Moon Stone

駆け戻ってくるなりリビングのソファの上で膝を抱え、シェラは項垂れていた。
毎回そうなのだ。
仕事や大学が休みのときは、必ず体を動かすようにしている。
その度に自分はあの男に刃を向けられないでいる。
なまじ自分の実力がヴァンツァーに近付いているのもいけなかった。
持久力も上がり、長時間の打ち合いが可能となったのは喜ばしいことだったが、その分やめ時が判然としなくなってきてしまった。
裏稼業ではあったが、間違いなくシェラやヴァンツァーは超がつくほど一流の行者だった。
一流は引き際も心得ているはずだが、シェラは最近その境が見えなくなってきた。
腕が落ちたからではない。
むしろ強くなったから、と言えた。

『もうすぐ追いつける』

その思いが多少なりとも彼の心に焦りを生み出させていた。
また、それを自覚しながらこの有り様なのだから、どうすることもできない。
少し前までだったら、小太刀を抜かせても貰えなかったのだ。
かつて勝利を手にした相手に、なぜかシェラは完全に遅れを取っていた。
アクリル玉や銀線もどきも使いはする。
しかしそれらが両者の間でほとんど意味を成さない攻撃であることは分かりきったことだった。
手裏剣を使っての訓練も同じこと。
レティシアが使うならともかく、拮抗した両者が同じ武器を使っても、相手を傷つけることはできない。
その点ロッドは、両者の技量がもっとも端的に表れた。
実際の戦場に出たこともあるシェラには良く分かっていることだ。
剣技というのは本当にその人物のすべてが反映されるのだ。
繰り出される剣戟の重み、手数、剣捌き、体捌き、読みの速さその他ありとあらゆる能力のすべてが映し出される。
技量や才能は別にしても、シェラは明らかにヴァンツァーに負けているものがあった──経験だ。
危ない橋ばかり渡ってきた男と、ほとんど素人しか相手にしたことのなかった自分とでは、 実戦経験が圧倒的に異なる、とシェラは評価していた。
ヴァンツァーの死後もダンガやパラストとの戦があり、シェラもそれに参加した。
実践の経験を積みはしたが、それでもこの男に比べたらどうということはない程度だったろう。
それが最近、ふたりの間で行われる訓練や、時にはリィやルウとの対戦を通して着実に腕を上げてきているのだ。
その分、シェラの相手をするヴァンツァーにも余裕がなくなってきている。
手加減をすることは相手にも失礼だし、自分の訓練にもならないから絶対にしない。
それでも心理的に余裕があるのとないのとでは、咄嗟に反応したときの力加減が異なる。
先日黒髪の青年は、骨折まではいかないが、ひどいあざを作る程の反撃をしてしまい、失敗したと苦い顔をしていた。
仕事や勉学に支障が出るといけないので、一応ふたりの間で『ルール』を設けていた。
本来そんな無粋なものは作りたくないし、作ってしまったら訓練の意味がないのでは、と思っていた。
しかしこれがなかなかどうして。 『ルール』に抵触しないように技を繰り出すのは神経を使う。
何もないとき以上に頭を使い、相手の動きを読み、正確な一撃を打ち込まなければならないのだ。
競技用のロッドのようなルールを設けたらほとんど動けなくなってしまうが、彼らの作ったルールならばそんなこともない。
動きを制限しない程度に粗く、重症を負わせない程度に厳しいものだった。
鉛玉代わりのアクリル玉や、銀線代わりの糸鋸の刃もそのルールのひとつである。
これをリィやレティシアに適用しようとしたら、「面倒くさい」と一刀両断された。
けれどそれは彼らの動きが特殊だからに過ぎない。
ロッドでの実力が伯仲してきたから、小太刀も使用することに合意した。
だが、実際小太刀を使わざるを得ない状況になったら、シェラは自分が相手に刃を向けられないことに気付いたのだ。
何度やってもそうだった。
殺傷能力があることがいけないのだろうと思い、刃を潰した剣での訓練に切り替えたら最初は戸惑ったが慣れてきた。
それで今日、本物の小太刀に再度切り替えたのだが、結果は同じだった。

「…………」

ほう、っと息を吐きシェラは顔を上げて抱えた膝の上に顎を乗せた。
その瞬間、すぐ隣に人影が見えて思わず飛び退いた。

「──レティシア。何をしている?!」

そう。 いつからそこにいたのか気付かなかったが、恐ろしいことにそこには金茶を纏う外科医がいた─医者の皮を被った死神が。
シェラは自分の失態を恥じた。
いくら考え事をしていたからといって、こんなに触れるほどに接近を許していたとは。

