Love me tender

ヴァンツァーは、カチャリ、と寝室のドアを開けた。
ふたつ並んだベッドの間の間接照明が唯一の光源。
ベッドの輪郭を浮かび上がらせ、真っ白であるはずのシーツを橙に染めるだけの効果しかない。
それでも、暗視能力の高い青年には、室内の様子を視認するのには十分なものだった。
手前のベッドは、綺麗に整えられたままだ。
自分が眠るべき場所に、既に人型の山。
上掛けからは、橙の光を弾く銀色の頭。

「────、……」

ヴァンツァーは何かを言おうとしてやめた。
自分が手前に寝てもいいのだが、特にそうしなければならない理由もないのでそれもやめた。
そのまま静かにドアを閉め、足音をさせずに自分のベッドに向かった。
奥側に回り、上掛けを捲くる。

「……ぅん?」

まどろんでいたシェラが、布団を捲くられた肌寒さに瞼を持ち上げる。
寝室には暖房をいれていないから、冬の室内は寒く、布団は冷たい。
それでも、ふたりで眠ればあたたかい。
そう思ってシェラはこちらで寝ているのだろうか、とヴァンツァーは考えた。

「起こしたか」
「……何で、お前ここに……?」

ヴァンツァーはぱちぱちと瞬きした。

「──言っておくが、お前の寝床はあっちだぞ?」
「え?」

シェラはヴァンツァーの言葉に身を起こし、背後に目を遣った。

「あ……」

首を捻ったまま固まってしまったシェラに、ヴァンツァーは苦笑を寄越した。

「何だ。俺を待っていたわけではなかったのか」
「え?」

半分寝惚けているようなシェラの、半分閉じた目がヴァンツァーを見る。

「────……えぇ?!」

そして、ベッドの上で飛び上がる。

「そこまで驚かれると、物悲しいな」

そんなことはこれっぽっちも思っていないくせに、シェラをからかうように言葉を続ける。

「やはり新しいものを買おう。ふたつも必要ないだろう?」

訊ねるようでいながら、決定してしまった声音だ。
ひどく楽しそうな顔をしているのが逆に怖い。

「……」

ヴァンツァーとは反対に、シェラの顔は冴えない。
ベッドの上に行儀良く正座し、本来自分が眠るはずのベッドを見つめている。
その横に長身を滑り込ませたヴァンツァーは、シェラに就寝を促すように腰を抱こうとした。

「別居しようか……」

茫然としたような、吐息同然の呟き。
ヴァンツァーの手が、シェラに触れるか触れないかのところでピタリと止まった。

「……は?」

麗しい美貌をマヌケ面にしたヴァンツァーは、ゆっくりとベッドに身を起こした。
その動作とは正反対に、脈は異常なまでに速い。
またこの銀色は意味不明なことを言い出した、と思っているのだが、言葉通りの意味だとすると恐ろしい。
爆弾発言無差別投下装置は、ゆっくりとヴァンツァーに向き直る。

「別居」

静かな声で、しかしはっきりきっぱりとシェラは繰り返した。
聞き間違いではあり得ない。
冗談と取るには、瞳があまりに真剣だ。

「……どういう、意味だ」

ヴァンツァーは慎重に問い掛けた。
真面目な顔をしているが不機嫌そうには見えないし、今だってシェラは自分からこちらのベッドに潜り込んできていたのだ。
そして、どういうわけかそれに驚き、続いたのは先程の言葉だ。
まったくもって理解できない。
理解できないことは訊かなければならないことを、彼はよく知っている。

