほど妖艶な美貌。

「どうした?」

今の今まで本気の殺気をぶつけ合っていたとは思えない穏やかな声音だった。

「い……いや……何でも──」
「ないわけないだろうが」

相手にすべてを言わせないとき、夜色の青年は怒っている。
長年培ってきたポーカーフェイスはちょっとやそっとでは崩れない。
鉄面皮と評してもいいほど表情の変わりにくい男だったが、人間としての感情はしっかり持ち合わせている。
特に銀天使に係わる事象の場合、その表情の変化は目まぐるしいものがある、と旧友たちに陰でコソコソ言われていた。
現在も、怒っているというよりもむしろ呆れていると言った方が正しいかも知れない。
が、とにかく何でも隠そうとする天使を快く思っていないようだ。

「いや、あの……本当に……」

視線を彷徨わせている時点で挙動不審決定だ。
行者だった彼がこうも表情を取り繕うのを誤るのは、旧知の仲の幾人かと対峙しているときのみである。

「…………」

その様子を見て、ヴァンツァーは大きく嘆息した。
何となく理由は分かっている。

「俺か」

短く言うと、シェラの顔が跳ね上がる。

「ち……違う!!」

否定する顔は、心なしか青ざめている。
なおも震える手が小太刀を取り落としそうになって、ヴァンツァーはその凶器を取り上げた。

「あ──」
「忘れろ……とは言わない」

相変わらず静かな低音だ。
よく感情の起伏のない冷たいものと思われがちだが、そんなことはない。
冷静に『任務』を遂行するために感情を抑制することが当然の毎日を送っていたから、表に出すことが少ないだけだ。
生き返ってからは開き直ったらしく、だんだんと内心を吐露するようになってきた。

「だが、気にするな。俺は今こうして生きている」

くしゃり、と銀髪に手を入れる。
こんなことを言ってもきっとこの銀色は変わらないと分かっている。
今までも何度となく口にした言葉だからだ。
だが、言わずにはいられなかった。

「責めるなら俺にしておけ。自分を苦しめるな」

殺したくなかった。
それがシェラの偽らざる本音だった。
再会したとき口にしたことでもある。

「俺がお前の命を狙い、お前は生きるため俺を殺した。それだけだ」

手の中で銀色の頭が小さく振られる。
そういう問題ではない。
割り切れるならこんな風に震えたりしない。
理屈ではないのだ。

「もし逆の立場で、死んだのがお前だったら、生き返ったお前は俺に剣を向けられたと思うがな」

わずかに首を傾げ、不思議そうに相手を見る。
もし、この銀色が生き返ることを承知すれば、また、あの仕立て屋が自分のために銀色を生き返らせようとすれば、の話だが。

「……全然違うじゃないか」
「そうか?」
「そうだ」

言われてさらに首を捻る。
どうしてもそんなに大きな違いがあるとは思えなかった。
殺るか殺られるか。
真剣勝負だったのだから、どちらかが命を落とすのは必至。
それで負けたのが自分だった。
弱肉強食の世界で、強いものが生き残るのは当然のことだ。
ただあのときの自分が、力量の点で銀色に劣っていたとは決して思わないが。

「もう……二度と御免だ、あんな思い」

重苦しく息を吐き出すのと一緒に言葉を紡ぐ。

「即死しなければ、かなりの重症でもこの世界なら完治するぞ?」

組織再生装置のことを言っているのだろう。
生体実験をされたリィも、バラバラにされた体組織をそれで元通りに治された。
単純な傷口である必要はあるが、彼らほどの技量の持ち主が与える傷ならば、綺麗なものであろう。
良いか悪いかは別としても、便利な装置であることに変わりはない。

「本気で、言っているのか……?!」

ギリ、っと歯噛みして唸る。
美しい菫色の瞳は怒りに燃えたぎっていた。
この世で唯一自分と同じ魂を共有していると思っていたこの男は、自分の心情などこれっぽっちも理解していない。

