『色男、金と力はなかりけり』
とはよく言う言葉だが、それはヴァンツァー・ファロットには当てはまらない。
街を歩けばほとんどの女性が見惚れ、大半の男性が殺気のこもった鋭い視線を投げかけ、もしくは諦めのため息を吐くような美貌を持ちながら、教授陣も瞠目するほどの明晰な頭脳も備えている。
中途入学した高校時代から取り漁った単位の総数はほとんど狂気の沙汰だった。
必修に始まり、法律学、社会学、心理学、経済学、経営学と難度の高い科目ばかりを受講し、そのことごとくでAプラスを取得するような化け物でもある。
しかもその頃から手を出し始めた株では、勘か計算かは分からないが大学卒業までにエア・カーや広い邸宅を苦もなく買えるほどの財産を築いてしまった。
本人はあまり望んでいないことだが、二十代後半の現在、数多くの企業の大株主として政財界にも顔が利く。
ほとんど厭味なくらい、非の打ち所のない人間だった。
しかも、これは反則中の反則だが、彼は一度死んでいる。
現在彼と同居している、彼とは種類の違う天使のような美貌の青年に命を奪われたのだ。
本人はまったくそれを気にしていないらしく二度目の人生を楽しみ、最近ようやく天使もそれに倣って自分が殺した男との生活に慣れてきた。
そんなヴァンツァーの自宅の地下、アクション・ロッドの競技場が軽く四面は取れる広さ──ほぼフットボールの競技場の半分に匹敵する──のその空間には、現在なぜかワルツが流れている。
「──……上手い」
言葉の内容は賛美だというのに、なぜか発言者の表情は暗い──というか、険しい。
「顔が怖いぞ」
流れる音楽に合わせて足を滑らせるふたりは、言うまでもなくシェラとヴァンツァーだ。
動きやすいトレーニングウェアに身を包んでいるのが何とも勿体ないほど絵になる美形ふたりのダンスは、これまた目を奪うほどに華麗だった。
なぜドレスとタキシードではないのか。
たとえシェラが男だったとしても、女性として生きてきた時間が長い彼ならば抵抗もないはずだ。
「何が練習だ。全然必要ないじゃないか」
憮然とした表情ながら、相手のリードの巧みさに舌を巻いているのも事実だった。
ダンスは男性のリードがすべてを握る。
大して上手くない初心者の女性でも、相手が良ければ自然と美しい身のこなしができるようになるものだ。
逆にどんなに上手な女性のダンスでも、パートナーが悪ければ見るも無残な代物になり下がる。
女性を活かすも殺すも、美しく見せるも醜悪にするも男性次第、というわけである。
男性は女性の三倍の力量が必要とされる所以だ。
あちらの世界で女性として育てられたシェラは当然社交ダンスも身につけてはいたが、正直ここまで踊り易い相手と組んだことはなかった──悔しいから絶対に口にはしないが。
「忘れていると困るだろう?」
そんなことはあり得ないくせに、妍麗な顔には飄々とした笑みが浮かんでいる。
「……まったく。本当に女性の扱いは上手い」
悔しいついでに文句も忘れない。
「俺がそれだけの男みたいな言い方だな」
長身に美貌、姿勢のよさ、正確なリズム感、優美でありながらキレのある動き、壊れ物を扱うようでいながら男性的な力強さを感じさせる腕、とにかくすべてが満点だった。
だからシェラは苦い顔をしながらも、実はこの状況を楽しくも思っていた。
「そう聞こえるということは、多少なりとも自覚があるということだ」
だがやはり悔しいので、口から零れるのは批判ばかり。
「シェラ」
呼ばれて軽く睨んだ容貌は、いつ見ても呆れるくらい整いすぎている。
わざわざ手管を磨かなくとも、この顔だけで大抵の女性は『落ちる』に違いない。
扱い以前に、一目自分を目当ての女性の視界に入れるだけでいいのだ。
女の子を口説くことに全精力を傾けている男子諸君に聞かせたら、夜道に気をつけなくてはいけなくなるような──もちろんかすり傷ひとつ負わないだろうが──『口説き方』だった。
「何だ、色魔」
優雅なワルツのステップはそのまま、シェラの言葉はどんどん剣呑になっていく。
「…………」
ヴァンツァーは頭を抱えたくなったが、それでもやはり動きは止めない。
「何か言いたいことがあるんじゃないのか?」
真っ直ぐな菫色の瞳に見つめられたヴァンツァーは、内心で軽く息を吐くと仕方なく口を開く。
「──いもしない浮気相手に嫉妬でもしているのか?」
揶揄する響きはなかった。
少なくとも、からかうつもりで口にした言葉ではない。
「男の嫉妬は見苦しいんだろう?」
銀色は口端を上げて、それはそれは美しく、凄絶な笑みを浮かべる。
まったく音楽に合わない、どこか殺伐とした雰囲気だった。
だがそれでもやはりシェラは可憐で、最近は何だか物騒な艶まで出てきたような気がする。
「それが何だ?」
「だから嫉妬なんかしてない」
「文脈がおかしくはないか?」
「語学だけは得意なんだがな」
いっそ無駄なくらいに美しい黒髪の青年は、一向に機嫌が浮上してこない、外見は銀細工のように繊細なダンスパートナーに向けて僅かに首を傾けて呟いた。
「では、俺の思い過ごしか」
エンドレスで流れる曲に合わせて、優雅で華麗で繊細なステップは続く。