「どういう、って?」

軽く銀の頭を傾げる。

「別居の意味だ」

詰問に摩り替わりそうになり、何とか自分を抑える。

「別々に暮らすってことだ」

知らないのか? ときょとんとしているシェラに、ヴァンツァーは頭を抱えた。

「……別居という言葉の意味を訊いたわけではない」

片手で顔を覆い、重苦しいため息を吐く。
この銀色、頭は悪くないのに、どいういうわけか頻繁に会話が噛み合わなくなる。
わざとやっているのだとしたら、対処のしようもあるのだろうが。
そういえば食事をしながら酒を飲んだから、酔っているのかも知れない。
それでベッドも間違えたのか。
しかし、さして酔っているとも思えないのだが、言語中枢がやられているのだろうか、と失礼なことを考える。
そんなヴァンツァーの内心など知らないシェラは、また首を傾げるとベッドに身を横たえた。
自分のベッドへは行かないらしい。
戻るのが面倒なのだろうか。
枕に肘をつき、両手の上に顎を乗せる。
可愛らしく疑問でいっぱいの顔を作って見せるが、そんなことをする資格がないのは言うまでもない。

「──……俺は、お前に何かしたか?」
「何かしたのか?」
「俺が訊いている」

逆に問い返され、思わずといった感じでヴァンツァーの額に皺が寄った。

「……何で怒ってるんだ……」

不服そうに唇を尖らせる姿は二十代も半ばの青年とは思えないのだが、こんな表情を作る資格もない。

「理由を教えてくれないか」

軽く息を吐き出し、ヴァンツァーは伺いを立てた。
答えろ、ではない辺り、まだ自分に非がある可能性を拭い切れないのだ。
最近シェラに対して下手に出すぎていることは、本人自覚しているのだろうか。
そもそも、酒が入った上に半分寝ていた相手に対して、あまりにも本気で返しすぎている感が否めない。

「……別に。大した理由はないけど……」

ころん、と横になり、上掛けを引き上げる。
寝る気満々である。
というか、語る気がないようだ。

「──飽きたのか?」
「は?」

閉じそうになっていた菫の瞳を真ん丸にするシェラ。

「俺といることに、だ」

かなり真剣な瞳のヴァンツァー。
ともすれば、睨みつけているようにも見える。
酔っ払いの戯言と割り切ることができないのだろう。

「飽きる……?」

シェラの頭上には疑問符が並んでいる。

「では、俺といることが苦痛なのか?」

更に困惑の表情を深めたシェラだ。
いつになく真面目な顔の男が、何を言っているのかさっぱり分からない。

「お前、何を言っているのか全然分からないぞ?」
「俺の台詞だ」

不機嫌全開の声音だ。
雷鳴が轟きそうな程、周囲の気圧が下がっている。

「……一緒にいるのが嫌だったら、とっくにここを出ている」

瞳を閉じ、くるりとヴァンツァーに背を向けて寝る体制に入ったシェラ。
もっともと言えばもっともな言葉だが、そんなもので納得できる程、シェラの投げ掛けた言葉は軽くない。
少なくとも、ヴァンツァーにとっては。

「だったらなぜ」

話を切り上げようとしたシェラの肩を掴んで自分に向ける。

苛立ち。
困惑。
焦燥感。

今のヴァンツァーを彩る言葉だ。
声を荒げることはしていないが、手には結構な力が入っている。
その温度の低そうな藍色の瞳は間接照明の灯りに照らされ、燃えるように色彩を変えている。

「……」

シェラはそんなヴァンツァーの態度を訝しく思い、瞬きを繰り返して見つめた。
見上げるシェラと、見下ろすヴァンツァー。

「どうしたんだ、お前? ちょっと変だぞ?」
「お前にだけは言われたくない」

シェラがむっとした顔になる。

「何で私が怒られないといけないんだ」
「自覚がないのか? 重症だな」
「──ヴァンツァー!」

シェラは跳ね起き、声を大きくした。
淡々としたヴァンツァーの物言いは、昨今シェラの前では紡がれなかったものだ。
それが分からず、先程の言葉を馬鹿にされたものと受け取ったらしい。

「……なぜ、俺が怒鳴られなければならない?」

ほんの僅かに声が震えていることにも、シェラはまったく気付かない。

「本当にどうしたんだ、お前。ちょっと別々に暮らしてみようって」
「──だからそれはなぜだと訊いている!」

シェラは目を瞠った。
同時に息を呑んだ。

「──……ヴァンツァー……?」

どうにかして声を絞り出した。
それでも、名前を呼ぶことしかできない。
この男が声を高くするところなど、滅多に聞かない。
怒れば怒っただけ、声が低くなる人間だ。
いつも以上に無口にもなる。
だから、怒られているというよりも、癇癪を起こしたこどもを前にしている感覚が強い。

