「ヴァンツァー! お前、人の話を聞け!!」
すっかり服装も少女になったシェラは、長い銀髪を風になびかせ少年に詰め寄る。
痛む頭を鎮めるように、こめかみを指で揉む。
「聞いているだろう? 返事もしている」
その通りだった。
相変わらずの無表情に戻っていはいたが、隣を歩く少女をぞんざいに扱ったりはしなかった。
「そういうことじゃない! この服、買ってもらう理由がないだろう?!」
そここそが少女にとって問題だった。
この服は、決して安くない。
むしろ高価だと言える。
仕立ても刺繍も手作業ということが分かるし、使っている布地も悪くない。
王宮で働いていたこともあるから、その手の審美眼は確かだ。
「だから、借りの利息だと言ったろうが」
これも黒髪の少年が正しい。
きちんと理由の説明もした。
もう何度目になるのか、同じ質問に同じ回答をする会話が続く。
その間も、周囲の視線はふたりに釘付けなのは言うまでもない。
少女のほうは華やかな最新の服で着飾っており、細身の体で舞うように足を運ぶ。
少年はといえば、こちらの服装は地味なものだ。
上から下まで黒一色。
唯一色味のあるものといえば、シャンパンゴールドのネクタイだろうか。
あとはズボンもシャツもジャケットも同じ色だったが、しかし質の違いと彩度の変化をつけて服装に表情を出している。
なかなかのハイセンスの持ち主と言えよう。
白っぽい可憐な服装の美少女と、黒で統一した格好の美貌の少年は、今日が休日でないことを祈るべきだった。
日曜の真っ昼間にこんな美形ふたりが連れ立って歩いていたら、目立つことこの上ない。
しかし、いくら平日といえど大声を出しては台無しだ。
注目するなという方が無茶である。
「私は納得していないと言ったじゃないか!」
憤慨して叫ぶシェラに、この服の支払い能力はない。
正直なところ、自分の持ち金をかき集めても、少年に全額を返すことは不可能だろう。
「大体、どうしてお前そんな金……」
「株だ」
「は?」
「面白そうだと思って始めたら、これが本当に面白いくらい当たった」
顔の良さに比例して学業成績もとびっきりの少年は、最近そんなものにまで手を伸ばしているらしかった。
「ほとんど使う暇がない。無駄にすることもないからな」
「私に金を使うこと自体、無駄以外の何ものでもないだろうが」
「さっきも言ったが、似合っているぞ?」
無駄ではないと思うが、と少年はやはりシェラの心中など解していないようである。
──この男、本当に『専門家』か?!
いつだったか、レティシアが元・同僚を評して使った言い回しだ。
『任務』のために、その美貌と手練手管を駆使して女性を虜にする。
失敗例はない。
それを考慮すれば、むしろ『専門家』だからこその台詞と言えるのではないだろうか。
現に少女は赤くなっている。
「似合うとか似合わないとかじゃない!!」
「いらなければ捨てろ」
「……は?」
少女が目を見開いて立ち止まる。
合わせて少年も歩を止め、少女を半身で振り返る。
「それはもうお前のものだ。好きにしろ」
ほんの少し、冷たい印象を与える言葉だった。
この辺りがあのレティシアに『専門家』と評される所以である。
「──っ! お前、何でそうもったいないことを言うんだ! それじゃあ余計に金をドブに捨てるようなものじゃないか!!」
「なら着ていろ」
少女は菫色の瞳を悔しそうに歪め、ぐっ、と詰まる。
こちらの手の内を掴まれてしまっているような錯覚を覚え、眩暈がした。
どんな言葉をどんな言い方で使えば相手がどんな反応を返すか、少年はよく知っていた。
少女にも分かっているはずだった。
実際人間を相手に『任務』を遂行してきた彼らだ。
しかし現在の少女は感情の昂ぶりゆえか、他に理由があるのか、冷静な判断力を欠いていた。
さきほどから頭痛が治まらないことも起因しているだろう。
「何が食べたい」
そんな状態でさらに追い討ちをかけられた。
「た、食べ──?」
「食事だ。何も食べてないんじゃないのか?」
そういえば朝から何も口にしていない。
