変身

──どうしてあんなことを言ったんだ!

裏庭を駆け抜け、広大な敷地の寮の入り口付近まで走りっぱなしのシェラであった。
最優秀の元・行者は、これくらい走っても息も乱れない。
しかし、風のように目の前を駆け抜けて行くのが、天使のような外見の男装の美少女と見て取った外野の驚きたるや、半端なものではなかった。
男女問わずことごとくの人間が視線で追うが、当の本人はまったく意に介さない。
それどころではないのだ。

──あの男は、どうして否定しないんだ!!

なぜ自分がこんなに狼狽しているのか彼女は知らなかった。

「銀色」

疾風のごとく走り去る少女をぽかんと見つめていた生徒たちは、声のした方を見て思わず息を呑んだ。
どういう魔法か、少女に負けず劣らずの速さで走っているのに足音をさせない人間がいる。
白皙の美貌と漆黒の髪が対照的で、涼しげな目元が何とも艶美な少年だ。

「シェラ!」

さらに大きな声で今度は名前を呼ばれ、少女はびくっとして立ち止まった。
すぐに追いついた少年と並ぶその光景はなんとも眼福のあるもので、ほう、とため息がどこからともなく漏れてくる。
足を止めてその光景を見る者も少なくない。
あれだけの速度で走っていながら、どちらも息を乱した様子のない化け物である。
少年の方が背が高く、わずかに少女を見下ろしている。

「……ヴァ……」

びくびくしていて、少女は相手の名も口にできない。
そんな少女から目を離さず、少年は一言短く言った。

「場所を移すぞ」

他人の視線を気にするようなふたりではなかったが、あまりにも人が集まりすぎている。
一般市民は人の足を止めたりしない。
少年は困惑した表情の少女の腕を引き、半ば無理矢理寮を後にする。
残された生徒たちこそ気の毒で、今自分が見ていたのが現実だったかと、頬をつねり合っていた。

「痛い……」
「痛いときって、夢だっけ?」

そんな呟きが、どこからともなく漏れてきたのだった。


校舎を出て街へ続く道をただ歩いているだけなのに、ふたりは街中の視線を攫っていった。

「……お前といると……落ち着かない……」

長い銀髪を煌かせている服装からしたら男性の、しかし体型は女性のような中世的な美貌の主は、隣の男を非難した。
他人の視線など、慣れっこになってしまっているシェラが、それを理由に男を責めているとも思えなかった。

「別にお前と闘おうなどとは思っていないが?」

落ち着かないとはどういうことか、と少年は首を傾げ。

「そういう意味ではない……」

こうして歩いている間にも気になるのは、周囲の人間の視線よりもささやきだった。
曰く、「すごい綺麗なカップルー!」とか「映画の撮影か何かか?!」とか「おい! 何違う男見てんだよっ」とか「他の女に色目使ってんじゃないわよ!」とかいった類の会話喧嘩独り言その他もろもろである。
気にしないようにしていても、嫌でも耳に入ってくる。
また、なぜそういったささやきが自分の胸を落ち着かなくさせるのか、シェラには皆目見当もつかなかった。

「──っおい!」

鋭い声と共に、思い切り隣を歩く男に引き寄せられた。

「──!! 何する──」

抗議の声を上げようとしたシェラの目の前を、一台の鉄の塊が猛スピードで走り抜けた。
間一髪。
鼻の先ほどの距離である。 この男がいなかったらおそらく死んでいた。

「………………」

さすがに声が出なかった。

「……何を、呆けている?」

言葉通りの呆れた声音だったが、かすかに安堵も含まれている。
それに気付かない麗人は、思い切り少年を突き飛ばした。
しかし並外れた運動神経の主は、よろめく素振りも見せない。
それが余計腹立たしかった。

──間違っても、こんな男のことなんか、考えてなかった!!

言い聞かせるように自分を叱咤する。
色白の美少女は、怒っているような、泣きそうな表情で頬を紅潮させていた。

「どうして追いかけてきた!」

放っておいてくれればいいのに。
よりにもよって、何でお前が来たんだ。
そう言いたかったらしい。

「そんな目立つやつを、放っておけないだろう?」
「答えになっていない! お前と一緒にいる方が余程目立つ!!」

大声でさらに集まる視線をものともせず、少女は叫ぶ。

「……それは……考えなかったな……」

目を丸くしているところを見ると、本当に気付いていなかったようだ。
一気に脱力した。

「……どっちが呆けている……」

ズキズキするこめかみを押さえ、ふと男への礼がまだだったことに気付いた。

「すまなかった……」

消え入りそうな、余程耳をそばだてないと聞き取れない声だったが、こういうところは律儀である。
それを聞いて、普段はまったく崩れない鉄面皮がやわらいだ。
緩く口端を吊り上げただけなのに、ひどく満足そうに見えるのは、シェラの気のせいだろうか。
こんな時でも思わず見惚れそうになる。

──そんな風に笑うな!!