「何が不満だ? 何が足りない?」

早口にそう言った次の瞬間、ヴァンツァーはシェラの身体をベッドに縫い付けた。
薄い肩を掴んで見下ろす。
反動でバネが軋む音。
ゴクリ、とシェラは喉を鳴らした。
そこを噛み切られそうな錯覚。
かつて何度も身に迫った感覚。
この世界に来てからは一度だけ、覚えのある感覚──この男に、殺されそうになった時に一度……。
あの時と同じく、恐怖よりは不可解さの方が勝っている。
また自分は、この男の逆鱗に触れるようなことを言ったのだろうか。
酔いも眠気も一発で醒める、肌を焼くようなヴァンツァーの気配。

「ヴァンツァー?」
「言え」
「ヴァン」
「答えろ」

返答を求めながら、何も言わせないようにしているかのような態度に、シェラは更に困惑を募らせた。

「車? 服? 宝石?」
「何言って」
「別居ということはもっと広い家か?」
「ヴァンツァー、ちょっと待て!」

怒鳴るシェラの声など、今のヴァンツァーは聞いてはいまい。

「何が欲しい。言え。全部くれてやる」
「────……っ」

ぞっとした。
何かがおかしい。
いつものこの男と違う。
どんなに怒らせたって、シェラの言葉を聞こうとしなかったことなどないのに。
それに、この男が言うような即物的な欲求を、シェラが持っていないのだということも忘れている。
今ヴァンツァーが口にしたものは金の掛かるものばかりだった。
理性が、ついていっていない。

「それともよそに恋人でも作ったか?────あぁ、そうか。刺激と快楽か?」

すっ、と藍色の瞳が細くなる。

「欲求不満? 悪かったな、気付いてやらなくて」

妖艶な美貌が、禍々しいまでの淫靡さを孕む。
これも、いつもと違う。
我慢できずに嬌声を上げるシェラをからかうように見る時でも、こんな昏い、混沌とした笑みを浮かべたりしない。
シェラは無言で首を振った。
一瞬、喉が詰まったように声が出せなくなったのだ。

「ちが、違うっ」
「だったら何だ!!」

拳を固め、シェラの頭が乗った枕に突き入れる。

「……ヴァンツァー……」

泣きそうな声で呟く。
実際、視界が歪んでいる。
理由は分からない。
勝手に溢れそうになる。
そんなシェラを見たヴァンツァーの顔も歪む。
目の奥が熱い。

「──……泣きたいのは、俺の方だ……」
「ヴァン──」
「お前、いつになったら俺のものになるんだ……?」

打ちひしがれた声。
途方に暮れた迷子の声だ。
想いを強くする度に不安に駆られる。
いつだったか、この銀色が自分のものになったと思った。
だが、今ではなぜそんな馬鹿なことを考えられたのか理解できない。
この銀色の半身は自分だと思うのに。
無条件に慕うのが王妃と仕立て屋だとしても、一番これに近いのは自分だと確信できるのに。
どうして、近付く程に遠くなるのだろう。
いくら言葉や身体を重ねても──否、むしろその度に離れていく気がする。
拳を開き、そっとシェラの頬に手を添える。

──あたたかい。

当たり前だ。
この銀色は生きている。
抱きしめる度に、何よりも快い温もりをくれる。
以前は人と肌を重ねても、何も感じなかった。
シェラが腕の中にいる時だけ、安堵する自分がいる。
それなのに、その同じ人間が何気なく口にする言葉に心臓を跳ねさせる。
一喜一憂する。
ひとつのところに留まらない自分の感情が見えず、不安でたまらなくなる。
シェラに責めはない。
家事も仕事も完璧にこなす。
特にシェラの料理は絶品だから、外で食事をしても美味いと思わなくなった。
食べることはそのまま生きることに繋がる。
かつて暗殺者として標的を屠り、敵と刃を交え、死線を駆け抜けてきた。
そのどの瞬間よりも生きていることを実感できるというのに。
仕事がうまくいっていて、想う相手が傍にいる。
これを人は『幸福』と呼ぶのだと、頭では分かっているのに。