「治ればいいんじゃない! お前を傷つけることそのものが嫌なんだ……怖いんだ……!!」

鉛玉や銀線も十分すぎる殺傷能力を持っている。
だからそれをアクリル片や糸鋸の刃で代用している──彼らほどの使い手になると、それでも十分凶器にはなるが。
それでも、死闘に決着をつけた小太刀は別物だった。
今でも覚えている。
何人も人を殺したこの手が、あの感触だけは忘れられない。
腹部を刺し貫いた衝撃。
感触。
きつく掴まれた手首。
自分を真っ直ぐに見つめてくる瞳。
ヴァンツァーの身体から温もりが失われ、命の灯が腕の中で消えていく様子。
息を引き取る瞬間。
埋葬したときの虚無感。
すべてがまざまざと脳裏に甦ってくる。
出血量だけを気にして小太刀を抜けなかったのではない。
それを抜いてしまったら、この男の命まで一緒に抜け出てしまう気がしたから抜けなかったのだ。
今なら分かる。
代わりにこの男の愛用の武器を手にすることで、少しでもその存在と共に在りたかったのだ。
その一瞬一瞬が克明に記憶されているのに、気にするな、と言う。
無理だ。
自分はそんなに強くない。
もう、絶対にあんな思いはしたくない。
自分自身を刺した方が、まだ楽だったかもしれないのに。

「今の俺も、いつか死ぬが?」
「分かっている! 何でお前はそう平然としていられるんだ?! 自分を殺した相手が目の前にいるんだぞ?!  以前のように、私を殺そうと思わないのか?!」

癇癪を起こした子どものようだったが、シェラはいつでも必死なのだ。
余裕の男に対し、懸命にならなければ追いつくどころか追いかけることもままならないのは悔しい。
しかしそれでも隣に並びたいのだから仕方ない。

「だから、なぜ俺がお前を殺さなければいけないんだ?」

本当に分からないのだろうその様子は、十分子どもっぽいものだったが、お互い心の底から本気なのだ。

「そんなの、自分の敵討ちに決まっているだろう!!」

正真正銘の本心からの言葉だったのだが、ヴァンツァーは笑いを噛み殺しているような妙な顔つきをしている。

「何がおかしい?!」

噛み付かんばかりの勢いだったが、その様子もまたおかしかったらしい。
顔を覆っていても、肩が小刻みに震えていたのでは意味がなかった。

「おい!!」
「殺す気なら、とっくにやっている」

それはそうだが、かといって納得できることでもない。

「だから、どうして殺す気にならないんだっ!」

ヴァンツァーは先ほどとは違った意味で妙な顔つきになる。
苦い顔、というのが一番しっくりくるか。

「お前はきっと、戻って来ないからな」
「……お前わざわざ言葉を少なくして私の知能の程度を試しているのか?」
「被害妄想だな」
「では何だ! 私は聖霊として残れないという意味か?!」
「残ったとしても戻って来ない、と言っている」

それっきり口を開こうとしない。
あたたかな風が木々の間を渡る音と、鳥のさえずり、かすかな水音が耳に流れ込む。

「──もういい!!」

横たわる沈黙に我慢できなくなったのか、そう言うとシェラは屋根すら見えない母屋に向かって走り出した。
残されたヴァンツァーは嘆息すると、そこらにちらばった武器の数々を拾い集めて家屋に戻ろうとする。
一歩を踏み出したところで、何に気付いたのかアクリル玉を一掴みすると、一気に頭上の葉陰に放った。
その数ざっと十。
そのひとつひとつが高い殺傷力を持っている──が、手ごたえはなかった。
またあることを期待もしていなかった。

「あっぶねーなあ」

ひらり、と枝から飛び降りてきたのは、猫の眼を持つ青年だった。
敏捷性の高い身のこなしは、華奢に見えるその体が無駄のない筋肉で覆われていることを物語っていた。
くせのある金茶の髪をガシガシかいて、実に楽しそうに笑みを浮かべている。

「最近の医者は副業で探偵もやっているのか?」

ちっとも危ないと思っていない相手に呆れたように一瞥をくれると、ヴァンツァーは嘆息した。
またアクリル玉を拾わなければいけないからだ。
だったら投げなければいいのだが、自分が気付いていることは教えておかないといけなかった。

「いやあ、たまたま夜勤明けでよ。その足でここに来たはいいけど、家ん中も抜けの空だろ? 楽しそうな気配がするからこっち来てみりゃ、やっぱり楽しそうなことやってやがるじゃねえか」

にしし、という形容がぴったりな笑みを浮かべると頭の後ろで手を組む。

「俺も飛び入り参加しても良かったんだけどよ、邪魔しちゃ悪いと思って、じっとしてたんだぜ?」

むしろ褒めてくれ、と言いたそうな顔だった。
出来るわけがあるか。
ヴァンツァーの顔にはそう書いてあった。
レティシアには昔からそれなりの好意を持っているヴァンツァーだったが、盗み聞き(見)とは趣味が悪すぎる。
いや、一緒にいるのがシェラでなければそれも良かったかもしれない。
その程度には、目の前の青年を好ましく思っていたのだ。
好き、というよりは、その腕を認めている、と言った方が正しいかもしれないが。

