その客がシェラの経営するブライダルプロデュース会社、《BLUE ROSE》へやってきたのは、桜が満開を迎えた時期だった──。

つつみ込むように・・・

「……三週間後、ですか?」

銀髪の天使は菫の瞳を大きく見開き、眼前の女性客を見た。
ふわふわとした栗色の髪に、大きな水色の瞳が可愛らしい女性だ。
おそらく二十代前半。
十代と言っても差し支えない程に幼さの残る容貌をしている。
その愛らしい容姿とは裏腹に、現在彼女は非常に切羽詰った表情で、テーブルを挟んだ向かいのシェラに詰め寄らんばかりの勢いだ。

「無理を言っていることは承知しています! でも、どうしてもその日でないとダメなんです!!」

くっきりと大きな瞳にはたっぷりと涙が溜まっており、今にも零れ落ちそうになっている。
色の白い女性だが、その少々丸めの顔は青ざめている。
これから幸せな結婚生活を送ろうとしている女性の顔とは思えない。
そんな必死な様子の女性を見て、シェラは言葉を選んでゆっくりと口を開いた。

「立ち入ったことをお訊きするようで申し訳ありませんが、もし何か事情がおありでしたら、話していただけますか?」

余程の事情を抱えていることは明白だったが、それでも三週間後となると他の仕事を後回しにして進める必要が出てくる。
そうなれば、仕事の流れに支障が出るのだ。
決して無理なスケジュールを組んだりはしていないが、満足行く仕事をするためにはそれなりの時間が必要なのである。

「……」

黙して俯いてしまった女性に、シェラはやわらかく微笑み掛けた。
長い銀髪のシェラは、二十代の半ばを過ぎても少女のような面影を残している。
ヴァンツァーのデザインしたスーツは女性的な型だったが、無理やり男物のスーツを身につけるよりもずっとシェラの容貌を引き立てていた。
どこまでも繊細で上品なシェラの姿と微笑みに、女性客の強張った頬にも、僅かに赤みが差した。

「……祖母の、手術が行われるんです……」
「手術?」 「はい……。祖母といってもまだ若くて、五十代なのですが」

女性客は唇を噛み締め、眉根を寄せた。

「……悪性の腫瘍に侵されていて……」

女性の双眸から、大粒の涙が零れた。

「まだ最悪の状況は逃れているようなので、緊急で手術をすることになって……」
「それが、三週間後ですか」

シェラの言葉に、女性はちいさく頷いた。
嗚咽が漏れそうになるのを、必死で堪えているのが分かる。
女性はハンドバッグの中からハンカチを取り出した。
縁に見事なレース編みの施された、真っ白なハンカチ。
こんな場合でありながら、シェラはそのレースの美しさに見惚れそうになった。

「……これ、祖母が縫ってくれたんです。レース編みが得意で……」
「素晴らしいお手前ですね」

本心からの感嘆の声だと分かったのだろう。
女性は誇らしげに微笑んだ。

「これと同じ刺繍の入ったドレスでお式を挙げたくて、いくつかのデザイナーさんやブライダルプロデュースの会社に持ち掛けたんです。でも、これからドレスを作成するには、どこも時間がなさすぎる、と……」

シェラはゆっくりと頷いた。

「玄人として縫製のお仕事をさせていただいている私の目から見ても、これほどまでに見事なレース編みをそのお時間でできる職人は、なかなかおりません」

オーダーメイドのドレスとなればなおのこと。
採寸や裁断、仮縫いに本縫い。
それから刺繍を施して、となると、シンプルな型ならまだしも、目の眩むような細かい刺繍をしている時間は取れないだろう。
その一言で女性の表情が翳った。
きつく、唇を噛み締める。

「……そう、ですよね」

やはり、諦めるしかない。

「あの、ではもっとシンプルなドレスなら、三週間でできますか……?」

大規模な宣伝はなされていないが、この会社とデザイナーの仕事は知る人ぞ知るものである。
依頼主にもっとも似合うデザインをおこしてくれ、一級の品を、儲けを度外視した価格で提供してくれる。
せめて、祖母に一番綺麗な自分を見てもらいたい、と女性は考えた。
シェラは緩く首を振った。

