受講を終えて待ち合わせ場所に向かうと、明らかに尋常でない人だかりができていた。
「…………」
シェラは、そこに自分の探すべき人物がいることを信じて疑わなかった。
人ごみをすり抜けて中心部へ行くと、やはりそこには見知った顔。
「……どれだけここで待った?」
頭痛を覚えながら近寄ると、周囲からどよめきが起こる。
それはそうだ。
ひとりでもド目立っていた黒髪長身の美青年の前に、銀色の天使が現れたのだから。
本当に天使よろしく中性的な美貌で、友人どうしか恋人なのか判然としなかったが、とにかく一緒にいるのが不自然なほど自然なふたりだった。
「五分も待ってない」
「──それだけあれば十分だ」
待ち合わせようとこの男が言い出したとき、嫌な予感がしたのだ。
どちらが待つことになっても、間違いなく人目を引く。
「どうして今日は車じゃないんだ?」
「目的地に乗り入れスペースがないんだ。駐車場に停めてあるから、帰りは車だ」
それは仕方のないことだが、こう人目を引くのはどうかと思う。
「しかも、今日に限ってどうしてそんな格好を……」
検分するように見た男は、いつものように堅苦しいスーツ姿ではなかった。
白いセーターにジーンズ、首からはシルクと思しき薄青色のスカーフを長く垂らしている。
雑誌から抜け出したスーパーモデルよりも余程絵になる姿だった。
もちろんそれはスーツ姿でも変わらないのだが、何せ迫力が違う。
「広告代わりだ」
「新作か?」
ああ、と短い返事をし、シェラに歩くことを促す。
一箇所に留まっている方が事態を悪化させることを知っているからだ。
ふたりが通るところだけ人が道を作る。
確かにこの注目度ならば、アトリエの新作の宣伝としてはこの上ない効果を上げるだろう。
そう思うシェラの服装は、品を失わない程度に深く濃い深紅のタートルネックにラインの美しいベージュのジャケット、白い綿のパンツで、どれも自社の商品だった。
『口コミで業績を上げる』というのが楽しいらしいヴァンツァーは、テレビや広告を使った大規模な宣伝をしたがらなかった。
それでもこのふたり連れはあまりに目立つ。
声など恐ろしくてかけられない。
そんな勇気のある人間がいたら見てみたい。
「それに、今日はお前がいるからな」
言われた意味が分からず首を傾げる。
「声をかけられなくて済む」
「これだけ短くしても、まだ男に見えないのか?」
さっぱりしてしまった銀糸を指でつまみ、眉根を寄せる。
いくら極上の男──この場合ヴァンツァーを指す──でも、可憐な美少女連れ──この場合シェラを指す──には言い寄ってこないだろうと踏んでいるのだろうか。
「お前が男でも女でも一緒だと思うが?」
「……お前言葉が足りないって言われないか?」
目的地がどこなのか知らないシェラはヴァンツァーについていくしかない。
隣の男を軽く睨んで、およそ仲が良さそうには見えない言葉遣いで会話をする。
「虫除けだ」
「その言葉は、私に対して失礼だろうが」
ふつふつとこみ上げてくる怒りを懸命に抑えて、シェラは低く唸った。
ただでさえ昨日あの後やはり金を受け取ってもらえなくて憤然としていたのだ。
「なぜだ?」
どうやら機嫌を損ねつつある様子の銀色に、心底不思議そうに呟いた。
「虫除け呼ばわりされて腹を立てない人間がいたら連れて来い!」
その言葉で得心がいったように、ヴァンツァーは軽く息を吐いた。
「俺は自分から雌犬を寄せ付けたりしない。お前はつけ込みやすそうだからな」
言われたシェラは思わず立ち止まり、二、三度瞬きをする。
「?」
そうして首を捻った。
「──間違っていたら謝る。が……それは、お前が虫除けだという意味か?」
「そう言っている」
「……言ってない」
本当に言葉が足りない。
いや、在籍人数を数えるのも億劫な大学を主席で卒業するくらいなのだから、必要なときには雄弁になるはずなのだが、必要ないと本当に何もしないのがこの男だ。
「しかし……自分で自分を『虫除け』と称して、空しくならないか?」
