Piano Sonata

シェラは再びヴァンツァーの家の中にいる。

「…………」

ここまで連れてきてくれたリィとルウは、自分を置くと帰ってしまった。
彼らが言うには家の主人は留守だそうだ──気配がしないという意味がよく分からなかったが。
ひとりで知らない家にいるのは心細いからいてくれ、と頼んだのだが、「すぐに帰ってくるよ」と言い残して行ってしまった。
彼が帰ってきたらきたで居づらいのだ。
あんな態度を取ってしまった自分を、彼は決して快く思っていないはずだから。

「…………」

玄関ホールでしばらく立ち尽くしていたが、そうしていても事態は解決しない。
恐る恐る、一歩一歩確認するように、ゆっくりとした足取りで部屋の中に入っていく。
観葉植物でいっぱいの広い玄関ホールを通ると、すぐ左手に二階と地下へ続くと思われる階段が見える。
なぜだかそこには近付きたくなくて、シェラは目を逸らした。
すると右手の壁に扉がふたつ。
手前の部屋と奥の部屋は、内ドアで繋がっている。
どちらも空き部屋だと、確かあの人が言っていた。
一階には全部で五部屋。
あとはリビングの奥にあるシェラとヴァンツァーの個人部屋と、寝室がある。
二階にはもとは六部屋。
現在は壁をぶち抜いて三部屋になっているという。
すべて仕事に使う布やら型紙やらで埋められているらしい。
試作品の数々が保管してあったり、やりかけの仕事を持ち帰ってやったり、シェラが大学で出された課題を片付けたりするのに使っているそうだ。
さらにこの建物のほかにも、敷地内には別に建物があると言っていた。
建売住宅を購入したので、使い勝手が悪いらしい。
時間ができたら改装したいのだそうだ。
どこにそんなことをする必要があるのか、シェラにはまったく理解できなかったのだけれど。
それにしても、一度しか聞いていない部屋割りをよく覚えているものだな、とシェラは自分の記憶力の良さに驚いた。
それなのに、自分はどうやら一番親しかったらしい人々にかかわることだけ覚えていないのだ。
どうでもいい知事の顔やら教師の名前やらは思い出せるのに、あの人たちのことだけが分からない。
何て都合がよくて、都合の悪い忘れ方。
ダイニングへと続くドアを開けると、ふたりで使うにはかなり大きなテーブルが目に入る。
リィやルウ、レティシアといった面々を招待して食事をしたり飲み会をしたりするらしいから、その大きさ自体をさして不自然とは思わないが、今目に入ってきた光景は、十分おかしかった。

「……これは?」

思わず呟きが漏れた。
先ほど自分が来たときとは、テーブルの上の状態が異なっていた。
ワインが赤一本、白二本に、ウイスキーが一本。
それぞれ空いている。
そしてグラスはひとつきり。

「──あの人、お酒好きなのか……?」

ひとりで飲もうとして飲めないことはない量ではあったが、まだ日は沈まない。
そんな時間から飲むほどの酒好きとも思えなかった。
仕事人間だとも聞いたし、どうも腑に落ちない。
自分のところに来た時にはまったく酔っている様子はなかったので、きっと帰宅してから飲んだのだろう。
その後外出したのだろうか。
それも考えにくい。
もしかしたら、酔いつぶれて寝ているのかもしれない。
気配がしない、と言っていたのは、寝ているから気付かなかっただけかもしれない。
考えていることの大半は間違いだったが、そんなことをシェラは知らない。
自分だけで勝手に納得すると、とりあえず寝室を覗いてみることにした。
これだけ飲んでいれば、気分が悪くなっている可能性がある。
介抱する人間が自分というのは申し訳ないが、いないよりはましだろう。
そう自分に言い聞かせて、シェラは教えられた寝室の扉をノックした。

「……」

応答はない。
もしかして、熟睡しているのだろうか。
睡眠時間を削って働いているらしいから、寝ているのならば起こすのは気が引ける。

「…………」

しかし、本当に気分を悪くしているとしたら、返事もできないかもしれない。
そう思って、シェラは慎重にドアを開けた。
ゆっくりと押し開いていくと、部屋の中は夕日で朱金に染まっていた。
ベッドの右手の窓から西日が差しているのだ。
その眩しさに目を細め、額の前に手をかざして室内を見渡したが、ふたつあるベッドのどちらにも、人はいなかった。
どの部屋にも言えることだったが、ここも落ち着いた印象を受ける。
骨董品とは違うが、腕のいい職人が作ったことが簡単に見てとれる、統一した色調の調度品も自分の好みに合う気がする。
枕元には大きな出窓があり、部屋の左手にも大きな窓がある。
この部屋は大変採光が良いいようだ。

「……」

だが、あの人はいない。
ではどこだろうと首を傾げ、ヴァンツァーの自室ではないかと思い至った。

「あの、人の……」

だが、もしいなかったら。
ただの不法侵入者ではないか。
いくら元々は知り合いとはいえ、他人のプライヴァシーを覗き見るような真似はしてはいけない。

「……でも」

もし具合が悪かったら……。

「でも……」

他人の部屋を見るのは……。
その繰り返しだった。
『でも』と『もし』が行ったり来たり。
寝室の入り口に棒立ちになったまま、しばらくそんなことを考えていた。
本当は、心のどこかであの人はいないと告げる声がしているのだ。

「……やめよう」

ふるふると頭を振って、雑念を追い出そうと努める。
もう嫌われてしまっているとしても、それはしてはいけないことだ。
自分自身が許せなくなるから、だからやめよう。
そう心に決めて寝室の外に出てドアを閉め、そのままそこに体重をかける。

「……ふぅ……」

息を吐き、ちらっとヴァンツァーの部屋を一瞥する。

「──あれ」

開いている。
わずかだが、ドアが向こう側に開いている。

「……やっぱり、具合が……?」

そう思ってしまったら、先ほどの決心など簡単に吹き飛んだ。
最初はゆっくり、段々と早足で部屋に近付く。
拳ひとつ分開いたドアの取っ手に手をかけるとき、一瞬電流が走ったような気がして手を引っ込めた。
自分の中の躊躇いの気持ちが、反射的に出たのかもしれない。

