「は?! お前ピアノなんか弾けるのか?!」
「人並みには……というか、どうして弾けもしないのに家にピアノを置いておく必要がある?」
言いながら開けられた部屋には、カバーをかけられたグランドピアノが一台鎮座していた。
ピアノの足がカバーの下からわずかに見える。
新品同様の黒塗りだ。
「……あるのは知っていたが、弾いたことないじゃないか」
だからどうせ例の買い物癖だろうと思っていたのだが、違ったのか。
「暇がない。が、俺は使いもしないのにこんなものを買ったり、部屋の音響効果を上げるほど物好きでもない」
最後の言葉には内心首を傾げたシェラだったが、カバーを外したり蓋を開けたりと、演奏準備を始める男の姿をみて、「苦手なのはこれではなかろうか」とひとりで頷いていた。
人並みには弾けると言っていた。
つまり、人並みにしか弾けないのだ。
きっとそうだ。
すこしずれた期待を胸に、シェラはワクワクしながら演奏の開始を待った。
椅子に座り、鍵盤の上に指が置かれる。
白く長い指が黒いピアノに映る様子には、想像以上に目を奪われた。
──本当に、憎たらしいくらい何をやっても絵に。
心の中で罵倒しようとした瞬間だった。
「──っ?!」
息を呑む、とはこのことだ。
知らない曲だった。
聴いたことのない音だった。
だが、それでも分かることがひとつ──無性に、泣きたくなる。
最初の一小節でだけで、音に体が貫かれたような衝撃を受けた。
ここにはピアノの音しかない。
何十人というオーケストラの演奏ではなく、たった一台の鍵盤楽器があるだけだ。
そのピアノの音も決して大きくない。
音響がいいように上蓋を開けてはいるが、それでも激しく叩きつけるような演奏ではなかった。
それでいてこの衝撃。
背筋が震える。
鳥肌が立った。
瞬きも、呼吸も忘れてただ聴き入った。
自分にはこの世界の音楽のことは何も分からない。
知識もないし、知っている曲など両手で足りるほどだ。
演奏会にも行ったことがなかったし、家や職場で時々耳にする程度にしか音楽と触れ合ってもいない。
それなのに、自分にも分かる。
この音は、そう簡単に出せるものではない。
鍵盤が歌い、語る。
喜びも、悲しみも、切なさも愛しさも。一切の感情が音を通して伝わってくる。
こんな音が『人並み』程度なわけがなかった。
こんな音を、そうそう出されてたまるか。
──そうだ。 この男が人並み程度にしかできないことなど、自分はかつて見たことがなかったのに。
「……」
ほう、と吐いたため息に気付いたのか、不意に音が止んだ。
「止めるなっ──」
反射的に短く叫ぶ。
「この曲が気に入ったのか?」
苛立たしげにも見える銀色の美天使を、ヴァンツァーは視線を上げて見つめた。
「分からない。でも今のお前の音は聴いていたい」
泣き笑いのような顔でそう告げると、ヴァンツァーは満足そうに微笑んだ。
「それにしても、譜面もないのによく弾けるな。覚えているのか?」
感心したように呟く銀色に、ヴァンツァーは首を振った。
「見たことがない」
「何?」
「楽譜には、目を通したことがない」
くらり、と立ちくらみがして、慌ててピアノに手をつく。
「──……それでどうやって弾くんだ?」
ほとんど頭を抱えるようにして、シェラは力なく呟いた。
「確かこういう音だった、と思い出しながら弾いた。だからおそらく所々間違っていただろうし、時々つっかえただろう?」
「……いや、だろう、と言われても……」
元の曲を知らないし、つっかえる素振りも見せなかったと思う。
それでも、この男がなぜあの音を『人並み』と評したのかの理由は分かった。
──ただ単に、自分が及第点をやれるほどの演奏ではないから、というだけだ。
完璧主義者のこの男は、楽譜なしでの自分の演奏を、評価の対象にしていないのだ。
それでも生の演奏を聴かせようとした。
暗譜した人間の演奏を録音した機械の音よりも、たとえ不完全でも目の前で展開された音の方が心を捉えることを知っているからだ。
「……お前、人間か?」
ほとんど怯えるようにして、見慣れた美貌を凝視する。
「手が動くのはまだいい。鍛え方が常人とは違うからな。耳も、私たちのような訓練を受けたものならば並外れて良いのも分かる」
だが、それでも納得できないものがある。
「どうしたらそんな音が出せるんだ? 特別な訓練を受けたわけでもないし、趣味で音楽鑑賞する程度で身につくほど、底の浅い分野でもないはずだ」
それとも、一度聖霊になるともはや純粋な『人間』とは言えないのだろうか。
