「──……意味が分からん」
目の前にした一室を見て、少女は踵を返したくなった。
「人目がいやなら、ルームサービスでも取るしかあるまい?」
「多少ならいいんだ!!」
もっと慎重に言葉を選べば良かった、とひたすら後悔していた。
「どこに行ったら多少の視線で済むのか、教えてもらいたいな」
それに、と付け加える。
「別にお前を取って食ったりしない」
カードキーで開錠すると、少年が先に部屋に入った。
「そ……そんな心配していない!!」
「他の部屋に迷惑だ」
言うと、ほとんど無理矢理腕を引かれた。
背後でパタン、と扉が閉まる。
シェラは入り口付近で立ち止まったままだ。
ヴァンツァーだけが奥へ進む。
「……お前、本当に金の無駄遣いだ……」
「心配してくれるのか?」
軽口だと分かっていても、つい腹を立ててしまう。
「誰がお前なんか!!」
「ボーイが来たときに邪魔だからこっちに来い」
──人の話を聞け!!
絶対に自分の死因は高血圧からの脳溢血だ。
こんな男といたら、命が幾つあっても足りない。
そんなに長いこと一緒にいるのか、という疑問に、本人は気付いていないらしい。
しぶしぶ奥に進むと、ふかふかとやわらかそうなソファが木製のテーブルを取り囲んでいるのが目に入った。
間接照明があたたかな光を生み出していて、少しだけほっとした。
今日始めて心が安らいだ気がした。
ひどい頭痛は相変わらずなのだが、それも落ち着けばじきに治るだろう。
すとん、とヴァンツァーが座っているのと向かい合わせのソファに腰を下ろした。
体重をやわらかく受け止めてくれる感触は、ひどく安心できる。
「疲れたか?」
深く腰掛け足を組んでいる少年が声をかけてくる。
「……混乱するな、という方が無理だ。リィという前例を知っていて、本当に良かった」
「帰ったら仕立て屋に戻してもらえばいい」
「ああ……」
包み込まれる感触が気持ちよくて、シェラは静かに瞳を閉じた。
眠るつもりはないが、自然とまぶたが落ちてきたのだ。
「お前が逃げ出さなければ、とっくに戻れていたんだがな」
少年は口元に笑みを刷く。
「……そうだな……でも、あれはお前が……」
心地よいまどろみに、身を任せてしまいたかった。
「逃げることはあるまい? ──気にしていないなら、な」
思ったより近くで声がして、シェラは咄嗟に目を開けた。
息がかかるくらい近くに藍色の瞳があって、慌てて体を引こうとしたがソファの背に邪魔された。
まったく足音を立てず、気配も感じさせないため気付けなかったらしい。
「──な、なな、何だ?!」
声が上ずっている。
「気が変わった」
「は?!」
──いつのどの状態から気が変わったんだ!