ひどい言い草──言ってはいないが──である。
喉元まで出かかったが、何とか飲み込む。

「──ところで銀色」
「何だ?」
「丁度いい。ここは街中だ」
「だから?」
「街には店がある」
「そんなことは分かっている。だから、何なんだ!」
「買い物をする」
「……は?」

リィがお菓子を食べる、と言い出すくらいありえない言葉が男の口から生まれた。

「付き合え」

それでも、強制的な響きはなぜか感じられなかった。

「──……私がお前に付き合う義理はない」
「その通りだ」
「それとも私がお前を殺したことを楯に取るか?」

自分でもびっくりするほど冷ややかな声だった。

「まさか。あれは真剣勝負だ。もう決着はついている」
「だったら貸し借りゼロだ」

いっそ傲慢なまでに言い切った。

「だから、ひとつ俺に貸しておけ」

正気とも思えない言葉だった。
口まで半開きで凝視する。

「……本気か……?」
「ああ」
「ほんとに、本気か……?」
「そう言っている」

わずかに傾げられた少年の秀麗な顔は、何か難しいことを言ったか、と言外に表していた。

「……高くつくぞ……」
「覚悟しておこう」

言うと、本当に珍しいことに、喉の奥で笑っているのが分かる。
本人たちにその気はなくても、周りの目が放っておいてくれないふたり組みは、平日の真っ昼間の雑踏の中へ肩を並べて歩き出した。


どうやら男の目的地らしい店の前に立って、菫色の大きな瞳がぽかん、と開かれた。

「どうした、入るぞ?」

ヴァンツァーがドアを開けると、ベルがカラン、と音を立てた。
別に店そのものにおかしなところはない。
少々高級感の漂う、よくある洋品店だ。

「…………」

ただシェラにとって不思議だったのは、そこがとても可愛らしい女の子の服を専門的に扱う店だったことだ。

「まさか……お前……」

いまだに店に入ろうとしない少女を、少年は振り返った。

「……そういう趣味が、あったのか……?」
「趣味?」

訝しげに問う青い瞳には、心底よく意味が理解できない、といった光がある。

「だから……その……女装、とか……?」
「それならお前の方が似合うだろうが」

着目するところはそこなのか、と思わないでもなかったヴァンツァーだった。

「……じゃあ、女の子にでもプレゼントを……?」

見立てろ、ということなのだろうか、とシェラは首を捻った。

「──あぁ、そうだな」
「……え?」

嘆息して呟くと、ヴァンツァーは掠れた声を押し出した少女の背を押し、店内へ促した。

「そう……たとえば……」

言うと店内の商品を物色し始めた。

「いらっしゃいませえ! 何かお探しですかあ?」

かなり間延びした声で、店員が話しかけてくる。
二十代半ばと思しき派手な服装の女性だ。
ピアスも指輪もネックレスも金。
はっきり言ってこの店の商品とつり合わない。
唯一合っているものといえば、ヴァンツァーを見る目、だろうか。
きらきら輝く瞳と紅潮した頬は、おそらくこの一種魔的な美貌を持った少年を目にしたがゆえであろう。
本来このクラスの店になると、店員は望まれもしないのに客に話しかけたりはしないものだ。
そういう教育をされているはずなのに、女店員は声をかけたことになる。

「着てみろ」

店員は完全に無視して少年がシェラに差し出したのは、ふんわりとした薄絹を何枚も重ねた白地のワンピースと濃紺の天鵞絨で作られた純白のファー付きボレロ、細いが高くないヒールの銀の靴だった。
ワンピースは大きめに開いた胸元に金銀濃緑の絹糸で刺繍がしてある。
ボレロにはやわらかく毛足の長いファーがついていて、ちょっとしたパーティーにでも着ていけそうな服である。

「……意味が理解できん」

シェラが、何をさせようとしているのかを探る目で睨みつける。

「まあ、お目が高くていらしゃる!! それはこの秋冬の新作でしてえ、お嬢様はお色が白くていらっしゃるから、きっと良くお似合いですわあっ!」

今の今まで少年に目を奪われていた女は、隣の少女を見て勝ち目がないと悟ったのか、しきりに商売根性を出し始めた。

「煩い」

簡潔な一言だった──が、追求も反論も許さない物言いでもある。
そして声よりもさらに冷たいのが藍色の瞳だった。
自分より十近く年下の少年にひやりと言い切られ、案の定女はびくり、と体を強張らせた。

「も……申し訳、ございません……」

ほとんど泣きそうな声で言うと、店員は店の奥へと逃げ帰って行った。
どうやら今現在、彼女以外の店員は出払っているようだ。
少年は内心嘆息すると少女に向き直り、再び服を差し出す。

「……だから、意味が理解できん」
「俺は着てみろ、と言っただけだが?」

そんなに難しいことを言った覚えはない、と少年は本気で思っているようだった。

「まさか着方がわからん、ということもあるまい?」

──だからそういうことではない!

