「ヴァンツァー・ファロット」
午後の受講を終え、レポート作成に必要な文献を図書室で借りようとそちらに向かっていた少年に、そう声が掛けられた。
黒髪に藍色の瞳の美少年は、両脇に色とりどりの花の咲く緩い坂道で立ち止まった。
振り返ると、経済学の講義で同じクラスの高校生がいた。
体の大きな男子生徒だった──縦にも横にも。
髪も瞳も茶色で、肌まで日に焼けてこんがりきつね色だ。
何かスポーツでもやっているのだろう。
「何だ」
無表情な上、口調までそっけない。
とはいえ、別に彼は不機嫌でも何でもない。
これが『彼』なのだ。
しかしそんな相手の態度に、全身茶色の少年は明らかに苛立っていた。
そもそも声の掛け方も、お世辞にも好意的とは言いがたいものであった。
決して大きな声ではなかったが、唸るような響きがあった。
「ちょっと顔貸してもらおうか」
睨みつけるような視線でそうすごんだが、ヴァンツァーがそんなものに怯えるはずもない。
「明日が期限のレポートが三つある。忙しい」
簡潔にそれだけ告げると、図書室に続く道へと向き直った。
「おい!!」
怒号とともに、身長は自分と変わらない、しかしずっと細身の少年の肩を掴んだ。
遠慮会釈もない力だ。
たとえ相手の肩が砕けても構わないと少年は思っていた。
実は彼はハンマー投げの選手で、競技会では毎回上位に入るような実力者だった。
そんな人間の握力で掴まれたらひとたまりもない。
脱臼くらいはするだろう。
「……」
まったく痛みを感じていないように無表情かつ無言で、ヴァンツァーは逆に少年の手首を掴んで捻り上げた。
肩を掴ませたのはわざとだ。
これで、多少手荒に扱ったとしても正当防衛になる。
「──────っ!!!!!!」
あまりの激痛に、少年は声すら上げられなかった。
次の瞬間に手首は解放されたが、痛みからは解放されなかった。
思わず手首を押さえてうずくまった。
そんな相手に軽蔑するような一瞥をくれると、ヴァンツァーは今度こそ図書室へ向かおうとした。
「──ま……待てっ!!」
そんな決まり文句に付き合ってやるほど、ヴァンツァーは寛大でも暇でもなかった。
スタスタと歩を進める。
「お──お前の女がどうなってもいいのか?!」
そんなものはいないので、やはりヴァンツァーは足を止めない。
「銀髪の! 天使みたいな顔に傷がつくぞ!!」
── ピタ。
そこで初めて美しすぎる少年は足を止めた。
脳裏に、今は中学生である知り合いの顔が浮かぶ。
同じ名前を持つその人物が、茶色の少年の言うような『女』ではなく少年なのだということを、もちろんヴァンツァーは知っていた。
だが、純白に近い銀髪と菫色の瞳を持つその『少年』は、どこから見ても美少女だった。
口を開いて動いてしまえばボロの出る金色の狼と違い、喋ろうが走ろうが怒鳴ろうが、あれは女に見える。
そう育てられたのだから。
「……」
立ち止まり、思案顔になる。
あの銀色が、そうそう簡単に危機に陥ることはないからだ。
この世界においてはまずないと言っても良い。
普段は物腰穏やかで虫も殺さないような顔をした男だが、ひとたび戦闘となれば天使はその手に剣をとる。
しかも、かなり鋭利な刃物だ。
こんな図体だけの男たちに捕まるようなヘマはしない。
なんせ、運が味方したとはいえ、この自分を殺すほどの技量を持っているのだから。
「その『女』、どうやって捕まえた?」
まだうずくまっている少年のもとへ歩み寄り、ヴァンツァーは静かに見下ろした。
「……」
その位置関係のせいか、体の大きな少年はきつい藍色の瞳に射抜かれたような印象を受けた。
「どうやって捕まえた、と訊いている」
再び低く、落ち着いた声が掛けられる。
こころなしか苛立ちを孕んだような迫力を帯びている。
同じ高校生とはとても思えなくて──実際違うが──少年はゴクリと唾を嚥下した。
「……街で買い物しているところを囲ん──」
囲んで、と言おうとしてやめる。
『女』相手にそんな真似をしたなど、言えるわけがなかった。
「ひとりでいるところをか?」
あの銀色ならば別に囲まれたところでどうということはないので、ヴァンツァーは訝しんだ。
「何人かの女生徒と買い物を……」
「買い物?」
「調理実習があるとか──」
そこで茶色ずくめの少年は舌打ちした。
どうして自分がそんなことを馬鹿正直に話さなければならないのか。
「……なるほど」
ヴァンツァーは納得した。
街中で他に人目があり、守るべき人間がいたから捕まったのか。
それならば分からなくもない。
自分たちは『目指せ、一般市民』が標語なのだから。
「案内しろ」
「──っ!!」
あまりに傲慢な様子に茶色は飛び掛りかけたが、ぐっとこらえた。
先程掴まれた手首の痛みを思い出したからだ。
あの場所に行けば仲間がいる。
人数が増えればこんな顔と頭だけの男!
「……ついて来い」
そう言って立ち上がると、しゃがんでいたため汚れたズボンの裾を払い、ヴァンツァーに背を向けた。
こんな簡単に背中を見せるなどヴァンツァーには理解できなかったが、おとなしく後ろをついていった。
「……」
歩きながら美貌の少年はちいさく息を吐いた。
自分のせいで巻き込まれたのだと知った銀色の激怒する様子が、手に取るように分かったからだ。
山積したレポートよりもそちらの方が余程やっかいで、痛み出した頭で解決策を講じなければならないことに、真剣に危機感を覚えた。
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