「…………」
林の中に流れる小川で、ヴァンツァーは汗と埃を落としていた。
春とはいえまだ水は冷たかったが、長時間の運動で火照った体には心地よかった。
川の中ほどから岸まで戻って来て、家に帰るか否かを思案しているところだ。
「…………」
服を着たまま水に浸かっていたため重くなった上着を脱ぎ、手で絞る──と、背後で気配がして振り返る。
「……何をしている?」
「水浴びだが?」
「見れば分かる! お前、私には風邪をひくから止めろと言っておきながら、どうしてそんなことをしているんだ!」
針だらけのシェラの様子を見ると、レティシアは失敗したのだろう。
これで怪我を気にせず訓練ができる。
「別に俺がいいと思っているのだから、水浴びして風邪をひいても良かろう?」
「だったら私も同じだろうが!」
「だから俺が嫌だと言っている」
視線は水面に向かい、上着を絞りながら静かに返答する。
黒いシャツから滴る水と、小川の流れしか耳に入らないほど静かな場所だ。
時折木々を渡る風の音と、鳥の羽ばたきが聞こえてくる。
「……私だって、嫌だ……」
ボソボソと口の中で紡がれた言葉は、しかし訓練されたヴァンツァーの耳にはしっかりと届いていた。
「──シェラ?」
つい我が耳を疑ってしまった。
おそらく、いつになく呆けていただろう顔の筋肉をはっとして戻し、二、三度瞬きした。
「どうし──」
続けようとした言葉は、シェラの行動によって中断された。
自らも足首まで水に入りヴァンツァーの元まで来ると、シェラは相手の手首を取り、脈を計り始めた。
次いで首筋にも触れ、同様に脈を採る。
「おい……?」
意味不明な銀色の行動に、ヴァンツァーは藍色の目をぱちくりさせて声をかけるが、何の反応も得られない。
「…………」
何だか難しい顔をして、シェラは次にヴァンツァーの胸に手を当てた。
さらに渋面を作ると、今度は胸に耳を当てた。
「おい、シェラな──」
「うるさい、黙れ」
短く言い切ると、真剣な表情で耳を澄ませた。
ほとんど抱きつくような恰好で、シェラはヴァンツァーの心音を聞き取ろうとしている。
「あ……」
弾けたように顔を上げ、頭ひとつ分近く背の高い男と瞳を合わせる。
訝しがると言おうか、不審がると言おうか、妙な表情をした男を無視して、シェラはまた胸に耳を押し当てた。
体は冷たかったが、規則正しい鼓動が耳を打つ。
心臓が血液を送り出す、生命の営みだった。
それを確認して、シェラは思わず微笑んだ。
ほっとしたのだ。
──生きている……。
この男は、生きている。
偽物ではない。
機械でもない。
自分と同じ、血の通った人間だ。
「……良かった」
「だから何が」
ほとんど憮然とした声音だったが、シェラはそんなことに構いはしなかった。
「お前、生きているんだな」
にっこりと微笑まれて、ヴァンツァーは一瞬病院へ連れて行くかレティシアに任せるか本気で計算した。
「──頭に花が咲いているぞ?」
どうやら、『春だから』と結論づけることにしたらしい。
それもひどい話だ。
「きっと綺麗な花だろうな」
だがにこにことそう返されてしまっては、さすがのヴァンツァーも絶句するしかなかった。
「今最高に気分がいいんだ。綺麗な花だろう?」
「気分がいい?」
いまだに拘束を解いてもらえないヴァンツァーは、ほとんど身動きが取れない状態でそう問いかけた。
「だって、お前ちゃんと生きているじゃないか」
言われて、何を分かりきったことを、とため息を吐く。
「生きている……けど、殺したんだ……」
かつて殺した男の肩口に頭をつけ、シェラは自分が刺した腹部を指先で辿った。
そこにあるはずの傷はなく、引き締まった筋肉となめらかな肌で覆われていた。
生き返ったからといって、殺した事実が消えるわけではない。
それは自分が一番分かっている。
それでも、生きている。
生きて、また会えた。
一緒にいる。
辛いけれど、どうしようもなく嬉しかった。
「俺が生き返ったことに文句があるのなら、仕立て屋に言え」
彼は『一度死んだ人間を起こすな』と主張したのだ。
生き返らせて欲しかったわけではない。
「言わない」
そう言って見上げてくるシェラの笑顔は穏やかだ。
きっとこの顔のために、あの魔法使いの仕立て屋は自分を生き返らせたのだろう、と思う。
「お礼なら、言うけど」
「シェラ?」
何が聞きたいのか分からなかったが、思わず名前を呼んでいた。
「もう、死ぬなよ……?」
また、心音を聞くために胸に耳を当てる、
やはり規則正しい鼓動。
力強い、拍動だった。
「もしまだお前が生きるのに理由を必要としているなら……今は仕事が楽しいだろう? それを理由にして生きてくれ」
「……お前の言葉も、要領を得ないな」
銀色の頭を抱えるように、ヴァンツァーはそう呟いた。
「……それにも飽きたら……」
大きな手が乗せられている感触を心地よいものと思いながら、シェラは続ける。
「そうしたら、今度は私を理由に生きてくれ」
面食らったヴァンツァーだった。
レティシアは失敗したのではなかったのか?