「…………」

慎重に、ゆっくりと取っ手に手をかけ、ことさらゆっくりとドアを押し開いた。
シェラの部屋と同じ間取りの、広い部屋。
シェラの部屋より物のない、広い部屋。

「……」

人がいないのは、一見すればすぐに分かること。
それでも、出ていけなかった。
備え付けのクローゼットと端末の置いてある大きな机以外、ほとんど何もない。
何もないからこそ、唯一の調度である机に目が行く。
机の上。
散らばる幾枚もの紙。
何だろう、と吸い寄せられるように近付いていた。

「デザイン画……?」

幾重にも重なる厚めの紙には、一枚に一着ずつ、服のデザインが描かれていた。

「きれい……」

どれも鮮やかだが、けばけばしくはない色調で描かれており、これがあの一見怖そうだと思った人の仕事なのかと思うと自然、笑みが零れた。
何だか、あの人の秘密を垣間見た気になったのだ。
いけないことだけれど、とてもワクワクする。
一枚一枚目を通していくと、特に目を引く一枚に出会った。
深い、深い、紫がかった赤──深紅。
ルビーを溶かしたように鮮やかで、それでいて吸い込まれそうな深みを持った色彩だった。
丈の長いコートのようでも、ワンピースのようでもある深紅の上着に、裾が広がった真っ白なパンツを合わせた服だ。
襟元には黒い羽根飾りがふんだんに付けられている。

「…………」

呼吸の仕方を忘れた。
人に、こんな色が出せるものなのか、と思った。
何という色彩感覚。
こんな色彩は、自然の造形美でしか表現できない。
ルビーの最高級品はピジョンブラッドと呼ばれる。
おそらくそれと同じか、それ以上の『赤』を表しているはずだ。
何だか強い『想い』が込められている感じがして、あの人の恋人が着る服なのかも、と思う。

「すてき……」

ほう、っとため息を吐く。

「気に入ったのか?」
「?!」

すぐ耳元で低い声がして、反射的に振り返った。

「?!」

唇すら触れそうな至近距離に、宝石のような青い瞳がまず飛び込んできた。

「──っ!!」

またもや反射的に、思い切り身を引いた。

「ご、ごめんなさい!!」

あまりに近くて驚いたものだから、つい謝ってしまった。

「別に見られて困るようなものは置いていない」

シェラの謝罪の意図とは違ったところに、意識が向いているらしい。
ほとんど酔っているようには見えないが、酒のせいだろうか。
シェラの手から圧倒的な深紅を受け取ると、もう一度「これが気に入ったのか?」と訊いてきた。

「え? ええ……素晴らしい色ですね」
「デザインは気に入らないか?」
「え?! いえ、そんなことはっ……あの、その、何と言うか……」

泣きそうな表情でしどろもどろになるシェラの頭に手を置くと、ヴァンツァーは僅かに笑みを浮かべた。

「落ち着け。ゆっくり、思ったことをそのまま口にしてみろ。断片的でいい。分かるから」

俺には、伝わるから。
そう言われた気がした。
何だか嬉しくて、でも胸が苦しくて、シェラは泣き笑いのような表情を浮かべた。

「はい……正直に言います」

そう言うと、深呼吸した。

「お怒りになっても構いません。でも、デザインが気にならないくらい……それくらい、この赤は、深紅は……何というか、印象的だったんです……まるで、血の色のように見えたから……」
「血の色……」
「すみません。褒め言葉ではないですよね……でも、血液は、人間の命の水ですから……この衣装を着ける方は、きっと、返り血を浴びて、それでも凛として立っているような……おそらく、戦う天使のような方なんだ、と……」
「……」
「どんなに赤く染まっても、それが気にならないくらいに、真っ白で、気高い方なんだ、と、思いました……」

不意に、目の前の男が笑う気配がした。

「あ、あの……?」

その笑顔に戸惑いを隠せずに声をかけるが、声を出さないままヴァンツァーは喉の奥で笑っている。

「赤から連想するのが血の色か。しかも天使? 黒い翼を持った天使か? お前の発想は面白いな」

おかしそうに笑みを浮かべるその様子は、少しも棘がなく、むしろ心底楽しそうなものだった。

「あ、その……すみま──」
「違う」
謝罪の言葉を述べようとした口に、男の指が押し当てられる。

「?!」

びっくりして身を引いたが、ヴァンツァーは気にした様子もなく、いまだに楽しそうな相好をしている。

「褒めているんだろうが。まったく。普段はてこでも謝らないくせに、今のお前は随分簡単に頭を下げるんだな」

呆れたように微笑んでいるからだろうか。
不思議と怒られている気はしなかった。

「……謝るのがそんなに、いけないことなのでしょうか……?」

それでも困惑したまま問いかける。 『今のお前』と言われることに、違和感のようなものを感じるからかもしれない。

「悪いとは言っていない」
「では、気に障ります?」

僅かに語気が強まる。

「シェラ」

たしなめるような、それでいて宥めるような声に、シェラは微かな苛立ちを感じていた。
自分はこの人のことを知っているはずなのに覚えていない。
この人のことをもっと知りたいと思うのに、何も思い出せない。
しかし、この人は今の自分も、記憶をなくす前の自分も知っている。
記憶があろうとなかろうと、それは自分に違いない。
それでも、この人の記憶の中にあるのが今の自分でないことに苛立つのだ。
この人にとってどちらも同じ人間でも、自分を通してもうひとり、別の誰かを見ているのではないかという気になってくる。
自分だけを見てくれるわけではない。
まるで、『シェラ』がふたりいるような感覚だ。
そのことがもどかしかった。