「何がだ」
ぞんざいな口調ながら、これだけ踊れるならもういいだろうとは、シェラは決して口にしなかった。
「お前が嫉妬していると思ったこと」
「当たり前──」
「それから」
シェラの言葉に被さるように、少し語気の強い言葉が発せられる。
思わず押し黙るシェラ。
視線だけで発言を促した。
ゆっくりとヴァンツァーが微笑む。
「それを心地よいものと感じている俺の心情もだ」
「──────」
シェラの足が止まる。
それに合わせてヴァンツァーの足も止まった。
しばらく呆けたように、頭ひとつ分近く上にある藍色の瞳を凝視した。
どれだけ沈黙が続いただろうか。
「シェラ」
呼ばれてはっとして、さらにはっとした。
「──……また負けた……」
愕然として、座り込みたい気分になった。
「勝負などしていないだろうが」
「言い負かされたことに変わりはない!!」
舌打ちと共に吐き出された言葉に、ヴァンツァーは呆れてため息を吐く。
「そんなにこだわることか?」
「私の誇りの問題だ! そういつもいつも、してやられてたまるかっ!!」
せっかくこの男の言葉に耐性をつけようとしているのに、端から聞き惚れていてどうする。
「お前がそんな状態では、俺は大法螺吹きになるな」
どちらかというと自分のほうが『してやられている』と自覚しているヴァンツァーは、苦笑しながら曲を止めるために端末へと向かう。
「どうしてだ?」
呟かれたことの意味が分からないシェラは、真っ直ぐに伸ばされた男の背に向かって問いかけた。
「本心しか口にしていないからだ」
「…………」
この言葉にも絶句したシェラだった。
何だか段々、この男に口で勝とうとすることの不毛さが見えてきた気がする。
「──レティシアが天性の殺人者なら、お前は誑し込みの天才だな」
「褒めているように聞こえないぞ」
「それで正解だ。私はレティシアのことも褒めていないからな」
ただの事実だ、と肩をすくめた。
とはいえ、どちらも実に心臓に悪い事実だった。
「お前、何か苦手なことはないのか?」
半ば呆れて口にした言葉だったが、問われたヴァンツァーは端末を操作する手を止めて思案顔になる。
「強いて言うなら──」
「あっ、待て」
何かに気付いたようにシェラが唐突に声を上げた。
「何だ?」
「この曲……」
先ほどまで流れていたものとは違うワルツの音色が、地下室に響く。
「ブーリンがどうした?」
ブーリンとは五百年ほど前に没した古典音楽の名作曲家で、『神の手を持つ音楽家』と呼ばれるほどに技巧的な楽曲を残した人物だ。
「この曲どこかで聴いたことが……」
「店で流している」
店とはすなわち、ヴァンツァーのデザインした服や宝飾品を販売している店舗のことだ。
但し既製品は一切置かない。
見本としての服は置いてあるが、客の注文を受けてからデザインを固め、その人物に合わせて型を取り、縫製をするスタイルをとっている。
そのため自然と一着にかかる時間は膨大となり、大量に受注することはできない。
だがそれも、商品のグレードを下げないためのこだわりだった。
しかも納得できないものを作る気はさらさらない男なので、どんなに著名な人物からの発注でも似合わないと思えば取り合わない。
──この場合の『似合わない』とは、自分の服に『相応しくない』といった意味だ。
更にデザインひとつとっても、元々シェラをモデルとして起用している時点で、その服に似合うか否かが非常に厳しい目で見られることは明らかだった。
だがそこはヴァンツァーもプロである。
元のデザインを修正して、客と双方納得が行くまで話し合いをすることもある。
要するに、『納得いかない仕事』はしないのである。
そんな男の職場に、一切の妥協がない技巧的なブーリンは、この上もなく似つかわしい気がする。
「だからか」
「この曲がどうした?」
「私はお前と違って古典音楽にも鍵盤楽器にもさして興味はないんだが、この曲は好きなんだ」
「曲そのものが? それとも、チェンバースのブーリンがか? タントのものは聞いたか?」
あまり馴染みのない名前に困惑気味のシェラは、ちいさく苦笑した。
「私にはたぶんその違いは分からない。でも、この曲を聴いていると大切にされているようで、安心するんだ」
技巧的なブーリンの曲に、大切にされているように感じる。
おかしいといえば、この上もなくおかしな表現だった。
しかし聞いたヴァンツァーは軽く目を伏せ、顎に手を当てて何か考える顔つきをしている。
「ブーリンのピアノソナタは聴いたことがあるか?」
「悪いがまったく分からない。どんな曲だ?」
「──実際聴いた方が早いな」
言うなりシェラを訓練施設と隣り合った部屋へと促す。
口で説明できる手合いの楽曲ではないからだ。
「聴くならあそこでも構わないだろう?」
「あの曲は、いくら音質が良くとも端末から流れる機械的な音で聴いては意味がない。生の演奏を聴いて初めてその真価が分かる。だから──」
そこで意味ありげにシェラを振り返り、笑みを浮かべる。
「──俺が、弾く」
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