ルウの歌を聴いたときに覚えたのと似たような衝撃を受けたのだ。
この男の伝えようとしているものが、脳裏に浮かんでくるような錯覚。
瞼を閉じれば、その光景を目にすることができたろうか。
一晩中でも聴いていたかった。
「音楽も解釈だからな。要は頭の使い方ではないのか?」
「意味が分からん」
言われてヴァンツァーは頭を捻った。
「この曲にはどんな意味が込められているか、どんな意図で作られたか、誰に贈られたものか、それを踏まえて自分が理解や共感できる部分を探し、できないならば自分だったらどうしたかを考え、一から組み立てればいい」
「それであんな音になるのか……?」
懐疑的な声になるのも仕方ない。
音楽とはそんなに理詰めなものなのだろうか。
感性や音楽性はどこへ行ってしまったのか。
それとも、それこそが感性なのだろうか。
「どんなに有益な情報でも、理解できないものは使えない。ただの無駄知識だ。いや、知識ですらない」
それならば分かるから頷いた。
あちらの世界では職業柄多くの情報を詰め込むことを要求された。
だが、どんなに高度な情報でも、それを有効に使えないのでは宝の持ち腐れだ。
「音楽も同じだ。どんなに美しい旋律でも、その意味を理解しないまま演奏したのでは持ち味が半減する。初心者の子どもの音と、熟練の音楽家の音が違うのはそういうことだ。もちろん技術的な問題もあるが、それ以上に自分がその音楽を通して何を伝えたいのかが明確でないと、わざわざ楽器を使って音を奏でる意味がない」
それを聞いたシェラが、おもむろに尋ねた。
「では……たとえ初心者の子どもでも、理解がなされ意図が明確ならば素晴らしい音が出せるのか?」
「それが、一部の神童、天才と呼ばれる者たちだ」
技術は後からいくらでも身につけられる。
だが、理解力と感性はそうはいかない。
むろん鍛えることは可能だ。
より高い水準に持っていくこともできる。
それでも、演奏技術とは感性を裏付ける道具でしかないのだ。
だから、拙い技術の演奏にも、人は時に涙する。
ものの考え方というものは、ひとりひとり違う。
それを伝える術もまた然り。
伝え方を知っているか否かでもまた、話は変わってくる。
「じゃあお前もそうだ……」
「けなしているように聞こえんな」
「当たり前だ。褒めているんだから」
「…………」
思いがけない言葉に、ヴァンツァーは軽く目を瞠った。
次いで、ふわりと微笑む。
「──では今度はきちんと練習しておこう」
「そんな暇ないくせに……」
不意に見せられた笑顔に動揺しながら、シェラは唇を尖らせた。
「時間は作るものだ」
「……作ってくれるのか?」
呆けたように呟くシェラに、ヴァンツァーは何か思うところがあったのだろう。
低く笑った。
「そうか。不機嫌の原因はそれか」
「は?」
「悪かったな。構ってやらなくて」
「なっ!! 馬鹿を言うな!!」
頬を染めてピアノを殴りそうな勢いのシェラの腕を掴み、じっと紫の瞳を覗き込んだ。
「傷が付く」
「そんなにピアノが心配か?!」
「違う。──お前の替えがないんだ」
言ってシェラの白く形の良い指先に口付ける。
途端に銀細工の美貌が悔しそうに歪む。
「──この、色魔!!」
が、言われた方は涼しい顔をしている。
「他に目を向けた覚えはないんだがな」
シェラの顔がさらに紅潮する。
「女っ誑し!!」
「お前男だろうが」
いい加減口で勝とうとするのはやめればいいのに、シェラはどうしても不毛な勝負を挑み続ける。
しかし、さして語彙の多くないシェラでは、すぐに的を射た表現が口をついて出て来るはずもなかった。
何かを言いかけ、言葉を飲み込み、それを幾度か繰り返した結果出てきた言葉が──。
「じゃあ卑怯者だ!!」
肩で息をするシェラを凝視していたヴァンツァーだったが、呆れとも、諦めともつかない表情で深く息を吐いた。
「──どうでもいいが、お前、そんな男と一緒にいる自分に疑問は抱かないのか?」
言われてはっとするシェラだった。
どうも調子が狂う。
レティシア相手だったらもっと冷静に、的確に罵倒する表現が見つけられるはずなのに。
何が違うのだろうか。
以前レティシアにも訊かれたことだ。
そんなことを訊かれても困るのだ。
最近はそうでもなくなってきたが、レティシアはリィの敵だから自分の敵だ。
好きか嫌いかと訊かれたら、どちらかといえば嫌いの方に傾くような男だ。
医者としての腕を認めることはやぶさかではないが、それ以外の部分で評価をしようとはあまり思えない。
だがこの男は違う。
