雲ひとつない秋空、風は微かにそよぐ程度。
絶好の体育祭日和だ。
双子の通う高校は、全部で五つのカラーに分かれて得点を競う。
赤、白、黄、青、緑のグループは、それぞれ一年生から三年生までの三クラスで構成される。
運動部の生徒が出来るだけ均等に割り振られるように体育委員によってグループ分けされ、予選と決勝戦の実に二日間に渡って戦いが繰り広げられる。
保護者が参観出来るのは決勝戦の日で、むろんシェラもヴァンツァーも双子の高校生活最後の晴れ舞台を見に来ていた。
運動部ではないとはいえ、カノンとソナタの運動能力の高さは学校中が知っており、ひとり一種目は出場しないといけないのだが、彼らはあちこちの種目に借り出されている。
クラスの違う双子だから、お互いがライバルなわけだ。
「カノンが白で、ソナタが青。カノンは午前中の百メートル走の決勝と、走り高跳び、午後のカラー対抗リレー。ソナタは午前中の百メートルハードルと、騎馬戦、午後の借り物競走と、やっぱりカラー対抗リレーか。ふたりともアンカーだって」
ふむふむ、と手元のパンフレットを眺めているシェラに、ヴァンツァーは僅かに目を細めた。
「リレーは兄妹対決か」
「わくわくするな」
今から頬を紅潮させ、菫の瞳をきらきらさせているシェラに、ヴァンツァーは周囲の母親たちが大歓声を上げるような──否、実際上げていたが──笑みを浮かべた。
校庭の一角に用意された保護者席は、現在体育祭とは別の異様な熱気に包まれている。
それというのも、純白に近い銀髪の美女と、妖艶な美貌を曝け出した長身の男の前後左右の席を誰が確保するのか、それとも空けておくのか、座るのか座らないのか空けるのか空けないのか──そんな無言の攻防戦が繰り広げられているのだ。
体育祭である本日、ふたりはジャージ姿とまではいかないが、運動出来る程度にラフな格好をしている。
それというのも、午後一番で催される保護者種目に出場するからだ。
保護者の出場する種目は学年によって違い、一年生は玉入れ、二年生は綱引き、そして三年生がリレーだ。
去年も一昨年も参加しているシェラとヴァンツァーだったが、毎年それぞれが交互に双子のグループに参加している。
「まぁ、俺たちもアンカーで対決するわけだが」
「──手を抜いたら、どうなるか覚えていろよ」
きゅっと眉を顰めるシェラも可愛らしく、父親たちからどよめきのような太い声が上がる。
本人たちは慣れたものでそ知らぬ顔でいるのだが、ヴァンツァーはふと呟いた。
「やはりサングラスをかければ良かったか」
さすがに視線が煩い、と嘆息する男に、シェラは『まだかな、まだかな』と入場門をどきどきしながら見つめつつ、こう返した。
「やめておけ。──余計に人相が悪く見えて、変質者かと思われて通報されるぞ」
シェラだからこそ言える台詞に、ヴァンツァーは軽く肩をすくめた。
午前中の結果。
目立たないように手を抜こうと思えば抜けるのだが、シェラの教育方針が
『若いうちは何事も全力で』
なので、双子は素直にそれに従った。
とはいえ、本当に本気で全力を出したら色々と差し障りがあるため、『人並みのちょっと上行く程度』に全力を出した。
百メートル走に出場したカノンは当然のように優勝──あとから確認したところ、十秒台で走ったらしい。
走り高跳びはインターハイ記録より十センチ上を跳んだところで自主的にやめたが、吹き抜けのリビングで一階から二階まで助走なしに跳躍して昇ることも出来る。
ソナタは百メートルハードルで非常に美しいハードリングを見せたが、「インターバルがもう五十センチ長かったらもっといい記録出たのに!」と不満そうだった。
騎馬戦でも無類の強さを見せたソナタだったが、同年代の少女たちとは鍛え方も違うし、何より実戦経験の差が大きくものを言った。
昼は親子仲良く昼食を摂り、午前中の競技について大いに語らい、午後への英気を養った。
そして、午後一番の保護者種目。
五グループある中で、白組と青組は最下位を競っている。
双子の活躍があるとはいえ、体育祭は団体競技だ。
誰かひとりが抜きん出ていても、意味がない。
そして、この学校の過酷なところは、保護者によるリレーはカラーの順位によってスタート位置に差があるのだ。
普通は順位が低いチームに有利なハンデをつけるのだが、逆なのだ。
五メートルずつとはいえ、一位と五位では二十メートルの差がある。