「え……?」

女性が傷ついた表情になるのを目にしたシェラは、その美貌に天使の笑みを浮かべた。

「そのハンカチ、お借りしてもよろしいでしょうか?」
「……ハンカチ?」

頷くシェラ。

「さすがに、一度見ただけでは、その複雑な模様を再現することはできそうもありませんから」

申し訳なさそうに眉を下げるシェラ。

「──……それじゃあ」
「三週間で、承ります」
「あっ────」

女性の顔が、ぱぁぁ、っと明るくなった。
それからシェラは同じ建物にアトリエを構えるヴァンツァーを呼び、女性客を交えて簡単なデザインの打ち合わせをした。
それをきちんとしたデザインにおこし、どのような形になるのか布を使って見せるために二日後また来訪するよう説明した。
女性客はとても嬉しそうな顔をして、《BLUE ROSE》を後にした。
入り口まで女性を見送って帰ってきたシェラに、ヴァンツァーは嘆息して呟いた。

「無茶なことを……」

話を聞き、簡単なデザインを描いてみせたが、それがかなり無理のあるスケジュールであることは認識していたヴァンツァーだ。
ただ、それを客の前では顔に出さなかっただけ。
できない、と追い返すことも、もっと楽なデザインを提案することも可能だった。
客の意向と食い違うことになっても、妥協せざるを得ない場合もあるのだ。
しかし、それを決めるのはヴァンツァーではない。
シェラがやる、と言った以上、ヴァンツァーに口を挟む権限はないのだ。
裁縫ならば何でも来いのシェラは、アトリエでは主にヴァンツァーが描いたデザイン画を立体にするための型を布地に描くパターンナーをしている。
そのパターンを裁断し、縫製し、刺繍するのも、シェラの仕事だ。
同じ仕事をする人間はこのアトリエに他にもいるが、シェラの仕事がもっとも早く、正確だ。
だから、シェラができると判断したなら、それを他の人間が覆すことはできない。
それでも、今回受けた仕事が今までの中でもっとも過酷であろうことを、ヴァンツァーは理解していた。

「俺には仕事をさせないくせに、自分はいいとでも言うのか?」
「止めなかったじゃないか」

その言葉に、ヴァンツァーは苦い顔になった。

「……お前の言葉を借りれば、それは事後承諾と言うんだ。お前が客に引き受けると言ってから、俺がダメだなんて言えるわけがないだろうが」

シェラは満足そうに微笑んだ。

「実はさっき笑いそうになってたんだ。あのお客様のところに呼んだときのお前の顔」

三週間で、と言ったら、普段あまり動かない表情が一瞬固まり、直後それを取り繕うように口端に笑みを浮かべて見せた。
文句を言いたくて仕方ないのに、客の前で喧々囂々と言い合いをするわけにもいかない葛藤がよく見て取れた──とはいっても、それはシェラにのみであったろうが。

「──でも、まぁ……ちょっと嬉しいかな」

伏目がちに呟くシェラに、ヴァンツァーは「何がだ」と訊ねた。

「絶対無理だからやめろ、ってお客様の前で言われなくて」

その程度には自分の腕を買ってくれているのかと思うと、ほっとする。
自信を持って役に立てると言えることなど、家事や裁縫くらいなのだから。

「不可能を可能にするのが、お前の《BLUE ROSE》だろう?」
「────……」

事もなげに口にされた言葉に、シェラは目を瞠った。

「違うのか? そういう意味でつけたのかと思ったんだが」

だから、自分はその意思を尊重しただけだ、と続けるヴァンツァー。

「……そう、か」

何だか笑いが込み上げてきて、シェラは肩を震わせた。
泣き笑いしそうになる。

「そうか……」

何の修飾語もつけず、『可能にする』と言い切られたことが、こんなにも嬉しい。
期待されればされるだけ、それに応えようと努力できる。
過剰な期待に押しつぶされそうになることは、少なくともシェラにはなかった。
ファロットであったときにはそれを全うすることがすべてだったし、今でもその達成感は何ものにも代え難い快さだ。
自分にしかできないことをやり遂げたときの満足感。
自分よりも優れた相手に認められる心地良さ。
そして、自分の仕事で喜んでくれる客がいて、必要とされていることが実感できたときの安心感。
それらのためならば、多少の無理は何でもない。