何が違うのかは分からないが、明らかに違う。
「……お前こそ、ここまで言われてどうして怒らないんだ?」
「怒る? なぜ怒る必要がある?」
「……普通あそこまで罵られたら腹を立てるだろうが」
「本心ではないと知っているのにか?」
心底不思議そうに呟かれた言葉に、今度こそシェラは堪え切れない眩暈を起こした。
抱きとめてくる腕を振り払う気力もなくしているシェラは、この件に関しては負けを認めるしかないようだ、と観念した。
おかしい。
この男にかなり好意をもっていることは間違いないが、まるっきり普通の女の子並みに反応してしまうほどだとは思っていなかった。
一挙手一投足に過敏に反応してしまうのだ。
何だか依存しているようで嫌だった。
これでは、この男が死んだら本当に後を追いそうだ。
まったく自分の身体のことを省みないヴァンツァーのことだから、そのうち過労死するのではなかろうか。
ありそうなことを考えて、ふと思い出した。
「そういえば、着ていくもののデザインは描けたのか?」
床に膝をついているシェラだったので、椅子に座っているヴァンツァーを自然見上げる形になる。
シェラの言うデザインとは、二日前、連絡先は知っているがほとんどやりとりをしたことのないジャスミン・クーアから電子メールが送られてきたことに端を発する。
二週間後、《パラス・アテナ》ことダイアナ・イレヴンスで『船上パーティ』を開くから何が何でも参加しろ、という、半ば脅迫めいた内容だったと記憶している。
どうやら彼女は夫と明け方まで飲み比べをしていたらしく、酔った勢いで思いついた企画だったのだろう。
数時間後、丁寧な謝罪のメールに、しかし企画は続行する旨も明記されていた。
それを見たヴァンツァーの秀麗な美貌には明らかな不機嫌の色が浮かび、シェラの温和な天使の美貌には困ったような苦笑が刻まれた。
なぜならそこには、追伸として『参加者は盛装を義務づける』と書かれていたからだ。
どうやら、彼ら夫婦は目の保養がしたいらしい。
しかも誰から聞いたのか、シェラとヴァンツァーにはダンス披露までが義務付けられており、先ほどのワルツは、その練習だった。
断ればいいのだ。
酔っていたとはいえ、他人の迷惑を考えろ、とヴァンツァーはかなりご立腹だった。
それでも参加する事態に陥ったのは、ひとえに鶴ならぬリィの一声のおかげだった。
リィが参加するのなら、シェラが参加しないわけがないのだ。
ヴァンツァーはそれでも欠席を貫こうとしたが、シェラに説得されてしまった──と言うより、単にヴァンツァーが先に折れたのだ。
確認するまでもないことだが、ヴァンツァーは非常に多忙な毎日を送っている。
シェラから見たら十分ワーカーホリック気味なのだが、本人はそれが普通だと認識しているようだ。
以前のように『暇は敵だ』を合言葉に生きているわけではなかったが、長年培った意識はそうそう簡単に剥がれ落ちてはくれないらしい。
下手をすると、二、三ヶ月は朝から晩まで休みなしで仕事をしている。
職業ではあるが、ヴァンツァーにとってデザイナーとしての仕事はほとんど趣味なのに、だ。
働かずとも楽に暮らせるだけの貯えは、十二分にあるのだから。
そのためかどうかは判然としないが、さすがに自分と同じスケジュールをアトリエのスタッフにまで強要しているわけではなかったが、スタッフの代わりにその様子を見ているシェラは驚き呆れて頭を抱えた。
休め、と言うと、分かった、と返事をしておきながら、数分後にはデスクに齧り付いているのだから、もうどうしようもない。
そんな状態に、この騒ぎである。
盛装して行くとなると、当然ヴァンツァーがデザインした服ということになる。
というより、ヴァンツァーの頭には元から既製品で済ませる気がない。
自分はともかく、特にシェラは、だ。
期間は二週間。
仕事があり、それだけにかまけていられないため、物理的に言えばかなり厳しい。
無理だと言っても過言ではない。
もしパーティ用の服だけに時間を費やせるなら、一着作るのに仮縫い含め、縫製だけならば三日あれば足りる。
作業を分担すればもっと早くできるかもしれない。
しかし、これも当然だがヴァンツァーは今までに自分が作ったデザインで間に合わせる気も、さらさらなかった。
加えて、生地だろうが宝石だろうが本物しか使わないため、極端に材料が入手困難だ。
かと言って、自分の作品に偽物を混ぜるのは到底我慢できることではなかった。
その程度には、ヴァンツァーは自分の仕事に自信と誇りを持っているのだ──たとえ半ば趣味だとしても。