「──はっきりおっしゃって下さい! 何が言いたいんですか!!」

八つ当たりなのは分かっている。
相手は怒っていないのだから、自分が勝手に憤慨していることも、重々承知している。
それでも、こんなに近くにいるのにこの人は自分を見ていないのではないかと思うと、冷静でなどいられなかった。
この人と自分は、本当に一緒に住んでいたのか?
だとしたら、記憶を失くす前の自分はこの人をどう思っていたのだろう?
もしこの人のことを好きだったとしたら、きっと辛かっただろう。
だって、この人には恋人がいるハズなのだ。
それを傍で見ているというのは、どんな気分だろう。
好きでないなら、救われるのだが。

「──大体、どうして私なんかをこの家に置いているんです? 恋人と住めばいいじゃないですか!」
「恋人?」
「いらっしゃるんでしょう?! ふたりや三人!!」
「なぜ複数なんだ……?」
「いないとは言わせませんよ?!」

掴みかからんばかりの勢いのシェラに向けて、ヴァンツァーは胃痛の原因になりそうな深いため息を吐く。

「──いるさ。」

その『恋人』とやらの定義に、『相手はどう思っているか知らないが』という但書きが付くならば、の話だが。
この銀色の中で『一緒にいたい』とか、『死んで欲しくない』といった感覚と、『好きだ』という感覚が同じなのかどうかが分からないのだ。
普通は一緒なのだろうが、この銀色に限っては一般人の定義が直線で結びつかない。
もうこれは、苦笑するしかない。
確かに自分を見て熱を上げる雌犬には辟易していたが、まさかこの自分が特定の誰かに全面降伏する日が来ようなどとは。
そんな感覚すら、自分は知らなかったのに。
しかしそんなことをシェラは知らない。
だから頭上から降ってきた一言に、シェラは我知らずこみ上げてくる熱いものを感じていた。
ほら、やっぱり、この人には恋人がいるんじゃないか。
やっぱり、この指輪も、あの言葉も、この人のものではなかった。

「……そう、ですか」

一言ささやくように口にすると、ヴァンツァーの横をすり抜ける。
そんなシェラの腕を、ヴァンツァーはほとんど反射的に掴んだ。

「……何か?」

腕を掴まれた反動のまま、ヴァンツァーを振り返る。
シェラは不思議そうな、それでいて、ほんの少し怒ったような顔をしている。

「──……いや」

泣いているかと思ったのに。
やはり記憶がない分、今までの銀色とは違うのだろうか。
それともこの銀色の行動パターンが分かりづらいだけなのだろうか。
かける言葉がなくなってしまって、ふと持っていた楽譜に意識が行く。

「──ピアノ、聴かないか?」
「え?」
「最近働き詰めだったから、気分転換でもしようかとさっき買ってきたんだ」

言いながらヴァンツァーは、自分を笑いたくなった。
何て下手な言い訳。
レティシアにでも聞かれていたら、しばらくからかわれるネタになりそうだ。

「……その相手が、私でいいんですか?」

恋人を相手にするのが普通だろうに。
働き詰めならなおさらだ。
少しでも、心癒される時間が欲しいハズだ。
なぜ大事な気分転換に、自分を付き合わせてくれるのか。
困惑が素直に表情に出る。

「これを買った店でレティーにも聴かせた」

そう言えば、この銀色の心理的負担も減るだろう。
特別な意味はなく、ただここにいるからたまたま選んだだけ。
そういう風に思わせておけば、恐ろしく思っている自分の暇つぶしにも付き合えるだろう。
本当は、「聴いて欲しいのだ」と言いたいのだけれど。
どこまでも噛み合わないふたりである。
お互いの心理だけが、どうしても分からない。
その証拠に、ヴァンツァーの言葉を聞いたシェラはなるほど、と思っていた。
演奏は聴かせて初めて意味をなすのだから、男の言葉は当然かと思われた。
恋人でなくとも、友人でも良いのだ。
とにかく、ピアノを弾くことそのものが気分転換になるのだろう。
いや、そんな難しいことより、どんな理由であろうとこの人に必要とされている事実が嬉しかったのだ。
今この場にはこの人の恋人も友人もいないのだから、きっと自分が一番だ。
自分が一番この人の近くにいる。
それならば、今はそれでいい。

「お付き合いさせていただきます」

花が綻ぶような、自然な笑みが零れた。
が、それも地下への階段を目にするまでだった。

「…………」

ヴァンツァーは先に階段を降りていく。
それは、自分を怖がる──相変わらず盛大な勘違いだったのだが──シェラに対する気遣いだった。
それなのに、シェラは足がすくんで一歩を踏み出せない。
覚えていなくとも、トラウマになっているのだろう。

──怖い。でも行かないとあの人が遠ざかってしまう。 でも恐い。

ヴァンツァーは最後の一段を降りようとしていた。

──嫌だ、行かないで。

決心して一歩踏み出したが、足に力が入らず、踏み外す。

───────。

思わず目を閉じた。
浮遊感。
さらにきつく目を瞑る。
衝撃──……と、なぜか温もり。

「──大丈夫か?」

しっかりとシェラを受け止め、そう声をかけながら、ヴァンツァーの背は冷や汗でびっしょり濡れていた。
今回は間に合った。
間に合ってよかった。
振り返ってよかった。
今ばかりは、反射的に動くように訓練された身体に感謝していた。
彼らは今、階段の半ばより少し下にいる。
跳んだのだ、と意識もせずにヴァンツァーは跳躍していたらしい。

「おい?」

そのまま意識を失ってしまったかと声をかけると、背中にぎゅっと腕が回された。

「シェラ?」

ほっとしつつ、シェラを抱く腕に少し力を込めると、シェラはそこで初めて気付いたようにぱっと体を離しにかかる。

「ご、ごめんなさい!!」
「暴れるな。俺も落ちる」

そんなことはあり得ないのだが、バランスを崩すと言い聞かせシェラを抱く腕に力を込めた。

「あ、はい……すみません……」
「本当に謝ってばかりだな」

耳元で笑う声がして、顔が熱くなる。
こんなに近くにいるのに、全然恐くなかった。
もっと、こうしていたいな、と思うと温もりが離れていく。

「あっ……」

思わず引き止めるように袖を引いてしまい、気恥ずかしさに頬を染めて俯く。
その様子に、ヴァンツァーの目が細められる。

「ほら」

手が差し伸べられたのだと気付くのに、結構な時間がかかった。

「離したりしないから、安心しろ」

手放す気はない、と先程自分が言った台詞が脳裏を掠める。
それがおかしくて、ほんの少し笑った。
それを見たシェラは、安心させようと微笑みかけてくれているのだと思った。
袖を引いたのは、階段から落ちることを怖がっての行動だと思っているらしい。
やはり、善い人だ。
そう、結論づけた。

