ある日ひとりで街を歩いていたシェラは、とある店の前で足を止めた。
蝶が蜜に惹き寄せられるように、ショーウィンドウに釘付けになる。
「……綺麗……」
それは本物ではなく光学映像による立体見本だったが、実際に目の前にあるような精密さと鮮やかさにシェラはため息を吐いた。
そうして、次の瞬間には店内へと足を運んでいたのだ。
その日の夜、いつものように夕食後のティータイムをリビングで過ごすとき、ヴァンツァーがキッチンでお茶の用意をしている間に、シェラは自分の部屋からちいさな箱を持ってきておいた。
ヴァンツァーが茶器をテーブルに置くと、それを手渡した。
自分がものを贈ることは頻繁にあっても、シェラからもらうことはあまりない。
何を贈れば喜ぶか分からないというのがシェラの言い分だったし、別にそんなことは気にならないので、ヴァンツァーはそのことをどうこう言うつもりはなかった。
「俺に?」
それでもこう訊いてしまうのは、それが慣れない事態だったからだろう。
頷くシェラの許可を取り、ヴァンツァーは箱を開けた。
片手に乗る大きさの木箱から出てきたのは、美術品のような腕時計だった。
白ギョーシェで一部オープンタイプの文字盤からは、トゥールビヨンの複雑な機構が見える。
美しいリーフハンドの長短針製作は、高度な技術が必要だ。
銀色のローマ数字が書かれた部分は文字盤と対照的な黒であり、文字盤全体を引き締めている。
プラチナ製の時計は加工がしやすく耐錆性にも優れているのが特徴だが、その希少性から値段は跳ね上がる。
むろん、本皮のストラップ。
ため息が出るほど、美しい腕時計だった。
「──随分張り込んだな」
ヴァンツァーは口端を吊り上げた。
その瞳は、腕時計を検分するようなものではなく、ただ純粋に美しく精密な機械を眺めることを楽しんでいるものだ。
「……分かるのか?」
「分かるさ。トゥールビヨンの機構だけでも一千万はくだらない。その上、プラチナ製でサファイアクリスタルの風防」
もっと安くて丈夫な素材はあるが、職人のこだわりが見える最高級ブランドの逸品だ。
軽く見積もっても五千万はするだろう。
「……」
「お前の貯金、吹き飛んだんじゃないか?」
機嫌の良さそうなヴァンツァーとは対照的に、シェラは面白くなさそうな顔をしている。
「どうした?」
早速時計を腕にはめながら訊ねる。
「……見破られて、なんだか悔しい」
「これから腕時計部門にも進出しようかと、勉強しているところだっただけだ」
未来の専門分野なのだから知っていて当然なのだ、と苦笑する。
それでもまだシェラは唇を尖らせている。
どうやら彼は、いつも自分が買ってもらっているときと同様の驚きを、ヴァンツァーに感じてもらいたかったらしい。
むろん、値段が高いから買ったわけではない。
店先で一目惚れし、実際に目の前で見て手に取り、「これしかない」と決めたのだ。
正直この腕時計の値段には眩暈がしたが、買えない額ではないし、あの男に渡すならばこれくらいのものでないと、と思いもした。
しかしまさか、たった一目見て値段も構造も見破られるとは。
口惜しくて仕方ない。
何より、この男はほとんど驚いていない──ように見える。
口の中でブツブツと文句を言っているシェラの内心の葛藤に気付いたのだろう。
ヴァンツァーはくすりと笑みを零した。
「──気に入ったよ。ありがとう」
宥めるように、そっとシェラの唇を啄ばむ。
「……本当に?」
恨めしげな表情ではあったが、僅かだが瞳に嬉しそうな色が見て取れる。
「お前の審美眼は確かだな。俺の好みをよく知っている」
褒められたシェラは、ふふっ、とくすぐったそうな微笑みを浮かべた。
「当然」
物言いは尊大だが、本当に嬉しそうないい顔をしている。
「でも、お前全然驚いてないな。それがやっぱり悔しい」
ふぅ、っとため息を吐くシェラ。
ヴァンツァーは、シェラの銀髪をさらりと梳いた。
「お前からの贈り物は珍しいからな。十分驚いているさ」
「全然分からないぞ。鉄面皮め」
きゅっと眉を絞る姿も可愛らしい──いや、シェラは真剣なのだ。
こんなことを言っては失礼に当たる。
「驚きよりも、嬉しさが勝っているだけだ」
まったくこの男は口が上手い。
弁解をしつつ、相手の機嫌の回復までも同時に図ってしまうのだから。
「……」
紫の瞳が僅かに揺れた。
しばらく見つめあうと、ヴァンツァーはそっとシェラの肩に腕を回して引き寄せた。
「──さて。どうやって返そうか」
シェラは目を瞠った。
「それじゃあ意味がない。私がいつももらっている分のお返しを」
「なら、もう少し上乗せしてもらおうか」
妍麗な美貌に、標的を落とすときに浮かべる笑みを乗せる。
それだけで腰から力が抜けるような、媚薬のような微笑み。
見つめられただけで頬が熱くなる、深く澄んだ藍色の瞳。
人間決して顔ではないが、度を越した美貌はすべてを凌駕する武器となるのである。
「……お前、そればっかりだ」
気恥ずかしくて、シェラは顔を逸らした。
どうやら自分はまんまとヴァンツァーの罠にはまってしまったらしい。
相手の言動を読んで言葉を選ぶのだから、本当に人が悪い。
「俺も不思議なんだ。こんなに即物的な人間ではなかったんだがな」
「……」
「──お前だけだ」
くらりと眩暈のするような、極上の笑みだった。
使い古された台詞と微笑みだということは頭で理解しているのに、思考が麻痺していくよう。
近付いてくる美貌を正視できないからか、シェラはゆっくりと瞳を閉じた。
やわらかい唇と、天鵝絨のような舌が重なり、絡み合う。
シェラは、抱き合うことよりも唇を重ねることの方が好きだった。
身体を重ねるときのように、ものを考えられなくなるほどの圧倒的な快楽を感じることはないが、ぬるま湯に浸かっているような心地良さがあるのだ。
ときに激しく奪われることもあるけれど、ゆっくりとシェラの快楽を引き出すような口づけが、一番好きなのだ。
口づけを交わして、抱きしめられるのが好き。
相手の体温と鼓動を間近に感じられる距離。
それが分かるだけの理性を保てる触れ合いが、何よりも嬉しいのだ。
「……もっと、ちょうだい……?」
鼻先と額をくっつけたまま、僅かに唇が離れたときにシェラはささやいた。
「俺も欲しい」
ヴァンツァーの返事にシェラが満足そうな微笑を返すと、ふたりは再び瞳を閉じた────。
END.