「別に今までに描いたものでもいいじゃないか……サイズを直す必要もないし……」
不安なのか心配なのか分からない表情でそう呟くと、藍色の視線に軽く睨まれた。
「せ、せめて仕事を減らすとか……」
語気が弱くなるのは、そんなつもりが相手にないことを、シェラは良く知っているからだ。
「エマもリックも、みんな自分たちに任せろ、と言ってくれたじゃないか。少しは自分のところのスタッフを信用したらどうだ?」
「別にあいつらの腕を侮っているわけではない。優秀なスタッフだ」
この男が『優秀』と認める基準が尋常でなく高いことを知っているシェラは、「だったら」と言葉を紡ごうとした。
「──が、約束の期日を遅らせるわけにもいかない。そうすると、あいつらは残業するか、仕事を家に持ち帰らなければならなくなる」
「それでもいいと──」
「それではあいつらとの労働契約に反する」
「本人たちがいいと言っているんだ。一度くらい構わないだろうが」
段々苛立ってきたシェラはゆっくり立ち上がった。
「俺が今まで通りに仕事をこなせばいいのに、そんなことをする必要はないだろう?」
シェラはひどい頭痛に襲われた。
「……じゃあ、せめて私たちの服を──」
「俺は自分の仕事に対して、一切手を抜く気はない」
素晴らしい職業意識と言えた。
楽して稼ごうという風潮の時代に、ほとんど天然記念物並みの価値観だ。
「期日までに間違いなく仕上げる」
シェラに感化されたわけではないだろうが、ヴァンツァーもなかなかの負けず嫌いだった──彼の場合、むしろ限界への挑戦を楽しんでいる感があったが。
「──とは言うものの、俺よりもお前の負担の方が大きい。卒論に支障が出るようならば俺ひとりで何とかする」
気遣ってくれているのは分かったが、言われたシェラは目に見えて鋭くなった視線を投げる。
「お前、それで私が礼を言うとでも思っているのか?」
予想していた反応に、ヴァンツァーは肩をすくめた。
「まさか。だが今のお前が一番に優先すべきなのは学業だからな」
「分かっている。だからこの仕事をそのまま論文にしようと思っているんだ」
シェラは服飾専攻で、今年卒業年次だ。
家事も洋裁も得意なので、単位を取ることにはなんの支障もなかったが、さすがに卒業論文ともなると生半可なものを出すわけにもいかない。
「構想はできているのか?」
非常に優秀な先輩は、時々シェラの勉強にも付き合ってくれる。
多忙なことは分かっているし、彼自身が優等生なので、シェラもそうそう声をかけたりはしない。
それでも質問をすれば打てば響くように答えが返り、またその内容が分かりやすく、勉強の効率が上がるのだ。
「主題はな。ものが溢れ安価で手に入る時代に、人はなぜうちのように高額な商品に手を出すのかを考えようかと思う」
貧乏性というわけでもあるまいに、シェラは着飾ろうとしない。
無論、何もせずとも稀有な美貌を備えていることに変わりないのだが、着飾ればその美しさは何倍にも膨れ上がる。
しかし、あまりにきらきらしい服装を彼は自分からしようとは思わない。
王宮に勤めていたこともあるのだから、世のご婦人が自分を飾り立てることに執心なのは知っている。
どんな高価な布地や宝石でも手にいれたがるし、またそれを見せびらかすことに並々ならぬ情熱を注ぐことも知っている。
それでも、かなり優秀な鑑定士か機械でなければ『本物』と区別つかない『偽物』を作り出せるこの世界において、どうして一般的な中流階級の家庭の人間までもが、高価なものを欲するのか。
なかなか理解に苦しむ現象だったのだ。
「なるほど。金持ちの道楽としてだけではなく、家計に余裕のない者や、若い学生までもが一級品に拘ることが不思議なわけか」
頷くシェラ。
相変わらずこちらの意図を正確に汲み取ってくれる男は、非常に話しやすい相手だった。
「おそらく人々の心の内に、自然のままの本質を求める思いがあるのだと思う。いつになっても風化しない、変わらない価値を欲しているのではないかと仮定したんだが……」
「着眼点は面白いが、難しいな」
これにも頷いたシェラだった。
「私は心理学は齧った程度だからな。そもそも服飾の論文として適切かどうかも判然としない」
「そうこだわる必要はないだろう。あらゆる学問はどこかで繋がっているものだ。俺も普通の文献から論文を書き上げることに飽きて、小説を読んで作成したこともある」
「小説で?!」
これにはかなり面食らったシェラだった。
どうやってそんなもので論文を書き上げるのか。
