Piano Sonata

その頃シェラは、同じくイリ・ヤウラ大陸にあるリィとルウの家で泣きじゃくっていた。

「ねえ、シェラ。泣いてばかりじゃ分からないよ?」

やさしく声をかけるのはルウ。
シェラを迎えにヴァンツァーの家に行ったはいいものの、ずっとこの調子で泣いている様子にどうにもならず、降参したリィと交代したのだ。

「…………」

何を聞いても首を振るばかり。
泣きすぎて、もう涙も出なくなってきている。

「黒すけに何かされたのか?」

その言葉に、今まで以上にブンブンと勢いよく頭を振る。

「ああ、ああ! そんなに頭振って首取れちゃったらどうするの!!」

言った途端、シェラは眩暈を起こしたらしく、こてん、とルウの胸に頭を打ちつけた。

「もう……大丈夫?」

銀色の頭が、ちいさく上下に動く。

「本当に、何があったの?」

これにはまた首を振る。
さすがのルウも降参とばかりにため息を吐き、シェラの頭を撫でてやった。

「…………」

するとシェラは無言のままルウの胸に頬を摺り寄せる。

──……おや?

シェラの様子にわずかに目を瞠り、ルウは何度も、髪を透くように撫でてやった。
するとしゃくりあげていた呼吸が、正常に戻っていく。
リィとルウは目を合わせ、何かを確認するように頷きあった。

「ねえ、シェラ?」

ことさらやわらかい声音で呼ぶと、シェラはゆっくりと視線を上げ、ルウと目を合わせる。
青い、海の色。
明るく清涼なサファイアのような瞳だ。
脳裏に蘇る色彩はもっと濃い藍色をしていて、違うことは分かっているのにじっと見つめてしまう。

「ぼくでいいの?」

言われたことの意味が分からず、僅かに首を傾げる。

「こうやって頭を撫でてくれる人。ヴァンツァーじゃなくていいの?」
「──?!」

言われた途端シェラが赤くなり俯く。

──ああ……やっぱり。

そう思うと、ルウはにっこり微笑んだ。

「シェラはヴァンツァーのことが好きなんだね」
「はあ?!」

言ったのはリィだ。

「怖いんじゃないのか?!」

別に今までのシェラだったら、相棒の台詞をおかしなものと感じることはなかったが、今のシェラはヴァンツァーの気配に過剰に反応していたではないか。

「怖いよねえ」

にこにことした笑みを絶やさず、言い聞かせるように語りかける。

「彼の空気もトゲトゲしてて怖いし、それ以上に綺麗すぎて怖い」

シェラはそんなルウの言葉を、じっと目を見て聞いている。

「でも一番怖いのは、彼に自分の想いを知られてしまうことなんだよね?」
「何だ、それ?」

と不思議がるリィだったが、シェラが頷く様子を見て二度びっくりだ。

「だって……私は男ですから……気持ち、悪いでしょう?」

そう言う声が震えていて、口にするのに非常な勇気が要ることなのだと分かる。

「拒絶されるくらいなら、何も言わないでいる方がいいって思ったんだね」

これにも頷きを返す。

「何でそうなるんだ? 黒すけがお前を避けたり気持ち悪がったりなんて」
「エディ。だって、シェラには記憶がないんだ」
「…………」
「分からないんだよ。彼がシェラのことをどう思っているかなんて」

その言葉に、シェラはもう何度目になるのか分からない涙を流す。
涸れたと思っていたが、どこから湧いてくるのか際限なく溢れる。

「さっきも、ひどいことを……あの人は悪くない。でも、あんまりやさしい笑顔を向けてくれたから」

びっくりしてしまったのだ。
ドキドキした。
この綺麗な人がやさしくしてくれる理由は分からない。
分からないけれど、とても嬉しい──そう思った。
警察に罰金を払うほどの迷惑をかけた自分を責めたりせず、逆にやさしくしてくれた。
とても嬉しくて、何だか泣きたくなって……「ありがとう」と、言いたかったのに言えなかった。
「ありがとう」より先に、「好き」が口をついて出てしまいそうで。
でも、この気持ちはあの人にとって負担にしかならないから。