叫びたくても声が出てこなかった。
状況整理がまったくできない恐慌状態に陥った今のシェラは、瞬きだけが友だった。
混乱を整理しようにも頭は働かないし、逃げ出そうにも少年は片足をソファに乗り上げ、片手をソファの背につき、解放してくれそうになかった。
妖艶な美貌に見つめられると、息もできなくなりそうだ。
少しだけ、ヴァンツァーが相手にしてきた女性たちに同情した。
彼女たちの気持ちが理解できたというわけではなかった。
本当に、気の毒に思ったのだ。
これは仕方ない。
本人の意思ではどうしようもない。
強制力が半端ではないのだ。
ルウに似ているかもしれない。
──……怖い。
そう、怖かった。
『任務』のために使われた女性たちは、みなこんなに恐ろしい思いをしていたのか。
レティシアが『専門家』と言った理由が、今やっと分かった気がした。
自分だって里の他の人間だって、潜入先の人間に取り入る術は心得ている。
相手の寵を得られないのでは『任務』を遂行することはできないからだ。
あの世界はこの世界ほど便利な武器や道具がなかったのだから、自然自身の力量だけがものをいうようになる。
その意味では、訓練を受けた自分たちは全員『専門家』ということになる。
それをわざわざ特別扱いするのだ。
その実力は推して知るべし、である。
「どうして切った?」
指に銀色の髪を絡め、ひた、と目の奥を見るように視線を合わせてくる。
心の底まで見透かされそうな視線だ。
だからだろうか。
ヴァンツァーが何の話をしているのか分からなかった。
頭が働かない。
「まあ、あれに気を取られて俺は負けたんだが……」
その言葉に、やっとあの時のことを言っているのだと気付く。
自分が、この男を手にかけた夜のことを。
人を殺して後悔したことはないが、殺したくないと思ったのは初めてだった。
あの感触は、今も忘れられない。
「……やはり、納得いかないか?」
「あの時も言った。悪くない、と。俺が欲しかった答えはもらった」
「でも本当なら、私の技量でお前に勝てるわけがなかった……あれは偶然が重なったんだ」
視線を合わせていられなかった。
逸らしたはずなのに、まだ先ほどの感覚が消えない。
かっちり視線を合わせられているような錯覚。
「それでも、勝ったのはお前だ」
菫の瞳は、落とした視線の先で髪に口づけられるのを、他人事のように見ていた。
「もう、切るなよ」
「え?」
「切るな。あんなに短くしたら、髪飾りが使えない」
最期の瞬間目にした相手は、初めて見る少年だった。
驚いたように、怯えたように自分を見上げてきた菫の瞳は変わらず、髪だけが短くなっていた。
自分が死ぬことより、この銀色がもう二度と侍女には戻れないことの方を気にしていた。
自分の存在がそうさせたのだと思うと、自然笑みが浮かんだ。
「……男があんな煌びやかなものをしていたら、一般市民の生活が遠のく」
「似合えばいい」
言うと髪を開放し、少女の頬に手を移す。
自分の体温より冷たい手に、わずかに少女は身じろぎしたが、逃げ出そうとはしていないようだった。
「それに、今なら問題ないだろう?」
確かに女の今なら誰もおかしいとは思わないだろうが。
「……すぐに、戻してもらうんだ……」
きゅっ、と瞳を閉じる。
そう、すぐにでも戻してもらうのだ。
この状態は、長く続かない方がいい。
なんだかおかしくなりそうだった。
いつまでも終わらなければいいと、思ってしまいそうで怖かった。
「もったいないな」
聞き取れるかどうかという呟きが漏らされた。
「何が?」
ゆっくり、ゆっくりと瞳を開く。
「次にお前を見られるのは、六年後か……」
頬に手を置いたまま、親指でシェラの唇を辿り始める。
「どうせ戻るなら、その前にあれをつけた姿が見たいな」
「……つけたじゃないか」
「あの時は、お前に言い寄る男どもや王妃のせいでほとんど見られなかった」
そんなことまで覚えていたのか、とシェラは心底感嘆した。
「それにお前は俺よりひどい仏頂面だったしな」
なんだか不本意そうな声音に、シェラはちょっと意地悪をしたくなった。
「それも、貸しか……?」
天使のような少女が薄く、小悪魔的に笑った。
「……返すのに時間がかかりそうだ」
対する美貌の少年も、ゾクリとするような艶のある笑みを浮かべた。
「さっさと返せよ」
「今度死ぬまでには返すさ」
少女の顎に手を掛け、少し仰向かせる。
「ちわーっ! お待ちどおさん!!」
能天気な声とともに扉が勢い良く開いたのは、まさにその時。
ワゴンを引いたボーイが現れた。