体の変化に緊張していたせいか、空腹も覚えなかった。
もう日は中天に差し掛かろうとしている。
「お前は、エクサスで食べたんだろう?」
リィと着いたときは丁度食事時だった。
「あぁ」
「なら、いい」
首を振って一歩進む。
「……食事を抜くのは身体によくない。今はともかく、お前成長期だろうが」
苦い顔をして、隣をすり抜けようとした少女の手首を掴む。
「ひとつ聞きたい」
少女が真剣な瞳で少年の瞳を覗いた。
偽りも、隠し事も赦さない目だった。
「何だ」
言われた少年はいつもと変わらず無表情。
「私はお前に貸しを作って付き合っているんだろう?」
「あぁ」
「だったらどうして、お前が私の都合を聞いてくるんだ?」
シェラは、ヴァンツァーの買い物に付き合うものとばかり思っていた。
いや、文章的には間違っていないのだが、ヴァンツァー自身のものを買うのに付き合うのだろうと思っていたのだ。
しかし蓋を開けてみれば、洋服は買ってもらうし、食事に連れて行ってくれようとするし、少年は何も借りていない。
普通、どうせ借りるなら、とある程度無理を通そうとするのではないか。
「別にお前の都合に合わせているわけではない。俺のしたいようにする中で、お前の意見を聞いているだけだ」
本日二度目の霹靂だ。
よもやこの男の口から「したいようにする」だの、「意見を聞く」だのという言葉が出てくるとは。
自分以上に自己決定能力に乏しいと思っていたのに。
目を白黒させながら、シェラはおっかなびっくり、目の前の見慣れた美貌を凝視した。
「……私の意見を聞いて、借りたことになるのか?」
「何?」
「だから、お前自信は何か得るものがあるのか!」
これには少年の方が驚いた顔になる。
「……得る?」
「当たり前だろう! 借りを作って金まで使ったんじゃ、お前損するばっかりじゃないか!」
公衆の面前で美男美女が口論など、わざと目立ちたがっているとしか思えない。
しかし少女はそれどころではなかった。
──こいつ何も考えてないのか?!
頭がいいのか悪いのか、心底理解に苦しんだ。
「元気だな」
感心したように呟き苦笑する少年。
対する少女は、今度こそ血管が切れるかと思った。
もともと感情の起伏が激しい傾向にあるのは自覚していた。
それでも『任務』を遂行するために忍耐力を養ってきたのだ。
ちょっとやそっとのことでは心を乱したりしないはずだった。
──元気だな、だと?! こいつほんとに──!
はっ、とする。
反射的に少年を見上げる。
睨みつけてはいない。
むしろ戸惑っている。
「お、前……」
自惚れもいいところだ。
そんなわけない。
視線を合わせた青い瞳は落ち着いた光を宿していて、感情も考えも読めない。
「やっぱり……?」
それでも、どうしてかこれだけは理解できた気がした。
「何のことだ?」
思ったとおり少年はそっけない態度を取る。
シェラの頭の中の言葉を否定するように。
何も、気負わせないように。
これはシェラの主観だったが、なぜだか間違いないように思えてしまった。
泣きたくなった。
誰が見ていてもいいから、泣きたかった。
「……お前、まだ人目を引き足りないのか?」
心底呆れた声音だった。
しかし決して冷たくはない、むしろやさしげなそれに、余計に泣きたくなった。
「自分のことは棚に上げて……」
軽く睨みつける。
それを気にするような男ではなかったが。
思ったとおり、軽く息を吐き出し、肩をすくめる。
「見飽きたからな。自分の顔も、周りの反応も」
「……………………………………」
脱力した。
というか、放心した。
涙はどこぞへ飛んで行ったものか。
そうだった。
この男はあちらの世界にいたときから、『任務』以外でも女性から言い寄られまくっていたのだった。
中には還暦を越えた女性も珍しくなかった。
時には女性以外からもからまれる。
これほどの妍麗な容姿であれば、いたしかたないのかもしれない。
あのころより年若いし体つきも少年の域を出ないが、そんなことで差っ引かれるようならば苦労はしないのだろう。