「すみま──……ありがとう」

自分のものより大きな手を握って言うと、驚いたように藍色の瞳が瞠られる。

「あ……間違って、ました?」

不安げに問うと、緩く首が振られる。

「いや。それが聞きたかった」

その言葉にシェラは満面の笑みを浮かべた。
良かった。
やっと言えた。
ずっと言いたかった言葉だ。
階段を降りきっても手は繋いだまま、ピアノのある部屋まで向かう。
部屋に入ってようやく、シェラは今気付いたように礼を言って手を離した。
まだ、手が熱い。
無意識のうちにその手を口許に持っていく。

「シェラ」

唐突に声をかけられてびっくりすると、ヴァンツァーは苦笑して部屋の隅にある椅子を指差した。

「あれに座るといい」

椅子は部屋の中央にあるピアノからは大分離れた位置にある。
それを見てシェラは少し迷ってから口を開いた。

「……あの、そこにいては、いけませんか?」

言われたヴァンツァーの方が訳が分からず首を傾げる。

「どこだ?」
「あな──ピアノの、横に……もちろん、お邪魔なら、無理にとは言いませんけど……」

藍色の瞳とは視線を合わせず、消え入りそうな声でそう呟く。

「構わんが?」

怪訝そうな顔をするヴァンツァーに、シェラは慌てて、「音が、良く聴こえるでしょう?」 と言った。
それ以上ヴァンツァーが追求してこなくてほっとした。
シェラがしげしげとピアノを眺める横で、ヴァンツァーは演奏準備を整え、楽譜を広げた。
椅子に腰かけたその姿に、シェラは思わず見惚れそうになる。
だからまた慌てて言葉を紡いだ。

「どんな曲ですか?」
「ブーリンという古典音楽家の書いたピアノソナタだ」

いつものヴァンツァーならば、そんな型通りの説明はしない。
楽器屋でレティシアが訊きたがったような、成立過程を話して聞かせただろう。
だから、そこには何か思うところがあったのかもしれない。
シェラには視線を送らず、譜面に目を走らせる。
店では第一楽章しか見ていなかったから、他の章にも目を通そうというのだろう。
ほんのわずかだが、シェラに聴かせたときよりも、レティシアたちに聴かせたときの方が、音の流れに対する戸惑いがない分スムーズに弾けた。
やはり記憶に頼っていた部分が大きかったな、と思う。
ただ、シェラに聴かせた時と、楽器屋で弾いた時とでは音が違った。
調律の具合だろうか?
楽器屋のピアノの音には違和感が残ったのだ。

「お好きな作曲家なんですか?」
「ああ。一番性に合うんだ」
「へえ……」

それだけ訊くと、後は邪魔にならないように黙っていた。
一通り目を通し終わったのか、指が鍵盤に置かれる。
シェラはこの男がどんな音で演奏をするのかは、正直二の次だった。
ピアニストではないのだし、趣味で音楽をやる人間の演奏だから、とも思っていた。
それでも、気分転換の相手に自分を選んでくれたことが嬉しかったのだ。
だが、そんなシェラの思いは、すぐに塗り替えられた。

「──────」

以前シェラに聴かせた音でも、先ほどの店でレティシアたちに聴かせた音でもなかった。
もっと、ずっと、深い……地の底から這い上がってくるような低音。
ゆっくりとした曲調なのに、魂ごと天まで持っていかれそうになる勢いをも孕んでいる気がする。
死者の国にある魂魄を引きずり出すような、そんな音。
魅了して、絡め取って、縛り付ける。
そんな、絶対的な想いの込められた音だ。

「……」

シェラは動悸が激しくなるのを感じていた。
背筋を何かが這い上がるような感覚に、思わず首をすくめた。
指先まで震えている。
立っていられるのが不思議なくらい、体も心も震えていて、思わずピアノに縋りついた。
曲が短調から長調に変わる。
鮮やかな変化だった。
望むものを手に入れたときに感じる悦び。
それ以外には何も欲しない想いを叶えたときの心が、そのまま音になる。
どんな顔をしてこんな音を出しているのか盗み見ようと、シェラはちらりとヴァンツァーに視線を滑らせた。

「──っ」

ふと視線が絡む。
自分が見ようとしていたことに気付かれたのか、元々ヴァンツァーが自分を見ていたのかは分からない。
そんなことを考える余裕がなかったのだ。
反射的に目を逸らしてしまった。
直後後悔したが、それでヴァンツァーが演奏を止めることはなかったことに安堵した。
が、それもわずかな間のこと。

「…………」

段々と、場違いな気がしてきたのだ。
確かにもっと聴いていたい。
だが、この音はだめだ。
これ以上聴いていてはいけない。

「──やめて……」

だから思わずそう呟いた。
シェラの言葉を無視するように、ヴァンツァーは続けた。

「やめて下さい!」

懇願してヴァンツァーの腕を掴んだ。
必然的に、演奏は止み、音は掻き消えた。

「なぜ?」

当然の言葉と言えた。
何てひどいことをするんだ、とシェラは自身を罵倒した。
しかし、それでも演奏を続けさせるわけにはいかなかった。
これ以上、あの音に耳を傾けてはいけなかった。
だから一度首を振り、シェラはヴァンツァーに言った。

「……馬鹿なことを考えている、と思われますから……」
「何を考えた?」

間髪入れずに返された言葉に、シェラは再び首を振ることしかできなかった。

「言えません……」
「聞かせろ」

またもやふるふると首を振る。

「シェラ」

名前を呼ばれて、ぴくり、と肩が震える。
怒っている声音ではなかった。
むしろ、穏やかでやさしげで、また馬鹿なことを考えそうになる自分の想いを打ち消そうと、シェラはきつく目を閉じた。