「座ってる」

白猫が全身の毛を逆立てているような、また銀色のハリネズミがそこにいるような感覚に、レティシアは小さく笑った。

「そんなことは見れば分かる!! なぜお前がここに……というか、どうやって入ってきた?!  あの男は一緒じゃないのか?!」

まくしたてるように一息で言うと、猫の眼が真ん丸に瞠られる。
続いてけたたましい爆笑がリビングに響く。吹き抜けの天井は高く、余計に声が反響する。

「何がおかしいんだ!!」

すでにシェラは立ち上がって人型兵器から距離を取っている。
この男がその気になれば、いかなる距離であろうとも一瞬で詰められることを知っているだけに、気が抜けない。
背中を冷たい汗が伝っているのが分かる。

「お前相変わらずだなあ」

対してレティシアは泰然とソファに座っている。
眼がキラキラと輝いていて、相当楽しいのだろうことが見て取れる。

「ヴァッツならお片づけしてらあ。俺が入れたのは、ここの生体情報照合機に情報を入れてもらったから。 それから……なんだっけ?」
「だから、なぜここにいる!!」
「そーそーそれだ。ってか、そんなに叫ばなくても聞こえるっつーの」

苦笑すると、青年は自分の隣を指差した。

「ま。とりあえず座んな」
「断る」

堅い声で即答する。
本当はここから叩き出すか、自分がいなくなるかしたかった。
だが前者は部屋が滅茶苦茶になるから持ち主に申し訳ない。
後者はこの男に後ろを見せることの愚かさを知っているからできない。
結局シェラはこの場から動けないのだ。
それでも全身が凶器である男の隣に座るほど、シェラは自分の命を粗末にする気はなかった。

「何もしねーっての」
「信用できん」
「お前ねえ……」

嘆息すると、レティシアはどこから取り出したのか、二本の手錠で自分の両手両足を戒めたのだ。
護身用として一般に出回っているタイプの電子手錠ではない。
警察が使う型の、超高性能の電子手錠だ。
なぜそんなものを常備しているのか。
そもそもそれは医業とまったく関係ないだろう、という問いは両者のどちらからも漏れなかった。

「……何をしている?」

だがさすがに訝しがり、シェラは疑問を口にしていた。

「ほら。こうすりゃ何にもできねえだろ? いいからここ座れって」
「……話なら、ここで聞ける」
「頑固だねえ。ヴァッツも苦労してんだろうな」
「お前に関係ない!!」

さらに態度を硬化させてしまったようである。

「俺とあいつと、なにがそんなに違うんだい?」

思いのほか真摯な声音に、シェラは一瞬言葉に詰まった。

「──何の話だ?」
「だからよ。ヴァッツと俺と、どうしてそんなに態度が違うかなあ」

両手両足を戒めているのに、レティシアの表情が愉快そうなのはいつもと同じ。
ただ、いつもよりもほんの少し、瞳が真剣だった。

「言っとくが、俺は王妃さんともうまくやってるぜ? こっち来てから表立って人も殺してねえし」

別に人を殺すことに悦びを覚える趣味があるわけではなかったので、それを苦痛に思ったこともない。
自分たちのやっていたことが、純然たる『仕事』であったことは、この銀色の青年もよく分かっているはずなのだ。

「お前が指一本で人を殺せることに変わりない」
「そりゃあお前も一緒だろうが」

レティシアの怒りの沸点は低そうに見えて、そんなことはない。
あまり物事に動じないというか、彼が怒りを露わにするような対象がこの世界にないのだ。
だから、今も片方の眉を吊り上げただけで、怒っている様子はない。

「……それでも……お前はファロットでも異質だから……」

わずかだが言いにくそうにシェラの瞳が揺れる。

「──じゃあ、俺はどこへ帰ればいい?」

初めて聞く声音だった。
真剣な、揶揄する響きのまったくない硬質な声。

「何を言って……?」

だからシェラは動揺していた。
ほとんど表には出さなかったはずだが、それを同じファロット随一の暗殺者が見逃すはずもない。

「王妃さんにはあの聖霊の兄さんがいるし、お前にはヴァッツがいる」
「なっ──」
「いいから聞けよ」

反論しようとするシェラを制してレティシアが続ける。
そもそもお互い左手の薬指に指輪をしていて何もない、という方がおかしいだろう、というのが彼の偽らざる本音である。
ヴァンツァーの報復が恐ろしくて聞けないが。