「難儀だな」
ぽつり、と破顔して呟く。
今度は自分を棚に上げていた。
侍女として王宮に出入りしていたとき、シェラの人気は大変なものであった。
美しい女性は羨望の的となるとともに、やっかみひがみの標的ともなるものだが、シェラに限ってはその心配はなかった。
隠していても、少年の持つ雰囲気を、他の侍女たちは敏感に感じ取っていたのだろう。
街を歩けば必ずといっていいほど青年貴族や水夫連中に声をかけられる。
王宮勤めということが分かる相手ならば無理に引き止められることもなかった。
それでも、『普通の侍女』として振る舞わなければならないのは、結構骨が折れるのだ。
そんな経歴を持つこのふたりのどちらがより美しいかのアンケートを取ったら、おそらく真っ二つ。
好みその他を差し引いても、賞賛を送らない人間はまずいないだろう。
「……仕立て屋の言うとおりだな」
昼下がりの雑踏の中で少年がささやいた言葉は、訓練した耳をもってしても聞き取りづらかった。
「何だ?」
「もったいない」
今度は聞き取れた。
「この服だろう? だから言ったじゃないか。もう返品はきかないぞ」
やっぱりな、という顔でシェラがワンピースの裾を少し持ち上げた。
さすがに女として育てられただけあって、その動きは女性そのものだった。
「連れまわすのはやめれば良かった」
それを聞いてさらに少女が嘆息する。
「それも言った。やっぱりお前損してばかりだろうが」
「違う」
周囲の雑音を避けるためか、首を傾げた少女の耳元で喋れるよう、少し前屈みになる。
「他の男に見せるんじゃなかったな」
甘く低い声が耳に叩き込まれた。
びくり、と銀色の頭が震えるのが見て取れる。
背筋を得体の知れない感覚が駆け抜ける衝動に襲われた。
みるみるうちに少女の顔が、耳まで赤くなる。
「どうした? 熱でも出たか?」
額を合わせてくる。
視界に入った口元は、楽しそうに吊り上っていた。
弾けるように体を引き、シェラは目で射殺さんばかりに睨み付けた。
「お、お前なんか知るか!!」
言うが早いか歩き出した。
早足だったが、人が多くてうまく歩けない。
やろうと思えばできるのだが、いかんせん一般人は、人ごみをすり抜けるように歩いたりしない。
それでも、かなり早く歩いている自覚はあった。
「そんなに急いでどこへ行く?」
それなのに少女より背の高い──その分足も長い──少年は、何でもないように追いついてくる。
「お前がいないところだ!!」
無視すればいいのに、律儀に返事をしてしまうところがシェラだった。
さらに歩を早め、ほとんど走り出す。
少年は離れない。
むきになって加速しようとして、引っ張られた。
背後から左腕を引っ張られ、そのまま少年に抱きとめられる。
「放せ!!」
「死ぬぞ」
簡潔な一言が返ってきた直後、シェラを歩道側に立たせたヴァンツァーのすぐ後ろを、速度違反もいいところの車が走り抜けて行った。
「………………」
「同じ日に同じことを繰り返すとは、器用だな」
「──すまない……」
ほとんど反射的に呟いた。
少年の肩に顔をつけているため彼の表情は見えなかったが、責められている気はしなかった。
「素直だな。やはり熱でもあるのか?」
身体を離し覗いてくる瞳は、軽く瞠られていた。
何とも失礼な物言いであったが、不思議と怒る気はしなかった。
「さすがに二度も助けられたらな……」
今の救出劇(?)もあって、周囲は人だかりができている。
「……おい」
声をかけられた少年は首を傾け、何だ、と返答する。
「どこでもいいから、あんまり煩くないところにしてくれ……」
音が、というよりも、視線だろう。
頭痛はひどくなる一方だった。
精神疲労もピークに達している。
大きなため息をついた少女に、少年は何とも言えない表情を向けた。
「ため息をつくと、その分幸せが逃げるそうだぞ?」
ありがたくて涙が出そうな台詞だった。
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