「シェラ、頼む。聞かせてくれ」

余りにその声音が真摯だったから、シェラは顔を跳ね上げた。

「──卑怯です!!」
「何が?」
「あなたはっ! 何でそんな音を聴かせるんです?! 何で、誰にでもそんな音を……!!」
「誰にでも、ではない」
「さっきレティシアさんに聴かせたんでしょう?!」
「今の音とは違った」
「意味が分かりません!!」
「俺にも分からない。お前は、この音を聴いて何を考えた?」
「何も!!」

言い切るとシェラは踵を返した。
瞬間、腕を引かれる。

「っ!」

気付いたときには、ヴァンツァーの腕の中だった。

「──離して、下さいっ……」

逃れようともがくが、ほとんど腕に力が入らなかった。
動悸は速まるばかりだ。

「シェラ」

耳元に、ささやきが注ぎ込まれた。
胸が締め付けられるような、そんな声だった。

「頼む……聞かせてくれ」

その声が余りに真剣で、余りに切なくて……何より抱きしめてくる腕が心地よかったから、シェラは眉根を寄せると、大きく息を吐いて力を抜いた。
それに気付いたらしく、ヴァンツァーの腕もわずかに緩む。

「……本当に、ずるい」

そう告げると、シェラはヴァンツァーの瞳を覗き込んだ。

「あんな音を聴かされて、そんな声で言われたら……勘違いしてしまうじゃないですか……」

ほとんど涙声だった。
まだ瞳は濡れていないけれど、時間の問題だとシェラはそう思った。

「どんな?」

ああ、やはりルウの瞳とは違う。
ルウの瞳は海の青色だが、ヴァンツァーの瞳は月のかかった夜空の色だ。
しかし黒とは違う、瑠璃のような藍色。
深くて澄んだ、包み込むような穏やかさを湛えた瞳だ。
どうしてこの瞳からも冷たい印象を受けたのか、今はまったく分からなかった。
だから、口が滑る。

「──あなたのことが、好きみたいです」

言われたヴァンツァーは大きく目を瞠る。
それを見てシェラは後悔した。
やはり、言わなければ良かった。
気持ち悪いに決まっている。
どうして我慢できなかったのだろう。

「すみません。忘れて──」
「それが勘違いなのか?」
「は?」

驚いた顔のままそう告げたヴァンツァーに、シェラは呆けた表情と間の抜けた声しか返せなかった。

「だから、それが勘違いの内容なのか?」

その顔が驚くほど真剣だったので、シェラは反射的に首を振ってしまった。

「いいえ……え……っと?」

ヴァンツァーに抱かれたまま、その肩に手をかけてシェラは首を傾げた。

「では何を勘違いした?」

その声も非常に真剣だったので、誤魔化す気も消え失せてシェラは思ったままを口にした。

「あなたが、私を想ってくれていると……」

それを聞いて、ヴァンツァーが目に見えて嘆息した。

「何だ、そんなことか」
「そんなこと──」

余りの態度にかっとなったが、続く言葉に押しとどめられた。

「それならば勘違いではない。事実だ」
「……は?」
「事実だ、と言った」

たっぷり間を取って、よくよく眼前の男の台詞を反芻してから、シェラは口を開いた。

「嘘です」

きっぱりと言い切られたその言葉に、ヴァンツァーはそんなことだろうと予想していたにもかかわらず頭痛がした。
記憶があろうとなかろうと、この銀色ともうずっとこんなやりとりをしている気がするのだ。
いや、気のせいではないだけ性質が悪かった。

「俺がこの口で言っているのにか?」
「それでも、嘘です」

何の迷いもなくそう返事が返る。

「その指輪は俺が贈ったものだと言っても?」
「……」

さすがにその言葉には一瞬言葉を失うシェラだった。

「……嘘……でしょう?」
「全部嘘なんだな」

その様子に藍色の瞳がちいさく笑う。

「だって……じゃあ、あの言葉は?」
「俺の本心だが?」

それがどうした、と言わんばかりの口調だった。
ヴァンツァーはまさかシェラがあの台詞を他人のものだと思っているとは知らなかった。
だから口調がそうなるのも、仕方ないことと言えた。

「……うそ……」

その言葉しか知らないかのように、シェラは同じことしか口にできない。

「どうすれば信じてもらえるんだ?」

シェラはしばらく黙ったまま、左手の指輪を見つめていた。

「……これは、本当にあなたが……?」

ようやくそれだけ口にした。

「ああ」

返る言葉も短い。

「……左手ですよ?」
「左手だな」

簡潔にすぎる言葉のやりとり。

「…………薬指じゃないですか」
「俺もしている」

言われてヴァンツァーの手を見て、初めてそこに指輪があることに気付く。
何て散漫な注意力。
そう思ってじっとふたつのアンティーク・リングを交互に見つめていると、ふっと笑う気配がした。

「──何か問題でも?」

いっそ傲慢なくらいの物言いだったが、まったく気にならなかった。
ただ、その言葉がきっかけになったかのようにシェラの瞳からは涙が零れた。
ヴァンツァーは僅かに眉を寄せてその様子を見ていた。