「わーるかったって」

本当に悪いと思っているのか、甚だ疑わしい限りの口調だった。
その内心が表情に出ていたらしく、レティシアが大仰に肩をすくめる。

「信じろ! 分かった。お嬢ちゃんの機嫌直してきてやるから!!」

今度こそヴァンツァーの秀麗な顔にありありと嫌そうな表情が浮かぶ。

「何の譲歩にもなっていないようだが?」

その通りだった。
レティシアは自分が楽しむことしか考えていない。
それはもちろん長い付き合いだから分かっている。

「だからよ。俺が嬢ちゃんの機嫌直せるなんて、誰も思わねえだろ?」

即座に頷くヴァンツァーだった。

「そこで、だ。チャンスをくれ」
「?」
「俺が嬢ちゃんの機嫌直せたら、今回のことは水に流せ」

では前回や前々回のことなどはどうしてくれる、と考えないでもないヴァンツァーだった。
それでも、そのことにもう慣れている自分が嫌でもあった。

「直せなかったら?」
「そんときゃお前。『専門家』のご登場でいいじゃねえかよ」

やはり自分が楽しむことしか考えていないらしい。
呆れてものが言えない──が、何か思うところがあったらしい。
ヴァンツァーは意味ありげに口端を吊り上げると、レティシアに対価を求めたのだ。

「もしあいつの機嫌が直らなかったら、組織再生装置を一台、横流ししろ」

とんでもない言い出しだった。
組織再生装置は確かに非常に便利な機械だが、だからこそ誰もが持てるものではないのだ。
連邦政府が許可を下した研究機関、もしくは病院にのみ設置が許されている。
個人が所有するなど絶対に許されることではない。
どんな重大犯罪に悪用されるか分からないからだ。

「……それよ……俺が言うのも何だが、お前に有利すぎる賭けだぜ?」

さすがのレティシアも呆れ顔だ。

「それくらいのリスクを負わないと、楽しくないだろう?」

対するヴァンツァーはどう転んでも悪くない結果を得られる余裕の笑みを浮かべている。

「でもさすがの俺も、あんなバカでかい機械運べねえし……ってか、なくなったらバレんだろーがよ」
「それもそうだな。俺たちは一般市民だった」

思案顔になるヴァンツァー。
組織再生装置はどうしても欲しいらしい。

「あれを作ったのは確かクーア財閥だったな」

ぽつり、と呟くと、レティシアも反応した。

「じゃああのでかい姐さんに頼んでみるか?」

ジャスミンも色々な意味で『普通』とか、『一般市民』とかいう単語から遠く隔たった人物である。
頼めばひとつくらいくれるかもしれない。
もはやどこから聞いても『一般市民』の会話ではなかった。

「それはお前の仕事だ」
「わーってるっつーの。じゃ、とりあえず俺は嬢ちゃんとこ行くかな」

その声は嬉々としていて、ヴァンツァーは何となく行かせたくない気になってきた。

「何? 心配?」
「……何がだ」

仏頂面で切り返すと、ケタケタとレティシアは笑った。

「いやあ、お前ほどじゃねえけどよ、俺もこれで結構イイ男だからさ。お嬢ちゃん俺に惚れちまうかもしんねーぜ?」

反論するかと思ったが、意外にもヴァンツァーは肩をすくめただけだった。

「あいつがそうしたいと言うなら、それでいい」
「ほええ?! 余裕だねえ、ヴァッツ!!」

大きな猫目をさらに大きく、真ん丸にしている。

「逆だな」

目を伏せて、いっそ自嘲的な笑みだった。

「あん?」
「いい。行って来い。結果を楽しみにしている」

それだけ言うと、自らの放ったアクリル玉を拾いに木陰に消えた。
昔から同じく、その場所に気配を馴染ませて、すっと自己の存在を消す。
非常に巧妙な技だった。

「…………」

レティシアはわけが分からなかったが、自分から言い出したことだから行かないわけにはいかなかった。
どうしたもんか、と思案しつつ、レティシアは母屋までの道のりをトボトボ歩いていった。  




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