「じゃあよ、俺はどうしたらいいんだ? 誰のためでもなく生き返っちまった俺は、さ」

ま、王妃さんと遊ぶのは楽しいけどよ、とは飲み込んだ言葉だ。

「…………」

返す言葉がなかった。
レティシアには、彼を待っている者がいる。
聖霊の少女だ。
本来、彼は十年以上も前にその少女の元へと向かっているはずだった。
それをリィとルウの魔法で生き返らせた。
レティシア自身はそれに感謝する気も、また罵倒する気もなかったが、少女のところへ行く時が先延ばしされたのは事実だ。

「医者としての仕事は、楽しくないのか?」

思わずシェラはそう呟いていた。

「いんや。それなりに楽しいぜ?」
「では……」
「でもよ。理屈じゃねえだろ? たまには誰かに隣にいて欲しくなるわな」

そう言う笑顔は、シェラも見慣れたものだった。

「……女には苦労してないだろうが」

憮然として呟いたのは、レティシアが二度同じ女性と歩いているのを見たことがなかったからだ。
それで結婚を迫られたとか刺されたとかいう話を聞かないのだから、どんな手腕をしているのやら。
非常にうまく女性と付き合っているのだろう。

「女とダチはまた別だ。俺お前のことも、結構気に入ってんだぜ?」

浮かべる笑みはまったく邪気がなく、シェラは今までの心象をほんの少し改めた。
変えても変えなくてもほとんど変わらないくらい、本当に少しだったが。

「だからよ、ちょっとここ座んな」

また自分の隣を指差す。

「……だから……」

逡巡しているが、即座に断らないだけさっきよりもマシな反応と言えた。

「お前傷付けたり殺したりしたら、俺がヴァッツに殺されんの分かってんだろ?」

本当に仕方のない奴だ、と言わんばかりに肩をすくめて見せた。
手首にはめられた手錠のせいでやりづらそうだ。

「どうしてお前があの男に殺されるんだ?」

おいおい。

「……それ本気で言ってんのか?」
「?」

可愛らしく首を傾げている様子が、妙に腹立たしかった。

「じゃあ何でお前らそんな指輪してんだよ」
「これは──……虫除け、だ」

随分高価な虫除けで。

「付いちゃ困るからそれしてんだろうがよ」

げっそりした様子でレティシアは頭を掻こうとして手の自由が利かないことを呪った。
対するシェラは真っ赤になっている。

「だ、だからって、どうしてあの男がお前を──」

まだ狼狽した声音だ。
今は短い髪のせいで幾分男っぽく見えるようになったこの銀色のお嬢ちゃんを、この話題でからかうと非常に楽しい。
そう思っていたのは確かだが、まだこんなに新鮮な反応を返すのか。
本当に何もなさそうだ。
理解できない。

「王妃さんだってあの兄さん傷つけられたらキレんだろうが」

もっともなことだったが、それがどうして自分たちに当てはまるのかが分からない。

「別にヴァンツァーは私が怪我しようが死のうが、報復したりしないと思うが?」

ジーザス。
いつだったか神学の講義で聞いた神の名を、思わず脳裏で唱えていた。

「俺の医師免許懸けてもいいけどな、絶対寸刻みで魚の餌だ。いや、そんな楽な死なせ方しねえな」

言って、考えられる拷問のいくつかを詳細に口にしていった。
ファロット一族に仕込まれたその地獄の拷問を五つほど聞いたところで、シェラはレティシアを肩を掴んだのだ。

「ま、待て!! だから、どうしてそんな拷問にかけるのか、理由を聞かせてくれ!!」

別に拷問の内容に恐れ慄いているわけでもなかろうに、シェラの腕は小刻みに震えていた。
その紫の瞳は戦慄に支配されているようにも見受けられる。
それを見たレティシアは、きょとん、と眼を瞠るばかりだった。