「ひとつ、問題があるといえばあるか……」

ふと真剣味を帯びたヴァンツァーの声音に、シェラも表情を引き締めた。

「何だ? 私に急ぎの仕事はなかったはずだが?」

忘れているということはあり得ない、とシェラは傍らの男を仰ぎ見た。
藍色の視線が紫のそれと重なる。

「俺が構ってもらえなくなる」
「……」

唖然とした表情になったシェラを見ておかしそうに笑い、ヴァンツァーは自分の仕事へと戻って行った。


正式なデザインを決め、採寸を済ませ、シェラは着々とドレスの縫製を進めていった。
とりあえず三週間後に衣装ができあがっていれば、式は手術が終わった後に挙げるということで、式の内容などについては後回しにしての作業だ。
胸元と裾の刺繍に時間が掛かる分、ドレスそのものはAラインのシンプルなものである。
花嫁が小柄なこともあり、彼女の可愛らしさを存分に引き立てるデザインだった。
仮縫いの段階まで来て、試着をするために花嫁を呼んだシェラは、ふと気付いたことがあって彼女に訊ねた。

「そういえば、花婿さんは一度もいらっしゃってませんね」

花婿の衣装はレンタルで、と話したことがあったので気にしていなかったのだが、大抵のカップルは衣装合わせは一緒にするものだ。
仕事の都合などでそれが叶わない場合もあるが、サイズや花嫁衣裳とのバランス等を考えると、一度は来訪してもらいたい。
期日まで二週間あまり。
この仮縫いが終われば、本縫いをして刺繍だ。
花婿の衣装をそろそろ決めたいところである。

「……ごめんなさい」

悄然として項垂れてしまった花嫁に、シェラはにっこり微笑み掛けた。

「あぁ、構いませんよ。お仕事の都合とか、おありでしょうし」

シェラは丈や裾の広がりを見ながら、てきぱきとマチ針でとめていく。

「でも、こんなに可愛らしい花嫁さんなんですから、花婿さんにも見てもらいたいですよね」
「……」

余計に表情を曇らせてしまった女性に、シェラは首を傾げた。

「あの?」
「──……いないんです」

ちいさな声で、しかしきっぱりと言い切られた言葉に、シェラは手を止めた。

「……え?」

花嫁は、寂しそうな笑みを浮かべた。

「ごめんなさい……。花婿がいないなんて言ったら、ドレス、作ってもらえないと思って……」
「……」
「恋人、いたんです。でも祖母が倒れた日に、事故で……。祖母は彼のことをとても気に入っていて、私の花嫁姿見るのを楽しみにしていたから……。亡くなったって、言い出せなくて。余計に病気、悪化してしまうんじゃないか、って……本当に、ごめんなさい……」

何度も謝罪の言葉を述べ、頭を下げる。
大きな瞳から、ポロポロと涙が零れている。

「──……強いなぁ」

ポツリ、とシェラが漏らした一言に、花嫁は涙に濡れた顔を上げた。

「え……?」
「女の人って、すごいですね。恋人を亡くされて、あなただって辛いのに」

立ち上がり、シェラは花嫁の涙をそっと拭ってやった。

「それでも、大切な人のことを考えられて、その人の喜ぶことをしてあげようとする……」

きっとこの人は、おばあさんの前では始終笑顔でいるのだろう。
楽しい話をし、恋人との挙式を喜び、たまに惚気てみせる。

「偉かったね」

軽く栗色の髪を撫でると、花婿を亡くした花嫁は更に涙を溢れさせた。
シェラは自分よりもちいさな身体を抱きしめ、背中を撫でてやった。

「恋人さんに、怒られちゃうかな?」

おどけてみせると、花嫁はクスクスと笑った。

「……不思議。あなた、女の子みたいに綺麗なのに、やっぱり男の人って感じがします」
「それは嬉しいですね」

しばらく背中をさすっていると、花嫁は呼吸を落ち着けたようで、軽くシェラの胸を押した。
それに逆らうことなく、身体を離すシェラ。
花嫁は、眦の涙を指で拭い、シェラに微笑み掛けた。

「あなた、体型が彼に似ています」
「私と?」
「えぇ。彼も男の人にしては細身で。もう少し、背は高いんですけどね」
「そうですか」

にっこりと笑みを返したシェラに、花嫁は心配そうな顔になった。

「あの……ドレス、続けて作っていただけますか?」

断られても仕方ない、と思っているのだろう。
まだ涙に濡れた瞳が、大きく揺れている。
だから、シェラはしっかりと頷いた。

「もちろんです。おばあさまに、最高の花嫁姿をご覧に入れて差し上げましょうね」

きっと、それだけで病気なんか吹き飛んでしまいますよ、と付け足した。

「ありがとうございます」

満面の笑みを浮かべる女性に、シェラは穏やかな瞳を向けた。
可愛らしくて、守ってあげたくなる。
これが、男として当たり前の感情なのだろう。
どちらの考え方も分かる身ではあるが、それは裏を返せばどちらも中途半端にしか分かっていないのかも知れない。
そう思うと、一抹の寂しさを感じる。