その姿を見たシェラは一瞬絶句した。
「レ、レティシア?!」
そして背後に金黒天使。
「おふたりまでっ!」
素っ頓狂な声には気付かない振りで、ボーイの制服とマスターキーを調達したレティシアは、ガラゴロ音を立ててソファの前までワゴンを持って来た。
まあ、彼らに調達方法を聞くのも、野暮というものである。
「おめえら、メシ食い来たんじゃねえのかよ……」
呆れたような、感心したような声で猫眼をさらに大きくしている。
「ほら、あれじゃなぁい? シェラがおいしそうだった」
楽しそうに笑っているのは同じくボーイの格好をした黒天使だ。
「あぁ、そりゃあごちそうさまだな」
猫眼の少年はケラケラ笑っている。
「悪い。邪魔する気はなかったんだけどさ。黒すけはどうせ俺たちがいることに気付いてたんだろ?」
今度は金天使だ。
無論彼も着替えている。
緑の瞳は、本当に申し訳なさそうな、困った色をしている。
そこが他のふたりとの違いだろうか。
「だからここにしたんだがな……」
ヴァンツァーはシェラの隣に腰を下ろす。
あんなあからさまな視線に気付かない方がどうかしている。
それでも、まさか室内にまで入ってくるとは思わなかった。
いや、彼らの性格を考えれば、そこまで考慮するべきだったかもしれない、と読みの甘さを呪った。
ヴァンツァーほどの人間を読み誤らせる存在は、そうそういるものではない。
彼にとってもそんな経験は珍しいから、高い技量を持つ相手を好ましく思っていたのは確かなのだが、今回ばかりは喜べそうになかった。
隣では案の定、そうだったのか、とシェラが驚愕した。
「お、おま……お前分かっててやってたのか?!」
「ってかお嬢ちゃん気付いてなかったのかよ! 俺ら初めから尾行してたんだぜ?!」
レティシアの方が驚いたようであった。
「何だと?!」
さらに驚くシェラ。
菫の瞳は、これ以上は大きくならないくらい見開かれている。
「あれ? 本当に知らなかったの?」
ルウが意外そうに呟く。
それはもちろん、彼らが尾行というくらいだから、常人であれば気づかなくても仕方ない。
しかし一時はファロット一族の長にまでなった人間に気付かれないのは至難の業のはずだった。
そもそも天使ふたりと元・死神は、さして隠れようともしていなかった。
シェラにとっては、とんでもない失態だった。
ヴァンツァーとのやり取りの一部始終を見られていたことになる。
特にリィなど、人間はおろか、獣も持ち合わせていないような視力と聴力を持っている。
自分たちのしていたことは、逐一筒抜けだったわけだ。
「………………」
茫然自失。
阿鼻叫喚。
瞬きすら忘れて、口も半開きだ。
「お嬢ちゃん、ヴァッツの隣で舞い上がってたんじゃねえの?」
「──っ! 舞い上がってなどいない!!」
大絶叫だった。
勢いよく立ち上がり肩で息をする。
どうしようもない感情がふつふつこみ上げてきた。
部屋中破壊してやりたい気分だ。
よりにもよって尾行とはどういうことか。
確かに勝手に飛び出したことは自分が悪い。
だがそれなら、尾行などせずに普通に追いかけてきて、声をかけてくれれば良かったのだ。
──ヴァンツァーのように。
「……あーあ……レティーのせいだよ……」
ルウが半ば呆然として呟く。
「お、俺? 俺か?! おい、王妃さん、俺かよっ?!」
「……お……お前、だろう……」
リィも狼狽している。
「お……お嬢ちゃん?」
気遣わしげに声をかけてくる少年を、銀色ハリネズミは鋭い刃物のような視線で睨みつける。
「…………」
そんな中、無言で銀色を引き寄せる男がいた。
腕を引かれ座らされると、シェラはそのまま頭を抱えられた。
「な──!」
何をする、と抗議しようとして、シェラは嗚咽で声が紡げないことに気付いた。
「……っあ…………っ……?」
何を言うでもなく、ヴァンツァーは自分の肩口にシェラの頭を押し付けている。
立っている三人には、だからシェラの顔は見えない。
でも全員が、その涙を目にしていた。
黒天使は視線だけで他の二人に退出を促す。
三人は足音もさせずに出て行った。
部屋に、静寂が戻る。
聞こえるのは、声を上げて泣くことはせめて我慢しようとしている息遣いのみ。
時々しゃくりあげるが、それでもヴァンツァーはただ銀色の頭を抱えているだけだ。
「…………」
しばらくそうしていたが、シェラには気付かれないよう、ちいさく、ちいさく息をつく。
本当にちいさくついたのに、身体が触れ合っているからだろうか。
銀色の頭が肩から離れる。
ヴァンツァーは気付いたが、動かなかった。
「……おい……」
