「俺と暮らさないか?」
あまりに突然なその言葉に、シェラはしばらく口がきけなくなった。
それ以前に思考が麻痺してしまっていて、使い物にならない。
走るエア・カーを運転するのは、黒髪に白皙の美貌、夜空の瞳を持つ青年だ。
ルウが生き返らせた、かつてこの手にかけた男。
人間磁石のような艶美な視線で、助手席に座る銀髪の美少年の菫色の瞳をひた、と見つめている。
信号待ちで停車している車内の空気は、絶対零度の灼熱地獄だった。
要するに、錯乱状態にあって体感温度が狂っているのだ。
──なな、何だ? 何て言った? この男は今どんな言葉を口にした? 私の耳は何を聞いた?!
おそらく今の自分の顔は紅潮して青ざめているはずだ。
いやもう何だかよく分からないがとにかくどうしようもなくよく分からないということだけはよく分かった。
「シェラ?」
覗き込んでくるヴァンツァーの秀麗すぎる美貌がどんな造作をしているのかすら、よく分からなかった。
──それもこれもリィやルウやレティシアやダイアナがおかしなことを言うからいけないんだ!
ヴァンツァーの顔など直視できるわけもないシェラは、きつく握った自分の手をじっと、穴の開くほど睨みつけていた。
何だって自分の周りの人物──機械も一部混じっているが──はひとをからかうことに最上級の情熱を傾けるのだろうか。
──シェラは俺じゃなくて黒いのが好きなんだよな?
──ヴァンツァーのことも嫌いなの? 違うでしょう?
ふと、リィとダイアナが口にした言葉がよぎる。
「私に訊くな!!」
突然の絶叫に、傍らのヴァンツァーは目を瞠る。
「……お前に訊かずに、誰に訊けと?」
低くて落ち着いた声音にはっとして、シェラは顔を上げた。
すでに信号は青くなっており、エア・カーは発進している。
運転中のため、前方を見たままの見慣れた容貌は相変わらずの無表情だったが、
最近その中にもわずかな感情の動きが見て取れるほどには相手のことが分かるようになっていた。
「あ、ああ……違うんだ。お前に言ったんじゃない」
呟いて、ほう、とため息をつく。
何年前の言葉を思い出しているのだろう。
リィの言葉はまだあちらの世界にいた時の、ダイアナのものですら、六年も前のものだ。
よく覚えているものだ、と我ながら感心する。
「相変わらず自分の世界に篭るのが好きだな」
「悪い……でもちゃんと聞いていたぞ?」
自分で言って眩暈を覚えた。
──しまった。 この男に何を言われたのか思い出してしまった……。
瞬きもせず呆然としていると、目の前で手のひらが振られる。
「……何の真似だ?」
途端にシェラの眉宇が顰められる。
「いや、微動だにしないからとりあえず意識の有無の確認を」
「お前私を馬鹿にしているのか?」
「たまにあるらしいぞ。幽体離脱とかいったか? たぶんレティーに訊けば詳しく解説してくれるだろうが」
「あの男は医術だけでなく心霊現象も扱うのか?」
レティシアは現在立派に外科医として活躍しているが、患者の治療でなく解剖が好きなだけだ、とシェラは思っている。
あの男にメスを握らせる人間の気が知れない。
さらに、自分なら間違ってもあの死神に体を預けたりしない。
麻酔がかかっている間に何をされるか、想像するだに恐ろしい。
意識があってもあの男と対等に闘える自信はないのだ。
あんな天性の殺戮者を信用する人間なんかいないだろうと踏んでいたのだが、
レティシアはかなり優秀な──有り得ない、というのがシェラの感想だ──医者で、何より手術の手際が素晴らしい、のだという。
信じられないことだ。
いや、手際そのものはこの際いいとして、あのレティシアが人を救う(!)というのが驚きなのだ。
「動かない人間殺して何が面白いんだか」
と、本人が聞いたら言うに違いない。
『任務』であれば、猫の瞳を持つ青年は相手が起きていようが寝ていようが、はたまた意識があろうとなかろうと頓着しない。
確実に遂行することが彼が自身に課した至上命題だからだ。
しかし、殺傷能力ならば一族で最高の男は、自分と拮抗する力量の人間にほとんど出会えないため、
そんな人間と闘える時はそれを非常に楽しむ傾向があった。
リィを相手にした時がそうだ。
だから、闘い方を知らないこの世界にいる人間など、彼の眼中にないのだ。
だが、それでも信じられなかった。
「幽体離脱は科学的に証明できる現象らしい」
「そうなのか?」
「俺も科学は専攻していなかったから詳しくは知らないが、強制的に幽体離脱する方法もあるそうだ」
「魔法を使わずに、か?」
空間を渡ったり、死人を生き返らせたりできる存在がいることを知っているシェラたちにとって、
そんなものを解明しようとする学者の神経は賞賛に値するものだった。
