幸福論

ある日、珍しくシェラとヴァンツァーはふたりで休日の街を歩いていた。
双子は週末を利用してルウの家へと遊びに行っている。
可愛い可愛い子どもたちがいないと、シェラは途端に沈んだ表情になるので、外出でもさせないと家の中に閉塞前線が発生するのである。
そうして、特にあてもなく、しかしひたすら道行く人の目を引きまくり、ふたりは一言も交わさずに歩いていた。
言うまでもないことだが、このふたり、別に喧嘩をしているわけではない。
どちらも口数が多い方ではない。
シェラは子どもたちや金黒天使たちがいれば多弁になるが、ヴァンツァーとふたりでいるときは不機嫌と取られても仕方ないくらい口を開かない。
わざとではなく、その必要性を感じないからだ。
言葉を交わさずとも、分かることが多くなってきた、ということだろう。
もちろん、すれ違いを極端に怖れるふたりだから、話をしないわけではないのだけれど。

「────……」

ふと、隣を歩くシェラの気配が遠ざかり、ヴァンツァーは勝手に人が道を開ける通りで足を止めた。
振り返れば、案の定シェラは何かの店のウィンドウを覗き込んでいる。
僅かに癖のある黒い前髪をかき上げ、ヴァンツァーは軽く息を吐いた。
おそらく、自分が立ち止まらなかったらシェラとの距離はひたすら開いていただろう。
真っ白い長毛の猫を思わせる想い人は、自分に対してのみ、かなり気ままな性格を見せる。
歩きたければ歩くし、止まりたければ止まる。
怒りたければ怒るし、何かの間違いで気が向くとすり寄ってくる。
良妻賢母を絵に描いて実写化したらこうなりました、というシェラだが、その性格は外見とは裏腹に苛烈極まりない。
そうかと思えばひどく臆病で、すぐにその菫の瞳を揺らすのだ。
その瞳で食い入るようにシェラが見ているのは、どうやら箱形の機械のようだ。
シェラの一歩後ろに立ち、視線の先を辿る。
ウィンドウにヴァンツァーの姿が映っていることを認めたシェラは、はっとして振り返った。

「──悪い。行こう」
「構わん。急いでもいない」

返してちらりとウィンドウの中を見、ヴァンツァーはシェラに藍色の視線を落とした。

「欲しいのか?」
「え……?」
「それだ」

顎で示したのは、パン焼き機だった。
生地を勝手に練って、コースによっては焼き上がりまで担当してくれるものだ。
シェラは自分でパンも焼くが、生地をこねるのは少々力と時間が必要だ。
それをやってくれるのなら手間が省け、その間にもう一品料理が作れる。

「……いい」

シェラは首を振った。
そう高いものではないのだが、特別必要というわけでもない。
必要になれば、そのときまた買いにくるなり、注文するなりすればいいのだから。
自分は子どもたちが幼稚園に行ってしまえば、自由に使える時間がある。
惹かれることは確かだが、即決することもない。

「いい、という顔をしていない」

嘆息すると、ヴァンツァーは店の中へと入っていった。

「ちょ──」

慌てて後を追うシェラ。
あの男と買い物に出ると、必要なものだけでなく、『あったらいいな』程度のものも購入が決まってしまう──それも、おそろしく高価なものの、だ。
パン焼き機は高くないが、あの男は何をするのか分からない。
すぐ後を追ったはずなのに、ヴァンツァーは既にパン焼き機を店員に示して購入を決めていた。

「ヴァンツァー!」

声量は抑えながら、長身の男の袖を引く。

「──あぁ、奥様へのプレゼントですか」
「……」

店員である青年が、にこやかにシェラを見た。
いろいろな意味で否定できないシェラだったが、とりあえずヴァンツァーを睨んでみた。

「もちもつけるらしい」
「──は?」
「この機械だ。パンだけでなく、もち米を入れればつきたてのもちが食べられる」
「……それが?」

生来の頭脳の明晰さが起因しているのか、ヴァンツァーの言葉は時折自己完結することがある。
眉宇をひそめたシェラに、ヴァンツァーは眉ひとつ動かさずにこう言った。

「カノンとソナタ、まだつきたてのもちは食べたことがないんじゃないか?」
「──……」

これで、パン焼き機の購入がシェラの同意を得たことは、想像に難くないだろう。

「いい旦那様をお持ちですね。こちらは最新型でして──」
「ヴァンツァー」
「大は小を兼ねるだろう?」

きゅっと眉を引き絞っていたシェラは、直後にっこりと笑った。

「ありがとう」
「……なに?」

文句を言われると思っていた男は、思いがけない言葉に面食らった。
瞬きを繰り返すヴァンツァーを尻目に、シェラは見ている方が幸せになるような笑顔を浮かべている。

「あの子たちが帰ってきたら、早速一緒にパンを焼こう」

二次発酵までさせたタネの感触が、などと嬉しそうに頬を緩ませているシェラを見て、ヴァンツァーも口元を綻ばせた。


翌日、ルウに連れられて帰ってきたカノンとソナタと一緒に、シェラは日曜日の親子料理教室を始めた。
キッチンも広いのだが、ダイニングテーブルの方が子どもたちと一緒のときはやりやすい。

