「ヴァンツァー。お仕事中悪いんだけど」
にっこりと微笑んで声をかけてくるのは、すらりとした長身に、女性ならば誰もが羨むだろう完璧なプロポーションを仕立てのよいスーツに包んだ、二十代半ばといった感じの美女だった。
栗色の髪を頭の上でまとめた、若葉色をした少しきつめの目元が印象的な女性だ。
赤い口紅も、下品な感じは微塵も与えない。
街を歩けば半数以上の男性の目を引くに十分な、魅力的な女性である。
今現在ヴァンツァーに向けているように微笑めば、そのきつい印象を与える視線もやわらぐ。
「何だ?」
アトリエで一刻千金の思いでデスクワークに専念していたヴァンツァーだったから、僅かに──あくまで本人の自覚だが──眉間に皺が寄るのも仕方ないかと思えた。
「あらあら、いい男が台無しね」
「……そんなことを言うために声をかけたのか?」
明らかに腹を立てている。
普通の女性ならば、彼の持つ美貌を差し引いても近寄りたくはないと思ったろう。
それくらい、あからさまに怒気を露わにしていた。
「いいえ。いつ見ても忙しそうにしているから、一言だけ言いたいことがあるんだけど、いいかしら?」
「聞かないといつまでたってもそこにいる気なんだろうが」
この仕事を始めてからの付き合いだ。
さすがに彼女の気性は分かっているのか、諦めたように息を吐くと椅子に深く腰掛けなおした。
「話が早くて助かるわ。私、あなたのそういう頭の良いところ、好きよ」
普通の男性ならば飛び上がって喜びそうな満面の笑みを浮かべる美女にも、ヴァンツァーは肩をすくめるだけで済ませる。
「俺の気が変わる前に、とっとと用件を言え」
そんな愛想のかけらもない様子にも、美女は笑顔を崩したりしなかった。
「じゃあ言うわね」と、わざわざ前置きして切り出した。
「今すぐ帰ってくれないかしら?」
陽だまりのような笑顔はそのまま、しかしその声音で室温は絶対零度まで下がってしまった。
「エマ。俺は仕事中だぞ?」
「ええ。良く分かっているわ。今のあなたは、ありがたいことに『普通の人間と同じ』処理能力で、山積みの仕事に取り掛かっているのよね?」
「……」
「いつもそういう仕事の仕方をしてくれていれば、シェラの苦労だって減るでしょうにねえ」
にこにこと絶えることのない笑みで、しかしかなり辛辣な言葉を口にする。
「……なぜ今ここであれの名前が出てくる?」
この言葉で、初めてエマと呼ばれた美女の表情が変わった。
「自覚がないの? あなたが無茶苦茶な仕事の仕方をするから、あの子、元から細いのに、心配のしすぎで痩せ細っていってるんじゃないの」
女性ならばそのほとんどが心を奪われるようなヴァンツァーの美貌を前にしても、エマの態度が変化することはなかった。
別に彼女の美的感覚が他人とずれているわけではない。
むしろ彼女の感性は非常に豊かで、こよなく芸術を愛する、このアトリエでもっとも優秀なスタイリストだった。
だから、彼女はヴァンツァーの顔はそれとして好きなのだが、だからといって心を動かされることはない、かなり稀有な人物と言えるのだ。
「俺のせいで痩せた?」
好意を持ってはいるハズの男が本当に不思議そうに首を傾げる様子に、エマははしたなくも舌打ちした。
「あらやだ。本当に自覚がないの? あなた、顔は極上だけど、中身は最低ね」
「……お前は口が悪い」
「ありがとう」
再び出来の良い笑顔を向ける。
「褒めてもらったお礼に、ひとついいことを教えてあげるわ」
腕組みをしてふんぞり返ると、若葉色の瞳を煌かせて、美女は一言こう言った。
「いつまでも傍に居ると思わない方がいいわよ?」
「…………」
珍しくもヴァンツァーが目を瞠るのに気付かないふりで、エマは言葉を続けた。
「あんな綺麗でいい子が、あなたみたいな人格崩壊者の隣にいてくれるなんて、奇跡よ奇跡。分かる?」
「俺の人格がいつ崩壊した?」
そう言うと、エマが大きくため息を吐いて肩をすくめた。
「薄気味悪いくらい仕事熱心なあなたともあろう人が、心配で心ここに在らずなクセに無理して出てきて仕事の効率下げてる辺り」
「…………」
「あなた、何考えてるのか分かりづらいって、言われない?」
その通りだった。