「……俺はやはり、欠陥品なのかな……」

ちいさな嘲笑が漏らされる。

「ヴァンツァー?」
「──……助けてくれ」

シェラの肩口に頭を擦り寄せるように押しつける。
ほとんど吐息で紡がれた言葉に、シェラは目を瞠った。
そして、ちいさな頭を高速回転させ、目の前の男が何を言いたいのかを理解しようとした。
次は何を言い出すのか、と。
自分にできることならば何でもする。
だから答えを見つけなければ、と。
自分が、この男の月になると決めたから。
いつも自分が助けてもらっているように、何をしてでもヴァンツァーを助けよう。
だって、この男は「助けてくれ」なんて、絶対に言わないから。
もしそう言ってくれたら、何が何でも叶えよう。
そう決めている。

──決めている、けれど……。

「殺してくれないか」

黒い頭に伸ばしかけた手がビクリッ、と震え、宙に浮いたまま彫像と化す。
ヴァンツァーの口から零れた毒に侵されたがゆえに。
それは、今シェラの頭に浮かび、打ち消したばかりの言葉だった。
それだけは、できない、と。

「──……最低だ、お前……」

ヴァンツァーがゆっくりと頭をもたげる。
その顔には、場違いな程に穏やかな微笑み。
それでも、秀麗な容貌に顔色はなかった。
悲愴で、今にも崩れそうな微笑みだ。
シェラと目を合わせようともしない──否、できないのだ。

「最低だ……っ」

対するシェラは、憤怒の形相で睨みつけてきているというのに。
ギリッ、と歯噛みし、涙の浮かんだ紫の瞳でヴァンツァーを射抜く。
力いっぱい顔の形が変わる程殴られようと、抵抗を無視して暴力的に抱かれようと、そんなものなら簡単に許せる。
そんなことは何でもない。
他にどんな要求を突きつけられても同じ。
きっと自分は受け入れる。
でも──。

「その言葉だけは、許さない」

唸るような糾弾の声音。
ヴァンツァーは何も返せない。
それはそうだ。
知っているのだから。
昔ならいざ知らず、今のヴァンツァーはそれを言われたシェラの気持ちを、誰より正確に把握できるのだから。
誰よりも、共感しているはずなのに。

「退け」

いっそ怒鳴られた方が楽な程、シェラは静かに言葉を口にした。
涙の浮かぶ瞳にも、僅かに震える声にも、まったく温度が感じられない。
天使の美貌は、結晶化して硬度を増した。
ヴァンツァーの身体を押し退けると、あっけなくその長身が傾ぐ。
ばふっ、とシーツに倒れ込む。

「死にたかったら勝手に死ね。──私の手を、煩わせるな……」

吐き捨てるようにそう言ったシェラは、寝台から足を下ろし、物音ひとつ立てずに寝室を出た。
残された男はベッドの上で仰向けになり、じっと天井を見つめていた。
静謐が支配する室内。
静かすぎて耳が痛い。
自分の心臓の音が聞こえてくるようだ。
血液を送り出す音。
生命の営み。
いっそ止まれ、と思い、喉の奥で笑う。
片手で顔を覆う。
その手の震えを押さえつけるように、反対の手が重ねられる。
自分の行動がおかしかったのか、乾いた笑いは続く。
笑っている間は、鼓動がきこえなかった。
それでも、笑っているという事実で、自分が生きていることを実感してしまう。

生きていることを教えてくれた人間はいないのに。

震える身体を支えてくれる存在は──いないのに。


「――で、出て来ちゃったわけ?」

シェラは着替えると、買ったばかりの自分のエア・カーに乗ってルウの家に向かった。
飲酒運転だが、ほとんど自動運転装置に任せたから問題ない、というのがシェラの自覚だ。
今日はリィはいない。 珍しいこともあるものだ、と思ったシェラだが、ジャスミン辺りと飲んでいるのかも知れない。