「昨日ヴァンツァーがパン焼き機を買ってくれたの。だから、今日はパンを作ろうね」

にっこりと天使の美貌で微笑めば、双子も頬を薔薇色に染めてほわぁぁぁぁ、と瞳を輝かせる。

「パン?! ソナタもつくるの?!」
「カノンも?!」

きゃっきゃと飛び跳ね、シェラの脚にまとわりつく。
いつもシェラが焼いてくれるパンは美味しくて大好きだが、『一緒に作る』という楽しそうなイヴェントは見逃せない。
双子を見るシェラの表情は蕩けそうである。
他の誰に喜んでもらうよりも嬉しい。

「わぁ。それ、ぼくも一緒にやっていいのかな?」
「もちろんです!」

キッチンを覗きに来たルウに、やはり満面の笑顔を返す。

「もう一次発酵まで機械がやってくれたので、これから形を作って、二次発酵させるんです」
「何を作るの?」
「とりあえず、ロールパンとあんパンを」
「「──あんパン?!」」

双子は声を揃えた。

「あんパン! あんパン!!」
「あんパンパン!!」

幼稚園で絵本や紙芝居を読んでもらうらしいのだが、その中でも人型あんパンヒーローのお話が、大好きらしいのだ。

「うん。あんパン作ろうね」
「ロルパンナちゃん!」
「うん。ロールパンもね」
「メロパンナちゃん!」
「う~ん……それは、また今度でもいいかな?」
「え……」

カノンが、途端に紫の瞳にぷっくりと涙を溜めた。

「あああああ! やっぱり今日作ろう! ね?! メロンパンも、食パンも今日作ろう!!」
「子どもの涙は、世界最強だね。元行者が形無しだ」

ルウが朗らかに笑うが、シェラはそれどころではない。

「タネは足りるの?」
「……無駄にでかい買い物をしてくれた男がいるもので……」
「そう。気の利く旦那様で良かったね」
「……大きければいいというものでも……」

この家──もそうだが、敷地もだ──といい、財産や買い物の量といい、あの男は限度というものを知らないのかも知れない。

「だって、彼のおかげで、可愛い子どもたちが泣かなくて済むんだもの。やっぱりいい旦那様だよ」
「……あなた、いつからあいつの弁護人になったんですか……」
「あはは。確かに司法試験も興味あるけど、でも、ヴァンツァーは実際合格してるし」
「あの男の場合は、ただの資格馬鹿です」
「あっても困らないもの」
「……」
「「シェラ! あんパン!!」」
「……はいはい。作ろうね」

何だか、どっと疲れが出てしまったシェラだった。

──しかし、それも機械からパン生地を取り出し、子どもたちの前に出すまで。

「ほわぁぁぁ……」
「ふかふかぁぁぁ……」

菫と藍色の瞳は大きく見開かれ、光輝き、頬は紅潮し、取り出されたパン生地はツンツン突付かれまくっている。
最初は恐々と、しかし段々と大胆になっていき、やがて両手でボフボフ叩くようになった。

「パンはクッキー生地と違って、好きなだけ触っていられるから子ども向きだよね」
「また、この感触が幸せなんですよね」
「そうそう。二次発酵させると、もっと素敵なことになるんだよ、これ」
「そうなんです。この子たちのほっぺたと同じくらいやわらかくて……」

夢見心地に瞳を和ませるシェラに、ルウは穏やかな瞳を向けている。
双子たちの色彩といい、この四人が家族のようである。
誰がいったい、この愛らしくて、見ているだけで幸せになる双子の天使たちの片親が、あのヴァンツァー・ファロットだと言って信じるだろう。

「ヴァンツァーも一緒にできれば、この子たちも喜んだだろうにね」
「きっと、あの男が一番喜ぶでしょうね」

クスクスと笑うシェラ。 これはかなり機嫌がいいらしい。

「──はいはい、じゃあ切るからね。ちょっと離れてて。手を出したらだめだよ」
「「はぁい!!」」

サクサクと生地を切り分けるシェラの手元を、双子は少し離れたところでじっと見守っている。
きちんと等分されたパン生地は、強力粉をふるったテーブルの上にコロコロ並べられた。