「面白かったぞ。小説というものには、作者の生きた時代が反映されるからな。価値観や時代背景を踏まえて、登場人物の言動から歴史を構築していく手法を取り入れてみたんだ。考え方の幅が広がって、多面的にものごとを捉えられるようになる」
「…………」
純粋に感嘆した。
自分では決して思いつかない手法だ。
ほんの少し目を横にずらせばいいのに、それができない。
わずか紙一重。
それがこの男と自分の力量差。
しかし、随分と厚い紙一重だった。
「俺よりひどい仏頂面をしているぞ」
微かに笑いながらヴァンツァーが立ち上がった。
「……お前は最近よく笑うな」
言われて、ピアノを片付けようとしていた手を止め、藍色の視線を流す。
「相手による」
そうしてまた動作を再開しだした。
「でもお前、頭が悪い人間は嫌いだろう?」
「ああ」
「それなら、私のことも嫌いなはずだ」
「不完全な証明だな。第一にお前は馬鹿ではない」
「お前ほど勉強ができるわけでもない……」
「頭の良し悪しは、勉強ができるか否かで決まるものではないぞ」
頭の悪い人間と会話をすると疲れるから嫌いなのだ。
一切の無駄を省くように育てられた行者にあっても異常なまでに、彼は無意味なことが嫌いだった。
「言っている意味が分からない」
だから、こうやって質問されることも、好きではないはずなのだ。
「頭が良いとは、頭の回転が速いことだ。言語理解力の高さ、状況認識の速さや確かさ、機転が利くかどうかもそうだな。それに対して勉強は要領だ。必要な情報を入手して解答を導き出す作業は、慣れればいくらでも速くなる」
「まだ分からない……」
一度で理解してもらえないことも、同様に嫌悪しているに違いない。
「要するに」
軽く息を吐くと、シェラの頭をポン、と叩いた。
「お前はもう少し自分を認めた方がいい、ということだ」
一瞬目を瞠った後、シェラは苦虫を噛み潰したような顔になる。
「一番意味が分からないぞ。お前、私の頭が悪いから、説明することを放棄したのか?」
「逆だな。意味が分からなかったのなら、それは俺が悪い」
「?」
首を傾げたシェラに、ヴァンツァーは形の良い口を歪める。
「完全に理解できる語彙で構成された台詞が理解できないのなら、それは説明者に全面的な落ち度がある。つまり、今のはお前の能力如何ではなく、俺の力量不足だ」
「そんなこと──」
「お前は、自分よりも俺の能力のほうが高いと思っているのか?」
悔しいことは確かだが、それが事実でもあるので、シェラは頷いた。
「だったら、お前を認めている俺の言葉を信用しろ」
「…………」
思わず押し黙ってしまった。
この辺が、自分がこの男に勝てない所以なのだ。
駒を動かす前から、この男はチェックメイトしている。
きっと、自分の言動パターンは読みやすいのだろう。
そう考えたら無性に腹が立った。
「──私は今からへそを曲げる」
妙な宣言と共に、シェラは部屋の出入り口に向かう。
が、ドアに辿り着く直前に背後から腕を取られた。
「さて。キスでもすれば直るかな?」
「お前と一緒にするな。第一お前とキスするのは嫌なんだ」
この言葉に、ヴァンツァーは不思議そうに首を傾げた。
「下手だと言われたことはないが?」
「だろうな」
大真面目なヴァンツァーに、こちらも大真面目にシェラが返す。
そのままくるり、と振り返り、藍色の瞳と視線を合わせる。
「中毒になりそうで困るんだ」
悪戯っぽい笑みを浮かべると、驚いたような表情をしていたヴァンツァーが、艶やかな笑みを浮かべた。
「──ふむ。では俺なしでは生きていけないわけか」
「馬鹿を言うな。お前が私なしで生きられないんだろうが」
「素直じゃない」
言いながらも、ヴァンツァーは低く笑っている。
銀髪に指を梳き入れると、くすぐったそうに紫の瞳が細められた。
「先日の授業で、自分の意見をコロコロ変えるな、と習った」
「それは正しい」
「だからお前が負けを認めろ」
「別に構わんが、そうするとお前は禁断症状に苦しむことになるな」
楽しそうな声音に、途端にシェラの眉間に皺が刻まれる。
「……どういう理屈だ?」
「中毒症状を治してやろうという親切心だ」
明らかにそんなことは思っていない顔つきをしている。
「性格が顔に出ているぞ……」
それでも極上の艶を誇る美貌に変わりなかったが、おあずけをくらった犬のような現状からは、何としても抜け出したかった。
「お前は捨て犬みたいな顔をしている」
「……なら拾え」
「随分口の悪い犬だな」
「調教し甲斐があるだろう? ほら、早く拾え」