もう大分歩いたが、まだ歩みを止めないところを見ると目的地は遠そうだ。
商業大陸イリ・ヤウラは、その名の通り商売が盛んだ。
大小様々な店舗が軒を連ね、業績を競っている。
必然、限られた土地に多くの建物を詰め込み、建物群が密集している。
住宅街と違って高度制限はないが、それでも道幅は狭く、駐車スペースがないと言ったヴァンツァーの言葉は、強ち誇張でもなさそうだ。
「実際虫が付くよりはましだな」
「自分の身くらい守れるぞ?」
「知っている。俺が嫌なだけだ」
絶句したシェラだった。
「……お前、最近人が変わってきてないか……?」
もっともな言葉だった。
目的地らしい店は、『裏道の裏道』のような入り組んだ通路の傍らにあった。
品のある骨董品店だ。
周囲の近代的で雑多な建物と比べ、そこだけ空気が違う。
「骨董品に興味があったのか?」
それは知らなかった。
審美眼が確かなのも、きちんとした造りの本物を好んでいるのも知っていたから、当然といえば当然のような気がした。
「この店は、本当にいいものが置いてある」
珍しくやわらかく微笑んで店内に入る。
古風にも扉は手動で、しかも木製だった。
一歩入ると多くの家具や彫像が出迎えてくれたが、雑然とした印象はまったくといっていいほど受けなかった。
外観と同様、品のある配置だ。
あたたかでやわらかな雰囲気の店だと思う。
店主の愛情が、ここに置かれたものに宿っている気がする。
「──いい、店だ」
思わず呟いたシェラだった。
ひと目で気に入った。
都会の喧騒に慣れると、こういった場所がひどく懐かしく、また落ち着ける空間になる。
「おや、ファロット様。お久しぶりでございます」
店の奥からにこやかな表情の、店主と思しき老人が出てきた。
店同様上品な男性だ。
洗練された物腰と落ち着いた雰囲気は、目を引くものがある。
あちらの世界だったら、誰が見ても上流貴族と見て取っただろう。
ブルクス宰相に似ているかもしれない。
「本日は何とも眼福のあるおふたり連れでございますね」
そう言ってシェラに向き直る。
「お初にお目にかかります。わたくし店主のジェファーソンと申します」
丁寧に深くお辞儀され、シェラもそれに応える。
「シェラ・ファロットです。良いお店ですね」
本心だったのでにこやかにそう言うと、店主はわずかに目を瞠り、おずおずと口を開く。
「……失礼ですが、男性ではございませんか?」
これには言われたシェラが驚いた。
「──初対面でそう言って下さる方には、久々にお会いしました……」
半ば茫然として呟いた。
「故あって女性として育てられたため、このような名を冠しております」
まさか暗殺のため、とは言えない。
「ファロット、というのは……? ご兄弟には見えないようでございますが……」
あまり踏み込んだことを聞くのは憚られると思ってか、無理に聞き出そうという響きはなかった。
本当に、品の良い老人だ。
「血縁関係はないが、同じ一族だ」
その問いに答えたのはヴァンツァーだった。
それで納得したように店主は頷いた。
「道理で似通った雰囲気をお持ちだ」
途端にシェラの顔が複雑そうに歪む。
「……似ている? この男に? どの辺りが?」
その表情を見て店主が小さく、品位を失わない程度に笑った。
「そうでございますねえ……おふたりとも類まれな美貌をお持ちだということは置いておくとしても」
失礼にはあたらないように配慮しつつ、眼前の若者を交互に見つめた。
「ふむ……何と申し上げたらよいのか、さしたる学のない老人といたしましては頭の痛いところでございますが……そう。 おふたりでいらっしゃるのがしっくりと馴染んでいるようでございますな」
ヴァンツァーは静かに佇んで、シェラはどんな爆弾発言が飛び出るのか心配しながら聞き入っていた。
「たとえるなら、満月と新月のような……」
その言葉に言われた本人たちは少なからぬ驚きを胸に、顔には出さないように努めた。
「まあ、老人の戯言とお聞き流し下さい」
とてもそうは思えなかった。
今老店主が口にした言葉は、彼らが聖霊から言われた言葉だ。