「これをね、ムニムニって潰して、空気を抜いて、こうやって伸ばすの」

シェラの指示のもと、双子は真剣な顔でパン生地を潰したり引っ張ったりしている。
真剣ではあるのだが、発酵した生地のやわらかさに、ついつい頬が緩むようだ。

「……シェラぁ……これ、ずっとさわってちゃだめ……?」
「すぅごく、きもちいいの……」

切ない顔で訴えてくる子どもたちに、シェラは苦笑した。

「まだまだあるし、ヴァンツァーのおかげでまたいつでも作れるからね」
「……うん。パパにありがとうする」
「カノンも」

そうして双子は、また生地をムニムニし始めた。

「そうそう、上手、上手。で、伸ばしたところに、あんこを乗せて」

丸めるのは少々技術が必要なので、シェラがやる。
子どもたちは専ら生地のガス抜きをして、伸ばす係りだ。
ルウは器用にロールパンを作っている。
そちらを見て、カノンとソナタはロールパンを作りたくなったようだ。
じっとルウの手元を見ている。

「……これ? やってみる?」
「「うん!!」」

そうして、ゆっくりと時間をかけて形を作り、天板に載せてオーヴンへと入れる。
まずは発酵に調理モードを合わせ、スイッチを押す。

「これで、またパンが大きくなるんだよ」
「おっきくなるの?!」
「あんパンパンとロルパンナちゃん、おっきくなるの?!」
「そうだよ。大きくなって、もっとやわらかくなるんだよ」

おおおおお、と頬に手を当てて、オーヴンの中を覗く。
二次発酵をさせている間に、お茶にしよう、ということになった。
いつもはヴァンツァーが淹れるのだが、今日はルウの出番である。
とんでもない、と慌てたシェラだったが、「ちょっとネルドリップってやってみたかったの」とワクワク顔の天使から、楽しみを取り上げることなどできそうもなかった。

「シェラは紅茶?」
「えぇ……あ、でも、あなたが淹れるなら、コーヒーも飲んでみたいですね」

ルウは少し考えて、「やっぱり紅茶にしようか」と微笑んだ。
首を傾げるシェラに、ルウは忠告してやった。

「いやほら、何にしても、『初めて』は彼じゃないとね」
「──ルウ」
「妙な敵対心持たれても困るし」
「ですから……」

思わず頭を抱えたシェラだったが、不思議そうにオレンジジュースのコップを傾ける双子の視線を感じ、ははは、と乾いた笑いを漏らした。
──そして、二次発酵も終わりを告げた。
天板を抜き、ほんのりとあたたかくなった生地をクッキングシートの上に置き、次に発酵させる生地を天板に乗せてオーヴンへ入れた。

「そぉっと、やさしく触ってごらん」

声をちいさくして双子を促す。
こくん、と頷いたカノンとソナタは、ツンツン、と軽く生地を突付いた。
途端に、ピクッ、とふたりの肩が揺れた。
はっとしたように顔を見合わせ、そして──互いの頬を突付きあった。

「……ほわぁぁぁぁぁ」
「ふわふわぁぁぁぁ……」

いっそ涙ぐんでいるように潤んだ瞳で、大好きなシェラを見上げる。

「シェラ、すごぉい」
「ふわふわなの」
「気持ちいいでしょう?」
「「うん!!」」

勢いよく頷き、もう一度、そっと突付いてみる。

「あんパンパン、やっぱりやさしいんだね」
「ロルパンナちゃんも、やさしいんだよ」
「そうだね。正義の味方だからね」
「やわらかいのに、つよいんだよ」
「やさしくて、つよいんだよ」
「うん。強いんだよね」
「シェラとヴァンツァーも強いでしょう?」
「うん! シェラね、カノンとソナタいっしょにだっこしてくれるの!」
「パパね、シェラのこともだっこできるの!!」
「……」

それは言わなくても、と思っているに違いないシェラだったが、子どもたちが嬉しそうなので何も言わないことにした。

「そう。ふたりとも、シェラとヴァンツァーが大好きなんだね」
「「うん! だいすき!!」」

うっかり涙ぐんでしまったシェラだが、そうこうしているうちに二度目の二次発酵が終わった。

「……さてと。一度取り出して、オーヴンを熱くして、そうしたら、今度は焼き上げるからね」
「あんパンパンできるの?」
「ロルパンナちゃん、うまれるの?」
「そうだよ。もうちょっと待っててね」
「「はぁい」」

