夜中に担ぎ込まれてから四日後に、記憶がないことを除いてレティシアに健康のお墨付きを貰ったシェラは、退院することになった。
「…………」
「…………」
タクシーの車内には、気まずい沈黙が横たわる。
ヴァンツァーはいい。
彼はお世辞にも口数が多いとは言えない男だ。
問題はシェラだった。
彼はただでさえヴァンツァーを『すごく綺麗な怖い人』と認識しているのだ。
しかも、あの『初対面』から一度も顔を合わせていない。
今のシェラは「どうしてあのやさしそうな人たちは、誰もついてきてくれなかったのだろう?」という戸惑いで、そわそわしていた。
「……シェラ」
そんなシェラの様子を気取ったヴァンツァーは、できるだけ、努めて、極力穏やかに声をかけた。
──ビクッ。
そんな思惑を無残にも打ち砕かれ、ヴァンツァーが可哀相になるくらいに肩を震わせて、それでもシェラは頑張って隣の男に視線を移した。
「……はい……」
後部座席で、目一杯までドア側に張り付いているシェラに、ヴァンツァーは内心で嘆息した。
「悪かった」
「……はい?」
何に対する謝罪なのか、皆目見当もつかない。
「迎えが俺で」
その言葉にはっとした。
「い、いいえ!」
ぷるぷると頭を振る。
「王妃か仕立て屋が来れば良かったんだろうが……」
「おうひ……? したて……?」
疑問符を目の前に並べたシェラに目をやり、ヴァンツァーは今度は小さく息を吐いた。
「病室にいた金色の髪と、黒い髪の……」
人間と言おうとして一瞬迷う。
「リィさんとルウさんのこと、ですか?」
「……ああ」
聞き慣れないですます口調に、わずかな戸惑いを覚える。
しかも、『さん』付けだ。
「それも、ヴァンツァーさんの『黒すけ』みたいに、ニックネームですか?」
「くろ──」
思わず瞠目して言葉を失ったヴァンツァーの様子に、ビクビクしながらシェラが小さく首肯した。
「あ、その……リィさんがそう……あの、やっぱり、怒ってらっしゃる……?」
「いや……」
小動物並みにビクついているシェラに、何とか心理的負担をかけまいと、ヴァンツァーは車外に目をやった。
閑静な、というか、ひとつひとつの家が『ちいさい山ひとつ分』といった尋常でない広さのため、お隣さんまで車で数分という住宅街に、タクシーは入っていった。
「お前にそう呼ばれるとは思ってなかった」
「あ、あの! すみません、私──」
「謝るな」
またビクッと震えるシェラの気配を感じ、ヴァンツァーは頭を抱えたくなった。
「……謝らなくていいし、怒ってもいない」
「はい、すみま……あ、その……」
窓ガラス越しに、どうしていいのか分からずに泣きそうなシェラを見て、ヴァンツァーは手を伸ばした。
「……頼む……泣かないでくれないか?」
顔を外に向けたままかけられた声と頭を撫でる手が、シェラを混乱させた。
労わるような、困っているような、それでいてそうすることが決まりごとのような。
──……なんだか全然似合わない感じなのに、とてもしっくりくる……。
よく分からないのに、すんなり受け入れられる。
頭の中がまとまらなくなって、また困惑する。
すごく怖い人なのに、こうしているとなんだかやさしい人のような気がしてくる。
なぜだか分からないけれど、脈が速くなる。
いささか顔も熱い。
「──あの……」
「着いた」
「え?」
気付くとタクシーは止まっていた。
ヴァンツァーは運転手にカードを渡すと、それで支払いを済ませ、シェラに降りるように促した。
「…………」
家の前で何も言えずに立ち尽くしている後姿を見て、ヴァンツァーはシェラに退院許可を出した藪医者を訴えてやろうかと思った。
これは明らかに心理的負担と言わないか?