「──さて。あとは本縫いをして、刺繍を施せばできあがりです」
「あのハンカチ、お役に立っていますか?」
「もちろんです。おばあさまは、本当に玄人はだしの腕の持ち主ですね。なかなか苦戦しています」

困ったように笑うと、花嫁は嬉しそうに顔を綻ばせた。

「大好きな、自慢の祖母ですから」
「羨ましいです」
「あら、わたしも羨ましいですよ?」
「え?」
「あの素敵なデザイナーさん、あなたの恋人でしょう?」

面食らったシェラだ。
それらしい素振りを見せたことも、口にしたこともない。

「結婚指輪。同じデザインですものね」
「……」

目を真ん丸にしたシェラだ。
女性の慧眼には恐れ入る。
ほんの数回、短い時間会話しただけなのだ。
それなのに、そんな細かい部分まで見ているとは。
幼顔の女性は、クスクスと笑った。

「イイ男は、まず《お手つき》かどうか確認するものです」

参った。
最近は女として生きていなかったせいか、女性の特性を忘れつつあるようだった。

「イイ男……ですよね。本当に……同じ男として、たまに嫉妬します」

困ったように曖昧な笑みを浮かべると、また笑われたシェラだ。

「あなたも、ですよ」
「……」
「女性のような細やかさと慈愛に、男性の色気を持ち合わせていらっしゃいますもの。文句なしにイイ男です」
「……中途半端、でしょう?」
「とんでもない!」

驚いたように目を瞠り、次いで責める顔つきになる花嫁。

「同性の恋人どうしがどんな関係を作るのか私は知りませんけど、あなたは羨ましいことに男性的な魅力も、女性的な魅力も持ってるんですよ? 男として仕事で競い合い、女として疲れた男性を癒してあげることもできるなんて、これ以上ない存在じゃありませんか!」
「……癒す……?」
「男性であるあなたにこんなことを言うのはアレですけど、男なんてみんな多少はマザコンなんです」
「……」
「いくつになっても、甘えたがりのお子様なんですよ」

自分の恋人もそうだった、と花嫁は語る。

「追いつけ追い越せだけじゃ、疲れてしまうでしょう? 男の人は外で働いて、家では羽を休めたいんですから」
「休む……」
「こう言うと語弊があるかも知れませんけど」
「はい?」
「仕事で競い合うなら、ある程度誰でもいいでしょう? でも、寄り掛かれる相手って、そうそういないものです」
「……」

そんなことは、分かっているはずだった。
知識として叩き込まれ、また実際に経験して実感したことでもある。
幼い頃から行者として生き、人間の特性というものには精通したつもりでいたのに。

「……自分のことになると、ダメですね」

シェラは苦笑した。
どうもあの男といると、負けたくない、ということで頭が一杯になってしまう。
認められたい。
追いつきたい。
それがすべてではないけれど、一番大きく心を占める感情であることは間違いない。

「私はもう、彼に何もしてあげられませんから……。一緒にいられることは、とても幸運なことですよ」

深く頷いたシェラだ。
そうだ。
誰もが自分のように、失った人間を取り戻せるわけではない。
死んだ人間が生き返るという奇跡は、普通起こらない。
だから、皆精一杯生きるのだ。
いつか失うことは分かっていても、そのいつかができるだけ遠い未来であることを願って。

「本当に、そうですね」
「それにね」

声をひそめた女性が、シェラに耳打ちする。

「たまに甘やかしてあげると、多少の無理は聞いてくれるようになりますよ」

飴と鞭というやつだ。
シェラは女性の逞しさに、改めて敬意を表すると同時に、笑いを噛み殺した。


それから二週間。
シェラは仮眠を取るように眠るだけで、本縫いと刺繍を完璧に仕上げた。
突貫工事もいいところで、疲労感は甚だしかったが、それも花嫁の咲き誇る大輪の花のような笑顔を見たら吹き飛んだ。
自分の手掛けたものを受け入れてもらえることに、無上の喜びを覚える。
花嫁は、できたてのウエディングドレスを手に、祖母のいる病院へと向かった。
病院へは、シェラとレイチェルが一緒に向かった。
着付けとメイクを施すためだ。
とはいえ、どちらもレイチェルがするのでシェラの出番はない。
ただ、自分の生み出したドレスを着た花嫁を、実際に目にしたかったのだ。
クーア総合医療センターは、プレイルームや娯楽室も用意されているので、そこで着替えを済ませた。