つい先日話題の銀色に言われたばかりだ。
「あんまり顔がいいと、それだけで大抵の女は落ちるから、楽してきたんでしょうね」
あながち間違いとも言えなかった。
もちろん『任務』はそう容易いものばかりではなかったが、いつの場合も彼の類稀な美貌がものを言ったことは確かだ。
エマはヴァンツァーやシェラや、ついでにレティシアが暗殺を生業にしていたことはもちろん知らなかったから、そこまで分かれば大したものと言えるだろう。
「……お前も、俺がそれだけの男だと思ってないか?」
「も? あら、あなたシェラに三行半突きつけられたの?!」
何だか嬉々としているような声音だった。
「……どういう思考回路をしている」
ヴァンツァーは頭を抱えたくなった。
「だって、シェラにそう言われたんでしょう? あら、あの子ったらやっぱり可愛いわ。ちょっとからかっただけでもクルクル表情変わるから楽しいのよね、誰かさんと違って」
笑顔を崩さないでそんなことを口にする辺り、かなり強心臓な女性だ。
「あまりあれで遊ぶなよ」
「やだ。男の嫉妬って、見苦しいわよ?」
驚いたように目を瞠るエマに、ヴァンツァーは冷たい視線を投げかけた。
普通の女性ならば怯えるだろうその視線にも、彼女はびくともしなかった。
「そんな顔するくらい大事な子だったら、こんなところにいるべきじゃないわ。とっとと病院行ってきなさい」
「仕事が遅れる」
「あなたは一週間くらい休みを取って丁度いいのよ。いいこと? シェラが全快するまでに戻ってきたら私、辞めさせていただきますから」
自分がいなくなったら困ることを疑ってもいない口調だった。
確かに彼女に辞められると困る。
だが、エマがそんなことを言うのは、彼女がシェラに好意を持っているからに他ならない。
「脅迫か?」
薄く笑みを作るヴァンツァーに、エマは負けじとその美貌に笑みを刻んで対抗する。
「好きにとって。ただ、私としては居心地の良い職場で働きたいわけ。いまさら無能な上司にこき使われるのもまっぴらだし。その点ここのスタッフは優秀で、あなたのコンセプトも私好みだわ。時々可愛らしい銀髪の天使も現れるし」
「エマ」
「あなたとしても、数少ない女友達を失くすのは惜しいでしょう?」
駄目押しとばかりに口にされた一言に、ヴァンツァーは深いため息を吐いた。
「……まったく。貴重な人材だな、お前は」
「当たり前だわ。これでも私に出資したいってスポンサーは後を絶たないのよ?」
「俺の前で引き抜きの話か?」
珍しくヴァンツァーが楽しそうに笑う。
女性の前では、まずお目にかかれない表情だった。
「そう。だから、それが嫌だったら、早くあの子のところに行ってあげてちょうだい」
真剣な表情だった。
真摯な声音だった。
だから、ヴァンツァーはじっとエマの瞳を見つめ、その視線が揺るがないことを確認したのだ。
「絶対に期日を遅らせるなよ」
この台詞に、エマはため息と共に天井を仰いだ。
「だから、眉間の皺三割増し、仕事の効率五割減の今のあなたにいられる方が仕事しづらいのよ。少しは自分のスタッフを信用したら?」
その言葉にヴァンツァーは低く笑った。
「同じ台詞をあれにも言われた」
「へえ? で、何て答えたの?」
興味津々といった風に、エマはヴァンツァーのデスクに身を乗り出した。
「企業秘密だな」
その言葉で満足したのか、エマはちいさく笑うと「ケチね」と呟いた。
シェラが入院してから今日で二日。
言うまでもなく即座に免許を取り上げられたので、ヴァンツァーは病院まで仕方なくタクシーを使った。
実をいうと愛車も手元にない。
彼のエア・カーはどうして車検を通るのか不思議なくらいの改造を施していた。
市販されている車種の中ではもっとも性能の高い車だから、本来ならば改造する余地はない。
別にヴァンツァーが改造マニアというわけでもない。
車が特別好きなわけでもない。
ただ、『もっと高い性能が得られるのではないか』と思ってしまったのだ。
最高の性能を自分の手で更新できたら面白い、と興味を持ってしまったのだ。
そのおかげで、彼以外には運転できない車が出来上がったわけだ。
それでも、法律に触れるわけではないギリギリの改造であるから、それを理由に警察にお泊りしているわけではない。