自分だって臨床心理学くらいは心得ている。
「どうした?」
促すように、でも近付きすぎないよう注意して横を通り過ぎる。
「……ルウさんから伺ってましたけど……本当にお金持ちなんですね……」
木々が両側に規則正しく林立した道幅の広い道路を走っているから、どこに家があるかのかと思っていたら、そこもすでに敷地だったようだ。
建物までが遠いから、敷地の外で車を降りるようなことをしなかったらしい。
「欲しいと思ったことはないんだがな」
「……そうなんですか?」
「あまり興味がない」
「……へえ……」
ものに執着しないというルウの言い分は本当らしい、とシェラは納得した。
きょろきょろしながら三歩ほど後ろをついてくるのを背中で確認したヴァンツァーは、生体情報照合機に網膜と静脈のパターンを読み込ませる。
家の中に入ると、とりあえず一通りの構造を説明し、シェラを自室へと案内した。
「ここがお前の部屋だ。寝室は向こう」
その言葉にシェラがびっくりした。
「こんな広くて立派なお部屋があるのに、寝室が別にあるんですか?」
確かに、シェラの部屋もヴァンツァーの部屋も、机や本棚、通信端末、クローゼットに加えてベッドを置いても余りあるほどの広さだった。
しかし彼らの部屋にベッドはない。
「──それは考えたことがなかったな……」
どういうわけか同居を始めた当時からそれが当然のように思っていたのだが、おかしいと思われても仕方ないかもしれない。
「そうだな。俺と同じ部屋で寝るのでは、お前もゆっくり休めないだろう。あとでこちらに運び直す」
本当は入院していて欲しいというのが、ヴァンツァーの偽らざる本音だった。
そうでなければ、王妃か仕立て屋が預かってくれれば良いのだ。
「あ、いえ……そんなお手間は……」
「遠慮をする必要はない。ここはお前の家でもあるんだ」
「……私の? だって、ここはあなたのお家で、私はただの間借り人でしょう?」
どう説明したものか。
一から説明するとなると、あちらの世界にいたころの話もしなければならないだろう。
それを聞かせてもいいものか、ヴァンツァーには判断できなかった。
「──その指輪だが……」
とシェラの左手に視線を移して、ヴァンツァーは目を瞠った。
「お前、指輪は?」
「指輪、ですか?」
何のことだか分からない、といった様子でシェラは首を傾げる。
今現在、彼の左手に、ヴァンツァーから貰ったアンティーク・リングはない。
「私は指輪なんかしてませんよ?」
両手を握ったり開いたりして見せるが、そんなことをしなくてもしていないのは分かる。
「目覚めたときから?」
「はい……? 指輪が、何か?」
「いや……」
きっとどこかで落としたのだろう。
家の中か、病院へ運ぶ途中かは分からない。
踊っていたときにはしていたのだから、きっとその後だ。
とりあえず、後ほどシェラの辿ったろう道を調べてみることにしよう。
そうなると余計、車を持って行かれたのは痛かった。
車の中に落ちたのだとしたら、警察側が調べている間に紛失させてしまう可能性もあったからだ。
だが、記憶も指輪もないのでは、本当に何の繋がりもなくなってしまった。
「…………」
わずかに眉を寄せると、シェラが肩を震わせる。
「──悪い。何でもない」
空気に気配を溶け込ませ、安心させるようにやわらかく微笑む。
レティシアさえも唸らせるほどに巧みな技だ。
瞬時にヴァンツァーの気配は掻き消えた。
「…………っ」
はずだったのに。
なぜかシェラの様子に変化はなかった。
「シェラ?」
呼ばれただけで背筋がピン、と張り、緊張が空気を通しても伝わってくる。
「……?」
ヴァンツァーには、どうして銀色が震えているのか理解できなかった。
確かに自分は気配を消したはずだ。
この間病室へ行ったときとは違い、今日は落ち着いている。
今なら鋭敏な感覚を持つ獣を前にしても、その気配を気取られることはないだろう。
「俺が怖いのか?」