人ではない、魔法の世界に生きるルウからも言われたことである。
「いや……いい目をしている」
口元に笑みを浮かべ、この男にしては珍しく人との会話を楽しんでいるようであった。
今は常に纏っている人を寄せ付けない雰囲気は感じられなかった。
「お褒めの言葉、ありがたく頂戴いたしましょう」
ところで、と老人は言葉を続ける。
「さしもの新月の闇も、満月の煌きには敵わないとお見受けいたしました」
茶目っ気たっぷりに片目を瞑って見せる辺り、このご老人なかなか侮れない。
「まあ、それが楽しくもある」
心臓が跳ね上がったシェラだった。
「お、お前は! どうしてそう誤解を招くような物言いを──」
「誤解ではない。事実だ」
いっそ不機嫌にも見える態度でシェラに瞳を合わせる。
藍色の瞳に目の奥を覗かれ、心の中まで覗かれているような居心地の悪さに、つい、と目を逸らす。
「この間自覚したんじゃないのか?」
おそらくヴァレンタインのときのことを言っているのだろう。
あれから一月ほど経っている。
「何の自覚だ、何の!!」
肩で息をして、大体、と続ける。
「私は男だと言っているだろうが!!」
どうしてそこのところをこの男は忘れるのか。
物忘れをするような年でも、回転の遅い頭でもないはずだ。
いや、そもそも大学や街中の人間が自分を女性だと間違えることがいけないような気がしてきた。
周りがそう思うと、その中にいる人間も何となくそんな気がしてきてしまうものだ。
「そんなに大きな違いはないと思うが?」
言われたシェラがくらりと眩暈を覚えたことを、誰も責められないはずだった。
「ご店主! 今の私は、しっかり男に見えますか?!」
掴みかからんばかりの勢いでシェラが問う。
これだけ短く切ったのだから、せめて女性に間違えられる確率を半分にまでは減らしたい。
女として生きる必要はないのだから、無駄な労力は使いたくない。
いちいち否定して歩くのも面倒ではないか。
「……と、申されましても……わたくしは以前のあなた様を存じ上げませんので……」
「一昨日はこの銀髪が背中まであった」
顎でしゃくりながらのヴァンツァーの言葉に、店主は何とも言えない表情をした。
「──それは……もったいない」
その言葉にヴァンツァーが小さく笑う。
明らかに、言わんことではない、と言いたげだった。
それにはさすがのシェラも所在なげに視線を彷徨わせる。
「切るなと言ったんだが、聞かなくてな」
「わ、私が聞き分けのない子どものような言い方をするな!!」
いつもそうだ。
いつも一人前扱いしてくれない。
隣にいたいのに。
対等な視線で、ものを見たいのに。
常に自分の一歩先にいる。
「仲がおよろしくて結構でございますね」
にこにこと人好きのする笑顔で店主が話す。
「ご、ご店主! 私たちは別にそのような──」
「何だ。やっぱりまだ昇格させてもらえないのか?」
憮然とした表情で話す男の言葉の意味が分からなくて、シェラは首を傾げた。
「お前社長だろうが。まだ偉くなり足りないのか?」
真顔でこんなことを言われても困るのだが、本人至って真剣なのである。
「……お前、鈍いとか鈍感だとか言われないか?」
「失礼な。自分で言うのもなんだが、私は一流の行者だった」
刺客や敵の気配を読み取ることにはかなりの自身があった。
神経は鋭敏に鍛えてある。
「俺を殺せるくらいにはな」
「言うな!!」
ハリネズミと化したシェラに、ヴァンツァーは肩をすくめた。
「まだ気にしているのか? 呆れたやつだな」
「うるさい!! 忘れられるか!!」
聞かぬ振りをしていた店主は、行儀良く店の奥へ入ろうとする。
「待ってくれ。買い物に来たんだ」
シェラとのやりとりはそっちのけで、踵を返した店主を呼び止める。
声をかけられた老店主は、やはり人好きのする笑顔で振り向いた。
「おや? そうでございましたか。わたくしはてっきり想い人を見せびらかしにいらっしゃったのかと」
にこにこと、屈託のない笑顔だから余計に性質が悪い。
怒るに怒れなくなる。