と、叫びだしたい衝動を必死で抑えて、シェラはさらに視線を険しくした。

「……これもさっきの貸しの中に入るのか?」

睨みつけていた視線を、ほんの少し疑問の方向に持って行き、ふと気付いたことを口にする。

「足りなければもうひとつ借りよう」

ものすごい譲歩のような気がした。
本当に意味が分からなかった。
こんなに借りて、返済のめどはあるのだろうか。
というか、そんなに借りてどうするのだろう。

──……何で私が心配しなければいけないんだ。

気付いて、少年から服を取り上げた。
せいぜい貸しておいて、いつか機会があったら思いっきりふんだくってやればいいのだ。
そう結論付けると、更衣室へ向かった。
女物の服を着ることへの抵抗はまったくなかったし、いい気分転換になるか、とも考えた。

──気分転換? まさか、な……。女の子へのプレゼントだと言っていたし……。

なぜか苦笑が零れた。
素早く着替えて出る。
少年はすぐ横の壁に寄りかかって、静かに佇んでいた。

「着た」

不機嫌そうな声だったが、実は驚いていた。

「似合いだ」

そう。 何のことはない。
少年の選んだ服は、色もサイズも今のシェラによく似合っていたのだ。
いみじくも女性店員が言ったように、色の白い少女に純白の洋服はよく合っていたし、華やかなファーの付いた濃紺のボレロは、銀の髪をより際立たせていた。

「前にも聞いたな……」

ほとんど独り言のように呟いたが、少年には聞き取れたらしい。

「櫛のことか」

事もなげに言われた言葉に、ひどく驚いた。

「覚えていたのか?!」

黄金で作られた、見事な細工の髪飾り。
自分の命を狙っていたヴァンツァーが、いつでも自分を殺せることを示すために渡してきたものだ、とシェラは解釈していた。

「忘れるような昔のことでもあるまい? そういえば、あれはこっちに持ってこられたのか?」
「ああ、まあ……どうしてだ?」
「もったいないだろう? きっとその銀色によく映える」

何がもったいないのかはよくわからなかったが、少年がやわらかく微笑んだことが晴天の霹靂だった。
今まで見たことがなかったためか、何だか空恐ろしい。
リィがいたら、その背中に隠れていたことだろう。

「そうか。あれはその服にも合いそうだ」
「え? どういう──」

シェラの言葉など聞かず、少年はスタスタ歩き、店の奥にいた店員と何事か話している。
それを不思議に思っていると、少年が懐から財布を取り出し、いくばくかの紙幣を渡しているのを見て飛び上がった。

「ヴァンツァー! 何をしている?!」

ヒールが煩わしかったが、掴みからんばかりの勢いだ。
話の流れからして、これは女の子に買ってあげるためのものではなさそうだ。

「買い物だ。見れば分かるだろう?」
「そういうことではない! なぜ買っている?!」
「似合うと思ったから。ああ、それはそのまま着ていろ」
「話を聞け!! だいたい──」

続けられなかった。
何を思ったのか少年は少女の手首を掴み、そこについていた値札を歯で引きちぎったのだ。
微かにヴァンツァーの唇がシェラの手首に触れた。

「──……っ!」

一瞬心臓が止まったかと思った。
いや、本当に止まったかもしれない。
次いで少年は銀色の髪を持ち上げると、首とファーの間にある値札を今度はきちんと手で外した。
しかしシェラは何をされているのか、まったく感知できていなかった。
なんせ心臓が止まっていたのだ、仕方ない。
何はともあれ、少年は少女の口と動きと思考回路を、一度に止めることに成功した。
その間に悠然とドレスアップした少女の横を通り過ぎ、更衣室の中にきちんとたたんであったレティシアの洋服を持って戻ってきた。

「こっちを包んでくれ」

一部始終をぼけっと見ていた店員は、その声にはっ、と我に返る。

「た、ただいまっ!」

少年から服を受け取ると、震える手で紙袋の中に入れてよこした。
その間も、息を呑むような美貌のふたりをじろじろ見ている。
本人はちらちらと見ているつもりだったろうが、それは主観である。

「行くぞ」

肩を叩かれようやくシェラは自分を取り戻した。

「あ……ちょ! ま……」

何が言いたいのかよく分からない。
すでに店の入り口にいた連れの元に駆け寄り、カランという音を残して店を後にした。

「あ……ありがとう、ございました……」

言えた店員は、かなりの強心臓の持ち主なのだろう。




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