もうひとつ、別の理由があった。
タクシーを降り、連邦大学病院の敷地内に足を踏み入れる。
痛いほど真っ白な外壁が、視覚的に清潔さを強調している。
しかし、その潔癖な印象を与える建物の周囲を色とりどりの花々で覆い尽くすことで、やわらかさをも醸し出している。
病院というよりも、ホテルと言った方が納得できるような錯覚を覚える。
そんな大学病院の正面入り口にある機械の受付を通り、指定された病室へと向かう。
そこは個室らしい。
能率が上がらないとはいえ一般人並みの仕事をしていても、レティシアとの連絡は取っていたヴァンツァーだから、シェラの容態を聞いてはいた。
軽い打撲以外に外傷はなく、脳波にも特に異常はないとのことだったが、意識はいまだ戻らないという。
これは今朝聞いたばかりの情報だ。
「…………」
おそらくは自分のせいでこうなったのだろうことは予想に難くなかったので、ヴァンツァーは現在かなりの渋面で歩いている。
エマにはああ言われたものの、非常に気も足取りも重いのだ。
それでも足音をさせないで歩くのだから、それは彼の癖なのだと言えた。
病室に続く廊下を歩く間にも、気分は暗くなるばかりだった。
彼は後悔というものをほとんどしないが、今回ばかりは自分を責めていた。
あの時自分があんな行動をとっていなければ。
すぐに、銀色を追いかけていたら。
過去の話に『もしも』を言うのは無意味だと分かっていても、つい思考はその道筋を巡る。
どうやって来たのかも分からなかったが、いつの間にか病室に辿り着いていたらしい。
入院患者のプレートを確認すると、一瞬迷った後、ノックして入室する。
「──よお、黒すけ」
軽く手を上げてくるのは、目に眩しい黄金の髪を長く垂らしたリィだった。
隣には黒髪の万年青年・ルウ。
ふたりはベッドから少し離れたソファに腰を落ち着けている。
そんなふたりと視線だけ交わして、ヴァンツァーはベッドに目を移した。
「…………」
少し驚いたように無言でこちらを見つめてくる瞳は見知った色彩をしていて、意識が戻っていることにかなり安堵した。
同時に、かなり居た堪れない気分にもなった。
「ようやく我慢の限界かい? よくまあ、二日ももったな」
楽しそうにそう声をかけてくるレティシアは、ベッドの真横でシェラの容態をチェックして手元の端末に書き込んでいる。
「エマに追い出された」
部屋の入り口に背を預けたまま、ヴァンツァーは動こうとしなかった。
なんとはなしに、シェラに近づくことが躊躇われたのだ。
無事なら、それでいい。
「あはは。美人な女はわりときつい性格してるからなあ。大方仕事が手につかないお前みて、イライラしたんじゃねえの?」
図星だったが、それを顔に出すヴァンツァーでもなかった。
「あいつ自身、銀色が心配だったようだな」
「あらヒトゴト?」
クツクツと喉の奥で笑うレティシアを意図的に無視するヴァンツァーに、リィが声をかける。
「それでもちょっとやりすぎだぞ、黒すけ」
「君はキレるとすごいことしでかすよねえ……」
呆れたような、それでいて感心したような口調に、ヴァンツァーは肩をすくめた。
「あんたたちの口からそんなまともな台詞を聞く日が来るとは思っていなかった」
相変わらず『目指せ、一般市民』が合言葉の無謀な挑戦者たちは、この上なく目立つ外見を有しておきながら、極力穏便に生活しようと心がけていた。
だからヴァンツァーの言葉は、リィたちの言葉がまっとうであることに向けられたものではない。
「あんたたちだって、相方が危なくなったら魔法でも何でも使うだろうが」
魔法などという反則技を使わない──使えないと言った方が正しいが──だけ、まだ自分は十分『一般市民』の範疇に収まっているとヴァンツァーは自覚していた。
「時と場合による」
言うのはリィだ。
本人の意に沿わない状況で、尚且つ魔法を使うことが許された場合に限ればそうするだろう。
「今回そこの銀色は、自分の意思とは関係なく危機に瀕したはずだ。それを打開するためには、救急車を待つより俺が運んだ方が早いと判断したから実行したにすぎないわけだが、この場合の俺の判断は適切ではなかったと言いたいのか?」