銀色は顔を上げず、低い、押し殺した声で話しかけた。
その声はまだこころなしか震えている。
「何だ」
少年は相手を見ようともせずに返事をする。
「……お前、三人がついてきているのを知っていて、私に服を買ったりしたのか……?」
「あぁ。始めから気付いていた」
「そうじゃない。三人と一緒になって面白がるために、私をあの店に連れて行ったのか……?」
少し、咎める響きがある。
しかし大半は、隠し切れない不安が占めている。
なぜ不安なのか、本人も分かっていない。
「……いや」
言って少し間がある。
シェラは何も言わず、次の言葉を促した。
「あれは、単に俺が買いたかったんだ」
「なぜだ……?」
先ほどまでとは違う意味で、声が震えている。
「さあ?」
「真面目に答えろ!」
語調を荒げる。
「本当に、よく分からないんだ……ただ」
「ただ?」
まだ涙に濡れた瞳で、少年の横顔を見た。
少年は部屋の壁を見たまま。
「以前あの辺りを通ったとき、似合いそうだと思った」
「これが?」
「正確にはあの店の服が、だな」
と言って視線を合わせてくる。
「だが、さすがに中学生の男子が着るような服じゃない」
そう言って、本日何度目になるのか、普段は冷たい印象の目元がやわらぐ。
「あの姿でも似合いはしただろうがな」
「……ふう、ん……」
一度ゆっくり瞬きをする。
もう、誰のことも責めてはいなかった。
見慣れないものを見ているからだろうか。
ちょっとした気分の高揚感がある。
「……じゃあ、あれは?」
少年から目を逸らすように座りなおした。
「あれ?」
視線だけ、顔の右側に感じる。
「さっきの……あれだ」
思い出しただけで赤面する。
さっきは平気だったのに。
「……」
「あれは……冗談……?」
服とは違って。
買いたかったから買った服とは違って。
「聞いてどうする?」
その通りだった。
どうするのだろう。
あまり考えずに聞いていた。
「……だって、お前、必要なければ……しないんだろう……?」
何とかその答えになりそうな言葉を探す。
この男は、恋愛感情を持ち合わせていない。
『任務』に必要か否かですべてを判断してきた。
「あ……それとも、あのまま私を殺す気だったのか?!」
突然思い当たった考えを口にした。
そうかもしれない。
きっとそうだ。
それなら理解できる。
殺すために必要だから、あんなことをしたんだ。
そうに違いない、それならいいんだ、とシェラはひとりで納得した。
「………………」
対するヴァンツァーは、秀麗な美貌を苦々しく歪め、ただひたすらシェラを見つめていた。
眉間にしわまで寄せている。
「え……な、何だ?」
機嫌を損ねるようなことでも言ったのだろうか。
それとも内心を言い当てられたことがそんなに気に障ったのか。
「それは……それこそ、冗談か?」
何か信じられないものでも見るような目つきだ。
居心地が悪い。
「ち、違うのか……?」
おそらく違ったのだろうが、そうでなければ説明できないのだ。
では真相は何なのだろう、と思考を巡らせあたふたしているシェラの唇に冷たくやわらかなものが触れて、すぐに離れていった。
驚くべき早業だった。
「?」
「……」
「……?」
「……」
「…………?」
「……」
「──────っ?!」
結構長いこと何が起こったのか認識できなかったが、気付いてしまった後は恐慌状態に陥った。
部屋中を駆けずり回りたいのに指一本動かせない。
体は呪縛されたようなのに心臓だけは暴れている。
自分のものなのに、神経の指令系統から切り離されているようだった。
「────こっ」
ようやく口から出たのは、震えていて意味どころか言葉の形も成さない音だった。
「こ?」
少年は先を促すように首を捻る。
「こ……ここ、こ……」
「こ、何だ?」
言い聞かせるように語り掛ける。
「こ……──こどもができたらどうするんだ!!」
立ち上がり力説する銀色を見て、きっと少年は絶句したかったに違いない。
「──できるわけないだろうが……」
お手上げとばかりに天井を仰ぐ。
「分からないぞ! 突然女になって、体の構造が変わって、他に人間としての機能が変わってないなんて言い切れるか?!」
「そんなに心配なら試してみるか?」
額を押さえ、一瞥を与えて口にした言葉だったが、相手の反応こそ見ものだった。
「な、なな、なななななななななななな?!」
ジンジャー・ブレッド辺りが聞いたら、さぞ滑舌の『良さ』を高く評価してくれたことだろう。
「悪ふざけもたいがいにしろっ!」
──他人事だと思って勝手なことばかり!