「申し訳ありません……夜分遅くに……」

ダイニングに通され、座らされるシェラ。

「そんなのは別に構わないんだけど……どうぞ」

ルウはココアを淹れてきた。

「あ……ありがとうございます」

深々と頭を下げる。
本来ならば自分がするのだが、ルウは人をもてなすのも好きだから、余計なことはしない方がいい。
その家の主人のもてなしは、素直に受けるのが礼儀だ。

「何があったの」

ルウはシェラの向かいに腰掛け、ひと口ココアを啜った。
困惑しながら、シェラは自分が寝室に入ってからの顛末を説明した。

「──君、ちゃんと別居の理由は話したんだろうね……?」
「え?」

頭を抱えるルウ。

「もう! 君たちは絶望的に言葉が足りないんだって言ってるじゃない!」

大きな声に、野ウサギのようにビクビクしてしまったシェラだ。

「だ、で、ですけど」

懸命に反論を試みるシェラ。

「……なぁに」

まるでシェラを苛めているような感覚にため息し、ルウはげんなりして肩を落と した。

「変だったんです、あの男……」

思い返してみても、やはり変だ。

「何が変だったの?」

今度はやさしく訊いてやる。
今は男の身体だが、聖母の慈愛に満ちた声音。

「あいつが怒鳴るのを、初めて聞きました……」
「怒鳴る?」

こくり、と頷くシェラ。

「ですが、怒っているというよりも、こどもがぐずっているような……」

そうなのだ。
どうしてもそこが引っかかる。
怒られている感じが、どうしてもしなかったのだ。
ルウは苦笑した。

「シェラ、知ってる?」
「はい?」

ルウは、こう言うと語弊があるけど、と前置きする。

「彼ね、とっても怖がりなんだよ」

思わず絶句するシェラだ。
菫の瞳は真ん丸になっている。

「それにね、甘え方を知らないんだ」
「甘え……?」
「君は今みたいにぼくやエディのところに相談に来られるけど、彼にはできない 。そもそも、こういう時にどうしたらいいかを知らないんだ」
「……」
「殺しや戦闘ならレティーとかエディと話したっていいけど、問題が色恋沙汰となるとね」

弟を見るように、ルウの眼差しはやわらかい。
色恋沙汰と言われ、シェラの頬が紅潮する。

「ですが! あの男は『専門家』で!」

ルウはおかしそうに笑った。
シェラは怪訝な顔になる。

「だって、それは仕事でしょう? 彼は今、初恋してるんだ」
「……」
「だから、どう扱っていいか分からないんだよ。好きな子に意地悪しかできないこどもみたいにね」
「……」
「助けてくれ、なんて、君にしか言わないよ」

みるみるうちにシェラの目に涙が溜まる。
それをぐっとこらえようとして顔が歪む。

「でも、あんな、ひどいっ」

ヴァンツァーが口にしたのは、禁忌の言葉だ。

「うん。それは言っちゃいけないことだった」

ルウは銀髪を梳いてやった。

「でもね……きっと彼は、楽になれると思ったんだ」
「そうやってまた私から逃げるんですか?!」

また、手の届かないところへ行こうとする。
聖霊になったとしても、もうあの温もりはくれない。
首を振る黒天使。

「逆だよ。──また、君が救ってくれると思ったんだ」
「――……」
「前の時みたいに、軽くしてくれると思った」

それは、シェラにしかできないことだから。

「高く飛べるようにしてくれるって、思ったんだよ」

シェラは耐えきれずに泣き出した。

「あ、あの男は! いつもそうやって自分ばっかり! 何て……自分勝手っ!!」

絶叫が迸る。

「残される人間のことなんか、考えてないんだ!!」

黙ってシェラの頭を撫でていたルウは「君もね」と言った。
しゃくり上げながら大きく目を瞠り、ゆっくりと顔を上げるシェラ。

「……わた、し?」
「そうだよ。だって君が別居を切り出したんでしょう?」
「それとこれとは」
「同じ」
「……」
「置いていかれると思って、怖かったんだよ」
「……そんなつもりありません……ただ」