自分たちは、あれをすべて『魔法』の一言で片付けてしまうが、ボンジュイの存在を知らない普通の人間にとっては、幽霊も聖霊も絵空事なのだ。
「ああ。危険なので詳細な方法は伏せられているが、どこから漏れるのか、小中学生たちの間で流行った時期があるそうだ」
「ふうん……」
気のない返事をして、シェラは運転するヴァンツァーの横顔を見た。
聖霊の仲間入りを果たしたことのある男。
男が聖霊になる原因を作った自分。
誰もがなれるわけではないという聖霊とは、どんな存在なのだろうか。
「ヴァンツァー」
呼びかけられて、ほんの少しだけ藍色の視線が横に滑る。
学科も実技も満点で通過して免許を取得したのだから、運転技術に自信はあるのだろうが、それにおごることなく安全運転を貫いている。
エア・カーそのものの性能を抜きにしても、高速で疾駆する車体は素晴らしく安定している。
ちなみにこのエア・カーはヴァンツァーの自前である。
学生時代に当てまくった株の配当で買ったらしい。
さらに蛇足ながら、高級住宅地に自宅も構えている。
二十歳そこそこで、だ。
株もさることながら、ただいま新進気鋭のデサイナーとして活躍中の美青年は、
金銭に頓着しないためか時にこめかみが引きつるような額の買い物をする。
『俺と云々』の指す家は、そこのことである。
もっとどうでもいいことだが、『俺と云々』の前に、現在仕事仲間であるシェラに対し『今お前が暮らしている王妃の自宅とアトリエは離れすぎていて不便だから』という文言が入っていたのだが、それはシェラの思考からすっ飛んでいる。
もちろん『俺と云々』への返答も気になるが、今のシェラの思考回路はまったく別の次元に接続されていた。
「……お前、聖霊だった時、どんな気分だった?」
少しずつ言葉を切り、一言一言を自分で確認するように紡いでいく。
「気分、か……」
思案顔で首を傾ける。
その当時を思い出しているのだろうか。
彼を生き返らせたルウは、
「あんな不機嫌な幽霊見たことない」
と言っていた。
的を射た表現だったので、シェラは笑ってしまった記憶がある。
「死んだ人間を起こすな」とヴァンツァーは言ったと聞いた。
ならば生き返らせたことは、余計なことだったのだろうか。
聖霊の彼になら会いたかったが、生き返った彼に会うのが無性に怖かったのは、そんな男の態度を見たくなかったからだろうか。
「満足、かな」
意外な言葉だった。
殺されたのに。
自分よりも弱い相手に殺されたのに、満足?
「どうしてだ?」
「言っただろう? 俺は『答え』が欲しかった」
木偶人形ではない、という確固たる『答え』が。
「……私は、何も答えられなかった。あの人を最後の主人にする。もしあの人が死んだら、その時考える、と。そんな言葉しか言えなかった」
決して、あの静かで強い光を宿した濃紺の瞳に応えられるものではなかったはずだ。
それを恥じてか、紫の瞳が曇り、うつむく。
「だが、それは間違いなくお前の選択だ」
弾けるように顔を上げ、相変わらず前方を見据えたままの端麗な美貌に目を向ける。
「誰かに与えられた型通りのものではなく、不器用でも自分の頭で考え、選び、口にした本心だ」
「ヴァンツァー……?」
「王妃が最後の主人。王妃が死んだら、その時考える。この言葉に俺は満足した」
分からない。
満足なんかできるわけがない。
それは言った自分が一番よく分かっている。
偽りはなかったが、その場限りの、行き当たりばったりの言葉だ。
死を賭してまで求めてきた相手への返答として、これ以上に最悪のものなどない。
あの時シェラは必死だった。
間違いなく、どうでもいいような気持ちでその言葉を口にしたわけではなかった。
それでも、自分でもきちんとした答えでないことは、十分すぎるくらい理解していた。
少しは違うものになれた気がした。
そう思ったのは確かだ。
それでも、それが何なのか分からなかったし、ヴァンツァーが欲したものになり得たかも判然としなかった。
漠然とした、曖昧なものだった。
「お前は考えようとしていた。それが『答え』だ」
「……?」
「俺たちは、考えないように育てられた。宗師の言葉に従って任務を遂行し、褒めてもらうことだけに心血を注いでいた。そこには一握の疑問もなかった」
シェラは心の中で頷いた。
「俺は里のやり方も、伯爵の意図も分かった上でその指示に従っていた。それ以外にすることがなかったからだ」
自分の意思ですべてを決せられる『自由』という概念が、あんなにも苦痛に満ちたものだとは知らなかった。
あんなものなら、『自由』などない方がよかった。
「誰かの意思に従っていれば、その間だけ俺は考えることを忘れられる。俺ではない別の力が、俺を動かしてくれる」
そこまで話したところで、再び信号につかまった。