「うん! ばっちり、美人さん!」

レイチェルが満足そうに頷いた。

「やっぱり、元がいいと腕が鳴るわぁ」

レイチェルに呼ばれたシェラが室内に入る。

「うん、可愛い」

男の表情を滲ませ、シェラは花嫁に微笑み掛けた。

「ありがとう」

はにかんだように頬を赤らめる花嫁は、本当に可愛らしかった。

「……ひとりで、大丈夫ですか?」

花婿のいない花嫁。
祖母には、花婿はどうしても抜けられない仕事があるから、と言うことにしたようだ。

「彼と違う人を連れていったら、それこそびっくりされちゃいますから」
「それもそうですね」

そうして、花嫁は祖母の病室へと向かった。
シェラとレイチェルは、娯楽室で待機だ。

「シェラ、結構男らしいところあるのね」

レイチェルが悪戯っぽくシェラに話し掛けた。

「え?」
「ヴァンツァーといると、あの人『俺は男だオーラ』出すから気づきにくいけど」
「オーラ……」

あまりの言葉に呆気に取られたシェラだ。

「だって、あれだけ『俺のオンナに手を出すな』みたいなことやられたら、あなたのこと女の子として見ちゃうわよ。綺麗な顔してるのは間違いないんだし」
「俺の……」

絶句しかける。
女性というのは、時にとんでもないことを口にするものだ。

「ヴァンツァーとはお似合いだと思うけど、ああいう可愛い子と一緒にいると、あなたもしっかり男の顔するのねぇ」

シェラはレイチェルに気取られないよう、嘆息した。

「やっぱり、中途半端?」

口端に、薄っすらと笑みを浮かべる。

「何それ?」
「え?」
「中途半端って意味が分かんないわ」
「……レイチェル?」

きょとんとして首を傾げるシェラの額を、レイチェルは軽く小突いた。

「シェラはシェラ。女の子みたいに綺麗で、可愛くて、料理も家事も仕事もできて、ヴァンツァーを手玉に取っちゃうかと思えば、こっちがびっくりするくらい恋愛に疎い天然な男の子よ」
「……」

立て板に水の如く、シェラを形容すると思しき言葉が並べられた。

「女が男並みの仕事しようとするとガサツになっちゃったりするものだけど、シェラは仕事できるし、気配りもできるし、天然癒し系だし。女として羨ましいわよ、そういうの」
「……」
「──っていうか、贅沢よ、あなた! お手入れもしてないのにお肌スベスベだし、ピチピチだし」

ぷんすか怒っているらしいのだが、そういうレイチェルこそ可愛い、とシェラは思った。

「……運動は、してるけど……?」
「やーだー! こんな真っ昼間から下ネタやめてくれるぅ?!」
「えぇ?!」

そんなつもりはまったくなかった──というか、どうしたらそんな話になるのかが分からない。

「レイチェル、発言がレティシアみたいだよ!」

それは治した方がいい、と本気でシェラは言い募った。

「あ? 呼んだ?」

耳元で聞こえた声に、シェラは飛び退いた。

「──お前、何でこんなところに!」
「医者が病院にいちゃいけねぇのかよ」

煩そうに耳に指を突っ込むレティシア。

「はぁい、レティー」
「よっ」

仲良さ気に手を振り合うふたり。

「……お前、こんなところで油売ってていいのか……?」

心配しているわけではなく、とっとと出て行けと言っているのだ。

「何言ってんだよ。今大仕事終えてきたばっかりだぜ?」
「大仕事? 手術?」

レイチェルの言葉に首を振るレティシア。

「たまたま回診に行った病室に花嫁がいてさぁ。そこのおばちゃんに、花婿に間違われた」
「……お前が担当医なのか」
「まぁ、白衣だったし、あのおばちゃんの目が悪くなってた、ってのもあるんだけどな。あれ、お前んとこのドレスだろう?」
「……余計なことは、言わなかっただろうな」