「お前暇なんだろう?! 私を暇つぶしの道具に使うな!!」
少し考えれば、そんな台詞が出て来るはずはなかった。
ヴァンツァーは呆れるほど多くの科目を受講し、毎日気が遠くなりそうなほどの課題をこなしているのだから。
しかし今のシェラの頭では、そんな冷静な判断はできなかった。
ただ、道具扱いされた事実が許せなかった。
少し前まで、それが自分たちの生き方だったのに。
リィに道具として使われるのは、一向に構わないのに。
「心外だな」
「『専門家』の言うことなんか信用できるかっ!」
「『専門家』?」
「誑し込みの『専門家』だ!!」
女性は言うまでもなく、時には男性をも魅了してしまう男の言葉なんか、何一つ信用できない、という判断をシェラは下した。
「──何だ。お前、俺に誑し込まれたのか」
が、やはりヴァンツァーは『専門家』だった。
二枚も三枚も四枚も上手だ。
ほんの少し、形の良い唇が笑みを刻む。
その絶妙な角度と信じられないような艶。
ここまで計算しているのだから、疑いようはなかった。
「──っ! 自惚れるな!!」
悔し紛れにシェラは叫んだ。
「お前が『専門家』と言ったんだろうが」
「それはレティシアが──」
「シェラ」
何とも効果的な一言だった。
他のどんな言葉を口にするよりも、抜群の口止め効果を持っていた。
ふわり、と少年の腕が伸ばされる。
吸い込まれそうだった。
「…………」
その誘惑に負けまいと、菫色の瞳を険しくして睨みつけるが、効果があるとは思えなかった。
必死になって頭を回転させ、起死回生の活路を見出そうとする。
何もせず、この男に屈するのは何だか嫌だった。
「シェラ」
もう一度呼ばれる。
甘く痺れるようなささやきだ。
懸命に渋面を作る。
── 早く何とかしないと……。
その時、天からのお告げにように、ある一言が頭に浮かんだ。
「いいだろう……」
不敵に笑む。
これなら、自分は負けない、と思ってシェラは少年に微笑みかけた。
天使のような、いや、女神のような神々しい微笑みだった。
「私が今考えていることを当てられたら、な」
これなら相手がどんな答えを返してきても、どうとでもやり込められる。
「………………」
案の定深い夜の色をした瞳が大きく見張られ、二、三度瞬きをする。
「どうだ? 私の勝ち──」
続きは、小さな笑い声に押しとどめられた。
「?」
どうしてそこで笑いが起きるのか理解できなかった。
首を捻るシェラの眼前で、少年はまだ笑っている。
この男がこんなに笑っているのを見たことがなかった。
「──シェラ」
三度名を呼ばれ、なぜか呼ばれた当人は腰に手を当て胸を張った。
「何だ」
偉そうな態度だったが、少年が気分を害した様子はない。
「その言葉、俺以外の男の前で言うなよ?」
ソファに悠然と体重を預け、長い足と腕を組む。
自信に満ちた表情だ。
どきり、とした。
この質問に答えられるはずはないのに、胸が騒いだ。
「ど、どうしてだ?」
簡単だ、と少年が続ける。
「身体が幾つあっても足りないからだ」
意味が分からなかった。
足らすためにこの質問を投げかけたのだ。
困惑しているシェラを、ヴァンツァーは手招きした。
出した答えを聞こうと、シェラは素直に耳を貸した。
くすぐったいくらい小さなささやきを、少年は寄こした。