「どうして、って……ヴァッツがお嬢ちゃんに参ってるからだろうが」

それを聞いたシェラの顔といったら。
鳩が豆鉄砲をくらうとはこれを言うのか、と思わず納得してしまうような妙な顔だ。

「な……何だって?」

乾いた声でそう問われたが、訳が分からないのはレティシアの方だった。
肩を掴む手に異常なまでに力が入っていて、結構痛い。

「だから、ヴァッツが嬢ちゃんに惚れてるからだろうが!!」

それ以外に何があんだよ! と、額に青筋浮かべて力説しなければ理解してもらえないようなことなのか。
というか、本人どうしに合意はないのか。
こんなだだっ広い家で同棲して指輪を左手にして手を出させてもらえなかった八つ当たりをされた俺の立場はどうなるんだ。
そうレティシアは叫びたかった。

「──……それは……あの男が、そう言ったのか……?」
「あん?!」

つい喧嘩腰になってしまったとしても、誰もレティシアを責められないはずだった。

「だから……その……私に……」
「惚れてるって?」

げんなりとした様子でレティシアはソファに全身を深く沈めこむ。
もうこの手錠外してもいいだろう。
いいな。
いいと言え。
誰かにそう許可を取りたかった。

「……お前ら、何してんの?」
「え?」

今度はシェラがきょとん、としている。

「何つーか、こう……口にしないわけ?」
「何を?」
「だから、その……」

歯切れが悪い。
それはそうだ。
こいつらはからかって遊ぶのが楽しいのだ。
それなのに、何が悲しくてこんなもうくっついてるカップルのキューピッドまがいな役目をしなければならないのか。
でもうまくかなければ組織再生装置だし、と自分を鼓舞し、レティシアは目を閉じた。
ひとつ息を吐いて、蜜色の瞳を開きながら。

「何かこう、色気のある会話とか、しないわけ?」

言われてシェラは首まで赤くなった。
何を今更。
じとり、と目の前の可愛らしい青年を睨んでやる。
これくらい許せ。

「わ、私たちは別にそんな関係では──」
「お前馬鹿?」
「なっ──?!」

瞬間的にシェラの全身にトゲが発生した。

「あーあ。俺ヴァッツに同情したくなってきた。こんな鈍感相手にしてよく平気だな、尊敬する。」

あいつ、もしかして悟りでも開いてんのかね。
冗談ともとれない物言いだった。
実際、男に見えなくもないが、好みどうのを差し引いてもレティシアの目にも十分に可愛らしく映るシェラだ。
いくら女にあまり興味のない無愛想なあの男でも、食指の一本や二本伸びてもおかしくないだろう。
いやまあ実際伸ばしているから、八つ当たりされるわけだが。

「……お前、何か私に対してひどく失礼なことを言っていないか?」
「お前に言われたくねえよ」

ぴしゃり、とやり返して、レティシアはとりあえずまた無駄かと思われることをしてみた。

「ま、座れ」
「…………」
「いいから。見下ろされて話すの、気分良くねえんだよ」
「………………」

そんなことは全然思っていない。
それはシェラにも分かったが、それでもその言葉には納得するものがあった。
だからシェラはソファのぎりぎり一杯まで離れ、慎重に腰を下ろした。
そうすると、不思議なことが分かった。

──気配がしない……。

それどころか、人間の熱量も感じられなかった。
足音や気配をさせずに動く術は自分も心得ているが、ここまで完璧に周囲の空気に溶け込むことはできない。

──それでさっき気付けなかったのか。

そういえば、ルウが倒れたリィの看病にこの男を指名したことがあった。
あの時はなんて危険なことを、と思ったが、確かにこれならばいないのと同じだ。
まったく存在を感知させない。
いてもいなくても同じだが、それでも彼はそこにいるのだ。
誰にもいて欲しくないが、誰かにいてほしい時に重宝しそうな男だった。

「ひとつ不思議なんだけどよ」

徐にレティシアが口を開いた。
シェラは一応警戒したまま顔だけ横に向ける。

「お前ヴァッツのこと好きなの?」

言われてボン、っと音がしそうな勢いで頬を染めているのだから、それは疑いがないようだ。
以前はこの手の会話をすると泣きそうな顔で困っていたから、随分と進歩したものである。
果たしてこれを進歩と言えるのか、甚だ疑問ではあったが。
とりあえずそれに納得したのか、次の質問に移行する。