「──泣かれると、困るんだ」
「すみません……男のくせに……」

恥ずかしくなって俯くと、顔を上げさせられた。
じっと瞳の奥を覗かれて、その状態に耐えられなくなって目を逸らす直前。

「止めたくなるだろう?」

労わるように額に口づけられて、さらに涙が溢れた。

「──それはどういう意思表示だ?」
「あ……ああ! ごめんなさい! おかしいな……」

涙は止まらず、苦笑したままシェラは言葉を続けた。

「何だか、嬉しくて……」

自分で涙を拭っても、後から後から流れてくる。

「……その辺で泣き止んでもらえるとありがたいんだがな」
「すみません……あの、止まらないと、どうなるんでしょうか?」

おどおどと声をかけるシェラに、ヴァンツァーは肩をすくめた。

「別に。止まるように善処するだけだが……」

ふと言葉を途切れさせると、シェラの瞼に口付ける。
くすぐったそうにそれを享受していたシェラだったが、先ほどのヴァンツァーの言葉が気になった。

「だが、何です?」

それには答えず、藍色の瞳は言葉を紡ぐシェラの唇を見つめている。

「あの……?」

訝しげに問うが、それでも答えは返らない。

「……」

シェラの頬を伝う涙を拭い、その頬に手を添えると、一度躊躇った後ゆっくりと唇を重ねた。
軽く、触れるだけの口づけ。
それでもシェラは驚きに目を瞠った。
全然嫌ではないが、どうしてこの人がこんなことをしてくるのか、理解できなかったのだ。
そのせいかどうかは判然としないが、拭ったはずの頬がまた濡れた。
ヴァンツァーはその涙にも口づけて啜ると、一度顔を離して紫の瞳を覗き込んだ。
そして、どちらからともなく瞳を閉じると、先ほどよりも深く唇を重ねる。
啄ばむようなものから、だんだんと熱を絡めるように……。
角度を変えて何度も重ねられるうちに、シェラはわずかに戸惑いを覚えた。
まるで、一瞬でも離れることを許さないかのようなものへと変わっていったからだ。
息苦しさを感じながら、それでも何とか呼吸をしていたわけだが、その合間すら惜しむかのようなキスをされて、本格的に息ができなくなってきた。
奪うような、魂ごと喰らい尽くすような、そんな口づけ。
それでも、それは決して乱暴なものではなかった。
ただ、目の前の青年が何か焦っているような気がして、戸惑いが先に立っただけだ。
苦しくて、何とか逃れようと試みるのだが、右手で頭をしっかり押さえられ、左手で体を拘束されてはどうすることもできなかった。
ただでさえ、どこをどう押さえれば動けなくなるのかを知り尽くした男だ。
自分もそれは知っていたが、ヴァンツァーの方が一枚上手らしい。
最近こんな風に口づけられることがなかったから、余計に焦る。
しかも、なぜだかよく分からないが、まったく体に力が入らないのだからどうしようもない。

「────」

意識が朦朧としてきて、頭痛すら感じるようになると、やっと嵐のような口づけが収まった。
ごくり、と唾液を嚥下する。

「お……お……」

シェラは肩で息をしながら眼前の男を睨みつけた。
心臓は早鐘を打ったようにドクドクいっているし、顔は熱いし、それが全然嫌ではないし、とにかくわけが分からなかった。

「お、まえ……なあ……」

怒ったようでも、呆れたようでもある声音だった。

「──シェラ?」
「何だ! この、色魔!!」

いつもの調子の銀色の様子に、ヴァンツァーは大きく目を瞠った。

「本当に、お伽話だな……」

ぽつり、とそれだけ呟くと、ゆっくりと笑みを浮かべた。
彼にしては奇跡的に毒のない、やわらかすぎる程の微笑みだった。
だからシェラの動悸が激しくなったのは、珍獣を目の当たりにしたような焦りから来ているに違いない。
そうに違いない。

「な、何の話だ?」
「レティーに礼を言っておけ」
「はあ?!」

何で私が、と顔に書いてある。

「お前俺が誰だか分かるか?」
「……やっぱり馬鹿にしているのか?」
「物心ついてから今までに何があったかも、説明できるな?」
「いい加減にしないと怒るぞ」

押し殺したような唸り声にも、ヴァンツァーは一向に構うことなく言葉を続けた。

「階段から落ちた後のことも、覚えているか?」
「……」

その言葉には、何も言い返せなかった。
結論から言えば、覚えている。
というか、今言われて思い出した。
ここ数日の自分の有様が、克明によみがえる。

「……忘れたい」

あのレティシアに抱きついてしまった自分やら、リィとルウに多大な迷惑をかけてしまった自分やら、この男を恐ろしく思っていたくせに惹かれていく自分やら、馬鹿みたいに胸を高鳴らせる自分やら……数え上げたらキリがないくらいの『自分』を、忘れてしまいたかった。

「それは困る」
「どうしてだ?」
「俺が馬鹿みたいだからな」
「は? 意味が分からない」
「分からないならそれでいい」
「分かるように説明しろ!」
「細かいことを気にするな」
「お前! また意地が悪くなってる!!」

ヴァンツァーの顔には「心外だ」と書いてある。

「俺がいつ意地悪くなった?」
「最近いつもそうだったじゃないか。キスもさせてくれな──」

言いかけてはっとする。

「……も、もういい……」

穴があったら入りたいくらい恥ずかしくなって、シェラはヴァンツァーの腕からすり抜けようとした。

「したかったのか?」

腕を引かれて、今度は後ろ向きに自由を奪われた。
ちいさく笑っているのが、背中越しに伝わる振動で分かる。
椅子に腰掛けるヴァンツァーの膝の上に座っているのだ、と気付いて赤面した。

「おい!!」

もがいたところで腕が外れるわけがない。
先ほども言ったが、相手は人体に精通した玄人だ。

「まったく。お前のおかげで台無しだ」

やはり微かに楽しげな響きを孕んだ、低いささやき。
シェラの肩口に顔を埋めているため、必然的にくぐもった声になる。
その一言に、シェラの動きがぴたりと止まる。

「何の話だ?」
「せっかくの苦労が水の泡になった」
「苦労?」

この男が何に苦労しているというのか。
何をやっても上手くいくくせに。

「大学で単位を取るよりも労力を使ったんだがな」
「何に?」

ゆっくりと後ろを振り向くと、藍色の瞳にぶつかった。

「さあ?」

そう言うと、掠め取るように唇を触れ合わせた。

「?! おい、また誤魔化す気か!!」
「またとは何だ」
「いつもいつもいっつも! お前がそういうことをするから、私は何も言えなくなるんじゃないか!!」

十分すぎる程声を大にして叫んでいる気がするのは、気のせいだろうか。

「だから、それを気の毒だと思って耐性をつけてやっているんだろうが」

だがそんなシェラの様子にまともに取り合うようでは、ヴァンツァーではない。

「この性悪の色魔が!!」

顔を赤くしてヴァンツァーから離れようと、その肩に手をついた。

「でも、好きなんだろう?」
「────」

先程確かにそう言っていた。
この銀色からそんな直接的な言葉を聞いたのは初めてだった。
絶対に忘れてやらない。
たとえ今度は自分が記憶を失くしたとしても、だ。
そんなヴァンツァーの心中を知らないシェラは口をぱくぱくさせて喘ぐが、肩に置いた手に手を置かれて動けなかった。
まったく力を入れていない手なのに、動けなかった。