「……顔を見られたら気付かれてしまうと思って、だから……もう……やだ……」

顔を覆ったシェラに声をかけようとして、ルウが頭を撫でる手を止めた。

「ねえ、エディ? ぼくなまったのかな?」

傷ついたような顔で相棒を振り返るが、リィは肩をすくめている。
部屋の外にひとつ気配現れたというのに、即座に気付けなかったのだ。

「仕方ないさ。相手が悪い」
「?」

何のことか分からないシェラがその理由を訊こうとしたとき、ドアをノックする音が聞こえた。

「どーぞお」

ルウが気の抜けた声をかける。

「──えっ?!」

ドアが開くと、そこには話題の人物、黒髪の美青年がいた。
リィやルウは綺麗に無視して跳ね起きるシェラの元に歩み寄ると、彼の正面に膝をつく。

「忘れ物だ」
「え?」

シェラの左手をとると、薬指に指輪を滑り込ませた。

「あの……これ──」
「確かに返した」

そう言うとヴァンツァーは立ち上がり、部屋から出ようとする。

「あの!」
「シェラ」

シェラが呼び止める声に重なったその低い声に、リィとルウが目を合わせる。
ヴァンツァーがシェラの名を呼ぶのを、初めて聞いた気がしたからだ。

「……はい?」

消え入りそうな声で返事をしたシェラに向き直ると、ヴァンツァーはゆっくりと微笑んだ。

「その指輪、捨てたかったら捨てろ。だが、俺はお前を手放す気はさらさらないんだ」

女の子がぽーっとなる、という程度のものではない。
その笑みは魂ごと持っていかれそうになるような壮絶なものだった。

「?!」

言われたシェラがどきり、と胸を高鳴らせ、リィとルウまで目を瞠ったほどだ。
そして長身の青年は足音もさせず、気配のひとかけらすら残さずに姿を消した。
普段のヴァンツァーだった。
最高の戦士である『太陽』と『闇』ですら、その気配を辿れなかったのだから。

「何と言うか……彼だね……」

要領を得ないのになぜかしっくりくるその言葉に、リィが頷いた。
ふと当のシェラを見ると、ヴァンツァーのいなくなったドアをじっと見つめている。

「シェラ?」

ルウがそう声をかけると、はっ、として指輪に目をやる。
しかしその表情はなぜか悲痛なものだ。

「どうした?」

怪訝そうなリィの声に、シェラは顔を上げる。

「……何か言う前に、失恋してしまいました……」

涙の滲んだ苦笑を浮かべるシェラに「はあ?!」というふたり分の声が重なった。

「あの言葉が、あの人のものだったら良かったのに……」

名を交わした相棒どうしは、お互いの顔に『信じられない』と書いてあることを確認した。
あそこまで言われてどうして気付かないのか、心底不思議だった。

「なあ……どうしてあの台詞が黒すけのものじゃない、って思うんだ?」
「一瞬あの人が私を、って思ったんです。──でもこの指輪、忘れ物だって……あの人、さっき家で私が指輪をしていないことに驚いてらっしゃいました。たぶん、どこかで拾って下さったんです」
「……」
「あの言葉も、きっとこれを下さった方からの伝言か何かで……あの人が、これを下さった方に落ちていたことを教えて……私が捨てたか何かしたのが許せなくて、あんな伝言を頼んだのでは……?」
「…………」

金と黒の天使は、ぽかんとしたままそれ以外の表情を浮かべられないでいる。
すごいものを見ている気分だ。
マイナス思考も、ここまでくると立派だと思える。
レティシアが以前シェラに言ったのと同じ言葉を、リィとルウは脳裏に描いた。
どうすれば、ここまで自分の価値を否定できるのだろうか。
わざとやっているとしか思えなかった。