ただ、呼ばれもしないのにあの男のベッドに潜り込んでいた自分が怖かった。
自分のベッドでないことに気づいていなかったことが恐ろしかった。

「当たり前になりすぎて、あの男がいないことに一瞬でも耐えられなくなったらどうしよう、って……」

我が儘を叶えてくれるから、それを当然だと思うようになってしまうことが嫌だった。
そんなお荷物みたいな存在には、絶対になりたくなかった。

「彼は、君が一瞬でもいなくなったら前を見られなくなるんだよ」
「え?」
「君は、お月さまだからね」
「――……」
「彼の世界を照らす、光だから」

自分にとってのあの子と同じ。

「ぼくは、彼の絶望を少しだけ、理解できるよ」
「絶望……」
「あの子がいない世界なら死んだ方が楽だ、って本当に思うんだ。でも、ぼくは死なないし、あの子がいないからこそ死ぬわけにいかなかった」
「……」
「同じ世界にいて、あの子が生きていることが分かればそれだけでいい。それだけが、ぼくの望みだった」

浅く頷くシェラ。
それは知っている。
自分たちが出会った理由だから。

「彼にとってはね、君の瞳に映る自分しかないんだ」
「どういう、ことですか?」
「君だけが、鏡のように自分の姿を映し出してくれるから。君がいないなら、彼もいないんだよ」

他意なく自分を見る瞳というものを、きっとヴァンツァーは数えるほどしか知らない。
その中でも、シェラでなければならない。
シェラだけが、光を持っているから。
リィではだめなのだ。
リィのような太陽の光では、目が灼かれてしまう。
シェラが身に宿す月の光。
冴えて輝きながら、熱を放つことはない光。
それでも、包み込むように慈しんでくれる光。
それが、ヴァンツァーには必要だった。

「──さて。帰ろうか」
「……でも……」

逡巡して俯くシェラに、ルウは脅しを掛けた。

「君に『死ね』なんて言われたから、彼その気になっちゃったかもよ?」

シェラの顔が跳ね上がる。

「嫌です!!」

ルウがにっこりと微笑み、シェラの頭を撫でた。

「できれば、次から夫婦喧嘩は家庭内で収めてね?」


家を出てほんの二時間ほどで、シェラはトンボ返りすることになった。
しかし、家の中に人の気配がない。
寝室にも、ヴァンツァーの自室にも。
空き部屋にも、二階にもいない。

「……どこへ」

呟き、シェラの身体は戦慄に支配された。

──まさか、本当に。

「まさか……あの、馬鹿っ!!」

あてもないのに家を飛び出した。
どこへ向かったのだろう、と周囲を見回し、ふと夜空に目を向ける。
真珠のような新円の月。
深い藍色をした夜空に浮かびあがるような、凛とした銀色。

「……私はまだ、お前の月になれない」

こんなことで不安に揺れる。
姿を保てない。
掌に爪が食い込む程強く握り締めた瞬間、シェラの脳裏にある場所が閃いた。

「やっぱりいた」

安堵の吐息を漏らしたシェラの視線の先で、床に膝をついた黒い人影。
この馬鹿みたいに広い家の中で、一番空に近い場所。
敷地内にいくつか建てられた家のひとつに備えられた塔の上。
影が、ゆっくりと振り返る。

「──っ……」

限界まで見開いたシェラの目に、鋭い切っ先を胸に突きつけたヴァンツァーの姿。

「……おま、なにや──」
「おかしいんだ」

ひりつく喉から無理やり声を絞り出したシェラの前で、ヴァンツァーが不思議そうに首を傾げた。

「……渡せ」
「どうしても、だめなんだ」

見てくれ、とでも言うようにヴァンツァーは心臓の真上にある刃を握る手に力を込めた。

「ヴァン──!!!!」

しかし、刃先は一ミリも動かなかった。
演技ではない。 腕に込められた力は、間違いなく小太刀を胸に突き立てようとしている。
それなのに、動かない。

「ほら、な?」

同意を求めるように、シェラと視線を合わせる。

「……なら、いらないだろう? それを渡せ」

手を伸ばすシェラ。
この男の言動がおかしいわけでも、狂気に支配されているわけでもないことを知っている。
ヴァンツァーは今、『自分は当然そうすべきだ』と思っているのだ。
真剣も真剣、大真面目にそう思っている──だから余計に、性質が悪い。
ヴァンツァーは小太刀とシェラを交互に見る。
迷っているのだろう。