そんな店主を見て、シェラは確実に悩みの種が増えた気がした。
「それでは、ご用向きをお伺いいたしましょう」
「あのアンティーク・リングをいただきたい」
何を指すでもなくヴァンツァーが口にした物を、ジェファーソン翁は正確に読み取ったようである。
「相変わらずお目が高くていらっしゃる」
苦笑に近い笑みを浮かべる。
「あれはわたくしが特に気に入りの品でございまして、譲ってくれと言われるのを断り続けてきたものでございます」
その言葉に、口調に含まれる真摯さに胸を打たれたシェラは、思わずヴァンツァーの袖を引いていた。
その指輪がどんなものかは知らないが、いくらなんでもそんなものを手にいれるのは良くない。
「ふむ……では俺も断られるのか?」
袖の重みを感じているのかいないのか、気を悪くした風もなくそう言う口元には笑みが浮かんでいる。
「いえ……それはあなた様次第でございますねえ」
「?」
シェラとヴァンツァーは同時に首を傾げた。
「わたくしもただお断りさせていただいているわけではございませんので……」
そういうと、今まで浮かべていた柔和な表情の中から、どこまでも真剣な視線が表れた。
「僭越ではございますが、あなた様を試させていただきます」
その言葉に、ヴァンツァーは実に満足そうに微笑んだのだ。
「構わない。聞こう」
それでは、と店主は店の奥へ戻り、ほどなくして木箱を手にして戻ってきた。
表面に象嵌の施された見事な細工物で、シェラは思わずほう、っと息を吐いた。
美しいものは、見るだけで心が洗われる気がする。
中から出てきたものがまた素晴らしかった。
「これか?」
木箱の中に納められていたのは、古びた、しかしその分味のある精緻な細工の指輪だった。
おそらく数百年は時の流れを見てきたであろうそれは、一級の職人が丹精込めて作ったであろうことが造作もなく見て取れる。
「ああ。あまり装飾品には興味がないんだがな」
「分かる。これは素晴らしい」
言うと、店主は実に嬉しそうに満面の笑みを刻む。
「年甲斐もなく一目惚れしましてねえ……と言っても、もう二十年以上も前の話ですが」
くすぐったそうに話すその様子は、心からこの指輪を慈しんでることが分かる。
指輪だけではない。
この好人物は、自分の店に置いてあるすべてのものを愛し、惜しみない真心をもって接している。
「おい……」
心配そうに隣の男を見上げるのは、こんなに大切にしているものを手にいれようとしてもいいものかと思ってのことだ。
「そんなに心配そうなお顔をなさらなくても大丈夫ですよ。無理難題を押し付けるつもりはございませんから」
そういった意味合いの表情ではなかったのだが、シェラが何事かを切り出す前に、店主が口を開いた。
「わたくしが出す問題はただひとつ」
そう言うと、ひた、とヴァンツァーの藍色の瞳を見据えた。
「この店内にある『偽物』を探していただきたいのです」
言われて面食らったのはシェラだけではなかった。
「……偽物……?」
何とも漠然とした問いだった。
「はい。数多くの品を置いておりますが、この中でひとつだけ人工的に、時間を経過したように加工したものが置いてございます。
それを探し出していただきたいのです」
「…………」
問題の全貌が見えたヴァンツァーは、無言で老店主の榛色の瞳を覗き込んだ。
シェラがいつも居心地悪さを感じて逸らしてしまう視線を、店主は静かに受け止めていた。
その顔からは何の感情の動きも読み取れない。
「──ひとつ聞かせてもらいたい」
「何でしょう?」
「毎回その質問をしているのか?」
この指輪を譲れと言ってくる人間すべてを同じ方法で試しているのだろうか。
「はい。今まで幾人かいらっしゃいましたが、どなたも見つけることがおできになりませんでした」
なぜか嬉しそうに笑みを浮かべる。
その様子を見て、ヴァンツァーは深くため息を吐いた。
呆れたような顔をしている。
「随分程度の低い人間が、この店には出入りするらしい」
連れの言葉の意味が分からず、シェラは視線で問う。