大学で法律学を学んだこともあり、この世界のルールにかなり順応してきた男であるが、不機嫌さは隠しようもなかった。
「ううん。誰でもそうすると思うよ。アクセル目一杯まで踏み込むだろうね」
緩く首を振ったルウは苦笑しながら、でも、と続けた。
「警察官を振り切っちゃったのは、ちょっとまずかったかな」
振り切ってしまったことそのものがまずいというよりも、振り切れてしまったことがまずかった。
だから、車を押収されたのだ。
速度そのものはレティシアの持つものでも弾き出せる。
しかし警吏の追及をかわせるほどの『動き』をする車となると、そうはいかない。
「別に何もしていない。速度オーバーは認めるが、普通に運転していたぞ。俺には魔法は使えんからな」
「それがまずいんだってば……」
困ったようにルウが頬をかく。
「警察官よりも速く巧みな運転技術は、誰も持ってないことになっているんだから」
「クーア夫妻は連邦軍よりも速く巧みに飛ぶようだが?」
「……彼らはいろんな意味で常識とはかけ離れてるから」
ルウに言われたくはないだろうが、ヴァンツァーはそんなことは気にしない。
「上には上がいるということを知らないのか?」
「知ってるか知らないかじゃなくて、知りたくないんだ。そんなことはあり得ないんだよ」
言われてヴァンツァーはかなり深いため息を吐いた。
「井の中の蛙もいいところだな」
その諺が警察関係者に向けられたものであることは言うまでもない。
嘆息したヴァンツァーは、一連の会話の中にシェラがまったく介入してこないことに気付き、視線を送った。
ビクリ、とその肩が震える。
「──銀色?」
旧友たちの前ではシェラを『銀色』と呼ぶのは、彼の癖だろうか。
上体を起こしてベッドに座しているシェラの元へ近付こうと一歩踏み出す。
「あ」
「おい」
「ちょっと──」
と、友人たちが声をかけ終わる前に、シェラは思い切り抱きついていた。
「おい、お嬢ちゃん!」
──何と、レティシアに。
「……………………」
何か信じられないものを見るような疑わしい視線を、ヴァンツァーはレティシアに投げかけた。
が、さらに信じられないものを聞いて、そんなことはどうでもよくなった。
「先生、この人、どなたですか?」
華奢とも言える体に抱きついたまま、顔だけレティシアに向ける。
予想通り、間違いなく聞き知ったシェラの声。
少し低めの女性の声のような、耳に心地良い声音だ。
だが、その声で紡がれる言葉の内容は、とてもではないが想像もできなかった。
「──……何だ。これは」
低い声でそう告げると、またシェラがビクッとして、レティシアにしがみつく腕に力を込めた。
「お嬢ちゃん、ちょっと苦しい……」
「あ、ご、ごめんなさい!」
言ってパッと手を離し、顔を赤らめる。
その様子を見て、ヴァンツァーはほとんど表情を変えないながらも、卒倒しそうになっていた。
青くなるならまだしも、赤面するとはどういう了見か。
「何だ、これは」
だから、彼としては滅多にないことだが、同じ台詞を用いて聞き返す、という愚を犯した。
「シェラ」
困惑したようではあるがきっぱりと言い切ったリィに、ヴァンツァーはそんなことは分かっている、という意味の鋭い視線を送った。
またまたシェラがビクビク震えている。
「ねえ、君、ちょっと怖い」
「そんなことはどうでもいい」
「相手がぼくたちならね。でも、怖がってるのはシェラなんだよ」
その台詞に、普段あまり表情を動かさない男が藍色の目を瞠った。
「……銀色……?」
呟いてシェラを見ると、ちょっと視線が合っただけですぐに目を逸らされた。
あまりと言えばあまりにあからさまな拒絶反応だった。
「レティー」
仕方なく医者に声をかけた。
「記憶喪失だな」
「見れば分かる」
「それだけだぜ。他は何の異常もない。脳波も正常だって言ったろう?」
「原因は?」
「おめえよお……あまりのことに鈍くなってんのは仕方ねえけど、分かってんだろうが。直接の原因は階段から落ちて頭でもぶつけたことだろうな。間接原因は、そんなもん患者の数だけあるぜ?」
そうだ。
そんなことは分かっている。
レティシアが全面的に正しい。
だからヴァンツァーは舌打ちした。