「渡せ」

静かに、それでも強く命じる。
絶対に瞳は逸らさない。
しばらく迷った後、ヴァンツァーは小太刀の柄をシェラに向け、手渡した。
慣れているはずの小太刀が、異様に重く感じられた。
ヴァンツァーの前に膝をついたシェラは、小太刀を自分の背後に置いた。
カツン、という石床と金属が触れ合う音。

「お前は、私が死ねと言ったら死ぬのか?」

瞬きをして首を傾げるヴァンツァー。

「死のうとは思っていない」

そんな言葉が無表情の男から帰ってきた。

「ただ、俺はやはり欠陥品なのか、試そうとしただけだ」
「……違う」
「普通の人間のパターンと合わない。それは、俺が欠陥品だから」
「違う!!」

絶叫とともに、シェラはヴァンツァーの襟首をつかんだ。
今の今まで気付かなかったが、この男は夜着のままだ。
一般人よりも鍛えているからといって、今は真冬だ。
シェラもコートを着ている。
鋭く舌打ちをし、脱いだコートを肩に掛けてやる。
まったく大きさが合わない。
それでも、ないよりはマシだった。

「とにかく、家に戻るぞ」

内心の激情を押し殺して小太刀を掴むと、ヴァンツァーの腕を引いて立ち上がらせた。
特に逆らう気はないようで、おとなしくついてくるのを確認する。
この塔から母屋へは、歩いて十分程掛かる。
その間ずっと、シェラは無言でヴァンツァーの手を引いていた。

「こんなに冷たくなって。お前、馬鹿だな」

もう疑問の形にしたりしない。
決定だ。
それでも、あたたかい家に入り、ほっとひと息吐く。

「雪の中に隠れていても死んだりしない。試したことがある」

ヴァンツァーが静かにそう言い返した。

「あの程度の冷気で凍え死ぬ程、ヤワにできていないぞ」
「あー分かった、分かった。馬鹿は風邪ひかないって言うからな」

軽口を叩きながらダイニングへ入る。
ヴァンツァーの美貌が嫌そうに歪んだ。

「返す」

そう言って、シェラは取り上げた凶器を返した。
無言で受け取るヴァンツァー──と、シェラがヴァンツァーの手首を取り、切っ先を自分の胸に突きつける。

「──っ?!」

驚愕して手を引こうとするヴァンツァー。
筋肉の絶対量は自分の方が多く、膂力も勝っている。
それでも咄嗟のことに、全身から冷や汗が吹き出た。
何とか、刃がシェラの肌に吸い込まれるのを防ぐ。
あと一瞬、反応が遅れていたら……。
考えるだに恐ろしい。

「刺せ」
「……」
「私を、殺してくれ」
「……」
「頼む、ヴァンツァー」

一言一言を、ゆっくりと噛んで含めるように言う。
ヴァンツァーの眉間に皺が寄り、奥歯が噛み締められる。
柄を握る手は震えそうになっていて、心の内で叱咤する。

「できないのか?」

静かなシェラの声。
冷たい、炎のような響き。

「……」

無言でいるヴァンツァーの手首を握る手に、シェラは一層の力を込めた。
それに必死で抵抗するヴァンツァー。
おそらくシェラが出て行ってからすぐに外へ出たのだろう。
低温の中にいたために、ほんの少し、筋肉が強張っている。
普段ならば、シェラと力比べをしても絶対に負けることはない。
それが今は拮抗している。
塔まで疾走してきたシェラは、ヴァンツァーに比べて身体があたたまっている。
ヴァンツァーが僅かでも力を抜いたら、真剣の刃がシェラの胸に深紅の薔薇を咲かせることだろう。
そんな状態が続き、ヴァンツァーの額に汗が滲み始めた頃。
ふ、とシェラの手から力が抜けた。