どうしてこの男が、『偽物』を探そうとしないのかも気になるところだ。
「出入りなさるお客様まで制限することはできませんからねえ」
困った様子で顎に手を当てる。
どうやらこの両者の間では合意がなされたらしい。
「……すまない。たぶん私もその程度の低い客のひとりだ。説明してもらえるとありがたい」
いたたまれなくなって俯く。
自分の無力さや低能ぶりを認めることは辛いが、しかし分からないことは分からないと言えるだけの気概を、シェラは持っていた。
分からなければ考える。
考えても答えが見つからなければ聞けばいい。
聞いても分からなかったら、それは聞いた相手が悪い。
理解可能な語彙の中で組み立てられた言葉を、理解できないわけがないのだから。
「お前は、この店を見てどう思った?」
突然そんな言葉がかけられて、シェラは顔を上げて発言者を見た。
やはりあまり表情のない、しかし穏やかだと分かる程度には機嫌の良さそうな男は、相変わらず静かにこちらの出方を待っている。
「……どう……と、言われても……」
悩んでしまう。
「いい店だと思った」
そんな言葉しか出てこない自分が、何だか恥ずかしかった。
「どの辺りを見て、そう思った?」
まるで教師のような質問の仕方だった。
ただ、自分が教授されたどの学問の教師の言葉よりも、質の高いもののように思えた。
「……最初入ったときに、上品な調度だと思った。品数は少なくないのに、全然雑多な感じがしなくて……あたたかくて、整然としてて……」
そこまで口にして店主に目を移した。
「あなたのお人柄が、よく表れている素敵なお店だと、思いました」
そう言ってふわりと微笑んだ。
いくら髪を短くしても、そこにある清楚さや上品さが失われるわけではない。
「あなたはここに置いてあるすべての物に愛情を注いでいらっしゃって、ギスギスした空気はまったく感じられません。きっと、ここの品は幸せでしょうね」
そこまで言うと、傍らの男が笑っているのが気配で分かった。
「……何だ?」
つい、っと視線を動かすと、やはりそこには笑みがあった。
口元だけの笑みでなく、瞳も細められている。
「そこまで分かっているなら、店主の質問にも答えられる」
そう言われても、と思い、もう一度自分の言葉を反芻してみた。
そうして、ふとある事実に辿り着いた。
──でも、それだと……。
随分難しい顔をしていたのだろう。
店主がクスクスと笑っている。
「どうそ。思ったままを口になさってみて下さい」
忌憚ないご意見をお願いします。
そう言われては答えないわけにはいかない。
「……間違っていたら、訂正していただきたい。私の受けた印象が確かであれば、あなたはこの店に『偽物』を置いたりなさらない……惜しみない愛情を注がれるくらい大切に思っている物の中に、その空気を壊してしまうような無粋なものは加えないはずです」
自信はあまりなかったが、この答えがもし間違っていたら、自分が店主とこの店に抱いた第一印象を改めなければならない。
「ありがとうございます」
そう言うと、ジェファーソンは深々と頭を下げた。
「ご店主?」
シェラは戸惑い隣の男を見上げた。
ヴァンツァーも満足そうにしている。
「そのお言葉が聞きたかったのです」
木箱からアンティーク・リングを取り出し、指でつまんで目線の高さに持っていく。
やわらかく、皺を刻んだ目を細める。
子どもを愛でるような印象を受けて、シェラは自分の答えが見当違いではなかったことと、この店主の人柄を否定せずに済んだことに感謝した。
「今までいらっしゃった方は、そんなことにも気付いてくれませんでした。本当に良かった。あなた方にお会いできて、私も、これも……」
そうして指輪をヴァンツァーに差し出した。
「あなたなら信頼できます。審美眼が確かなのは、何も商品や仕事に対してだけではなかったようですね」
それを丁寧な仕草で受け取って、ヴァンツァーは当然だと言わんばかりに口端を吊り上げた。
「掘り出し物だろう?」
「ええ、本当に」