もちろん自分に向かってだったが、やはりシェラが過敏に反応する。
「……黒すけ。お前普段は気配隠すの上手いんだから、同じ要領でやればいいんだ」
そんなことも分かっている。
意識しなくても、気配くらい造作もなく操れる。
それこそ身体に染み付いた癖だ。
「黒ハリネズミだね」
ぽつり、とルウが呟いた言葉に、ヴァンツァーはかつて自分がシェラに言った言葉を思い出していた。
「見苦しいのは、俺か……」
言うと、くるりと踵を返し、病室を後にした。
誰も、声をかけられなかった。
「うーん……重症……」
「俺でも無理だな」
「ああ、医者でも温泉でもってヤツか?」
「王妃さんあんた、よくそんな言葉知ってんなあ」
感心したようなレティシアに声がかかったのはそんな時。
「あの……先生?」
シェラだ。
「……頼むから、その呼び方やめてくんねえか?」
鳥肌立てながら顔を引きつらせて懇願する。
「?」
首を傾げているシェラの様子は、レティシアを『普通』の医者として信用しているように見えてならない。
いや、実際『普通』の医者として信用しているのだ。
「あ、あの……不快な思いをさせてしまったのなら、申し訳ありません」
不安げに視線が彷徨う。
「でも、あの、じゃあ……どうしたら……?」
レティシアはしまった、と思った。
真実シェラは不安なのだ──あちらの世界に係わる記憶のすべてを、失ってしまったのだから。
「──レティシア」
「はい?」
「俺の名前。『先生』ってガラじゃねえからよ。レティーでいいぜ」
自分の胸にあるネームプレートを指して、ニッ、と笑った。
「……えっと……随分、かわいらしいお名前ですね」
明らかに女性の名前であるそれを、細くて小柄とはいえ、れっきとした男性が冠していることに戸惑ったようだ。
「それはお前も同じだろう?」
横からリィが声をかける。
「でもシェラは外見と一致するからね」
「レティーもかわいいぞ?」
「そーそー、俺ってかっわいいからよお、もおモッテモテ?」
大真面目な顔のまま人差し指で頬を指すレティシアに、シェラはちいさく笑った。
ちいさく、しかし長く笑い、目尻に溜まった涙を拭う。
「仲が、よろしいんですね」
にっこりと、しかしほんの少し寂しそうに呟いた。
「何言ってんだ、お前」
リィが、少し不機嫌そうにシェラのベッドに近付いた。
「え、あ、あの……」
目の前にいる太陽の化身のような綺麗な青年に圧倒される。
「お前とだって、仲いいんだからな」
そう言ってクシャクシャと頭を撫でてくる手に、なぜかシェラはひどく安堵した。
何だか知らないけれど、いつか誰かがこうしてくれた気がするのだ。
まったく、思い出せないけれど。
「…………」
それでも、シェラはその手の心地よさに、泣きそうになった。
「あーあ。エディ、泣かせたあ」
「まだ泣いてないだろう?!」
なんだかあたふたしている絶世の美貌の主に、シェラはすぐに好感を持った。
「あれ? 先ほどリィ、とおっしゃってませんでしたか?」
「言った。それが俺の名前だ」
「でも今……」
「それはルーファ専用。だから、絶対に呼ばないでくれ」
その言葉に、なんだか入ってはいけない雰囲気を感じ取って、シェラは無言で頷いたのだ。
記憶はなくしても、行者としての勘は健在なのかもしれない。
「あなたは、ルウでしたよね」
「そう。僕のルーファも、エディ専用だから、やめてね」
にこにことやさしく微笑む、一見女性だか男性だか分からない柔和な美貌の主にも、シェラは頷きを返した。
この人も、とてもやさしそうで、安心する。
「……あの……」
それでは、と思い、三者を見渡し誰にともなく声をかける。
「先ほどのあの人は、どなたですか?」
「黒すけのことか?」
「くろ──」
確かに黒髪に服装も黒一色だったが、『黒すけ』とはまた子どもっぽいニックネームだ。
「そう呼ばれてらっしゃるんですか? なんだか怒鳴りそうですけど……」
第一印象が悪かったのか、シェラは思い出しただけでもビクビクしている。
「そう呼ぶのは俺だけだけどな。でもあいつ、怒鳴ったりしないぞ?」
「そうなんですか?」
意外そうに大きく目を瞠る。