「それ言った?」

シェラは首を振ることで返事に代える。

「何で?」
「…………」
「何で言わねえの?」

しばらく沈黙が訪れる。
横たわる静寂の中、シェラは自分の心臓の音だけを聞いている気がした。
全力疾走しても、こんなに脈が乱れたことはない。

「……だって」

どれくらい経っただろうか。
口を開いたのはシェラだった。

「……だって、怖いじゃないか……」

本当に怖がっているのだろう。
声が掠れ、震えている。

「何が」

だから、ほんの少し、レティシアの声音もやわらかくなる。
他人にやさしくするのはガラじゃなかったが、たまには酔狂もいい。

「……そんなこと言って、拒絶されたら、怖いだろう……?」

何を贈られてもどんなに慰めてもらっても、そのやさしさを勘違いしてはいけないのだ。
伸ばした手を振り払われたときが怖いから。
立ち直れなくなるのが嫌だから。
かつてリィに同行しようとして拒絶されたときに一度、打ちのめされた気分に陥ったことがある。
あんな思いはしたくなかった。
だから必死に強くなろうとしているのに。
だから早く、隣に立ちたいのに。

「だから、楽だから私を女性の代わりに置いているなら、それもいいかな、と……料理も家事も得意だし……」
「あいつ、今までお前を一度でも女扱いしたことあったかよ?」

なかった。
あちらの世界にいたときにくれた髪飾りや、中学生のときにもらった服は、『女』であった自分にくれたものだ。
それ以外で、たとえそれが服だろうが宝飾品だろうが小物だろうが、明らかに女物と分かるようなものを貰ったことはない。

「で……でも、髪を切るな、と……」
「あいつ以外の人間も盛大に文句言ってただろうが」

その通りだった。
どうしてそんなもったいないことをしたのか、とまずはリィとルウに。
そして大学のクラスメイトやたまたま遊びに行ったヴァレンタイン卿の家族にまで言われる始末だ。
きちんと「短いのも似合う」というフォローを入れてくれた人がほとんどだったのは確かだ。
それでもそんなに小言を言われなければならないのか、とシェラは散髪したことをかなり後悔したものだ。

「でもだからって、あいつは態度変えたりしなかっただろう?」

それもその通りだ。
髪を切ったことにはご立腹の様子だったが、それ以上は何も言ってこなかった。
短くなった髪にも、相変わらず指を入れてくる。

「それは……モデルとして働くとき支障がなければいい、という判断であって……」
「……なんつーか、自己否定もここまでくると立派だなあ」

その言葉に沈黙を返し、また静寂。

「それに……」
「何まだあんの?」

いい加減辟易してきたところだ。
よくヴァンツァーはこんなのと一緒にいて胃が痛くならないものだ。
精神だけでなく、全身─内臓も含め─鋼鉄でできているのではなかろうか。
幸か不幸か、最近そのピアノ線並みの理性が溶解しかけていることを、レティシアは知らなかった。

「……私は今もあまり男に見てもらえないし……そういう人間が楽なんだと……」

蚊の鳴くような一言に、今度こそレティシアは脱力した。

「あのなあ! それが一番下らないぜ? あいつが外見で判断しねえの知ってんだろーが。昔から言ってただろうがよ。 お前が男でも女でも大差ねえって!!」

何なんだ?! 天然か?!
神経は途中で切れているはずだ。
それは間違いない。

「で、でも……自分に好意を持つ人間は、苦手だろう……?」

ビクビクしているシェラを見て、レティシアは何だか自分がいじめている気分になってきた。
被害者は俺だ、と思いつつも口にはしない。

「じゃあ何か。あいつは俺や王妃さんや聖霊の兄さんも苦手か?」

言われてシェラは言葉に詰まった。
そんなことはないと思う。
リィとルウに対してはあまり好意的とは言えない態度も取る。
それでも少なくとも他の人間に対してよりは普通に接しているだろう。

「でも……でも、あいつは何も言ってくれないから……」
「お前ねえ……」

呆れを通り越して、怒りすらこみ上げてきた。
これが伝説の暗殺集団ファロットの長か?!
約束を破ってこの手錠を破壊してしまいたかったが、やはり後でヴァンツァーが報復に来そうだ。
それも楽しいのでどっちでも良かったが、とりあえず話を続けてみよう。