「あの……おふたりは、この指輪を下さった方のこと、ご存知ですか?」

ご存知も何も、そのご本人自らのお出ましである。
どう答えていいのか分からなくて沈黙していると、シェラは勝手に納得したらしい。

「おふたりもご存じない方なんですか……」

では、まだ自分が会ったことのない人物ということになる。

「え? あ、いや、知らないわけじゃない、と思うよ……?」

ルウが慌てて否定する。
この銀色の青年の場合、放っておくとどこまでも内省的になることを長い付き合いで知っているからだ。
かといって、本人がここまで頑なに否定しているものを、どうやったら解きほぐせるのかまったく分からなかったのだ。

「そうですか……でも、誰でもいいです……あの人でないなら、誰でも同じですから」

その台詞に、何も言えなくなった。

「捨てろと言われても、こんな高価そうなもの、困りますよね……」

しかも左手の薬指にはめるような仲の人物からの贈り物。

「私は、ひどく浮気者なんですね……」
「は?」

リィが口をあんぐりと開けて訊き返す。

「だって、こんな素敵な指輪をくれる人がいながら、別の人に心惹かれているんですから」

頬を一筋、涙が伝う。

「ヴァンツァーに訊いてきたら?」
「え?」
「その指輪と、伝言を頼んだらしき人。彼なら知ってるだろうから」
「……」

銀色の頭を振る。

「あの人の口からそれを聞くのは……だって、あの人はこんなことを頼まれるくらいですから、私のことなんて何とも思ってないんですから……」
「そうかな?」
「……ルウさん?」

きょとん、とした顔で黒髪の美青年を見る。
先ほども思ったことだが、髪の色といい、青い目といい、白皙といい、ルウとヴァンツァーは似た特徴を持っている。
でも、全然違う。
女性的なやさしい美貌のルウと、妖艶ではあるがどこまでも男性的な美貌のヴァンツァー。
優劣などつけられないくらい、ふたりの美貌は種類が違うのだ。
それに、ルウを見ていても不整脈になったりしない。
それが、何より大きな違いだった。

「ぼく、さっき彼の表情見て思わずドキドキしちゃったよ?」
「……ルーファ」

相棒をたしなめるように、苦い顔をする。
この相棒が、それこそシェラなんかより余程浮気性であることを知っているからだ。

「君は違うの?」

言われたシェラは即座に首を振った。

「心臓を鷲掴みにされるって、たぶんあれです……息が止まるかと思いました」

思い出しただけでも身震いする。
恐怖ではない。
あまりの歓喜にだ。

「でしょう? あんな顔、ぼくは頼まれたってできないよ」

それは嘘だ。
この青年はかなりの役者だから、どんな表情も好きなように作れる。
ヴァンツァー以上に、強制的に人間を魅了する存在でもあった。

「それは、どういう……?」
「だから、あれは彼の言葉かもしれないってこと」
「まさか?! 理由がありません!!」
「あれが誰かの伝言なら、彼は共和宇宙一の俳優になれるよ」

おどけた調子の相棒の台詞に、リィは吹き出したくなるのを懸命に堪えなければならなくなった。
あまりにはまりすぎているし、何より彼は腕利きの行者だった。
演技など、得意中の得意である。
しかし、彼がそんなものには決してならないことをリィは良く知っていた。
それはルウにしても同じハズだ。
それなのに、ふざけ半分にしては、相棒の言葉は的を射すぎているのだ。