「そういや、黒すけが声荒げるのって聞いたことないな……レティーお前あるか?」
「ねえよ?」
あまりに早い即答だった。
「眉間に皺寄せるのは、しょっちゅうだけど」
言葉の内容とは違い、にこやかな笑みをたたえてルウが加える。
「呼ばれ方とか、そういうこだわりがないんだろうな」
「執着とかって、しな──」
しないよね、と言おうと思って、しかしルウはシェラを見た。
「?」
その視線の意味が分からずにシェラは首を傾げる。
「ほとんど、しないよね」
『ほとんど』をかなり強調して、ルウはそう言い直す。
「だから一回し出すと、手付けらんねえんだ」
カラカラと快活に笑うレティシアに、シェラは不思議そうな視線を投げかけた。
「そうなんですか? ちょっと……かなり、怖くて、何だか醒めた感じの方に見えましたが……?」
それを聞いたレティシアが、猫のような目をニイ、っと歪めた。
「いい目してるぜ、お前。でも、何にでも例外はあるんだ」
それにルウが乗ってくる。このふたり、結構仲が良いのだ。
「そうそう。結構子どもっぽいんだよね」
「そりゃあ、あんた。おひとり様限定だろうがよ」
「まあそうなんだけどさ」
と、楽しそうに会話する様子に、シェラは居た堪れなさを感じた。
「で、シェラはどうしてあの黒いのが気になるんだ?」
それに気付いたのか、リィが声をかける。
「え? あ、いえ……別に気になるとかではなく……あ、やっぱり気になるのかな……?」
「言ってみな」
再びリィに促される。
「いえ、ただ、あの人も、私の知り合いなのでしょう? どんな関係だったのかと思って」
「……………………」
一同沈黙してしまった。
まさか「お前が殺した人間だ」などと言うわけにもいかない。
あちらの世界の記憶は、一片たりとも残っていないのだから。
「みなさん?」
シェラは急に黙り込んだ面々を見回し、どうしたものかと、とりあえず声をかけてみた。
「あー……ああ。なんだ。あいつは、ヴァンツァー・ファロットっていう名前で……」
レティシアが、助けを求めるように、またその先を引き継いでくれ、といわんばかりにリィに視線を投げる。
リィはといえば、「俺かよ?!」と言いたそうな顔だ。
「えっと……デザイナーやってて……株で儲けてて……?」
どうにもならなくなったのか、相棒に視線を移す。
「すっごいお金持ちで、大学主席で出るくらい頭も良くて、あ、そうそう。ものすごい運動神経もいいんだよ!」
行者をしていた彼の身体能力を、『運動神経』と評せるところがルウのすごいところだ。
が、そんなことを知るはずもないシェラは、こわごわと呟きを漏らす。
「何だか、すごい方なんですね……とてもお綺麗ですし……」
「綺麗だと思う?」
ぴくり、と反応したのはルウだった。
「え? ええ……私はそう思いましたが、みなさんは違うんですか?」
長身に、鍛えられた体、決して女性的ではないにもかかわらず、麗しくもなまめかしいほどの美貌。
藍色の瞳は酷薄な印象を与えてきたが、それでも間違いなく『美しい』部類に入る容姿だと思ったのだが。
自分の容姿が美しい人はそれに慣れてしまって、審美眼が厳しくなるのだろうか。
「いんやあ? 滅多にないくらいの極上品だぜ、ありゃあ」
まるでフカヒレを褒めるかのような気安さで、苦笑しながらレティシアが昔馴染みの顔を思い出す。
「お嬢ちゃんあの顔好きかい?」
「お嬢ちゃん? そういえば、先ほどからそう呼んで……」
「ああ、あー……シェラ? シェラだな、うん。シェラ」
レティシアは何度もそう繰り返した。
「シェラは、あの顔好きかい?」
「……?」
どうしてそんなことを聞くんだろう、と思っているのは明白だった。
「好きか……と聞かれましても……大変お綺麗な方だという印象しか……初対面の方に失礼ですが、それ以上に怖かったですし……」
「普通の女なら、好きになると思うかい?」
やっぱりどうしてそんな質問をしてくるのか分からなかったが、シェラは素直に頷いた。
「ええ。あそこまで行くと、もう好み云々ではないと思います……いっそ魔的ですよね……雰囲気も確かに怖かったですけど、それ以上に怖いくらいお綺麗な方……でもみなさんとてもお綺麗ですけど、怖いとは思いませんねえ……」
