「──……どうしたんだ、それ」
大きく目を瞠り、しばらく沈黙した後、やっとのことで呟いた。
「切った」
返る言葉はあまりに簡潔で、説明にも何にもならなかった。
「見れば分かる。なぜ切った?」
「……切りたかったから」
ほんの少し深い菫色の瞳を揺らし、またもや素っ気ない言葉を口にする。
「…………」
夜を体現したかのような漆黒の髪と藍色の瞳を持つ妖艶な美貌の青年は、呆れたように嘆息した。
「切るな、と言わなかったか?」
背中の辺りで切り揃えられていた見事な銀髪が、無残なまでに短くなってしまっていた。
「わ、私の髪だ。お前に口を出される謂れはない!」
噛み付くように言う少女──もとい、青年は、月の精霊のように可憐で美しい。
抜けるように白い肌と銀髪紫瞳は、彼が北方の生まれであることを示している。
二十代も半ばに差しかかろうかというシェラは、相変わらずの美少女っぷりである。
さすがにこちらの世界で女装することはほとんどないが、男物を着ていても男装の麗人に見えてしまうから不思議だ。
現に、肩にも触らないくらいに髪を切ってしまった今でも、初対面で彼を「男だ」と断言できる人間はそうそういないだろう。
「もったいない」
額にかかる少し癖のある髪をかき上げ、ヴァンツァーは呟いた。
その言葉に対し、シェラはずい、っと手を差し出し、ヴァンツァーの手に数枚の紙幣を握らせた。
「何だ、これは」
「売った」
「何?」
先ほどから簡潔にすぎる言葉しか返ってこないため、自然問いただす回数も増える。
「売ったんだ、髪を! だからもったいなくない!!」
怒りのためか目を吊り上げ顔を赤くし、頭ひとつ分背の高い男を物理的に見上げ、精神的に見下ろし言い放つ。
「何を怒っている?」
当然の疑問だった。
現在デザイナーとして活躍するヴァンツァーが、アトリエ兼工房兼販売店舗から帰宅したら、玄関口でこの有り様なのだ。
ちなみに、シェラもヴァンツァーの会社の社員だったが、連邦大学に在籍中のため学業を優先させている。
そのため、どうしても人手が足りないときやモデルとして手を借りるとき以外、シェラは学業と家事が仕事だった。
仕事の便宜を図るために同居しているのだが、相手の機嫌を損ねる真似をした覚えのないヴァンツァーは意味が分からない。
「怒ってない!!」
埒が明かないと思い、ヴァンツァーは渡された紙幣をシェラに返し、リビングへ向かう。
「おいっ!」
背中に声がかけられる──声、というよりも、恫喝だったが。
「何だ?」
リビングへは台所とダイニングを越えていく必要があるため、そこに続く廊下のドアに手をかけながら振り返る。
「受け取れ」
再び掌中の紙幣を渡そうとする。
「お前の髪を売った代金だろう? お前のものだ」
「いいから受け取れっ!!」
ため息の吐き過ぎで不幸になった人間の実例は聞いたことがなかったが、胃痛の原因にはなりそうである。
深く大きなため息とともに、ヴァンツァーはシェラにきっちり向き直った。
「何があった?」
無表情に近いが、どこか子どもをあやすような雰囲気の声音だった。
それが分かったのか、シェラは居心地悪そうに目を逸らした。
「な……何も、ない」
「シェラ」
名前を呼ばれてぐっ、と詰まる。
人間普段されない行動に出られると動揺するものである。
『銀色』とか『お前』と呼ばれることが多いため、あまりこの男に名前を呼ばれることはない。
最近は慣れたつもりでいたのだが、本当に『つもり』だったらしい。
「……頼むから、受け取ってくれ」
俯いて三度紙幣を差し出す。
また嘆息が聞こえてくる。
「とりあえず、着替えてきてもいいか?」
外出時にはほとんど堅苦しいくらいにきっちりとスーツを着込んでいく長身美貌の青年は、ネクタイを緩めながら首を傾けた。
可憐な乙女然とした青年は、コクリと頷いて伸ばした手を握り締めて下ろした。
自室に戻って着替えたヴァンツァーは、その足で台所へ行ってココアを淹れてリビングへ向かう。
彼自身は甘味を好まないため、濃く淹れたコーヒーを手にしている。
「まず飲んで落ち着け」
テーブルを囲むように配置されたソファに座るシェラの前に、音をさせずにカップを置く。
「私は落ち着いている」
と言ってまた紙幣を差し出してくるのだから、お手上げだった。
「説明くらいはしてくれてもいいだろう?」
言っても首を振って「受け取れ」としか口にしない。
「……それを俺にどう使えと?」
質問の方向を変えてみた。