これは、大きなハンデだ。
シェラはソナタのチームである青組のアンカー。
ヴァンツァーはカノンのチームである、現在最下位の白組のアンカー。
保護者は各カラー十人出場し、二百メートルずつ走るのだが、アンカーだけは四百メートル走る。
これもまた過酷なルールではあったが、毎年非常に盛り上がるのだ。
今年は、しばらく語り継がれる『伝説』が生まれた。
アンカーの前まで、青は追い上げて三位になったが、白は最下位のまま。
トップとの差は百メートルという大差だった。
屈伸運動をしてバトンを待っていたシェラは、不敵に笑ってヴァンツァーに言ったものだ。
「──二位以下になってみろ。即離婚だからな」
まぁ、一位は私だが、と髪を束ねたシェラは四百メートルのスタートを切った。
風のように走る美女に、教員、生徒、保護者問わず大歓声が上がった。
みるみるうちに前の走者を抜き去り、一位に迫っていく勢いだったが、──次の瞬間、会場が静まり返った。
──まさしく、黒い疾風。
走っている姿は追える。
追えるのだが、あまりにも速すぎて他の走者が歩いているように視えてしまう。
一瞬で四位と三位を抜き去り、残り百五十メートルでシェラが一位になるのを見ると、信じられないことに更に加速した。
その時点でヴァンツァーは残り二百メートル。
すぐに二位も抜き去った。
会場中が息を呑んだ。
残り百メートルを切ったところで、ヴァンツァーはシェラに追いついた。
もう、その瞬間会場は怒号のような歓声の嵐だ。
カラーも教員、生徒も保護者も関係なく、その場にいるすべてのものが、美しいニ陣の風に力の限りの声援を送った。
「──ふん、来たか」
隣に並んだ男に向かって鼻を鳴らせば、アスリート以上のタイムで走っている男は常と変わらぬ静かな声で返した。
「まぁ、……──男のいらんプライドかな」
シェラは微かに微笑んだ。
そうして、ふたりともに、より力強く大地を蹴った。
「うっわー……パパ嬉しそう~」
「そりゃそうだよ。こういうときでもないと、シェラに追いかけてもらえないもん」
「でーすーよーねー。そりゃあ必死で一位取るわよ」
「そもそも、高校生の親が四百メートルも走れるわけないんだって」
「二百だってきついわよ。ほら、見て他の保護者たち」
もう、そこには生ける屍。
走り終わった保護者たちが、レーンの内側に死屍累々と横たわっている。
双子の両親のように全力で走れる保護者などほとんどいない。
皆、ランニング程度がやっとなのだ。
毎年そうなのだが、「お父さん、お母さんだって、頑張ってるんだよ!」というのを子どもたちにアピールする絶好の機会であるこの種目は、実は大人気だったりするのである。
「──でもま。やっぱりああいうときのパパって、ちょっとかっこいいわよね」
「四十五であの身体能力だもんなぁ……」
双子は顔を見合わせてため息を吐いた。
「「──……そりゃあシェラも壊されるわ……」」
「いやー、すごかったですねー!!」
「本当に! カモシカのような走りって、ああいうのを言うんでしょうねぇ!!」
「何かスポーツでもやってらっしゃるんですか?」
「若い頃は──おっと、今も十分お若くてお美しいですが、現役時代はさぞや名の知れた選手だったんでしょうなぁ」
リレーを終えて自分たちの席に戻ってきたシェラとヴァンツァーは、当然のように質問攻めに遭っていた。
シェラは苦笑して、
「いえ、学生時代は部活動はしていなくて……たまに手芸部の手伝いとか、調理部の助っ人とかをしていたくらいで……」
と答え、どよめきを誘っていた。
一方のヴァンツァーはといえば、
「風のような走りって、あれを言うんですね!」
「あたくし、感激いたしましたわっ!」
「本当に、フォームも素晴らしく美しくて目を奪われてしまいました!!」
こっちは専ら女性陣に囲まれているヴァンツァーだったが、いつもの彼なら無愛想なきつい視線ひとつで蹴散らす雌犬たちにとりあえず喋ることを許してやっているところを見ると、かなり上機嫌らしい。
「やっぱり、普段からスポーツとかしてらっしゃるの?」
「テニスとか似合いそう!」
「あー、素敵! 長身でいらっしゃるから、バスケットボールとかバレーとか!」
わいわい騒いでいる女性たちに、ヴァンツァーはゆったりと微笑を浮かべた。
それだけで、仔犬のように喋り散らしていた母親たちがシン、と黙り込んだ。