どうしてだろうか、と考えているシェラの肩に、リィが手を置いた。
「怖いって言ってたけどさ、シェラは今まであの黒いのと一緒に暮らしてたんだ」
「え?!」
「仕事仲間ってやつだな。お前は、大学通いながら黒すけの仕事を手伝ってた」
「仕事仲間……ですか? というと、デザイナー?」
「お前は家事とか裁縫とか、ものすごく得意なんだ。料理なんか、玄人並みだぞ」
はあ、という力ないシェラの返事に続けたのはルウだった。
「でね。どうして彼が怖いのかな?」
「ルーファ。それは違うぞ。黒すけを見て、怖い、とか近付きたくない、と思うのが、普通なんだ」
なまじ整った顔だから、お近づきになりたい女性はたくさんいるのだが、いかんせん彼は人を寄せ付けない雰囲気を持っている。
抜き身の刃のような印象を与えるのだ。
「でも、彼、シェラには敵意をむき出しにしたりしないもの。さっきだって、別にシェラに対して怒っていたわけじゃないでしょう?」
それはそうだが、とリィが呟く。
「ねえ、シェラ? なんでだろう。彼は誰彼構わずすごんだりしないよ?」
そんなことを言われても、というのがシェラの正直な感想だった。
今の自分にそんなことが分かるわけがない。
今のシェラにとって、ヴァンツァーは『初対面』なのだから。
「わ……分かりません……でも、何だかすごく不機嫌そうな気がして……」
「そりゃあ免許取り消しで車はお預かり。その上馬鹿みたいな罰金だろう? まあ、大して痛い額でもなかったろうけどよ」
「……罰金?」
ぽかん、と口を開けたシェラだった。
彼は何か犯罪でも犯したのだろうか?
「倒れたお前をここに運んでくるのに、あいつ一般道を五百キロでぶっ飛ばして、追ってくる警官隊振り切りやがったんだよ」
レティシアが付け加える。
「五百……?」
「ちなみに高速道路の制限速度が四百キロだ」
「…………」
何だか楽しそうに笑っている医者の言葉に、シェラは絶句するしかなかった。
「……あの……それは……?」
そこまで言って、シェラは愕然とした。
「私──!! 私は、ひどいことを……?!」
そんなことまでしてくれた命の恩人に、自分はなんという態度を取ってしまったのだろうか。
「気にしてねえよ、あいつなら」
「で、でも……覚えていなかったとはいえ──」
「本当に、気にしてねえって」
「だったら、どうして帰ってしまわれたんです?!」
レティシアの白衣に掴みかかる。
「落ち着けって。何でもねえんだよ、あれは……ちょっと、自分が許せなかっただけだろうからよ」
「自分が……?」
何度も肩を撫でられて、ようやくシェラは落ち着いてきた。
「そ。たぶん許せなかったんだよ。病人の前で、取り乱しちまった自分が。かっこ悪くてよ」
やはり楽しそうに口端を吊り上げてレティシアは笑っている。
「取り乱し……?」
そんな素振りはまったく見せなかった気がする。
いや、今の自分には、何も分からないのだが。
「心配だったんだろ? お前のことがさ」
悪戯っ子のような笑みにも、シェラは首を傾げた。
何だか、それは違う気がしたのだ。
やっぱり、自分にはよく分からなかったのだけれど。
「ところでレティー、シェラはいつ退院できるの?」
「何でだ?」
「だって、キングとジャスミンのパーティがあるじゃない」
そういやそうだった、とすっかり忘れていたらしいレティシアはポン、と手を打った。
「パーティですか?」
何のことか分からないシェラは、先ほどから首を傾げてばかりだった。
「君も行くことになってたから、あんまり長く入院するようなら断らないとさ」
ケリーのことが大好きなルウとしては、是非とも参加したいのだろうが。
「……パーティというと、みなさん……私も含めてですが、何か、お仕事の関係とか、ですか?」
「いんや。ただの道楽。クーアの総裁が宇宙船で俺らと遊びたいんだとよ」
「はあ……」
これもよく分からないシェラは、気のない返事をするばかり。
「そういえば、シェラがいないんじゃ、彼大変なんじゃない?」
思い出したようにルウが口を開く。
「はい?」
「仕事。君の裁縫の腕を買って、引きずりこ……入社してもらったみたいだから」
「お忙しいんですか?」
「忙しい……」