「わ、分からないじゃないか!」

そんなとき、急にシェラが叫びだした。

「必要だとか、傍にいてくれ、とか……言ってくれなきゃ、分からないじゃないか!!」

そんなことを、もし相手が思っていてくれるのだったら、だが。

「だって、私はあの男を……」
「──お前ら、楽をしすぎだ」

静かな声音だった。
失礼かもしれないが、この男には似つかわしくないものだ。

「レティシア?」
「あのなあ。気が合いすぎて仲いいのも結構だがよ。たまにゃあ言葉にしてみろ」

シェラは目を丸くしている。
この男の口からこんな言葉を聞こうとは。

「何でもかんでも、言わずに済ませんな。人間絶対に分かり合えないようにできてんだからよ。だから、言葉があるんだ。 考えてても伝わんねえから、言葉にして伝えんだろーが」

シェラの目がさらに見開かれる。

「お、まえ……何でそんな難しそうな……」
「俺うちの大学主席で出てんだぜ?」

まさか。 そんなはずない。 この男が勉強してた? 嘘だ。

「お前の旦那ほど単位取り漁ってねえけどな」

にや、っと口端を歪め、レティシアは猫眼を光らせた。
物騒な煌き方だ。

「ちょっと手貸せ」

手錠で繋がった両手を、ずい、っとシェラに向かって伸ばす。
伸ばされた分だけシェラは身を引く。

「……おい」

じとり、と睨む。

「だ……うるさいっ。条件反射だ!」

それでも手を貸す気にはならないらしい。
レティシアの顔と手を交互に睨みながら、肩で息をしそうな勢いである。
額や背中を冷たい汗が伝う。
この男は天性の殺人者だ。
この男以上に上手く標的を始末できる人間を、シェラは知らない。
同等にだったらリィやルウもできるが、彼ら以上の使い手などいないと断言できる。
今自分を殺す理由は、この男にはない。
理由がなければ動かないことも知っている。
それでも、できることとできないことがあるのだ。

「──分かった。分かったよ。もういい。無理すんな」
「レ、レティシア?」
「ちょっとここ、触ってみな」

言ってトントン、と自分の胸を指した。

「……は?」
「俺は頭の後ろで手組んでるから、ちょっと手、当ててみろ」

意味が分からない。
何をさせたいのか。

「……何のつもりだ?」

訝しがり、また困惑し、また警戒してシェラは慎重に口を開いた。

「だあっ、もう! 気になってんだろ?! いいから触ってみろよ!!」

一向に手を伸ばしてくる気配のない相手に痺れを切らしたのか、レティシアはシェラの手を取り、自分の胸に押し当てた。

「お、おい!!」

蒼白な顔であたふたするが、小柄で細身でもそこに潜む力の強さは尋常ではない。
なんせあのリィと同等にやりあうのだから、もう人間業ではない。
シェラの力ではびくともしなかった。
心臓が飛び出しそうな恐慌状態だった。
自分の全身が心臓になってしまったような錯覚を覚えたためしばらく気付かなかった。
が、レティシアの心臓も、力強く拍動していた。
当たり前だ。
生きているのだから。

「あ…………」

それでも、シェラはなぜか衝撃を受けていた。

「分かったかよ? ちゃんと生き返ってんだろうが。あいつも同じだ」

ゆるゆるとレティシアに視線を合わせる。

「あいつの心臓も、同じように動いてる。機械じゃねえ。あの兄さんの魔法は、本物だ」

その言葉を、シェラは遠くで聞いている気がした。

「生きてる……」

呆然と、それだけ呟いた。
知っている、そんなことは。
分かっている、頭では。
それでも、こうして目の前に突きつけられた現実がある。
ドクン、ドクン、と音まで聞こえてきそうな鼓動は、ちょっとやそっとのことでは消えそうになかった。

「…………」

ゴクリ。 思わず唾液を嚥下するシェラ。
そうだ。 この男は生きている。
では、あの男は? あの男は本当に生きている?
そう思ったら、いてもたってもいられなくなった。
無言でレティシアの手を振り払うと、いちいちドアを開かなければならないのがもどかしく、苛立たしくて、 舌打ちしながら外に出て全速力で駆け出した。
部屋に残されたレティシアはといえば、嵐のように去っていった銀天使の後ろ姿を見送り、喉の奥で笑った。
戒められて不自由な手足をものともせず、ソファの背に顔を埋めて笑い続けている。
どうしてあのお嬢ちゃんはこんなに簡単なことが分からないのか。
それを考えるとおかしくて仕方ない。

「いい年して何初恋してんだかなあ、あのふたりは……」

ひとしきり笑った彼は、ふとあることに気付いた。

「あんまりバカバカしくて、お嬢ちゃん口説くの忘れてた」

そう呟くと、またケタケタ笑い出した。  




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