この銀色は、機嫌を直したのか?
どんな難問にも瞬時に答えを出してきたはずなのだが、今は袋小路に突き当たっていた。
「何だ、それは?」
だから聞いた。
どうしても分からなかったら聞けばいい。
楽をしているようだが、答えが見つからないよりましだった。
「ただの我が儘だ」
「なに?」
首を傾げるヴァンツァーだった。
「だから、我が儘だ。お前を傷つけるのが怖いというより、いなくなって欲しくない。もっとはっきり言うなら、一緒にいたいんだ。 お前にとっては迷惑な話かも知れないが、私は一緒にいたいと思っている」
うん、そうだ、確かにそう思っている、と自分に確認を取る。
「──で、どうしてお前は俺の脈や鼓動の確認をしていたんだ?」
「さっき触ったら、レティシアが生きていることは分かったんだ。だから、きっとお前も生きていると思った」
「──それは……いい。だから、なぜわざわざ生きている俺の生死を確認する必要がある?」
レティシアに、自分にしたように触れたのかが気になるところではあったが、それは何とか飲み込んだ。
「…………?」
困惑顔のシェラを見て痛む頭を抱え、ヴァンツァーはもっと平易な言葉を探した。
「お前、俺が電気で動いているとでも思っていたのか?」
「…………いや、さすがに電気は……」
では何で動いていると思ったのか。
言葉の前の沈黙が気になった。
「頭では生き返ったと認識できていたんだ。でも、殺したのは私だから……」
また、いつか止まってしまうかもしれなかったから……。
「で。俺はきちんと生きていたんだな?」
こくん、と頷きが返される。
「──それは良かった」
途端にシェラの眉宇が曇る。
「今馬鹿にしたな……」
「いや」
「した!」
「してない」
「絶対にした!」
「していない」
「間違いなくしたっ!!」
もしあったら尻尾の毛を逆撫でそうな勢いで、ないはずの日頃の鬱憤まで晴らそうとした。
が、思いのほかやさしいくちづけに阻まれた。
「──お前なあ! そうやってすぐ誤魔化すのはやめろ!!」
「これで誤魔化されるのか?」
意外と普通の方法で誤魔化せるものだな、と妙に感心する者、約一名。
自分の失言に顔色を失う者、約一名。
「……大体、お前は都合が悪くなるとすぐそうやって──」
「本当に誤魔化すためにやっていると思っているのか?」
言ってみて、この銀色なら本当にそう思っているのだろうと断定できてしまう自分に、そこはかとない物悲しさを覚える。
「違うのか?」
ほらやっぱり。
「したいからしているに決まっているだろう……」
「──したかったのか?」
茂る若葉で見えないが、雲ひとつない晴天のはずだ。
それなのに、雷にでも打たれたかのような衝撃にシェラは眩暈がした。
「お前、俺を何だと思っているんだ?」
さすがに気を悪くしたのか、麗しい額に皺が寄る。
「だ、だって必要ないならしないと言ったじゃないか……」
思わず語尾が弱くなる。
「いつの話だ」
ほんの十年前のことだろうか。
「それに、何も言わないから……」
「俺はお前に手を出すたびに、いちいち宣言しなければならないのか?」
「い、いや、そういうことじゃなくて……」
では何だ、と切れ上がった藍色の瞳が問いかけてくる。
そんな瞳を見るに耐えかねて、シェラは視線を落とした。
すると、自分の指にはめられた指輪が目に飛び込んできた。
「……ヴァンツァー」
指輪を見つめたまま呆然とシェラは呟いた。
「何だ? 頭の花が実でもつけたか?」
いつまでも半裸でこんなことをしていたら、本当に風邪をひきそうだ。
まあ、役得と言えば言えたが、自分よりも銀色が心配だった。
あれだけ動いて汗をかいたのに、シャワーも浴びずにいたはずだ。
その上春先の水で冷たくなった自分の体に触れているのだから、体温が下がる。
「お前、宝石言葉って、知ってるか?」
不意にかけられた言葉に、ヴァンツァーは一瞬言葉を詰まらせた。
「──それがどうした」
その言葉を是、と取ったのか、シェラは破顔した。
そうだ。
自分ですら知っているのに、この男がそんなことも知らないわけがない。
何だ。そうだったのか。
「お前、私に惚れてたのか」
笑いながら、一筋涙を流していた。
言葉なんて、もう貰っていたじゃないか。
実際口にしなくても、こんなに雄弁に語ってくれていたじゃないか。
疑うんじゃなかった。
今までこの男が自分にしてくれたこと、かけてくれた言葉を。
裏も他意もまったくなかったのに。
信じなかった──気付かなかった自分は、なんて愚かなのだろう。
「……だから俺が殺すつもりだった」
最近ようやく気付いたことだった。
あの頃はそんなことを考えてもみなかった。
「そんな昔から?!」
シェラはさすがに驚いて顔を上げる。