瞬時にちいさな銀色の頭が振られる。
その様子に、愚かな質問をした自分を内心で罵倒した。
そんなことを聞いて素直に頷く人間がいるわけがない。
らしくない。
「──訊き方を間違えた。安心しろ。お前を傷つけたりしないから」
再び短い銀髪が揺れる。
「シェラ?」
銀色の天使は、ぷるぷる頭を振り続けている。
「おい」
「こ──来ないで下さい!!」
伸ばしかけた手が、雷に打たれたような衝撃を受ける。
行き場をなくし宙を彷徨った。
その様子を見て、シェラが大きく目を瞠り、次いで先ほどより大きく頭を振った。
「ち、違います!! 違う、違うんです!!」
涙が一杯に浮かんだ紫の瞳を正視できなくて、ヴァンツァーはつい、と目を逸らした。
「……やはり、王妃に来てもらおう」
ゆっくりと手を下ろすと、このリビングにも端末はあるのに、わざわざ自室へと入っていった。
シェラは何も言うことができないまま後姿を見送り、その姿が消えるとぺたん、と座り込んだ。
「違う……」
嗚咽でうまく言葉が紡げない。
ぽつり、と漏らしたそれは、もしかしたら自分に向かって放った台詞だったかもしれない。
勤務時間が終わると、夜勤明けの外科医はその足でヴァンツァーの家に向かった。
自宅に戻ったはずのシェラがリィに引き取られたというのを聞いて、退院許可を出した身としては気になったのだろう。
ダイニングに入った瞬間、腕利きの外科医は一言呟いた。
「……空けたなあ」
「喉が渇いただけだ」
淡々と告げてくるヴァンツァーの前には、計四本の瓶。
「だったら水飲めよ」
「ミネラルウォーターをきらした」
「買いに行けば?」
「車がないから面倒で」
そういう間にも、グラスの中には琥珀色の液体が注がれていく。
「相変わらず可愛いねえ、お前」
真面目な顔と口調で、レティシアはカウンターバーで飲んでいる男の隣に腰掛けた。
「……悪かったな」
「褒めてんだって」
今度は楽しそうに笑う。
冗談なのか本気なのか、かなり付き合いの長いヴァンツァーにもこの男のいうことは分からなくなる。
「フラれて自棄酒なんて、その顔でもったいねえけどな」
「顔は関係ないだろう?」
「おおありだぜ?! その見てくれでフラれちまうんじゃ、世の中の男どもは、一生独り身だ」
これも本気なのかどうか、甚だ疑わしい。
そもそもどうしてレティシアがここにいるのか。
確かに生体情報は登録してあるから、自分の許可がなくとも、この家にレティシアが入ってくることは可能だ。
だが、呼んだ覚えも呼ぶつもりもなかった。
「……仕事はどうした」
飲み下す酒よりも苦い顔をして、ヴァンツァーは視線も合わせず呟いた。
早々に消えてくれ、と言外に言い放っていることは明らかだった。
「これも俺のお仕事」
どことなく茶化すように喉の奥で笑っている。
「五体満足な人間の酒に付き合うのが医者の仕事か?」
冷笑を浮かべ、痛烈な皮肉のつもりで言った言葉だった。
「そ。お付き合いも立派な仕事だぜ? ──五体満足で、情緒不安定な人間のな」
「…………」
何も言えなかった。
あっけらかんとしていて、抜けているのではないかと思わせる言動をする男だったが、実際そうでないことはよく知っている。
暗殺の腕もさることながら、頭の回転の速い、抜け目ない実力者だ。
一度として侮ったことはない。
むしろ、この男が体を動かせないときでさえ、恐る恐るしか近づけなかった。
「だったら、余計、引き取ってもらいたいな……」
もともと酒に強いヴァンツァーだったが、今日はまったくと言って良いほど酔わなかった。
「酔えねえ酒って、ただの毒だぜ?」
何でも見通しているような声音に、小さくはない苛立ちを募らせる。
「お前の大好きな仕事もできなくなるんじゃねえの?」
からかう響きはかけらもなくて、そのことが余計に苛立たしかった。
「それが?」
無機質で、無感動な声だった。
事務的な、機械のような音声。