慣性の法則をほとんど働かせずにエア・カーが停車する。
ヴァンツァーの藍色の瞳が、シェラの菫色の瞳を見据える。
「俺たちが逃れられなかった呪縛を……無意識に誰かを主人と仰ぐ意識を、お前は断ち切ろうとした。王妃を最後とすることで。
お前は俺との闘いを通して、その『答え』に行き着いた」
「あんなもの、『答え』とは呼ばない……」
「王妃が死んだらその時考える、というのも、新鮮だった」
夜色の視線を細めて、小さく笑う。
「新鮮?」
「その場でものごとを考えようとするお前が面白かった」
「自分が死にそうなときに、そんなことを考えていたのか……?」
掠れた声が口をついて出る。
自分は震えることしかできなかったのに。
ただ、逃げ出したかった。
殺したくなかった。
「きっとお前は俺に会わなかったら、その『答え』を探すことすらしていなかっただろう。だから、満足した」
「意味が分からない!」
語調が荒くなるのは、あの時の感覚がよみがえってくるからだろうか。
慣れていたはずなのに、あの時だけはまったく違った。
とんでもないことをしてしまった、と思った。
おそらくあれは、自分自身に刃を突き立てている感覚──否、それ以上の……。
「お前に考えさせることができた。俺の命と引き換えに、な……それだけで、俺の命にも意味があったのだと思えた」
その言葉で車が走り出す。
「──ふざけるなっ!!」
運転中にもかかわらず、シェラは掴みかからんばかりの勢いで上半身ごと運転席に向けた。
「危ないぞ」
「うるさい!! お前っ、私がどんな思いで……どんなっ!!」
目頭が熱くなる。
でも絶対に泣きたくなかった。
こんなに腹が立っているのに、その怒りを涙なんかと一緒に流してしまうのは許せなかった。
「死ななくてもよかった……」
ぽつり、とヴァンツァーを睨みつけて呟く。
「だったら、死ななくてもよかったじゃないか!」
考えさせたいなら、そう言えばいい。
考えて答えを出せ、と口で言って待てばいい。
どちらかが命を落とすような闘いなんか、しなくてよかったのに。
あの時自分は死ぬわけにはいかなかった。
リィを助けなければいけなかったから。
それでも、死ぬのがこの男でなければよかったのに、と思った。
この男を手にかけさせたモノを、八つ裂きにしてやりたかった。
「俺はお前で、お前は俺だ」
満月と新月。
同じ思いを抱えた魂。
この世で唯一の同胞。
「俺は自分が生きる意味を見出せずにいた。こんな命にどんな価値があるのか、常に自問していた。 最期の瞬間、俺が抜け出せなかった蜘蛛の巣を断ち切るような言葉を聞いて……聴けて、 初めてこの命も、俺が存在したことも、捨てたものではないと思えた」
シェラは堪えきれなくなった。
涙がこぼれ、嗚咽を漏らさないように唇を噛み締める。
それでも、呼吸が苦しくて息を吐き出すと、一緒にまたひと雫、頬を熱いものが伝う。
それがいやでまたきつく唇を噛むけれど、同じことを繰り返すばかりだった。
「糸の切れた操り人形が、自分の足で、歩き出せると思ったんだ」
「意味がない!! 死んだら────っ」
歩くことなんか、できなくなってしまう。
最後まで言えなかった。
それでも、運転席の男には伝わったらしい。
いつの間に停車したのか、周囲には他の車も、人の気配もなかった。
閑散とした空き地。
「言ったろう? 俺はお前だ、と。お前が歩ければ、俺も歩ける」
その一言で、今まで以上に涙が溢れた。
涙腺が壊れたらしい。
こんなに泣いたことはなかった。
視界はぼやけ続けているし、耳鳴りと頭痛がひどい。
きっと瞼は腫れ上がって見るも無残な状態だ。
「お前が証明できないなら……糸が切れたまま止まってしまうようだったら、お前を殺して終わりにしたかった」
きっと、今までに見たこともないくらい面白い銀色の生き物が見つけられない『答え』なら、他の誰にも見つけられないから。
他の木偶人形どもに銀色を殺させるのは絶対に嫌だった。
たとえレティシアでも、許せなかっただろう。
自分でなくてはいけなかった。
半身とも、影とも呼べる自分でなければ。
だから王妃に食い殺される前に、葬ってやろうと思った。
自分なら一瞬で殺せるから。
痛みを与えず、傷跡も残さず、呼吸を止めた人形にすることができるから。
「……それ、で……お前は、また……無為に生きる、つ、もり……だった、のか……?」
懸命に息を整えて話しているつもりだった。
しゃくりあげる反動で、言葉はブツ切れになってしまったけれど。
「さあな。お前を殺すところまでしか想定しなかった」
正直、どうでもよかったのだ。
生きていようが死のうが、どちらでも同じこと。
自分の意思なく動いているということは、死んでいることと何が違う?