楽しそうに笑う店主の、その笑みの理由が分からずシェラは二、三度瞬きをする。
「ところで、これの代金はいくらだ?」
ヴァンツァーが口にした言葉に、シェラは目を剥いた。
「お前また値段の分からないものに手を出そうとしていたのか?!」
いつものことと言われてしまえばそれまでだが、頼むからせめて値札の付いているものを、値段を確認してから買って欲しい。
「お代は結構でございます」
店主の言葉に、二度びっくりだ。
「そ、そんなわけには! 私の目から見ても、これがどれほど高価なものかわかります! しかもとても大切にしてらっしゃるものでしょう?!」
蒼白な顔でそう言い募ったが、店主は首を振った。
「値段ではございません。あなた方のお心を垣間見せていただけて、本当に嬉しく思います。それはそのお礼とでも思っていただければ……」
やんわりと、しかし決然と店主は代金を受け取ることを拒否した。
「しかし……」
それでも引き下がれないシェラは、思いついて手にした鞄から財布を取り出した。
そこに入れてあった紙幣十枚ほどを店主に差し出す。
「シェラ様……ですから……」
それでもまだ断りの言葉を述べようとする老店主に、シェラは首を振って言った。
「……これは、私の髪を売って作ったものです……この程度の金額で足りないのは十分承知していますが、どうかこれだけはお納め下さい」
ほとんど泣き笑いのような表情で、銀髪の青年は語りだした。
「……私は、この男に認められたくて……背中を追うばかりでなく、同じ目線でものを見たいんです。今はまだ無理ですが、いつか、絶対追いついて……だからそのとき胸を張れるように、この男に借りたものは返したいんです」
漏れそうになる嗚咽を飲み込むように、一度深呼吸をして店主と視線を交わした。
「今この男と同じ職場で働いて、生活して……給料もこの男から貰っています。生活に必要な金銭は全部この男の懐から出ていて……それが痛くも痒くもないのは分かっているんですが、でもそれが嫌で……」
何と言っていいのか分からず、およそきちんとした文法に則った台詞とは言えなかったが、嘘偽りは爪の先ほども混じっていなかった。
「私にできるのは家事くらいのもので、本当に役立たずなんです……そんな自分が歯痒くて、この男から貰った給金を使うのも、何だか自立していない気がして……何か自分の手でできないかと思って髪を売りました……そんなことしか思いつかないなんて、笑ってしまうんですけどね……」
そう言いながら、シェラの瞳には涙がいっぱいに溜まっていて、今にも溢れ出しそうだ。
「いつも私が何かを買ってもらって、与えてもらうばかりなので、今度は私が何かしたいんです」
ぐい、っと涙を拭って、再び紙幣を差し出した。
「ですから、どうか……これを受け取って下さい」
黙ってシェラの話を聞き、差し出された手をじっと見つめていた店主は、ひとつ息を吐くと笑顔になってシェラの手を取った。
「……本当に、何とお美しい」
言われたシェラは、少し頬を赤らめた。
店主がヴァンツァーがするのと同じように、瞳の奥を覗き込んできたからだ。
「では、これはいただいておきます」
そしてちら、っとシェラの隣の男を見て、またシェラに視線を戻した。
「そうしないと、わたくしはせっかくできた年若い友人を失くしてしまいそうですから」
また悪戯っ子のようにウインクして見せた。
その様子を見て、シェラも微笑んだ。
「あなた方のような生きた宝石に出会えて、わたくしは幸せですね……本当に、お美しい」
それは何も外見を評価してのことではなかった。
その人物の本質を見極めての言だった。
「……もし私なんかが綺麗だとしたら、それは知人のおかげです。本当に、お綺麗な方がたくさんいらっしゃいますから」
「それは素敵だ。ぜひ、一度みなさま総出でここへいらして下さい」
強ち社交辞令とも思えないあたたかな笑みを貰って、シェラとヴァンツァーは骨董品店を後にした。
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