「別に、あんなのお嬢ちゃんの記憶が戻るまでの話だろう? そんなに気にすることでもねえと思うんだけどなあ」
よく分からない、といった風に金茶の頭を掻く。
「気にしていない」
淡々とした、抑揚のかけらもない話し方。
億劫そうで、ぞんざいなものだ。
「んな顔して誰が信じんだっつーの」
呆れてものも言えない、と顔に書いてある。
その顔を見るのも嫌で、ヴァンツァーは一度もレティシアの方を見ない。
「そのうちひょっこり思い出すさ」
記憶喪失だけは、回復の度合いをはかる術がない。
一部でも全部でも、戻ったか戻らないか。それしかないのだ。
「気にしていないと言っている」
次々とグラスに酒を注いでは空けていく。
無茶な飲み方とも言えないが、酒の味を楽しむ飲み方でもない。
実際、今のこの男に酒の味は分からないのだろう。
一本いくらするのか確かめたくもない上等な酒が減っていく様を、レティシアは猫の目を丸くしながら見ていた。
「お前なあ……」
「あれに記憶があるかどうか……俺のことを覚えているかどうかなど、どうでもいい」
投げやりにも聞こえる言葉だった。
つまらなさそうでもある。
しかし、違う。
「ヴァッツ?」
レティシアもそれに気付いているようだった。
「あれが俺のことを覚えていないなら、もう一度出会えばいい。殺し合いをしなくて済むだけ、前よりマシだろう」
「…………」
「最初から始められるなら、それもいい。生きてさえいれば」
一旦言葉を切り、口許にだけ笑みを浮かべる。
ぞっとするほど艶やかな、それでいて能面のような微笑みだった。
「──そう、思っているんだがな」
酔ってもいないのに、饒舌になる。
口数の話ではない。
その内容だ。
レティシアは一言もしゃべらない。
だからこそ抑制するものがなく、溢れる言葉は止められなかった。
「病室で俺を拒絶し、お前に助けを求めるあれを見て、殺してやろうかと思った」
「今度はお前がお嬢ちゃんを殺すのか?」
そう言うと、ヴァンツァーはくつくつと喉の奥で笑った。
片手でグラスを持ち、片手で頭を抱えている。
しばらく笑った後、そこで初めて視線だけ隣の男に移した。
「──お前を、だ」
「…………」
レティシアの目は、「正気か?」と聞きたげだった。
それを確認しグラスの中身を煽ると、ひとつ息を吐く。
「無理だろうな」
いっそ不釣合いなくらい、妙に晴れやかな声音だ。
「技量に変わりない上体調も万全なお前相手に、ほとんど勝算はない」
それでもいいと思った。
返り討ちにあっても一向に構わなかった。
「死ねば、あれがお前を選ぶ姿を見なくて済むからな」
言ってすぐに「ああ、だめだ」と呟く。
自分は聖霊になる。
魂は残ってしまう。
それでは、意味がない。
どうにもならない事実に顔を顰めた。
「……お前、俺に妬いてんの?」
しばらく言うかどうしようか迷った後でそう口にした。
逡巡するだけでも珍しいのに、その口調にも、飴色の瞳にも、楽しそうな色はなかった。
「好きの反対は無関心だ。嫌いじゃない。だが、だからといって、嫌いの裏返しが好きにならないわけでもない」
「……」
「現に最近のあれは、以前ほどお前を邪険に扱いはしないだろう?」
何と返したものか、レティシアは頭を捻る。
「……あれはびっくりして、咄嗟に一番近い俺に抱きついただけで、他のふたりがいたら、そっちにくっついてたぜ?」
「だろうな」
あれは好意どうのではない。
言うなれば反射行動だ。
手近な、支えになりそうなものを求めたに過ぎない。
「一応俺医者だし」
「分かっている」
静かな物言いだったが、気配を操るのが巧みなこの男の隣に居たくないほど、強烈な意思を感じる。
「──……だが、理屈じゃない」
軽く頭を振って、どんな女性をも虜にするに違いない微笑を浮かべる。
『魔的』とシェラが評価した所以の表情だった。
「……お前の口からそんな言葉を聞くとはなあ」
感心したような口調だ。
「何でもかんでも理由つけなきゃ動けなかったお前がねえ……」