「ま。何にせよ、訊きに行こう?」

とにかくシェラの誤解を解けるのは彼しかいないだろうから。

「…………」

瞳が彷徨う。

「──好きになって欲しい、なんて、贅沢は言いません」

と、おもむろに口を開く。

「でも、これ以上嫌われたくないんです……」

自信なさ気に呟かれた台詞に、リィが首を傾げた。

「お前、鏡見たか?」
「は?」
「鏡。自分の顔、見たか?」

何だか怒っているような声だった。

「い、いいえ……」

縮こまって首を振る。
緑の瞳が、燃えているようだ。

「ルーファ」
「はあい」

間延びした声の主の手には手鏡が握られている。
どこから取り出したのか不思議だったから、シェラは目を瞠った。

「はい。見て」

恐々と手鏡を受け取り、自分の顔を覗き込むシェラ。

「…………」
「綺麗だろう?」

リィの声に、シェラは困惑した表情を向ける。

「黒すけと並ぶと、ふたりとも本当に人形みたいに綺麗なんだ」
「眼福って、ああいうのを言うんだよねえ」

そういう本人たちがかなりの極上品なのだが、とシェラは思った。

「そんな綺麗な人、嫌ったり気持ち悪がったりする人間なんか、いないぞ? 俺もシェラのこと大好きだしな」

何でそんなことも分からないんだ、といった顔でシェラを見る。

「こんな、男だか女だか分からない顔……」
「あ、ぼくそれよく言われるよ」

何でもないことのように笑顔で言うルウに、シェラは思わず叫んだ。

「だって、あなたの体はどちらにもなれるから!!」
「?!」

リィとルウが身を乗り出したのは同時。

「え? あ、あれ……?」

シェラは自分が何を言ったのか分からずに狼狽する。

「記憶が……?」
「戻りかけてる……?」

やはりシェラをヴァンツァーに会わせた方がいい気がして、顔を見合わせると、ふたりは行動を開始したのだった。


ヴァンツァーがリィの家から出てくると、そこにはまだレティシアがいた。

「余程暇らしいな……」
「お前から見りゃ、みんな暇だろうよ」
「……」

ヴァンツァーは苦笑すると、レティシアに歩み寄った。

「レティー」
「あいよ」
「暇なら足を借りたい」

この場合の『足』が『車』であることは言うまでもない。
後悔はしていないが、免許を取り上げられたことがかなり痛いのは事実だ。
できるだけ早く取り直さないといけない。

「高くていいなら」

彼らは金銭に拘泥しない。
だから、『高くつく』とはそれ以外の対価で支払うことになるのだろう。

「構わん」

短くそう答えると、我が物顔で助手席に乗り込む。

「へえ? どんな重大事だい?」

楽しそうな顔をして、レティシアも運転席に乗り込んだ。

「ただの買い物だ」
「ふーん。で、どちらまで?」
「七番街」

その台詞にちいさな忍び笑いが漏れる。

「また使わないピアノでも買うのか?」

七番街は音楽用品の専門店街だ。
連邦大学惑星・イリ・ヤウラ大陸一の商業都市サン・スーンでも、そこほど品揃えの良い場所はない。

「使うために行くんだ」
「へえ?」

ま、いいや、と呟くと、レティシアは車を走らせた。
ものの五分もしないうちに目的地に着く。
ヴァンツァーが車を降りると、レティシアもそれに倣った。

「来るのか?」

少し驚いた顔でそう問うと、 「どうせ暇だからな」 という笑い声が返ってきた。
ヴァンツァーもそれ以上は追求する気がないのか、ふたりは揃って目当ての店に入っていく。
長身の青年が向かうのは楽譜売り場。
数百を数える譜面の中から、迷うことなく目当てのものを取り出すと、その足でレジカウンターへと向かう。
そこには初老の女性店員がいた。
彼女は系統の違う二種類の美青年を見て目を瞠り、しばらく声が出せなかった。
心臓麻痺でも起こしそうなほど驚いたに違いない。
あまりにも慣れすぎた反応にヴァンツァーは嘆息し、代わりにレティシアが会計を頼もうとする。

