ヴァンツァーの言葉通り帰りは車だったが、そこまでは歩かなければならなかった。
店を出た後、
「いいのか?」
と聞いてきたヴァンツァーに、シェラは、
「ああ。これでやっとすっきりした」
と笑顔を見せた。
「これで少しは返せたな」
まだまだ先は長そうだが、と苦笑しつつ隣を歩く男の肩を軽く叩いた。
叩かれた方は、ほとんど皆無といっていいほどにそんな行動をしない相手を、目を瞠って見つめた。
「どうした?」
「礼だ」
振り返りもせずスタスタと先へ行ってしまうシェラの後を追って、少し早足になる。
「言うのはむしろ俺だろう?」
すぐに追いつき、視線を下げて顔を覗く。
シェラ、と声をかけようとして飲み込んだ。
そのまま歩調を合わせてしばらく歩き、エア・カー駐車場に入る。
それまでの徒歩の間、道行く人間ほとんどすべての視線が突き刺さったが、そんなことはどうでも良かった。
ロックを解除し乗り込むと、ようやくシェラの頭に手を置いた。
何を言うでもなく、ただ、短くなった銀色の髪を撫でた。
いつもそうしているから──シェラが泣いたときは、いつもそうしていたから。
「──きっと俺は随分ひどい人間に見えたろうな」
ぽつりと、低い声で小さく笑う。
隣で泣いている人間に何の言葉もかけず、仏頂面で歩くだけ。
泣いているのが銀細工のような、少女とも少年ともつかない美貌の天使なのだから、周囲の同情は天使に集まるばかりだ。
「……実際、ひどい男だろうが……」
もうほとんど涙は止まっていたが、時々しゃくりあげるのは致し方ない。
「参考までに理由を聞かせてくれ」
そう言うと、静かに車が滑り出す。
いつもと同じく、慣性の法則を感じさせない発車の仕方だ。
「──すぐに甘やかす」
思いもよらない言葉が返ってきて、ヴァンツァーは思わず視線を隣に移してしまった。
「前を見ろ」
その通りなので、言われたように視線を戻した。
物理的に両の目で見てはいなくとも、意識の視線はシェラに向けていた。
「誰がどう見ても、甘やかす、という語句は出てこないと思うが?」
あまりに意外だったのだろう。
わずかながら声に動揺の響きがある。
「お前にとっては、私を扱うのなんか、呼吸するよりも簡単なことなんだろうな……」
自嘲気味に呟かれた言葉にも、目を瞠った。
「……きっとお前は全部分かってたんだ。私が髪を切った理由も、どうしてあの金を渡そうと頑なになっていたのかも……」
大きく息を吐いて、シートをわずかに倒し、車中の低い天井を見上げる。
「分かっていて何も言わず、ただあの金を渡すんじゃなくて、使い道を示すことで私に考えさせようとした」
「買いかぶりすぎだ」
「そんなことはない。その辺が甘やかしている、と言うんだ」
否定に否定を返し、シェラはまたこみ上げてくる涙を喉の奥に無理矢理飲み込んだ。
「──……本当に、追いつけないな」
ファロットの呪縛から抜け出したのは自分の方が早かったはずなのに、生き返ってからのこの男はその二倍、三倍の速度で一気に追い抜いていってしまった。
「悔しい……」
きつく噛み締めた唇に、ヴァンツァーの指が触れた。
「やめろ」
前方を見ていたはずの男に、どうして自分のしたことが分かったのか不思議だったが、眉根を寄せると、シェラはヴァンツァーの指に噛み付いた。
「…………」
わずかに顔を顰めたのが横顔から見て取れる。
それでも形の良い指は、口元から離れていかない。
「ひとつ言っておく」
低めた声で、剣呑に運転席の男を睨み付ける。
「絶対に、立ち止まるなよ」
今まで聞いたどんな言葉よりも真摯な響きを孕んでいた。
「…………」
その声音に何の言葉も返せず、片手でハンドルを捌く。
「絶対……どんなに時間がかかっても追いつくから……手を抜くな」
誓約を求めていた。
言葉でも態度でも何でもいいから、違えない約束をしろ、と訴えていた。
「本気でないお前を相手にしても、意味がないんだ」
そうして薄く笑った。
凄絶な笑みだったが、幸か不幸かヴァンツァーの目には入らない。
「私が強くなれば、お前も強くなるんだったな。その言葉忘れるなよ?」
ヴァンツァーはそう言われて初めて少女のように細い顎を捕らえていた手を離し、車を停めた。
シートベルトを外し身を捩ると、後部座席に置いてある上着を探り、小さな箱を手渡した。
「……ひどく嫌な予感がする」
「いい勘をしているな」
開けろ、とだけ指示して、運転を再開する。
しばらく箱を見つめた後、観念したようにシェラは包みを開いた。
「今度は指輪か……」
アンティーク・リングを買った直後に自分に指輪をくれるというのは、あまりにできすぎている感がしないでもなかったが、正直この指輪の細工は気に入った。
ヴァンツァーが手にいれた物とは趣が違うが、こちらもアンティーク・リングだった。
細身の、上品ながら華やかさも備えた細工の台座に、ムーンストーンがはめ込まれている。
「……聞いてもいいか?」
また怒鳴られるか頭を抱えられる様子を覚悟していたヴァンツァーは、むしろ穏やかな声に、前方を凝視し安全運転を貫いたまま瞬きした。
「何だ?」
返した言葉の後に、短くはない沈黙が横たわる。
会話のない状態を苦と思わない性格は、こういうときに存分に発揮されるのだ、とヴァンツァーは気付いた。
「これ、左手にしてもいいのか?」
「──?!」
十年以上運転していて初めてハンドル操作を誤りかけ、慌ててブレーキを踏んだ。