凄むように睨み付けるシェラの視線を軽く受け流し、レティシアは嘆息した。

「だーかーら。大仕事した、っつったろう? ちゃんと花婿のふりしてきたよ」
「あなたが?」
「そ、俺が。何か、彼氏が俺みたいな背格好なんだと」

花婿のふりを終え、病室の外で花嫁に聞いたのだという。

「おばちゃん、涙流して喜んでたぜ」

俺の演技も捨てたもんじゃないね、などと笑う。

「あら、ここにもイイ男がいたわ」

レイチェルがにこにこ笑っている。

「……けど、あのおばちゃん、視力が落ちてるってことは、危ないかもな」

シェラの顔が強張る。

「──助からないのか?」

肩をすくめるレティシア。

「脳腫瘍なんだ。患部はかなり際どい。──あ、これ守秘義務違反だから、オフレコな」

とはいえ、ある程度シェラが花嫁から聞いているだろうと判断しての言葉だ。

「最善を尽くせよ」

レティシアは心外だ、とばかりに目を真ん丸にした。

「俺、引き抜かれるくらい腕いいのよ?」
「知っている」
「……あ、そう」

即答され、逆に拍子抜けしたレティシアだ。

「恋人に加えておばあさんもなんて、あんまりだ……」
「ちょっとお前に似てるな」
「なに?」
「惚れた男と、父親と」
「……」

思い切り顔を顰めたシェラだ。

「──私に父親はいない。何度も言わせるな」
「惚れた男、って方は否定しねぇんだ」

カラカラと笑うレティシアに、レイチェルが取り残された不満でいっぱいの視線を向けた。

「男どうしの内緒話」

唇の前に指を立てるレティシア。
レイチェルは口を尖らせた。

「男の子って、そういう時だけずるいわ!」
「オンナノコも、だろ?」
「こら、怠慢外科医! 早く仕事に戻れ!!」

レイチェルに迫りかねない男を突き飛ばし、シェラは肩をいからせた。

「はいはい。んじゃな」

手をひらひら振ると、レティシアは娯楽室を後にした。
入れ替えに、花嫁が戻ってきた。

「先生とお知り合いだったんですか?」

廊下を歩いていくレティシアの背中を見送る花嫁の問い掛けに、シェラは嫌そうに顔を歪めた。

「切実に縁を切りたいと思っています」
「やぁよ、もったいない! あの職場、イイ男の品評会できるから気に入ってるのに!」
「……レイチェル」

美形は観賞用と言い切る彼女がかなり本気でそう言ったことは間違いない。

「素敵な職場のようですね」
「……あの男は仕事仲間ではありません」
「ええ、存じてます。お医者様ですものね。でも、お友達も呼べる職場って、素敵でしょう?」

シェラは何だかひどい頭痛がしてきて頭を抱えた。

「ありがとうございました」

そんなときに、目の前で深々と頭を下げられた。

「え?」
「祖母が、とても喜んでくれました。すごく、綺麗だって」
「それは良かった」

ふたりは微笑みを交わした。

「それと、寝る間を惜しんで作って下さって、本当にありがとうございます」

軽く目を瞠るシェラ。

「せっかくの綺麗なお顔にクマを作らせてしまって……恋人さんに、怒られてしまいますね」

いつぞやシェラが言ったことと同じことを、茶目っ気たっぷりに口にした。
シェラはちいさく笑った。

「それで捨てられたら、責任取ってあなたに拾ってもらいます」
「大歓迎です」

微笑み合うふたりの横で、レイチェルも穏やかな笑みを浮かべていた。


シェラはその日、病院から直接家に帰った。
この三週間休みなしだった分、ヴァンツァーがまとめて休みを取れと厳命したのだ。
いつも自分が言っていることなので言い返すこともできず、シェラはおとなしく家に帰った。
着替えもせずにソファに座ると、疲れがどっと出たのかうとうとしてしまった。

鼻腔をくすぐるいい匂いに、次第に意識が覚醒する。
数度瞬きを繰り返し、ゆっくりと起き上がる。
あのままソファで寝てしまったらしい。
が、ブランケットが掛けられており、キッチンで料理していると思しき匂いと気配がするということは、ヴァンツァーが帰って来ているのだろう。

「しまった……」

時計を見ると、もう八時。
家に帰ってきてから、四時間以上眠ってしまったらしい。
ブランケットをたたんでソファに置くと、シェラはキッチンへ向かった。
そこにはやはり、長身の男の姿。

「休んでいろ」

調理の手は止めず、背を向けたまま言葉を紡ぐ。

「お株を取られた……」

不満そうにダイニングテーブルにつくシェラに、ヴァンツァーは笑いを噛み殺した。

「──でも、いい匂いだ」

うっとりと呟いて、調理をする男を見る。

「お前ほど手際も良くないし、品数豊富に作れるわけでもない。味も落ちる」

安心しろ、とでも言いたいのだろうか。

「当たり前だ。私は娘として育てられたんだ。お前とは年季が違う。……同じように作られたら、私の立つ瀬がない」
「この三週間、仕事をしながら、料理も家事もしていたな」