「──俺が相手だなんて、冗談ではないと思っている」
反射的に頷こうとして、なぜだかそうしてはいけないような気になった。
しばらく何を言われているのか分からなかったが、その表情がみるみるうちに変わっていった。
「──この! 卑怯者!」
悔しそうに語調を荒げた。
「お前が言い出したことだろう?」
悪し様に罵られても、一向に意に介した様子はない。
むしろ楽しそうにすら見える。
「俺の勝ち、だな」
男の言葉を肯定すれば、シェラの内心を当てたことになる。
逆に否定したら、この目の前にいる、やたら見目麗しい男ならば構わない、と認めることになる。
どちらの答えでも、指し示す状況はひとつきりだった。
「ライオンのパラドックス」
泰然とソファに身を沈める男が呟いた。
「?」
「大昔の、有名な数学的理論だ」
人食いライオンに襲われた旅人が、そのライオンの内心を当てて命を取り留めるために使った理論のことだ。
ライオンは、自分の考えていることを当てたら旅人を逃がしてやる、と約束した。
旅人は「あなたは、私を食べようと思っています」と答えた。
その通りだとライオンが言えば、旅人はライオンの問いに答えたことになる。
逆に、そんなことは思っていない、と言えば、ライオンは旅人を食べる気はないのだから、解放しなければいけない。
どう転んでも出題者に勝ち目はない質問なのだ、と少年はよどみなく解説した。
「それとも、勝つ気がなかったのか?」
反論しようとした瞬間には少年の腕の中だった。
力強い腕だった。
年は変わらないのに抵抗を許さない。
あの夜、腹部を刺し貫いた自分の腕を逃すまい、と押さえてきたのと同じ力。
無論年齢はずっと若く、まだまだ成長途中であり、身長も体重も筋肉のつき方も、かつてのヴァンツァーとは比べようもなかった。
だがそこに宿る意思は、紛れもなく同じものだと断言できる。
そしてその腕以上に、別の何かに力がある。
「ヴァ──」
呼ぼうとした名は、重ねられた唇の奥に消える。
紫と藍色の瞳が、真正面からぶつかった。
しかし今回は、さきほどまでのような背中がむずがゆくなるような感覚は生まれなかった。
「……だから、こどもが……」
「ほう、お前はこどもを産めるのか。それは知らなかった」
「何言って……私は今──」
言いかけて、ふと気付く。
「今?」
何とも魅力的な青い瞳が覗き込んでくるが、そんなことは気にならなかった。
「──戻ってる……」
呆然と呟いた。
年は本来の自分のままだったが、体型が違った。
丸かった線が直線的になり、服の胸部にわずかだが隙間ができた。
「私の、体……?」
「確かめたければ脱がせてやろうか?」
「ばか!」
「男が服を贈るのは、脱がせるためらしいぞ?」
冗談か本気かつかない美貌の主を突き放し、まじまじと自分の体を見て、あちこち触ってみた。
「戻ってる……」
もう一度呟く。
明らかな安堵感が含まれていた。
「でも、いつ……」
さっぱり分からなかった。
「あれだ」
ヴァンツァーが魅力的な、それでいて物騒な笑みを浮かべた。
「?」
「王子のくちづけの効果じゃないか?」
シェラは発言者を白い目で見て、脱力するとともに、足元から崩れ落ちた。
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