「……自分にできもしないことを、私に強要するな」

それまでの口調と、一変していた。
泣きそうなのを堪えている声音だ。
冷たいヴァンツァーの身体をあたためようと、腕を伸ばして首に抱きついた。

「……悪かった」
「シェラ……?」
「怖かったんだ。お前がいないと眠ることもできない気がして……だから、少し離れて自立しようと……」

ヴァンツァーは大きく目を瞠った。

「……それで、別居?」
「お前のお荷物にだけは、なりたくない」
「そんなこと」
「思っていなくても、私が嫌なんだ」
「……」

肺の中の空気をすべて吐き出すように、ため息を吐くヴァンツァー。
次いで、身体の横に垂らしていた腕を持ち上げ、シェラの細い身体を抱きしめた。
折られそうな程に力が込められていたが、シェラは何も言わなかった。
息苦しかったが、その腕を振り解こうとはしなかった。

「……お前は、極端から極端に考えすぎだ」

ヴァンツァーが責めるように、それでも、安心しきった声で呟く。

「悪かった」

返すシェラは、今回は間違いなく自分が悪いので素直に謝る。

「絶対に反省していない」
「信用しろ」

あやすようにヴァンツァーの背中を叩く。

「……何だか、いつもと逆だな」

こういう時は大抵ヴァンツァーが頭を下げ、怒るシェラを宥めようとしているのに。

「そうかぁ? お前はいつでも赤ん坊みたいだぞ?」

馬鹿にしたようにシェラは笑う。
あ、と付け加える。

「赤ん坊の方が、憎まれ口をきかないから可愛いかも知れない」

吊り上げられたシェラの赤い唇を軽く啄ばむヴァンツァー。

「赤ん坊は、こんなものくれないぞ」
「あー、あぁ……」

困ったように笑うシェラ。

「……それは結構好きなんだよなぁ」

ヴァンツァーは鼻先で銀髪を掻き分け、現れた耳に音を立てて口づける。

「甘い言葉もささやかない」

くすぐったそうに、シェラは肩を震わせて笑った。

「それも非常に気分がいい」

でも、とシェラは悪戯っぽく微笑んだ。

「やっぱりお前の取り得は、誑し込みしかないみたいだな」

ヴァンツァーも負けじと口端を持ち上げる。

「それだけあれば、十分だ」
「……前と言ってることが違う」
「オトナだからな。柔軟になってみた」

と、大真面目に頷く。

「……自分を大人だと言う人間は、絶対にこどもだ」

まるで証明問題でも解くようにシェラは言った。

「こどもは体温が高いから、一緒に寝るとあたたかいぞ」
「全然関係ないじゃないか」
「眠い。寝よう」

そう言うとさっさとシェラを抱え上げた。

「身体冷たいぞ。風呂に入ってから寝ろ」

本当にこどもに言うようなシェラの言葉に、ヴァンツァーは素直に頷き踵を返した。

「おいこら! 私は降ろせ!」
「こどもだからな。ひとりで入れない」
「都合のいい時だけこどもになるな!!」
「では大人になろう」

再び寝室に足を向ける。

「……何がしたいんだ」

抱かれたまま頭を抱えるシェラ。
この体勢にも慣れてしまっているのが怖い。

「風呂がダメなら他の方法であたためる」
「ダメだなんて言ってない。ひとりで入れと」
「煩い。お前の言うことをきくと、とんでもない目に遭うからな。勝手にさせてもらう」
「私を巻き込むな!」
「一蓮托生だ」
「お前、ちょっと強引だぞ」
「ちょっとなら我慢しろ」
「……」

何を言っても無駄だと知ったのか、シェラは嘆息すると降参したように肩をすくめた。

「その代わり……」

ヴァンツァーの首に腕を回して耳元で何事かささやく。

「──……」

聞いたヴァンツァーは思案顔になる。
そうこうしている間に寝室についた。
部屋の奥のベッドに歩を進める間も、美貌の青年は難しい顔をしている。
白いシーツの上にゆっくりとシェラを降ろし、横たえると微笑みを浮かべた。

「無理だな」

彼の下克上は、今まさに始まったばかりなのだ──。  




END.

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