いや、と続ける。

「いつも、仕事と両立させている」
「それが?」
「だから、お前の大変さを少し味わってみようと思った」
「……」

調理を終えたヴァンツァーが運んできたのは、スープパスタと温野菜サラダ、子羊の香草焼きだ。
それらを見たシェラは、器用に片眉を持ち上げた。

「何だ、このメニューは……」
「寝起きには重いか?」
「いつの間にこんなものを覚えた」

料理に不満があるのではないことに安堵したのか、ヴァンツァーは自分の席についた。

「何の変哲もない、お前がよく作るメニューだ」
「……やっぱりお株を取られた」

口を尖らせながらも、食欲をそそる香りに誘われ、パスタのスープを口に含んだ。
思い切り顔を顰める。

「美味しいじゃないか……」
「だったらもっと美味そうな顔をしてもらえると、作っている身としてはありがたいな」

言っていることはよく分かる。
自分も思うことだから。
確かにヴァンツァーは、美味いと思えば美味いと口にする人間であったし、それを聞くと嬉しくもなった。

「これだけ作れるなら、私がいなくたって大丈夫だな」
「それは困る」
「家事だって、この世界はほとんど機械がやってくれるんだ」
「だから、料理ができようと、機械があろうと、お前がいないと困ると言っている」
「……何だそれは」

眉間に皺を寄せつつも、実に美味な料理の数々を口に運ぶシェラ。

「別に、俺はお前が料理や家事が得意だから一緒にいるわけではない」
「……」

食べ物を咀嚼し飲み込むと淡々と話す、という行為を繰り返すヴァンツァー。

「もちろん、できないよりはできた方がいいがな」

だが、この程度のことならば自分でもできる。
生活に支障を来すこともない。
しばらく沈黙の中、食事を進める微かな音だけがダイニングを支配した。

「……ひとつ、訊きたい」

食事の手を休め、シェラは向かいの席にいるヴァンツァーに目を向けた。
顔を上げることで返事に代えるヴァンツァー。

「たとえば私が一切家事ができなくて、仕事も失敗ばかりで、その上戦闘能力もお前に比べて格段に劣る人間だったら……」

そんな、何も持たない人間だったら。

「興味が湧かない」

低い声が、目の前で紡がれた。
相変わらずの、淡々とした声音。
いつもと同じなのに、ひどく冷たく感じた。
まずい。
視界がぼやける。
傷ついた顔になっているのを気取られたくなくて、俯くシェラ。

「そ──」
「以前の俺なら、そう答えただろうな」

やはり淡々とした声で、そんなことを言う。
シェラは呆けた顔で瞬きを繰り返した。

「そんな割り切り方ができる時間は、もう終わっている」
「──……」

大きく目を瞠ったシェラに、ヴァンツァーは首を傾げた。

「訊きたいことはそれだけか?」
「……あ? あ、あぁ……」
「そうか。冷めるぞ」
「え? あ……悪い」

食事の間に交わされた言葉は、それだけだった。
先に入浴を済ませて寝室へ向かうシェラ。
今回の仕事を請ける前に買った新しいベッドは、ヴァンツァーの主張通りのキングだ。
クイーンにしようか、ワイドダブルにしようか、と寝心地その他散々悩んだ末の選択である。
天蓋つきは敷地内の別邸に置いてあるので、今回は取りやめた。
更に長身の青年のため、長さが標準サイズではなくロングサイズなのは以前のベッドと同じだ。
ほぼ正方形のベッドが、寝室のど真ん中に横たわっているわけである。
以前はダブルが二台だったため、それに比べたら寝室のスペースが広くなった。
自分で買いに行こうと言い出したのだが、どうにも気恥ずかしい思いがしていたシェラであった。
それでも、幸か不幸か今回の仕事のおかげで、シェラはこのベッドをほとんど使っていなかった。
そこで今日から眠ることになるのだ。
むろん嫌なわけではないが、何となく勝手が違うことに戸惑う。
だから、ベッドの端にちょこんと座ったまま、横になれないでいた。
そこから反対の端を見ると、かなり遠い。
ダブルとは比較にならない。
いるべき人間がいないと、余計に広く感じる。
ここで、ヴァンツァーはひとり眠っていたのだ。

「……どんな気分だった……?」

呟き、ベッドの真ん中に横たわってみた。
いつも見ていたのとは異なる天井の位置が目に入る。
両手を伸ばしても、ベッドの端にはまだ遠い。
ころころと寝返りを打ってみる。
端から端まで動くのは、結構大変だった。
シェラはちいさく吹き出した。
喉の奥で笑い、バスローブを羽織った肩を震わせる。