「レティシアにヴァンツァー?!」

驚いたような女性の声がかけられたのはそのとき。
振り向いたふたりの視線の先には、この世界に来たときから知っている女医、ヘッケルがいた。

「……」

彼女を見たヴァンツァーが露骨に嫌そうな顔をする。
何度か彼女と話したことはあったが、あまりにこちらの意図を汲み取らないその思考回路に辟易していた。
同僚でもあるレティシアはといえば、本人は気にしていないのだが、相手が彼を殺人鬼と認識しているために避ける傾向にあり、病院内でもほとんど言葉を交わさない。
今もヘッケルはふたりを前に腰が引けている。
それならば声などかけるな、とヴァンツァーは思ったわけだが、一度声をかけた以上、相手はこちらを無視をする気はないらしい。

「……何してるの?」

距離はとって話をしているのだが、彼らがその気になればどんな間合いも意味はない。
彼女も知っているだろうに。

「こいつが、楽譜欲しがっててよ」

年上であり、医者としては大先輩であるヘッケルに対しても、レティシアはこういう物言いをする。

「楽譜?」

そう言ってヴァンツァーの手の中にある楽譜に目をやった。

「ブーリンのピアノソナタ?!」

驚愕と歓喜が入り混じったような声音だ。

「知ってんのか?」
「当たり前だわ! 名曲中の名曲よ!!」

レティシアの言葉に即答する。
どうやら、一瞬の内に相手が殺人のプロであることを忘れたらしい。

「あなたが弾くの?」
「らしいぜ」

訊いたのはヴァンツァーになのだが、なぜかレティシアが答える。

「こいつ、たっけえピアノ持ってるくせに弾く暇ねえから、宝の持ち腐れなんだよ」
「あら、この店にもいいピアノ置いてあるわよ」

そう言うと、ヘッケル医師は実に恐ろしい提案をしてきた。

「弾いてくれないかしら?」

案の定ヴァンツァーは底冷えのするような怒気を孕んだ眼差しを送り、隣にいるレティシアは笑い出したくて堪らないといった表情をしている。

「あんた、結構勇気あんだな」
「勇気?」
「ヴァッツのピアノ聴きたいんだろう?」
「ええ。だってブーリンに手を出すくらいだから、それなりの演奏技術はあるんでしょう? 聴かせてくれないかしら?」

再度の依頼に、ヴァンツァーは眉間の皺をさらに深くした。

「なぜ俺が?」
「ピアノを弾けるのはレティシアではなくてあなたでしょう?」
「だから、なぜ俺がここで弾かなければならない?」
「だって、ブーリンのピアノソナタなんて、演奏会にでも行かなければ聴けないわ。名曲中の名曲だけど、同時に難曲中の難曲でもあるんだから」

話の通じない相手に、軽蔑も露わな表情が向けられる。

「お前に聴かせる必要がどこにある、と言っている」
「演奏は人に聴いてもらわなければ意味がないと思うけど?」

不思議そうに首を傾げたヘッケルに、「相変わらず頭の悪い……」という呟きが漏らされたが、幸いレティシアにしか聞こえなかったようだ。

「俺も聴きてえな、お前のピアノ」
「……おい」

じろりと睨まれたが、それで引くようなレティシアではない。

「いいじゃねえかよ。とりあえず足代でいいぜ」

猫の眼を細める男としばらく睨み合っていたわけだが、いつものようにヴァンツァーが折れた。
ひとつ息を吐くと、ヴァンツァーは楽譜を買い取り、店員に楽器を貸してくれるよう交渉を始めた。
髪のほとんどが白くなってしまった女性店員がふたつ返事で頷いたことは言うまでもない。
ヘッケルの言った通りこの店のピアノは──むろん売り物だが──かなり良いもので、下手な使い手ではその音に負けてしまう。
ピアノの前に座り買ったばかりの楽譜を広げる男の姿は、文句なく絵になっている。
そういう意味ではヴァンツァーは及第だった。

「お前ほんっと、厭味なくらいそういうの似合うよなあ」

感心したような、またからかうような口調だった。
その台詞に緩く口端を吊り上げると、ヴァンツァーは初めて楽譜を見ての演奏を始めた。

「──────」

音がなくなった、といったらおかしな表現だろうか。
だが確かに、そこにいた三人はそう思ったのだ。
ピアノの音以外、一切の音が世界から消えた。
店の外の喧騒も、自分の呼吸する音すらも聞こえなくなったのだ。
耳を支配するのはただただ一台の鍵盤楽器の音のみ。
音楽にさしたる興味のないレティシアでさえも目を瞠ったくらいだ。
と同時に息苦しいような感覚が胸を占める。

──……何だ、こりゃ?