オーヴンを一八〇度に熱し、素早く天板を入れて霧吹きをかける。
あとはスタートボタンを押すだけで、焼き上げ時間もオーヴンが計算してくれる。

「もう熱いから、近付いちゃだめだよ」
「「はぁい」」
「焼くと、またもう少し、大きくなるんだよ」

ルウの言葉に、双子はまた瞳を輝かせた。

「パンって、たくさんおおきくなるんだね」
「うん。カノンとソナタも、たくさん大きくなってね」

──そして、約二十分後 焼きあがる過程でも、十分前、五分前、二分前と、面白いくらい正確にパンの焼ける匂いが漂ってくるのだ。
それだけでも、幸せな気分になる。
待ちに待った焼き上がり音がしたオーヴンから焼きたてのパンを取り出し、もう一度予熱する。
その間に、四人は積み上げられたパンを前にしばらく言葉をなくしていた。

「きつねさんとおんなじだ」
「テーブルともおんなじだよ」
「まだ熱いから、ちょっと待ってね」

そうは言いつつ、シェラは焼きたてのあんパンを手に取り、ふたつに割った。
湯気が立ち昇り、芳しい香りが鼻腔をくすぐる。
ほんの少し、あんこの甘い匂いもし、双子──だけでなくルウも、思わず喉を鳴らした。

「まだ熱いから気をつけてね」

ふうふうと熱を冷ましてはやったが、特にあんこは冷めるまでに時間がかかる。
それでも、自分で作った焼きたてのパンはなかなか食べられるものではない。

「「いただきます!!」」

大きな声で言い、パクリ、と口に入れる。 ピタリと双子の動きが止まった。

「……美味しい?」

香りは申し分ない。
瞬きすらしない双子に、どうしたことだろうと心配になる。

「熱かった……?」

それならば、反射的に吐き出すはずである。

「「──お~いし~~~~~~~いっ!!!!!!」」

あまりにも大きな声に、シェラもルウも目を丸くした。

「すごぉい! おいしい!」
「あんパンパン、やっぱりおいしかったんだ!」

きゃっきゃとはしゃぎ、ぱくぱくとパンを頬張る。

「「もっと!!」」

両手を出す子どもたちに、シェラは「はいはい」と笑顔を向けた。
ものすごい勢いで積み上げられたパンがなくなっていく。
予熱の終わったオーヴンに、次のパンを入れてスイッチを押す。

「これは……」

ルウが焼きたてのあんパンを頬張り、しみじみと呟いた。

「──愛と勇気だけが友達でも、寂しくないなぁ……」

夕方、どうしても自分の目で見たい現場がある、と言って休日出勤をしたヴァンツァーが帰ってくると、双子は家にあるあんパンヒーローの絵本を持って玄関まで走って迎えに出た。

「パパ! ねんねのとき、よんで」
「あんパンパンのごほん、よんで!」

ソナタはともかく、カノンがここまで興奮する出来事とはなんだろう、と不思議そうな顔になったヴァンツァーだが、そういえば、と思いながらダイニングへ向かった。

「「「おかえり~」」」
「……」
「あぁ、おかえり」

広いダイニングが、いつもより狭く感じる。
それはそうだろう。

「悪いな、シェラ。ルーファを迎えに来ただけなのに」
「いえ、せっかく焼きたてのパンがあるんですから」
「だよな~。なかなか食べらんねぇもんなぁ」
「貴様は呼んでいない」
「冷たくない?」
「いや、まったく」

一家団欒の夕飯はどこへやら、余計なのが三人もいる。

「……パパ、どうしたの?」
「おなかいたいの……?」

ダイニングに入るなり不機嫌になった父に、双子は眉を下げて袖を引いた。

「──いや。少し、疲れただけだから」

微笑を浮かべて、双子の頭を撫でてやる。
疲れたのは、決して仕事のせいではないのだけれど。

「あんパンパンとロルパンナちゃんたべたら、げんきになるよ!」
「すぅごく、おいしいの!」
「そうか。楽しみだな」
「パパ、ありがとう」
「うん?」
「パンやきき、パパがかってくれたんでしょう?」
「シェラがいってたの」
「あぁ……」
「「ありがとう!!」」
「……どういたしまして。楽しかったか?」
「「うん!!」」
「そうか。良かったな」

着替えるために、ダイニングを通り過ぎようとする。

「……」

もちろん、お邪魔ムシ三人を軽く睨むことは忘れずに。

「……あいつ、絶対あんパンたちの友達になれないぜ……?」

レティシアの言葉に、大人たちは皆、一様に頷いたのである──。  




END.

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