その言葉の示す内容は始めて出会った頃──この男が自分の命を狙っていた頃のことを言っているのだ。
「だったらやっぱりお前と闘う必要なんか──」
「俺以外の人間の手にかかって死なれるのが嫌だったんだ」
そう。
ただ、嫌だったのだ。
「…………」
それを聞いてシェラは押し黙った。
あの世界で戦争や争いは日常茶飯事。
その上自分たちは暗殺者として、より死地に近い場所で生きていた。
「王妃の傍で……戦地で生きることを選ぶなら、俺が殺したかった。初めて何かに執着したな」
きっと、そういうことだったのだ。
里育ちのくせに自分の攻撃に耐えてみせ、刃を交える度に強くなっていった。
面白かったのだ。
この銀色の生き物が。
自分と同じように里を失い、それでも生きているその事実が。
シェラの頬で乾きかけた涙を指で拭い、ほんの少し笑った。
多弁になりそうな自分に向けたものだったかもしれない。
「俺より弱い人間に殺されるのも、戦場で誰の死体だか判らない状態で死なれるのも、王妃に食い殺されるのも、 レティーに遊びながら殺されるのも、全部嫌だった。全身全霊かけて、全力のお前と闘って、俺が殺す」
そういうシナリオだった。
「侮っていたわけではない。ただ、お前の髪に目を奪われた。俺たちのような生き物に、太陽の光は強すぎる。 だが夜空の月に手は届かない。だから、おそらく地上の月を手に入れたかったんだ」
そう言って銀髪に手を梳き入れる。
馴染んだ感触だった。
細くやわらかくて、すぐに指をすり抜けていく。
だからいつも触れていた。
この銀色が、自分の手をすり抜けていかないように。
「他の誰でもない。お前が欲しかった」
男だとか、女だとか、そんなことはどうでもいい。
自分と同じ魂を持ち、自分とは違うものを見て、自分に比肩する強さを兼ね備えた『シェラ』という名の人間が、
欲しかったのだ。
「過去形なのか……?」
不安げに問うと、きつく抱きすくめられた。
思い切り、締め付けるような力強さで。
痛みすらも覚えるその力が、なぜか心地よかった。
「今は、もう俺のものだからな」
耳元でささやかれる言葉は、どんな媚薬よりも抜群の効果を発揮した。
「──最初からそう言え……」
相手の鼓動が、体を通して直接伝わってくる。
でもまだ遠い。
だから自分も抱き返してみた。
「──好きだ。愛している。俺だけを見ろ。どれがいい?」
からかうような口調だった。
そんなものが欲しいならいくらでもくれてやる、と言わんばかりの口調だ。
そんなものでいいのか、とそう言っているのだ。
顔は見えないが実際からかわれているようなので、シェラとしては悔しくて仕方ない。
が、言葉ほどの余裕が、ヴァンツァーにあるわけではなかった。
あらゆる面において不自由させない自信はあったが、この銀色の内心だけは読めない。
もし他の人間を選ぶならそれを尊重しようと思っていた。
一番嫌なのは、本気で拒絶されることだからだ。
物理的に傍にいないことよりも、精神的に失うことの方が怖かった。
たとえばこの銀色が死んだとして、結果自分の元に現れなくなる現実を、突きつけられたくなかったのだ。
だからあまり強く出られないでいた、のだが。
まずいな、と思う思考は、シェラの言葉でとどめられた。
「──……とっておきの殺し文句はどれだ?」
数多の女性を口説いてきた男の語彙の中で最高のものとは、一体どんなものなのか。
少なからぬ興味があった。
それにも落ちてやらないんだ。
そう心に決めた。
今までに使ったことのない言葉を言わせてやる。
他の人間を誑し込んだ台詞を使いまわせると思ったら大間違いだ。
ムーンストーンがくれた制限時間は永遠。
だったら、たっぷり時間をかけて、この男を骨抜きにしてやろう。
よく、先に惚れた方が負けだという。
だったら、自分はその点では勝っているはずだ。
そう考えると笑いがこみ上げてくる。
それを必死で抑えて、男の言葉を待った。
「──夜になったら、教えてやる」
どんな美姫や娼婦も尻尾を巻いて逃げ出しそうな艶やかな笑みを浮かべ、視線だけで魂まで縛りつける。
言葉ではなかった。
おそらく、この男の最大の武器は──。
「────」
紡ごうとした言葉ごと唇を奪われて、もうすでに白旗を揚げそうな自分を懸命に叱咤激励した。
そうしながら、シェラは大きな危惧を抱いていた。
経験なのか生来のものか恐ろしくて知りたくもなかったが、あまりの巧みさに、これから先何があっても、
本当にくちづけひとつですべて誤魔化されてしまう気がしてきたのだ。
うまく考えられない頭の片隅に思い浮かんだのは、この男はある意味レティシア以上に全身が凶器なのだということだった。
手加減をやめた相手に対して切るカードがなく、途方に暮れながらも作戦を練らなければならないシェラなのであった──。
END.