自分で死ねないなら、誰かに命を絶ってもらえばいい。
むろん、全力で闘った上で、だが。
ただ、その前に『光』が見たかった。
こんな自分でも、生きて死ぬことに何か理由があるのだと、その道を照らして欲しかった。
新月の晩には見えなかった未来が、満月の夜には見えるかもしれない。
やわらかく煌めく銀色に、自分の存在意義を懸けたかった。
「私は……月に、なれたか……?」
あの時は分からなかった。
何か違うものになれた気はしても、それが何なのか、まったく掴めなかった。
それでも、この男の望む未来を照らす明かりになれていたら、と思う。
少しでも、この男の行く先に光をもたらす存在であれたら、と。
できることなら隣に立って、同じものを見つめたい。
今はまだ、ヴァンツァーの持つ夜の気配に飲み込まれているかもしれない。
けれど、いつか満月になるから。
必ず、なってみせるから。
「──月は」
しばらく黙していた男の口から、静かな低音が紡ぎだされる。
いつもは無機質なその声も、今はえもいわれぬ抑揚を孕んで豊かに響く。
「夜空にあって初めて輝く。真昼の月は太陽に晒され輪郭を朧にし」
歌うように、奏でるように、やわらかな美声が耳を打つ。
「真の闇の中にあっても、すべての光は吸収され、月は月たりえない」
『太陽』でも『闇』でもなく、お前の居場所は『宵闇』の中。
そう、言われた気がした。
乾ききらぬ頬を乱暴に拭い、シェラはじっと前を見つめているヴァンツァーの横顔に視線を移す。
ぞっとするほどに美しい、艶やかな容貌。
追いつきたくて、追いつけない存在。
今はこうして隣にいるが、ひとたび外に出たらまた背中を追いかける日々が始まる。
決して捕まえられない距離ではない。
手を伸ばせば届きそうだからこそ、余計にもどかしいのだ。
「私は、まだ強くなれるか?」
一歩でもお前に近付いて、同じ場所から同じ風景を見られるようになるだろうか。
「お前が強くなったら、その分俺も強くなる」
からかうような視線だけを寄越してくる。 身震いしそうなほどに凄絶な美貌と微笑み。
「なら、お前がすることを逐一見ていて、その三倍努力する」
シェラは負けじと、女神のように神々しく、それでいて挑戦的な煌めきを宿す視線と微笑を返す。
これが、ヴァンツァーの言葉への返答だった。
「お前が俺を見るということは、俺がお前を見るということだ」
「構わない。その条件でお前に近付いてみせる。せいぜい私に追い越されないようにしろ……いや、意外とすぐかもしれん」
不敵に口端を吊り上げる。
紫水晶よりも深く透明な瞳がきらきらと光を弾き、さながら戦う天使がそこにいた。
「──退屈しないで済みそうだな」
小さく呟いた青年は、再び車を走らせる。
夜の闇が濃くなれば月の光が輝きを増し、足元を照らす道標になる。
月煌々と満ち溢れれば夜空はその深みを増していき、頭上を覆う天幕になる。
月は常に同じ顔を見せている。
その裏側を覗くことは叶わない。
新月も満月も、形作るのは同じ月と同じ闇。
一緒にいるのでも、ともにあるのでもない。
たったひとつのものだから。
裏も表もなく。
ただ──。
守るように、慈しむように。
光と闇は、どこまでも互いを引き立てていく──。
END.