小首を傾げ、両手を広げて訴えるその様子に小さく息を漏らすと、成人男子としてはかなり軽い体を抱き上げた。
「……やはり軽くなった」
僅かに顔を顰め、ボソッと呟いた。
「そうか?」
「太れ」
「それも見苦しいだろうが」
「抱き心地が悪い」
「……それはセクハラと言わないか?」
もっともな言い分にも、ヴァンツァーはたじろいだりしなかった。
「知らないのか? 本人が嫌がっていなければ、セクハラの定義からは外れるんだ」
「……呆れた自信だな。それにしても、そんなに減量したつもりはないんだが、よく分かるな……」
「触れば分かると言わなかったか?」
「……無駄に触っていたわけではなかったのか……」
驚いたように呟くと、ヴァンツァーの顔が嫌そうに歪んだ。
「お前、本当に俺を何だと思っているんだ?」
「お前こそ、抱き心地だ何だと、私をぬいぐるみか何かと勘違いしていないか?」
本当に、心から呆れてそう言ったはずなのに、ヴァンツァーは緩く口端を吊り上げている。
「捨て犬の次はぬいぐるみか……どちらでもいいが、拾得物の礼は二割が相場だ。何を貰おうかな」
「見返りを求めて拾い物をするのか?」
疑わしげな顔でそう告げると、ヴァンツァーは悪びれもせずに口端を吊り上げた。
「拾われたままでは寝覚めが悪いだろう?」
あくまで『親切』だという姿勢を崩そうともしない。
「お前は呆れるくらい律儀だからな」
なんせ、いまだにヴァンツァーから貰ったものをツケとして返そうとしているのだから、その律儀さたるや尋常ではない。
「とりあえず、体重を戻せ」
「ふかふかしたのがいいなら、女性を相手にすればいいだろう?」
不思議そうに呟かれた言葉に、ヴァンツァーが顔をしかめる。
「……本気か?」
「? 意味が分からない」
「俺の台詞だ。お前、俺がそこら辺の女を相手にすればいいと思っているのか?」
この言葉に、シェラはわずかに頭を傾けた。
「……そりゃあ、手当たり次第というのでは感心しないが、多少はいいんじゃないか?」
「──……そうか、分かった」
無機質な声でそう告げると、神経を鋭敏に鍛えた無神経な元・行者を解放したのだった。
「ヴァンツァー?」
実情がどうであれ、まるで純粋可憐な少女のような顔で、シェラは視線を上げた。
「何だ? 機嫌悪くしたのか?」
ならば、と思い、いつもの調子で斜めになったご機嫌を真っ直ぐに立て直そうと、手をヴァンツァーの頬に伸ばす。
途端に手首を掴まれた──かなり、強い力で。
驚いて、一旦自分の手を見つめ、その後藍色の瞳を見ると、いつになくそこには強い光が宿っていた。
「やめておけ」
きつく掴まれた手首は確かに痛かったが、それ以上の痛みをシェラは感じていた。
何だか、拒絶された気がしたからだ。
いや、実際ヴァンツァーはシェラが触れることを拒絶したのだ。
「……どうした?」
本能的な恐怖を感じた。
命に係わるような危機ではない。
だが、自分の命なんかよりももっとずっと大切なものに対する危惧だった。
「……やめておいた方が、いい」
押し出すような声音だった。
必死に、搾り出すような。
しかし、シェラにはそんなことは分からない。
ただ拒絶された事実だけが頭を占める。
「……最近いつもそうだ。言葉はいくらでもくれるし、さっきみたいに触れてくるけど……」
時々妙に冷たくなる。
ヴァンツァーが、醒めた目で自分を見ている気がするのだ。
だからシェラは思い切り罵ったのだ。
言葉と軽い触れ合いで満足させられてしまう自分も嫌だったし、煩く騒げばこの男が感情を波立たせるのではないかと思ったから。
「熱下がってから、お前、変だ……」
何だか泣きそうだった。
今みたいに口づけを拒絶されることも少なくない。
今までそんなことはなかったのに。
大人しく機嫌を直してくれていたのに、それを拒まれた。
暗に自分には、この男の機嫌を直す力も資格もないと言われているようで嫌だった。
あちらの世界にいるとき、リィに『元気付け』のための口づけをしてもらったことがあった。
それと同じことをしているだけなのだ。
ちょっと特別な力のある口づけ。
リィのものほどの効果があるとは思っていないが、それでも気休め程度にはなると思っていた。
実際、ヴァンツァーは機嫌を直しているように見えたのだから。
だが今は違う。
リィのものと同様、純粋な好意からのものなのに、それを受け取ってももらえない。
本当は、本人が自覚している意味合いと、深層心理との間には、僅かな差異があるのだけれど。