「ところで、どうして指輪を握っていたんだ?」

重ねた手に指輪が触れたことで思い出す。
そもそもの原因であるあの事故の詳細がまったく分からない。
嵌めていたはずの指輪が、どうして握り締められていたのか。
外して捨てるつもりだったのだろうか。
そう思ったから、「捨てるなら捨てろ」と言ったわけだが。

「……お前の言葉が証明されてしまったんだ」
「というと?」
「抜けたんだ、指から。本当に痩せていたんだな」

ヴァンツァーは無言で促した。

「指輪が階段を落ちていったから、慌てて振り返ったら──」
「お前も落ちたのか?」
「あんな高さから落ちたくらいで受身を取れないなんて、なまったのかもしれない……」

訓練はしていても、実践がないのでは感覚が麻痺する。
情けない、という苦悩でいっぱいの表情だ。
が、ヴァンツァーはそうはいかなかった。

「──ふざけるな」

低い、声だった。
聞いたこともないくらい、押し殺した声だった。

「……ヴァンツァー?」

思わずシェラが身を引いたくらい、凄まじい怒りを感じる。
肩に置いた手が、思い切り握り締められた。
手加減のないその力に、シェラは顔を顰める。

「お前、打ち所が悪かったら、死んでいたかも知れないんだぞ?」
「……分かっている。だから情けないと反省を──」
「全然分かっていない。お前が倒れているのを見たときの俺がどんな気分だったか──」

そこでヴァンツァーは言葉を切った。

「──そうか。お前、いつもあんな……」
「ヴァンツァー?」

怪訝そうな顔で小首を傾げると、ヴァンツァーは一度シェラと目を合わせ、片手で顔を覆った。

「?」
「──尊敬する」

ひとつ息を吐くと、そう呟いた。

「どうしたんだ、お前?」
「お前が痩せたのは俺のせいだと、エマに説教された」

その言葉に、シェラはちいさく吹き出した。

「あの人らしいな」
「俺はそんなに心労をかけていたのか?」
「自覚がないから困っているんじゃないか。少しは休む気になったか?」
「……」

黙ってしまったヴァンツァーを、シェラは睨みつけた。

「……善処する」
「足りない」
「おい」
「お前が無理をしていないのは分かっている。あれで丁度いいことも、理解はできる」

ヴァンツァーの肩に顎を乗せ、シェラは言葉を続けた。

「私が言えた義理ではないが……一度死んでいるから、あまり自分の命を気にしていないのかもしれない。でも、頼むから、もっと楽に生きてくれないか?」

声が揺れる。

「お前が仕事に誇りを持っているのは知っているし、尊敬もしている。だから、ほんの少しでいいから、譲ってくれ」
「譲る?」

同じ体制のままでシェラは頷いた。

「仕事に妥協はして欲しくなんだが……その……」

言いにくそうに言葉を濁す。

「何だ?」
「…………」
「シェラ」

名前を呼ばれて頭を撫でられては、口を割るしかない。

「……その……もう少し、構ってくれないか?」
「──シェラ?」

何か信じられない言葉を聞いたように、ヴァンツァーは相手の名前を呼ぶことしかできなかった。

「──っ……大体!」

自分の言った言葉が急に恥ずかしくなったのか、シェラはヴァンツァーの体から自分を引き剥がすと、怒ったように口を開いた。

「お前最近妙に冷たいから……そうだ! お前私のことが嫌いなんじゃないのか?!」
「誰がそんなことを言った」

無表情でそう返されると、たじろいでしまうものらしい。
自分が悪い気になってしまうのだ。

「ち、違うのか? でも、それならどうして……」

いつもは泣いていたら止めてくれたのに、なぜあの時は何もしなかったのか。
途端に語気の弱くなったシェラに向かって、もう今日一日で何度になるのか考えたくもない嘆息を漏らした。

「──止められそうになかった」

言われたことの意味が分からなかったシェラは、「涙をか?」と聞いた。
この『専門家』に、珍しいこともあったものだ。

「違う。自制が利かなくなりそうだったんだ」

そう言うと、つい、と顔を逸らした。
この男にしては、実に珍しい行動と言えた。
その端正な横顔には「なぜこんなことを正直に答えなければならないんだ」と書いてあった。
最近どうも抑制が利かないのだ。
一度口づけてしまったら、そこで終われそうになかった。
だからできるだけ触れないようにしていた。
意識してこの銀色をからかおうとしている時ですら、時折妙な衝動に駆られるのだ。
不意を突かれたり、冷静さを欠いている時など、話にならない。
この間もそうだった。
きっとあのまま口づけを許していたら、自分はこの銀色を押し倒していただろう。

「──……お前、もしかして、馬鹿なのか……?」

ぽかん、とした後、シェラは吐息ごと言葉を漏らした。

「…………」

対するヴァンツァーは苦い顔をしている。
言うつもりのなかったことまで答えたのに、どうしてそんな評価をされなければならないのか。

「私は、そんなことのために、避けられていたのか……?」
「そんなこと……」

思わず言葉をなくしたヴァンツァーだった。
対してシェラは、気が抜けたようにぺたりと床に座り込んだ。

「……それなら、そうと言え」
「──……言えるか」

頭を抱えるヴァンツァーを誰も責められないはずだが、シェラは至って大真面目なのだ。

「この間だって嫌がってただろうが」

さすがに憮然となって呟くと、「この間?」と訊かれた。

「その指輪を渡したときだ」

言われたシェラの血液が沸騰する。

「ば──馬鹿なことを言うな!! あれはお前が車の中でっ!!」
「二年先まで予約でいっぱいなのを知っていて、ロイヤルスイートを指定したくせに……」
「プラチナスイートを取ったって言うから、覚悟を決めたじゃないか! 自分だって私をからかったくせに!!」
「嫌がっている相手に無理矢理手を出せるか」