「……これは、ちょっと寂しいかも」

ベッドの端で丸くなり、腹を抱えて笑う。
ヴァンツァーがひとりで眠っていた様子を思い描いてみても、やはり笑える。

「ダブルでも、ふたりで眠れるのに」

それにダブルサイズならば、ひとりで寝てもさして違和感はない。
いくら長身の男でも、キングにひとりは少々広いように思えるのだ。

「まずいなぁ……」

独り言を繰り返していると、ドアが開いた。
ベッドの上でゴロゴロし、おかしそうに笑っているシェラを見て、ヴァンツァーは呆れ顔になった。

「……楽しそうで何よりだ」
「あぁ、かなり楽しい」
「俺の目にも、かなり楽しい格好になっているぞ」
「え?」

自分の身体を見下ろすと、なるほど、バスローブがかなり着崩れている。

「欲求不満なのか?」

クスクスと悪戯っぽく微笑むシェラ。
ベッドの端に腰掛けたヴァンツァーに、わざとらしく擦り寄ってみせる。

「仕事熱心な誰かさんのおかげで、随分禁欲生活を満喫させられたからな」

ゆったりと、形の良い唇に笑みを刻んだ。
長い銀髪に手を差し込んで頭を引き寄せ、赤い唇に口づけを落とす。
慣れた行為をシェラはおとなしく享受したが、時折、戸惑って涙を浮かべていた頃が懐かしくなるヴァンツァーだった。
何度か啄ばむような口づけを繰り返すと、シェラに胸を押し返される。

「冷た……お前、髪乾かしてないな」

頬に落ちた水滴を手の甲で拭うシェラ。

「せっかくやわらかくて気持ちいい髪なのに、これじゃあ引っかかる……」

少々癖のある黒髪に指を入れると、やわらかくはあるがやはり指通りが悪い。
タオル代わりに、自分のバスローブの袖でヴァンツァーの髪を拭いてやる。

「お前、母親みたいだな」

髪を乾かされながらも、目の前に晒された白い胸元に口づける。
痕はつけない。
ただ、触れるだけ。

「こら。乾くまで我慢しろ」

咎めるような言葉が返ってきた。
以前は、こんなことをしようものなら大きく肩を震わせていたのに。
その変化が嫌なわけではないが、寂しくないわけでもない。

「無理」

だから、軽く鎖骨に歯を立てた。
さすがにこれにはちいさな反応が返される。

「……じゃあドライヤーで乾かしてこい」
「面倒」
「乾いてないと引っかかるんだぞ」
「そのうち乾く」
「……」

ああ言えばこう言う。
シェラにとっては、本当にこどもを相手にしているようだ。

「──お前、私の髪が好きだろう?」
「あぁ」
「す・き・だ・ろ・う?」
「……好きだ」

髪を乾かす、というよりもぐしゃぐしゃにされたヴァンツァーは、ほんの少し、いつもより幼く見える。
そんな男の返答に満足したのか、シェラは言い聞かせるように言葉を重ねた。

「私は、お前のためにいつも髪を乾かしているんだ」

ほら、さらさら、と毛先でヴァンツァーの頬を撫でる。
くすぐったいのか、大の男がちいさく身を捩る姿にも、シェラはご満悦の様子だった。

「だから、お前も乾かしてこい」

びしっとドアを指差す。

「……すごい理屈だな」
「文法的には間違っていない」
「髪を乾かすことで、俺にメリットはあるのか?」
「よくできました、と頭を撫でてやる」
「……」
「早くしないと寝るぞ。私は疲れているんだ」

どうやらかなり本気らしい、と見て取ったのだろう。
ヴァンツァーはおとなしくベッドを降りた。
とはいえ、別に頭を撫でてもらいたいわけではない──それが魅力的でないか、といえばそんなこともないのだが。
寝室を後にしたものの、おそらく自分が戻るまでにシェラは寝てしまっていることも想像がつく。
ここしばらく、一、二時間しか眠っていなかったのだから。
明日から強制的に休みを取らせたのだから、今日無理をさせなくてもいい。
あの広いベッドにひとりで眠らなくて済むだけ、随分マシだろう。
そんなことを考えながら髪を乾かして寝室に戻ると──。

A.うとうとシェラ。

B.ぎんぎんシェラ。

※どちらを選んでもR-18要素はありません。

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