「そんなに私のことが嫌いなのか……?」
ちょっと前まで自分から仕掛けてきたくせに。
「──馬鹿なことを……」
その言葉にカチン、ときた。
「やっぱり馬鹿だと思ってるんじゃないか!!」
「誤解だ」
「言い訳するな! 男らしくないぞ!!」
「シェラ」
癇癪を起こした子どもを宥めるように、銀色の頭に手を置こうとした。
「触るな! 子ども扱いもするな! 何なんだお前! 何が気に入らないんだ?! 言いたいことがあるなら口で言えばいいだろうが!!」
勢いよく、伸ばされたヴァンツァーの手を打ち払うと、感情のままに声を荒げた。
「その上最近どんどん仕事が忙しくなってきてるじゃないか! 病み上がりなのに、全然体を気遣わないし……! 今日だってお前の息抜きになればと思ってダンスの練習に付き合ったんだ!」
だから、この男が踊れることが分かっても何も言わなかった。
自分も楽しかったし、この男もひと時の休息を楽しめれば、と思ったからだ。
ピアノだって、もっともっと聴いていたかった。
だから、時間を取ってくれると言われたときは、本当に嬉しかったのだ。
「そんなに俺のことが心配か?」
揶揄するように薄く笑ったヴァンツァーだったが、音響効果の良い室内に響いた『パシッ』という軽い音に驚いた。
そう。
まず音に驚いたのだ。
彼にしては珍しく、一瞬頭の中が真っ白になる。
痛みを感じたのはその後。
左頬に、痺れるような熱を感じる。
容赦ない力での平手打ちを食らったのだと、気付いたのはさらにその後だった。
「心配しちゃいけないのか?! 私には、お前を気遣うことも許されないのか?!」
思いがけない攻撃に驚いた顔のままシェラに視線を移し、さらに目を瞠る。
「シ──」
「怖いのに……こんなに、怖いのに……何で、お前は、分かってくれないんだ……!!」
この男が喪われるのではないかと思ったとき、立っていられないほどの戦慄が駆け抜けた。
あんな恐怖を感じたのは、たった一度だけ。
ヴァンツァーを殺めたときに感じたきりだった。
高熱の男を前にして、並みの医者よりも医療の心得があるはずなのに、まったく動けなかった。
「お前がいなくなることより怖いことなんか、ないのに……!!」
大きく美しい紫の瞳からは、透明な雫が溢れていた。
長い銀の睫毛が涙に濡れるが、溜まる間もなく零れ落ちる。
ヴァンツァーは思わず手を伸ばしそうになって、反射的にその手を引いた。
何かに、怯えるかのように。
殺人の専門家として長いこと生きてきた彼が、何に怯えるというのだろうか。
かつての仕事柄、また一度死んでいることもあり、彼は普通の人間と違って死に対して恐怖したりしないというのに。
そんなヴァンツァーの様子を見て、シェラの顔に自嘲的な笑みが浮かぶ。
「──もう、触れるのも、嫌なのか……」
「ち──」
「勝手にしろっ!!」
壁に向かって思い切りヴァンツァーを突き飛ばすと、シェラは部屋から駆け出した。
壁に背中をしたたかに打ちつけたヴァンツァーは、一瞬息を詰まらせたが、すぐにシェラの後を追おうとした。
「──…………」
が、何を思ったのか、足を止める。
いつもなら、何をおいても駆け出すはずなのに。
泣いているシェラを放っておくことなど、彼にできるはずもないというのに。
だが、後を追わない──否、追えない。
「…………」
壁に背をつけると、そのままズルズルと床に座り込んだ。
片方の膝を立て、片腕で抱える。
その腕に頭を置いて項垂れた。
漆黒の髪に手を入れ、そのままきつく手を握った。
引きつるような痛みを感じているはずだったが、そんなことは気にもならなかった。
ゆっくり、億劫そうに顔を上げると、ひっぱたかれた頬に手を沿わせる。
もう、痛くはなかった。
手のひらを返し、手の甲で頬に触れる。
もう、頬は痛くなかった。
「…………」
声には出さず、唇だけが動き何事かを紡ぐ。
そのときだった──。
『───────』
呼ばれた気がした。
薄くはないドアと壁があるのに、確かに呼ばれたと思った。
その直後、派手な落下音が耳に届く。
衝撃が床から伝わってくるような気までした。
「──っ」
そんなことはあるわけない。
あの銀色は確かに鈍感だが、それは彼の運動神経についての感想ではない。
行者である彼は、自分と対等にやりあえるほどには鋭敏な感覚と、十分な運動神経を有している。
そんなこと、自分が一番良く分かっている。
だから、あの音はあの銀色が原因ではない。
そう、思うのに。
そうに、違いないのに。
言い知れぬ不安感に心臓を締め付けられ、全力で銀色が辿っただろう道をひた走る。