「どう……と言われても……お前の好きなように」 と言いかけてはっ、とする。
「わ、私には使うなよ?! 私は何もいらないからな!!」
狼狽に狼狽を重ねて慌てふためく様子を見ると、どうやらそこに原因がありそうだ。
そこでヴァンツァーは、最近自分が目の前の銀色に買い与えたものを思い返してみた。
「すまない。最近は何も渡した覚えがないのだが、お前は何のツケを返そうとしている?」
あまり高価なものを買うと怒るので、最近は自重していた。
しかも相手はこちらの勝手で買っているものを、わざわざツケにして返そうとしている律儀さだ。
似合うものを買って何が悪いのかと思うし、傾いた機嫌を直す駆け引きも楽しくて気に入っているのだが、
あまりやり過ぎても逆効果だということを『専門家』である彼は心得ていた。
「そうそう簡単に返せるような額じゃない! それに、これは別にそれとは関係なくて……」
後半部分は口の中でしゃべっていて聞き取りづらい。
「シェラ?」
「と……とにかく! 受け取れ!!」
もうどうしたらいいのか分からない、といった体で懇願も露わに両手で掴んだ紙幣を押し付ける。
誰もが振り返るほど美しく伸ばされた銀髪だ。
毛髪の代価としては破格の値がついたようである。
しかし、本人に言う気はないが、学生時代に当てた株と現在の仕事で得ている収入はかなりのもので、
紙幣が十枚くらい手に入ったところで何の感動も覚えない。
もともと金銭には拘泥しない性分だったこともある。
だから、この程度の金銭のために、絶対に切らせなかった髪が短くなってしまったことに対する動揺の方がずっと大きかった。
ためしに銀髪に手を梳き入れてみると、予想通りすぐに手を滑り落ちてしまって、その感触を楽しむ暇もなかった。
「…………」
無言で眉を顰める相手の表情を見て取って、シェラがおずおずと切り出す。
「……お……怒ってる、のか?」
こちらの世界に来てからでも十年以上の付き合いだ。
無表情に近いといっても、この男に感情があることは間違いない。
そのわずかな違いくらい、元・最優秀の行者だったシェラには看破できる。
「分かっているならやるな」
手入れのために長さを揃えるくらいなら何も言わないが、冗談でも「切ろうかな」などと言おうものなら確実にその秀麗な額に皺を寄せられたのを思い出す。
思い出したからといって、覆水盆に返らず、だ。
「……何で髪なんかにそんなにこだわるんだ?」
あまり不機嫌な顔というものは見ていたくないので、ココアを飲むために正面を向く。
甘くて温かくて、先ほどのヴァンツァーの言葉ではないが落ち着く。
「綺麗だろう?」
こういう台詞を何でもないことのように、さらっと口にするのは、『専門家』だからだろうか。
素でこれというのも、何だか空恐ろしい。
「王妃も切らない」
純金よりも煌く金髪を長く伸ばしているリィは、邪魔だし目立つ、と文句を言いながらも決して切ろうとしない。
それは相棒のルウが「もったいない!」と盛大に不平をこぼすからだ。
「それはルウが切るなと言うから……」
「俺も切るなと言った」
「だ……だから、ルウはあの人の相棒で……」
一番大切に思っている相手だから。
もう長い付き合いなのに、どうしてもこの男との会話は不得手だ。
なぜこうも答えにくい方向に話を持っていくのか。
この男だけではなかった。
数少ない親しい友はみな、この手の答えに窮する会話を好んでする。
「俺は違うのか?」
「え?!」
声が裏返りそうになる。
その声に自分が一番びっくりした。
反動で手にしたカップを取り落とす。
「──っつ!」
手と膝に、ホットミルクで淹れられたココアが思い切り引っかかる。
毛足の長い絨毯が敷かれているためカップは割れなかった。
ようやく高価な食器類を使うことにも抵抗がなくなってきた。
いや、高価なものならばあちらの世界でも使い慣れていたのだが、自分の生活に関わるものに金をかけることはあまりなかったのだ。
自分のことよりもカップの値段が気になるあたり、まだまだ修行が必要なようである。
「──ぅ、おぁっ! ちょっ──」
抗議の声を上げ終える前に抱き上げられていた。
「お、降ろせ!!」
恥ずかしくて恥ずかしくて手足をばたつかせるが、行者生活から離れた今も訓練を怠らない男はびくともしなかった。
そもそもふたりの体格はあまりにも違いすぎた。
成長期をとうに過ぎても少女にしか見えないシェラと、艶美な容貌をしているとはいえれっきとした男の骨格をした長身のヴァンツァーとでは、筋肉のつき方もそこに潜む力の強さも比べようもない。