演奏の邪魔にならないよう胸中でのみ呟く程度には、彼はこの音を聴いていたいと思った。
だが、なぜか違和感も覚えるのだ。
居た堪れない、というのが一番しっくりくるかもしれない。

「すごいわ……」

小声ではあったが、音のなかった世界に音が生まれてしまった。
音源はヘッケル医師。

「ねえ、レティシア」

声をかけられて、仕方なさそうに肩をすくめると、レティシアは「あいよ」と返事をした。
相手がこの女でなければもっとちいさなささやきで足りるのに、と一瞬ヴァンツァーの顔色を窺う。
無心に、しかし薄く笑みをはいて演奏する様子は、やはり冒しがたい何かを孕んでいた。

「彼、どれくらいピアノをやっているの?」
「ほとんど弾いてねえと思うけど? 少なくとも俺は見たことねえな」
「そう……じゃあ天才ね」

その台詞に、なぜかレティシアは首を傾げた。

「なあ、これ、どういう曲なんだい?」

どういうわけか、そう問いかけていた。

「これは、ブーリンという古典音楽の巨匠が作ったピアノソナタという曲なんだけど、きちんとソナタ形式に則って作られたわけではないの。本来アレグロから入る第一楽章の主題部分にアダージォを持ってきて──」
「あー……そうじゃなくてよ? その音楽家が、どんな意図を持って、誰に向けて作ったのかを聞きたいんだ」
「彼が奥さんのために作った曲よ。初めてのお子さんをお腹に宿したまま逝ってしまった、最愛の奥さんのために」

そんなことを訊いてどうするの? といった風にヘッケルは首を傾げた。

「…………」

なるほど、とレティシアは思った。

──道理でやたら実感こもってると思ったら……。

「普通そういうときは鎮魂歌を贈るものだけれど、彼はなぜかそうしなかったのよ。音楽家も、研究者もその理由が分からないの」
「へえ……」

その理由も、レティシアには分かる気がした。
この男が考えることなど、ひとつしかない。
と、演奏が止む。
第一楽章だけでやめたらしい。
それでもヘッケルと女性店員は割れんばかりの拍手を送っている。
レティシアはまだ椅子に座っている男の肩をポンポン叩くと、ケラケラ笑って声をかけた。

「おい酔っ払い。お前、これでも食っていけんじゃねえの?」

一応褒めたつもりだったのだが、ヴァンツァーは肩をすくめてレティシアを横目で軽く睨む。

「あれより先に聴かせたんだ。高くつくぞ」
「ほんとかよ?! お前それ先に言えって!! 知ってたら弾かせなかったのによお……」

額をぺちっと叩いて大仰に嘆いてみせる。

「すごいわヴァンツァー!! あなた本当に音楽が好きなのね!!」

目を輝かせ、満面の笑みを浮かべて絶賛するヘッケルに、ヴァンツァーは凍てつくような冷たい視線しか向けない。

「救えんな……」

そう呟くと楽譜を手にし、とっとと店を後にした。

「ありゃ」

気の抜けた声を出したレティシアに、ヘッケルが眉をひそめて声をかける。

「私、何か気に障ることでも言ったかしら……?」

レティシアはちいさくため息を吐くと、先輩医師の肩を軽く叩き、一言こう言った。

「あんた、精神科医廃業したほうがいいぜ?」

相手が何を言われたのかに気付く前に、レティシアも店の外に出て行った。
残されたのは、言われた台詞の意味に気付き憮然とする女医と、まだ夢心地の恍惚とした表情をしている老店員だけだった。  




NEXT

ページトップボタン