想いと同じほどに速く動かない自分の足に、盛大な舌打ちを漏らして上の階──ここは地下なので一階だ──へ続く階段に向かう。
そこへ続く角を曲がったところで、ヴァンツァーは足を止めた──否、縫い付けられたように動けなくなった。
「シ────」
血の気が引く、とはこれを言うのだろうか。
かつて感じたことのないひどい眩暈と喪失感に襲われる。
が、倒れている場合ではない。
自分まで倒れるわけにはいかないのだ。
階段の下に倒れているシェラの元に駆け寄ると、聞いたこともないくらい大きな声でその名を呼ぶ。
「シェラ! シェラ!!」
軽く頬を叩くが、決して横たわる体を揺らしたりはしない。
脳震盪を起こしていたりしたら、それは命取りになる。
だから、内心の焦りとは裏腹にゆっくりと仰向けさせる。
気道を確保し、最初に呼吸を、次に心臓が動いているかを確認する。
どちらも多少弱くはあったが正常なようで、ほんの少し安堵する。
出血を伴うような外傷はないようだ。
しかし、打撲くらいはしている可能性がある。
頭を打っていたら、それこそ危ない。
出血がない方が恐ろしいこともあるのだ。
何にせよ、早急に病院に連れて行った方がいい。
できるだけ動かさないように軽い体を抱き上げると、ヴァンツァーは足音もさせず、しかしかなり早足で地下車庫へと向かった。
乗りなれた黒いエア・カーの助手席を目一杯倒し、静かにシェラを横たえると、自分は運転席に乗り込む。
ヴァンツァーの運転は、いつも制限速度をきっちり守る安全運転だ。
発進も停止も、慣性の法則をまったく感じさせない。
だが、今日は違った。
発進のときこそ丁寧だったものの、常の彼にはあるまじき速度で公道を飛ばしている。
深夜に近い時間であったために交通はまばらであったが、各所に設けられた速度感知機械が測定したヴァンツァーの車の運転速度は、制限速度を軽く二倍上回っていた。
信号もぶっちぎっている。
重ねていうが、ここは一般道だ。
彼は医師免許を持っていない。
だから、緊急時における速度制限免除の特権も持っていない。
すぐに警察が出動するはずだったが、そんなことはどうでもいい。
自分が捕まろうが、運転免許が取り上げられようが、構うことはない。
だが、それはシェラを病院に送り届けてからだ。
それまでは何としても振り切らなければならなかった。
今のヴァンツァーの頭に、救急車に任せる、という選択肢はない。
病院への道筋で引き渡すならともかく、手をこまねいて待っているわけにはいかないのだ。
そんなことを考えながら、ヴァンツァーは車内端末に手を伸ばす。
すぐに見知った顔が現れる。
「おう、こんな時間にどうしたよ?」
それは言わずと知れた旧知の元・死神、現・外科医の顔だった。
「今から行く」
簡潔にすぎる一言に、しかしレティシアは何か思うところがあったのだろう。
「今度はお嬢ちゃんかよ」
こんなに顔色を変えているヴァンツァーを見たことがなかったから、すぐに気付く。
「階段から落ちたらしい」
「らしい?」
「見ていなかった」
「らしくねえな」
「──……本当にな」
秀麗な顔に浮かぶ冷笑は、間違いなく自身に向けられたものだった。
「外傷はなく、呼吸、脈拍ともに正常」
淡々と告げているようだった声が、そこでふと途切れる。
「──ただ、意識がない。何度呼んでも反応がないんだ」
「後どれくらいで着く?」
「五分」
「……おめえよお、五百キロ以上出してんだろ、それ」
「何か問題でも?」
本気でそう思っていることは確かだった。
「…………捕まんなよ」
言うだけ無駄だと分かっているだけ、レティシアは誰よりもヴァンツァーの心情を理解しているのかも知れなかった。
「誰にものを言っている? 俺はこれ以外には捕まらん」
笑みすらも含んだ声音だった。
「おーおー、そりゃあどーもゴチソウサマ!」
怒ったように通信を切ったレティシアだったが、そうでないことは、それこそヴァンツァーが一番良く知っていた。
「…………」
前方を凝視したままシェラの銀髪に軽く触れると、ヴァンツァーはさらに加速させたのだ。
そうして、実際には五分もかからずに連邦大学病院へと到着した。
そして、案の定必要な検査機械や処置室の準備をすっかり終えていたレティシア以下の病院関係者にシェラを引き渡すと、煩くなってきたサイレンの音と赤い光に目を向けたのだった。
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