「いえ、特には……──あぁ、休日には妻と多少の運動はしますが」
な? と軽くシェラの頬を撫でれば、悲鳴のような歓声が上がってヴァンツァーは満面笑顔のシェラに脇腹をつねられた。
にっこり微笑みながら青筋の浮かんだ美しい顔が、「お前はちょっと黙っていろ」と雄弁に語っている。
「……あのぉ、そろそろよろしいですか……? 次の種目に、娘が出場するので」
応援してあげたいんです、と困ったように言えば、シェラの周りにいた男たちはこくこく頷いて一目散に席に戻っていった。
女性たちはヴァンツァーが軽く視線を向けただけで、よく躾けられた犬のようにその場を去っていった。
「……相変わらず、誑し込みの腕だけはピカ一だな」
「お前を振り向かせるために、日々精進しているんでね」
「……言ってて恥ずかしくならないのか?」
「言われるのが恥ずかしいなら、さっさと諦めて俺のものになれよ」
軽く顎を取ると、うおっほん! というわざとらしい咳払いがすぐ近くで聞こえた。
「──カノン」
シェラが目を真ん丸にして運動着姿の息子を見つめると、白い体操着に三年生のカラーである青い短パンから伸びる脚も眩しい美少年は、にっこりと天使の微笑を浮かべた。
「気づいてくれて嬉しいよ。ソナタが借り物競走出るから暇になっちゃってシェラたちのところに来ようと思ったのに、他の保護者に阻まれて中に入っていけないし、ハケたと思ったら今度はふたりでラブシーン始めようとするし、もう、このまま気づかれないでキスとかされちゃった日にはぼく恥ずかしくて学校行けなくなっちゃうところだったよ。良かったね、可愛い息子が非行にはしらなくて」
普段は物静かなカノンがこんなに喋ることは珍しい、と半ば放心して耳を傾けていたシェラだったが、借り物競走が始まる入場のアナウンスが流れると、とりあえず息子を隣に座らせた。
「珍しいね。借り物競走みたいな、記録を競わない競技に出るの」
「ソナタ、一年生の頃から出たがってたんだけどね。どうしても記録優先で他の種目出されちゃうから。今年はどうしても、って誑し込んでたよ」
「たら──頼み込んで、じゃないのか?」
「いや。しっかりきっぱり誑し込んでたよ。男子生徒には上目遣いのおねだり攻撃、女子生徒──特に後輩の女の子にはどっかの歌劇団ばりの男前路線」
カノンはにっこりとシェラに向かって微笑んだ。
「いやー。ソナタはシェラそっくりだからね」
ぼくも兄としてイロイロ心配ですよ、とどこまで本気なんだか分からない口調で笑う。
そうするうちに、パンッ、とスタートを切る音がした。
次々に指令の紙のある場所へと生徒たちが向かう。
そうして、「え~、何コレ~」とか、「はぁ~? ねぇよ、そんなもん!」とか、「ちょ、やめてよ! 『好きな人』とかって小学生じゃないんだから!」とか、「ってか『お父さんのカツラ』って、それたとえ借りて一番になっても後味悪いし……」とか、それぞれがとんでもない内容の指令に戸惑い、たとえ一番に指令を手にしたとしても、一番でゴール出来るわけではないのが借り物競走の面白さである。
「あ、ソナタの番だ」
午前中に素晴らしいハードリングを見せた黒髪の美少女は、長い髪をポニーテールにして指令へと向かった。
「ふふ。どんなことが書いてあるんだろう」
「まぁ、今までのを見る限り、一筋縄じゃいかないものだよね」
「誰が考えるんだ、ああいうの?」
「大抵は体育委員の生徒だよ。まぁ、先生たちも結構悪ノリしてとんでもないの入れたりするけど」
「ふ~ん。──あれ? ソナタどこか行っちゃった」
「ホントだ。あっち校舎の方だけどなぁ」
「教室にあるものとか、書かれてたのかな?」
「それにしても、ものすごい勢いで走っていったね」
「うん。ハードルのときより速かったかも」
やっぱりうちの子はすごいな、と頬を緩めるシェラに、同じ顔をした父と息子は同じように微笑んだ。
「戻ってきたぞ」
ファロット一家は皆、眼が良い。
ヴァンツァーが駆け戻ってくるソナタを見つけると、シェラとカノンは同時に首を傾げた。
「あれ?」
「何か、こっちに向かって走ってこない?」
「何か手に持ってるけど」
何だろう? とふたりで首を傾げると、息を切らせた──否、興奮で鼻息を荒くした姿も可愛らしいソナタが、ずいっ、とふたりに向かって腕の中のものを差し出した。