さすがのヴァンツァーもリィやルウの馬鹿力には敵わないが、それはそもそも比べる基準がおかしい。
「動くと服が擦れて余計に火傷が悪化する」
「わ……分かってる! 自分で歩けるから!!」
「だから、体を動かすとその分ひどくなる」
そうこうするうちに、もうバスルームだった。
シャワーをひねり、服を着たまま冷水を浴びせる。
こういった火傷の場合、着衣は脱がさず冷やすのが応急処置として正しい。
あっという間に濡れ鼠の出来上がりだった。
「…………」
当の銀色鼠は、憮然とした表情で自分の手と足を冷やす男の横顔を見つめた。
いつ見てもほとんど表情が動かない、腹の立つほどに美しい男だ。
「まったく、世話のかかる……」
呟きはシャワーの音にかき消されてほとんど聞き取れなかったが、それでも口唇の動きで何となく分かった。
「お、お前がいけないんじゃないか!!」
音響効果の良い広めのバスルームで叫べば、至近距離にいる相手にくらい伝わる。
「俺が何をした?」
患部を冷やす手は休めず、本当に不思議そうに首を傾ける仕草は、年齢に似合わず子どもっぽいものだった。
「お……俺は、違うのか、とか何とか……」
もごもごと口ごもるが、しっかり伝わったようである。
「何だ、それか。違うのか? 俺はお前の腕を買っているんだが?」
「……仕事上の……パートナーだという、意味、か?」
呆然として呟いた。
あまりに呆けた顔をしていたのだろう。
ヴァンツァーが表情を窺ってくる。
「どういう意味合いで使って欲しかったんだ?」
いつもろくに顔面の筋肉を動かさないくせに、今はしっかり口許に笑みが浮かんでいる。
「う、うるさい!! もう治った!!」
頬を朱に染め、慌てて立ち上がろうとしたが、肩を掴まれそのまま軽く口づけられた。
「……おい……怪我人相手に、浴場で欲情とか、つまらないこと言うなよ……?」
押し殺したように低い声で抗議すると、途端に藍色の瞳に嫌そうな光が射した。
「──お前、本当に発言が飼い主そっくりだな……」
そう言って立ち上がり冷水を止めると、バスタオルを持ってきた。
「このまま入浴を済ませ──」
「沸かしていないようだが?」
「シャワーでじゅうぶ──」
「春先の夜は冷える。やめておけ」
みなまで言わせてもらえない。
かなりご機嫌麗しいようである。
「着替えと薬は運ばせる」
そう言ってバスルームを後にした。
運ばせる、といっても使用人がいるわけではない。
家事全般を完璧にこなすシェラがいるのにそんなものは無駄だったし、何より当のシェラがそれを許さなかった。
『任務』上少女として、また良き妻となるよう育てられた彼は、普通の女性以上に台所や家の中の状態を気にする性質だったのだ。
だから『運ばせる』のは、この家ではほとんど出番のない自動機械に、である。
ほどなくしてやってきた、どんぐりのような体型の機械から服と塗り薬や包帯を受け取ると、手早く手当てして着替えを済ませる。
火傷や擦過傷には慣れているから、自分の怪我が大したものでないことも分かっていた。
──……大袈裟なんだ。
濡れた服を洗濯乾燥機に入れてそんなことを考える。
大体、慌てて冷やさなくても、多少痕が残ったって自分は男なのだから構わないのだ。
少女に扮していたころはあまり大きな怪我をするわけにもいかなかったが、自分に手傷を負わせられる人間など限られていたし、あちらの世界の少女は手足を剥き出しにしたりしなかったから都合が良かった。
こちらの世界では自分の性別を偽る必要もないのだから、逆に傷のひとつもないとおかしいのではないか。
そんなことを思いバスルームから台所へ行き、夕飯の支度をしようとすると、すでにそこにはヴァンツァーがいた。
「何かすることは?」
言われてしばらく沈黙してしまったシェラであった。
「……料理なんか、できたのか……?」
かなり危ない暗殺と女性を口説き落とす──かなり語弊と誤解が含まれる──のが主な仕事だった男が、厨房に入る訓練を受けたとも思いづらい。
「お前ほどではないが、まったくできないわけでもない」
それに、と加える。
「利き手を怪我した人間に刃物を持たせるのはぞっとしない」
「それほどひどい火傷でもないが?」
この程度の怪我など、お互い慣れているだろう。
「以前から思っていたことだが、お前はあまりに自分のことに無頓着過ぎる」
「?」
よく分からない。