リィが何とも言えない妙な顔をする。
「あれを忙しいって? そんな言葉で足りるのか?」
レティシアも同じような表情になり、シェラを除いた三人は思わず顔を見合わせた。
「あれが忙しい程度なら、世の中に忙しい人間はいなくなるな」
リィの言葉に、事情を知っているふたりが首肯する。
「と……おっしゃいますと?」
シェラにどう説明しようかと悩む面々。
「一言で言うなら、仕事中毒なんだ、あいつ」
レティシアが、呆れた声でそう言うと、
「暇な時間無理矢理作ってまで仕事してるんじゃないか?」
とリィが困惑し、
「よく言えば働き者だね」
とルウが苦笑する。
この言葉が誇張でも何でもないのだから、本当に信じられない人間だ。
それを聞いたシェラが、恐る恐る伺いをたてる。
「それは……私もそうなのでしょうか?」
これには三人ともに首を振った。
「お前は学生だから、あいつもそこまでさせねえよ」
「っていうか、シェラには無理なんかさせないよ。スタッフに対してだってきっちり労働契約守ってるくらいなのに」
「一般人にとってどこからが無理になるか分かってて、自分はああなんだから、あいつにはビックリだよな」
三者三様の言葉を聞いて、シェラはヴァンツァー・ファロットという男への印象を、少し改めた。
「善い方なんですね」
何気ない一言に、病室の空気が凍りついた。
「え?」
固まったように動かなくなってしまった美貌の三人集に、ベッドの住人は困惑以外の表情を作れなくなった。
「善い……人……?」
「黒すけが?」
「冗談だろ、お嬢ちゃん?」
何か信じられないものを見る目で見られた気がした。
「……悪い方なんですか?」
これにも顔をつき合わせる三人だ。
「ええっと……?」
困ったように眉根を寄せて首を傾げるシェラ。
「悪い人というより……人が悪いというか……」
「あ、それ上手い」
ルウの言葉にレティシアがおかしそうに笑う。
「結構甘いとこあるから、一度懐に入れた相手は切り捨てられねえんだけどな。その辺中途半端なんだ」
「何にせよ、公正だし、理不尽なものの考え方はしないし、そういう意味では善いヤツなんだろうな……」
「でも敵には回したくないタイプだよね」
相棒の言葉を継いだルウに、残りふたりが頷きを返す。
「さすがの俺だって、五百も出さなかったぜ?」
「そりゃあ、ほら。必死さが違うだろう」
「あはは、そりゃ確かに。顔が違った」
笑うレティシアに、 「顔?」 とルウが声をかける。
「あいつ仕事んときだって、あんな硬い顔したことねえもんよ」
ここでいう『仕事』とは、無論行者としての暗殺行為だ。
「『私と仕事とどっちを取るんだ』って聞いたら、絶対『お前』って答えるぜ、あいつ!!」
室内に爆笑が響いた。
個室で本当に良かった。
その中、シェラだけが置いていかれたようにぽかん、としている。
楽しそうに笑っている三人を見て、ちょっと首を傾けると、
「──そんな風に言ってもらえる恋人が、あの方にはいらっしゃるんですか?」
と呟いた。
どうして疑問形になってしまったのか、シェラにもよく分からなかった。
あれだけの美青年だ。
恋人のひとりやふたり、いてもおかしくない──むしろいない方がおかしい。
自分には恐ろしく感じられたあの雰囲気も、恋人の前だとやわらかくなるのかもしれない。
「──……そうそう。これだよ、これ」
レティシアが、失礼なのは承知でシェラを指さす。
「このボケっぷりに、苦労してんだよ、あの『専門家』が」
「うん……さすがに、ちょっと気の毒だと、ぼくも思う」
「そうか?」
ひとり否定を返したリィに、相棒と医者が視線を向ける。
「どういうこと?」
訊いてくる相棒に、リィは何で分からないんだ、という顔をした。
「だって、可愛いだろう?」
言葉の指すものがシェラであることは言うまでもない。
三人にじっと見られて居心地の悪いシェラは、ほんの少し頬を染めると視線を外して俯いた。
「──……エディ……これはね、拷問だよ……」
そう呟いて天井を仰ぐ相棒に、リィは不思議そうな顔しか向けられなかったのである。
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