それではただの変質者だ、と呟く男の膝に、シェラは額をつけた。

「……本気で嫌われたのかと、思ったじゃないか……」
「王妃が自分の意思で砂糖を口にしたら、それもあり得るかも知れんな」
「…………」

余りに真剣な口調だったから、シェラはそれがヴァンツァーの冗談であることにしばらく気付かなかった。

「言っただろうが。お前を手放す気はさらさらないんだ」

緩く口端を吊り上げるその表情は、実に妖艶で心臓に悪かった。

「逃げてもいいぞ。たとえ死んでも魂を鎮めてやる気はないしな。どうせ俺もお前も聖霊になる。天国でも地獄でも仕立て屋の故郷でも、好きな所へ行け」

じっとその様子を見ていたシェラは、天使の笑顔を浮かべた。

「逃げる? まさか」

アメジストの瞳を煌かせて、『戦う天使』と化した青年は言い切った。

「私がいないと、お前トゲトゲしっぱなしじゃないか。人様に迷惑だからな。放っておくわけにはいかない」

それを聞いたヴァンツァーは楽しそうに笑った。

「ほう。ではしっかり捕まえておけ」
「必要ないだろう?」
「自信家だな」
「誰かさんに感化されたかな」

その言葉に肩をすくめたヴァンツァーは、座り直すとシェラを横目で見た。

「続き。聴くだろう?」

相手が頷くことを、疑ってもいない口調だった。
シェラは無言で立ち上がると、ピアノに腕を置いてそこに顎を乗せた。

「お前、他の人間……特に女性には聴かせるなよ?」
「なぜだ?」
「私みたいに『勘違い』するかもしれないだろうが」

言われて首を捻ったヴァンツァーだったが、「大丈夫だろう」と返した。

「どうして?」

半ば憮然とした面持ちで訊く。
それでなくても人目を引く男なのだから、光に群がる羽虫がいないとは言い切れないだろうに。

「言っただろう。音が違うんだ。レティーたちに聴かせた時は、なぜだか音が曇った。同じことを考えて演奏していたはずなんだがな」
「…………」

シェラは目をぱちくりさせてヴァンツァーを見た。
本人も分からないらしく首を傾げる様子がおかしくて、シェラはつい吹き出した。

「何だ?」

怪訝そうに問いかけてくる様子もおかしくて、シェラは体を折って笑った。
かなり腹筋に堪える。

「おい、シェラ」

余りに長いことシェラが笑っているので、その理由が気になるらしい。
ほんの少し苛立たしげな口調だった。

「やっぱり、お前……」

まだ笑っている。
それでも何とか呼吸を整えて、言葉を操ろうと試みた。

「おま、お前……分かりづらくて、分かりやすいなあ」
「……?」

まだ良く分かっていないらしいヴァンツァーを尻目に、シェラは思う存分音響の良い室内で爆笑した。

「そうだ、ヴァンツァー」

いい加減疲れたのか、目尻の涙を拭うとシェラは切り出した。

「あの深紅の衣装なんだが」
「ああ」
「あれ、ドレスにできないか?」
「……なに?」

言われて大きく藍色の目を瞠った。

「今のデザインだと、パンツを合わせているだろう? そうじゃなくて、ちゃんとしたドレスに描き直してくれないか?」
「お前が着るんだぞ?」
「もちろんだ。似合わないか?」
「そんなわけないだろうが」

そこはきっぱりと否定しておくことを忘れない。
自分が描いた服が、この銀色に合わないハズがなかった。
たとえ考えていることがよく分からなかったとしても、自分以上にこの銀色を知っている人間はいない。

「パーティの間中、その格好でいる気か?」
「おかしいか?」
「……理由を訊いてもいいか?」

これには不思議そうに首を傾げたシェラだった。

「だって、どうせワルツを踊るなら、それくらい思い切った方が楽しいだろう?」
「……」

良く分からない、といった目で、ヴァンツァーはシェラを見た。

「たまには羽目を外して遊ぶのもいいんじゃないか、と言っているんだ」

それはどちらかといえばヴァンツァーに向けての言葉だったのだが。
シェラの台詞を聞いたヴァンツァーは、ちいさく嘆息すると天井を仰いだ。

「……その前にエマに遊ばれるぞ」

シェラの天使の美貌と銀髪紫瞳の組み合わせを大層気に入っているかの女性は、ことある毎にシェラを女装させてはコレクションに出そうと画策しているのだ。
いくらプライヴェートなお遊びとはいえ、自社で製品を作るのだからスタッフの耳に入れないわけにもいかない。
おそらく──否、間違いなく彼女は嬉々としてシェラを飾り立てることに精力をつぎ込むだろう。

「髪を切ったときなんか、こっぴどく怒られたからなあ」

そのときのことを思い出しているのか、シェラは苦笑した。

「だから、そのお詫びも兼ねて。あの人には、嫌われたくないんだ」
「好きなのか?」

何となく、反射的にそう訊いていた。

「──……何だ、お前。妬いてるのか?」

一瞬目を瞠り、クスクスと楽しそうにシェラが笑う。
それに対してヴァンツァーは肩をすくめて答えた。

「信じられないことに、レティーにまで妬いたんだ」
「…………嘘だろう?」

また、さっきと同じ言葉を繰り返す。
そんなシェラに、ヴァンツァーは実に真剣な顔でこう言った。

「俺が一番そう思っている」

そしてまた、室内に笑い声が響いたのだった──。




END.


よろしければ、おまけをどうぞ。
シェラは出ますがヴァンツァーは出ません。

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