きょとん、としているふたりに、ソナタは喜色満面の顔で告げた。
「ふたりとも、着て────セーラー服!!」
「「はぁぁ?!」」
素っ頓狂な声を上げる銀髪ふたりに、ソナタは「早く、早く! 他の子に負けちゃう!!」と地団太踏んでふたりを急かした。
「……いや、セーラー服って……」
「何が書いてあったの?」
「『セーラー服の美少女ふたりに挟まれる学ラン少年』!! もう、だから早く着てってば!!」
確かに、ソナタの腕の中にはセーラー服だけではなく学ランもある。
「だったら、ぼくが学ラン着てシェラとソナタがセーラー着れば──」
「いーや! そんなの、何の意外性もなくて面白くないもの! 借り物競走は普通に勝っても意味ないのよ!!」
「あぁ、じゃあ俺が学ラン──」
「「「────却下!!」」」
この犯罪者が! とシェラに罵られたヴァンツァーは、どこかしゅん、とした様子で椅子に座り直した。
どうやら、家族の会話に入りたかったらしい。
まぁ所詮父親の扱いとはこんなものである。
「お願い、もう、早く着て!」
「……まぁ、別にいいけど」
もともとシェラに、女装することへの抵抗などない。
むしろ、保護者の誰も、シェラを男だとは思っていないだろう。
四十を超えてもドレスだのミニスカートだのをはかされているシェラだから、セーラー服もソナタから受け取るとさっさと着替え出した。
とはいえ、まさか裸になるわけにもいかないので、シャツの上にセーラーを羽織り、スカートをはいてからズボンを脱いだわけだが。
「じゃあ、まぁ、ぼくも」
こちらも女装することへの抵抗はないカノンだったが、体操服を脱ごうとしてソナタに慌てて止められた。
「あああああ、いいの、カノンいいの脱がなくて!」
「へ?」
「いいの、カノンも脱がなくて! そのまま、体操服の上から着て!」
「でも、ごわごわするし」
「いいから! カノンも脱ぐと洒落にならないのよ!」
よく分からなかったが、持ち上げた体操服の裾から覗く腹部に異様な熱視線が集まっている感じがして薄ら寒くなって引き下ろした。
そうして、セーラーを着て、スカートはいて、紺のハイソックスに片脚を通したところでどよめきが起こった。
何事かと思えば、ソナタがせっせとシェラの髪を結っている。
それも、ツインテールだ。
セーラー服着た美少女──誰が何と言おうとシェラは美少女だ──のツインテール。
完璧だ、とヴァンツァーが瞳をきらきらさせているのを見て、カノンは苦笑した。
そうして、スニーカーからローファーに履き替えたところで、またもや特大の歓声が起こった。
何だ、と思えば、ソナタが学ランに袖を通しながら呆れたように言った。
「──パパと同じ顔なのに、どこから見ても美少女ってのが信じられないわ」
シェラも「カノン、可愛い~」と嬉しそうな顔をしているが、そう言うシェラが一番可愛い。
今時ルーズソックスもないが、シェラがやると許せてしまうから不思議だ。
「さてと。じゃあ行きましょうか」
「……やっぱり、俺が学ラン……」
「いい加減にしろ、この変質者! そんなに着たいなら、家に帰ったらいくらでも相手してやる!」
言い捨てて双子とともに走っていったシェラの後姿に、きらり、と藍色の瞳が光ったのであった。
シェラもカノンも女性ではないが、ミニスカートから覗くふたりの素晴らしい美脚、実は親子という驚きに、何より銀髪に菫の瞳という天使のような外見が功を奏し、ソナタの借り物は『合格』の判定をもらった。
学ランを着たソナタ自身も長い髪を束ねた姿が凛々しく、同年代の少女たちと並んでも細身で長身だから、まさしく男装の麗人だ。
後輩の少女たちの中には、ソナタのことを「「お姉様~!!」」と呼んでファンクラブを作る子たちもいるというのだから、大変な人気者である。
ようやく念願の借り物競走に出場出来、しかも「待ってました」と言わんばかりの指令に当たってご満悦のソナタは、最後のカラー対抗リレーでも兄と走ることを非常に楽しみにしていた。
「パパたちみたいなドラマが生まれるかしら?」
「さぁ? でも、だいぶ接戦になってきたから、カラー対抗で一位になった組が優勝するだろうね」
「──手加減、しないでよ?」
真剣な藍色の瞳に、カノンは軽く肩をすくめた。
「……Yes, my princess.」
そうして、今年は白組が優勝したのであった。
END.