ガクン、という衝撃に、シートベルトをしている胸が痛んだのは両者ともに同じ。
後続車両がいなくて、本当に良かった。
「…………」
急ブレーキ以上の衝撃を以ってシェラを見つめる藍色の瞳は、瞬きすら忘れている。
「な……何だ? やっぱりだめか……?」
不安げな瞳で上目遣いに見てくるその表情は、雨ざらしの犬のようだった。
「……いや」
それは構わないんだが、と珍しく歯切れの悪いしゃべり方をする。
「じゃあ何だ?」
どう答えていいのか分からず、ヴァンツァーは首を傾げた。
「……どうした、急に?」
やっとのことで言葉を見つけると、今度は紫の瞳が揺れる。
「お前も……あの指輪を左手にしてくれないか?」
しっかり目が覚めているというのに、幻聴を聞いた思いがして「何だって?」と聞き返した。
「だから! その……む……虫除けだ!!」
顔は逸らさず、しかし視線は忙しなく動いた状態で頬を上気させる。
「…………」
無言でその様子を眺めていたヴァンツァーだったが、やはりこの銀色に勝てる気がしなかった。
この銀色は、追いつけない追いつけないとぼやくが、最終的に負けるのは必ず自分なのだ。
折れないわけにはいかない状態に持っていかれる。
『任務』のための技なので自慢にもならないが、殺す相手だろうが口説き落とす相手だろうが、扱い方を誤ったことは一度もなかった。
銀色が初めての失敗例だったし、惨敗続きでもある。
その事実に、当の銀色が気付いていないのが救いといえば救いだったが、気休め程度でしかない。
口では勝っているつもりだったのだが、どうやらその認識も改めなければいけないようだ。
「い、嫌なら嫌だと言え!!」
自分の発言が恥ずかしかったのか、慌てて車外に視線を向けた。
途端に短くなった毛先が頬を打つ。
ヴァンツァーを手にかけたときよりも、短く切られた髪。
「…………」
やはり無言でその様子を見ていたヴァンツァーだったが、ふとあることに気付いてうっすらと笑みを浮かべた。
「シェラ」
呼ばれれば銀色が振り返るのを知っていた。
その手から箱入りの指輪を取り、中身を取り出す。
そうして、本人の望みどおり左手にはめてやった。
「ヴァンツァー?」
訝しげに問うてくる相手に、自分の指輪を渡した。
「お前の番だ」
同じように自分の左手にはめろ、と促す。
「…………」
指輪を凝視してから、厳かな雰囲気でそれを相手の心臓に繋がる指に滑り込ませた。
「何だか……結婚式みたいだ」
呟かれた言葉に、ヴァンツァーは低く笑った。
「したことないのか?」
「ない……お前は、たくさんありそうだな」
「したくてしたわけではない」
そもそも、好き嫌いですることではないと思っていた。
結婚式も、初夜も、結婚生活も、ただの手続きだ。
目的の家におおっぴらに入り込み、標的を始末するのに必要だから仕方なくしただけのこと。
そうでなければあんな無駄なことはしない。
「今も?」
「──さあ?」
自分で考えろ、とばかりに言葉を濁す。
そこまで正直に話してやることもない。
ちょっとした意趣返しだった。
「ヴァンツァー」
運転を再開しようとして声をかけられる。
顔を横に向けると、思いの外真剣な菫色の瞳とぶつかる。
「何だ?」
「いくら私に結婚式の経験がなくとも、その手続きくらい何度か目にした」
言い含めるような、ゆっくりとした口調だった。
「?」
それで、と視線で問う。
「指輪の交換だけで、式は終わらないだろう?」
「…………」
今日この銀色はおかしい。
明らかにおかしかった。
普段なら、間違ってもそんなことは口にしない。
絶対におかしい。
せっかく意趣返しをしたのに、やり返されている。
何かがおかしかった─否、何もかもが、おかしかった。
「私からしなければいけないのか?」
からかうような口調が、赤い唇からこぼれる。
「…………」
全面降伏だ。
この銀色に勝てないのは、どうやら決定事項らしい。
今まで経験したどの式のときよりも厳かな面持ちで、ヴァンツァーは相手の顎に手をかけ、しばらく瞳を合わせた。
瞳を通して心の奥まで覗こうとするといつもは逸らされるのに、今はしっかり見つめ返されている。
逆に自分の瞳を覗き込まれていた。
「何を考えているか、当てようか?」
唇に笑みを刻み、シェラは嫣然と微笑んだ。
「──分かりきったことは、訊かない主義なんだ」
悔し紛れにそう呟くと、ヴァンツァーは掴んだ顎をわずかに仰向かせ、ゆっくりと顔を近づける。
唇が触れる寸前で止め、もう一度瞳を覗き、観念したように目を瞑ると『誓い』を交わした。
厄介なものに捕まったと思いながらも、この銀色が髪を切るのはいつも自分が原因なのだと思うと、それもいいかと思えた。
せいぜい、今生きていることを楽しむとしよう。
『太陽』と『闇』でも引き離せないよう、この銀色を捕まえておくのは、今までこなしてきたどんな『任務』よりも難しい気がした。
しかしその分、何よりも遣り甲斐のあることのようにも思えた。
この想いが、義務感や強制からくるものでないことが意外といえば意外だったが、それもまた新鮮で面白い。
二度目の人生はいつからか、あの仕立て屋が現れたときほど嫌なものでもなくなっていた──。
END.
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