「──っ……ちょっ……まっ」
口づけを交わしていた男の唇が頬に移り、耳朶を甘噛みし、首筋に降りてきたところでシェラは恐慌状態に陥った。
「何だ」
『やんわりと』ではなく『かなり本気で』身体を押し返され、ヴァンツァーは僅かに不機嫌そうに言った。
「何だ、じゃない! 何をしようとしている?!」
「初夜」
何を分かりきったことを、とその秀麗な美貌にははっきりと書いてある。
言われたシェラは全身真っ赤に染まった。
「結婚式を済ませたら、普通こうするだろう?」
さも当然のことのように、ヴァンツァーは不思議そうに首を傾げた。
今までの彼の経験からいって、初夜の床で手を出さないと『花嫁』は納得しないのだ。
彼に言わせれば、それは必要不可欠な手続きの一部なのである。
──現在は違う意味合いで行為に及ぼうとしているようだが。
「馬鹿を言うな! 夕暮れ前の車内でなんて──」
言ってから「しまった」と思ったが遅い。
「どこならいいんだ?」
ヘタな言葉を選ぶと、この男に都合の良い解釈をされてしまう。
──長い付き合いで分かっていたハズなのに……。
余程冷静さを欠いていたのだろう。
しかも場所どうのの問題ではないのだが、とにかく判断力のない現在のシェラは、混乱しきった頭で打開策を練った。
「──セントラルホテルのロイヤルスイート……」
ポツリと呟いた。
セントラルホテルとは所謂三ツ星のホテルで、老若男女問わず人気が高い。
中でもスイート級の部屋は、主に政府高官が好んで泊まるようなグレードだ。
たしか、アトリエの女性スタッフが『二年先まで予約でいっぱい』だとぼやいていた。
部屋が取れなければこの男も諦めるだろう。
「…………」
思案顔になったヴァンツァーは携帯電話を手にすると、どこかにかける。
それを見ている間もシェラは気が気ではない。
──もし予約が入っていなかったら?
──もし急遽キャンセルが入っていたら?
セントラルのスイートにはいくつかの等級があるが、ロイヤルスイートといえば一泊の料金が一般市民の月給三か月分にあたる。
それでも若者が新婚旅行代わりに、また退職した熟年夫婦が老後の数少ない楽しみに、と人気は衰えを知らない。
やはり値段の分だけのサービスと調度が揃っているからだろう。
「ああ……分かった。それでいい」
そう言って会話を終えたらしい男に、シェラはゴクリ、と喉を鳴らして話しかけた。
「……どう……だった……?」
「ロイヤルは二年先まで予約でいっぱいだそうだ」
それを聞いてほっとしたシェラだった。
「その代わり、プラチナスイートを取った」
「は?! なんだそのプラチナスイートって!!」
聞いたこともない部屋だ。
「セントラルの最上階を、ワンフロアそのまま客室にしたところだ」
体中から血液が抜ける音が聞こえた気がした。
「──それは、連邦首相クラスが泊まる部屋じゃないのか……?」
「グレードが上がる分には構わんだろう?」
不思議そうに問いかける男を、くびり殺してやりたくなった。
「構うに決まってるだろう?!」
「キャンセルするか?」
「キャンセル料がかかる!! こういうのを事後承諾と言うんだ!!」
「承諾してくれるのか」
小さく笑う男が心底憎らしかった。
「……大体、どうしてお前がそんな部屋を予約できるんだ……?」
深くシートに身を沈めて、頭を抱えたシェラだった。
この男は自分が承諾しないわけにはいかない方向に持っていったのだ。
何て憎たらしい。
これだから頭の良い男は!
「株主だからじゃないか?」
静かで落ちついた声が癇に障る。
また株か。
株がこの男に余計な財力を持たせているのか。
「……誰がお前にそんなものを教えたんだ」
底冷えのするような声音だ、と自分で思う。
だが、すべての元凶はそこにある。
「仕立て屋だが?」
そんなことを聞いてどうする、と問いかけてくるが、言葉の前半部分しか聞こえなかった。
「ルウが?! どうして──」
「以前ケリー・クーアからクーア財閥の株をかなり貰ったらしい。俺が興味を持っていることを知ったら、譲
ってくれた」
ケリーも承知のことのようだ。
別に、ルウが承諾したのなら、黙って譲ったとしてもケリーは何も言わないだろうが。
しかし、ルウが相手では怒るに怒れないではないか。
「そんな──」
蒼白な顔面で呆然とする。
怒りのやり場がない。
この男に財力がなければすべては簡単な話だ。
自分にやたら物を贈る悪癖も直るだろう。
金など、苦労しない程度にあれば良いのだ。
しかしその原因を作ったのが、自分の唯一の主人の相棒にして、もうひとりの主人とも仰ぐ青年とは。
「──冗談だ」
喉の奥で笑う気配がして、シェラはヴァンツァーに目をやった。
「は?」
「部屋は取ってない……そもそも電話もかけていない」
そんなことにも気づけないくらい狼狽していたのか、と藍色の瞳が細められた。
「???」
意味が分からない。
が、どうやらからかわれたらしい。
「おまっ──」
「嫌なら最初からそう言え」
赤い顔で詰め寄ろうとしたが、思いのほか真剣な表情に言葉を失った。
「俺はそんなに余裕のない顔をしていたのか」
「いや、別にそんな──」
「悪かった」
「──……ヴァンツァー……」
その一言で、シェラはほんの少し、本当に少しだけ、この男を拒んだことを後悔したのだった──。
END.