呆れたようでもある。
「あっぷあっぷだな」
「溺れている、と言いたいのか?」
それを聞いたレティシアが楽しそうに笑う。
「やっぱお前頭いいわ」
「自分を褒めているようにしか聞こえんな」
「可愛くねえなあ。お嬢ちゃんはあんなに可愛いのに」
口を尖らせ肩をすくめる様子はいささかこどもっぽいが、それが妙に似合う。
「今のあれなら落ちるんじゃないか?」
「確かに可愛いけど、俺の守備範囲じゃねえよ」
そう笑う男に、ヴァンツァーはこの上ないくらい綺麗に整った笑顔を向けた。
「贅沢だな」
「…………」
レティシアはしばらく言葉を紡げなかった。
「……これもお嬢ちゃんのおかげかねえ?」
「悪くない」
見ている方が恥ずかしくなるような表情をされて、レティシアは「やってらんねえ」と呟いた。
「それなら帰れ。用もないんだろう?」
ヴァンツァーがそう言うと、レティシアは思い出したように手を打ち、ポケットを探り始めた。
「忘れてた。これ渡そうと思ってよ」
テーブルの上に置かれたのは、アンティーク・リング。
精緻な薔薇の細工がムーンストーンを取り囲むように彫られた、シェラの指輪だった。
「……顔を見たらすぐに渡さないか?」
「だって、まさか『専門家』が真っ昼間から酒かっくらってる姿見るなんて思わねえからよ。あんまりおかしいんで、吹っ飛んじまった」
まったく悪びれた様子のない男に嘆息すると、指輪を手にしながら「どこにあった?」と訊く。
「お嬢ちゃんが握り締めてた」
「…………」
「手開かせようとしても全然だめで、仕方なくそのまんまにしといたんだ。処置室から病室に移すときに、手が緩んだらしくて床に落ちたから、とりあえず俺が持ってたんだ。お嬢ちゃんに返そうとしたら開口一番どなたですか、だもんよ」
返すに返せなかった、とレティシアは肩をすくめる。
「そうか」
何とも言えない表情で指輪を見つめるヴァンツァーに、レティシアは思わず声をかけた。
「案外、キスでもすりゃ戻るかもしんねえぜ?」
あまりにその口調が真剣だったので、ヴァンツァーはほんの少し目を瞠った。
「……何のお伽話だ、それは」
「やりにくかったら、俺が代わりにやってやろうか」
いつだったか、シェラを殺そうとしていたときにもこの男はこんなことを言った。
「昔馴染みのよしみでお前のために言う。やめておけ」
「お前に殺されるから?」
猫の瞳が物騒な輝きを帯びる。
別に構わない、と物語っているその瞳は、ヴァンツァーもよく見知ったものだ。
だから、「いや」と緩く首を振る。
「クセになる」
こちらもあまりに口調が真剣だったので、レティシアは一瞬何を言われたのか分からなくなり、次いで爆笑した。
「上手いんだ?!」
腹を抱えてひーひー笑っている昔馴染みに、ヴァンツァーはどういうわけか困惑の表情を浮かべている。
「──というよりも、あれは……」
言いかけてはっ、とする。
「何だよ? 思い出してんのか?」
まだおかしそうに目尻の涙を拭っている男などいないかのように、ヴァンツァーはちいさく笑った。
「──参った」
「あん?」
「腕がなまった」
「はあ?」
「口説き方を間違えたらしい」
この台詞に続いたのもまた、爆笑だった。
「お、お、お前が?! まち、間違え!!」
箸が転がってもおかしい女子高生よろしく、本当に転がりそうな勢いで笑っている。
「ほんっと、らしくねえ!!」
「あの銀色だけは、読めないんだ」
肩をすくめて降参を表す。
「さあ、用は済んだだろう」
とっとと帰れ、と雄弁に物語っている瞳を向けた。
「もういっこ」
人差し指を立てる外科医に、ヴァンツァーは嘆息した。
「行くなら、送ってくぜ」
にやり、と人の悪い笑みを浮かべる男を見て、ヴァンツァーは大きく目を見開くと、ため息を深くしたのだ。
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