与えられた任務をこなすこと以外自分たちに価値はなかったし、新しい生き方を見つけた今でも、それほど変化はなかった。
死に急ぐつもりはないが、生に執着するわけでもない。
何より、この男の口からそんな言葉を聞くなんて、思ってもみなかった。
「──お前、私のことを殺そうとしていなかったか?」
文字通り死闘を繰り広げた相手に、「体を気遣え」とはこれ如何に。
「それがどうした」
本当にそれがどうした、と思っているようだった。
過ぎたことを気にしない男は、今現在二度目の人生を謳歌していた。
「どうした……って……別に、私は男なんだから、そんなに気にしなくても……」
「髪も体もせっかく綺麗なんだから、少しは気にしたらどうだ?」
「それは……人のことを言えるのか?」
種類は違うが、どちらも『絶世の』と評してもお釣りがくるくらいの美貌をしている。
当然、街を歩けばそれだけで大半の人間の足を止める。
「念入りに手入れをして、頭の悪い女どもに騒がれるのか? ごめんだな」
「それなら私も似たようなものだとは思わないのか?」
シェラの場合、目を引く男女の比率は半々だったが、それでも『一般市民』を貫かなければいけない身としては、あまりありがたいものではなかった。
「レティシアと違って、私は女性に騒がれて喜ぶ趣味は持っていない」
若く優秀で見てくれも良い外科医は、昔から女の子にきゃあきゃあ言われるのが好きだった。
それこそ、解剖と同じ程度には好ましく思っている、とシェラは判断していた。
「だから俺が頼んでいる」
「言葉は正確に使え。それがものを頼む態度か?」
どちらもいっそぞんざいなくらい簡素な言葉しか使っていないが、決して機嫌が悪いわけでも、喧嘩しているわけでもない。
「頭を下げて言うことをきくならいくらでも下げるが、お前のことだ。へそを曲げるからな」
からかうような口調は、銀色が怒るのを促しているとしか思えない。
「分かっているなら馬鹿なことは言うな」
「馬鹿なこと?」
「そんな言葉は、欲しがっている女性にくれてやれ」
言って調理に取り掛かろうとしたが、背後から聞こえる忍び笑いに気を殺がれた。
「何がおかしい?」
冷たく突き刺すような視線だった。
この男は、本当に自分の堪忍袋の緒を引きちぎるのが上手い。
「くれてやってもいいのか?」
揶揄する響きに神経は逆撫でされるばかりだった。
「私には関係ない」
精神衛生上、もうこの男と口をきかない方が賢明と悟って、シェラは冷蔵庫から食材を取り出した。
手伝いなどしてもらわなくても、ほとんど自動調理器がやってくれるため、ひとりで作る時間の半分で済むのだ。
それに、こんなときくらい家事を放棄すればいいのに、几帳面な性格なのか、手は抜けない性分なのか──おそらく両者だろうが──料理はするらしい。
そもそもほとんどヴァンツァーの扶養家族と化している立場が気に入らないのだ。
何とか立場を向上させなければならなかった。
「それに、どうせくれてやらないんだろう?」
口調と気配だけで、背を向けているシェラが笑っているのが分かり、ヴァンツァーは器用に片眉を吊り上げ息を吐いた。
ただでさえ言い寄ってくる女性に辟易しているヴァンツァーのことだから、自分からことを起こそうなどと考えるわけがないのだ。
それくらいのことは考えなくても分かる。
「その図体で台所に立たれると、非常に邪魔なんだ」
にこやかな微笑みだった。
それゆえに、何とも言えない迫力がある。
人ふたり立った程度で狭く感じるほど、この家の造りは小さくできていなかったが、触らぬ神になんとやら。
ヴァンツァーは肩をすくめると台所を出て行こうとリビングへのドアに手をかけた。
「ヴァンツァー」
呼ばれて振り返る。
そこに見慣れた長い髪がなくて、一瞬戸惑う。
「……何だ?」
「リビングのテーブルに置いてあるから」
「何が?」
「お金」
「……だから──」
言葉を続けようとしてやめる。
「ヴァンツァー?」
訝しげに振り返る。
「──……明日、暇か?」
言われて首を傾げる。
「講義は午前中だけだが……お前は仕事だろう?」
暇が天敵の男は年中忙しそうにしている。
「いや……暇なら付き合え」
「……だから、それが──」
「頼む。見たいものがあるんだ」
頼まれたら否とは返しがたい。
そもそも自分はこの男に返しきれないほどの借りがあるのだ。
「……分かった」
了承を返し、シェラは再び調理に取り掛かった。
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