繰り返すまでもないが、シェラとヴァンツァーの日常は平和である。
たとえ日々シェラが顔を真っ赤にして叫んでいようと、時にヴァンツァーが胃痛と頭痛に悩もうと、月に一度はリィやルウやレティシアまで巻き込んだ大騒動を起こそうと、平和である。
大体において、この家ではシェラの機嫌さえ良ければ穏やかに時間が流れる。
とりあえず気性の荒い銀色の天使が世界の中心と化しているヴァンツァーは、シェラがにこにこ笑っていればそれでいいと思っている。
そういう空間を用意するのが、自分の仕事だ、とも。
今日、二月十三日は、特にシェラの機嫌が良い。
なんと彼は、同居して七年、結婚して二年目にして、初めてヴァレンタインデーというイヴェントを忘れなかったのである。
これは快挙だ。
いつもヴァンツァーが用意するばかりで、しかも大抵目を瞠るような高価なものばかりだったから、いつか自分もプレゼントをしよう、と目論んでいたのだ。
夕飯が終わると、シェラはいそいそとキッチンへ向かった。
いつもならば食後のお茶をヴァンツァーが淹れ、それを楽しむところなのだが、今日は違う。
しかも、ヴァンツァーには「キッチンに入ってくるな!」という厳命が下った。
機嫌が良さそうなシェラとは異なり、ヴァンツァーは不承不承といった感じでリビングへ向かった。
馬鹿みたいに広いリビングと大きなソファセットが迎えてくれるが、全然嬉しくない。
食後のお茶にかこつけてシェラに手を出していることがバレたのだろうか?
──いや、それはいくら何でも気付いているに決まっている。
それでは、この前欲しがっていたバッグをこっそり買っておいたのが気に入らなかったのだろうか?
──いや、それならあんな嬉しそうな顔はしなかったはずだ。
では何だろうか、と悩むヴァンツァー。
彼が難しい顔をして考え込んでいるときは、ほとんど間違いなくシェラが原因だ。
──実に平和である。
そんなことをあれこれ考えているうちに一時間ほど過ぎたが、シェラが入ってくる様子はない。
酒を飲むか、風呂に入るか、仕事をするかの三択だ。
ただ、「キッチンへ入ってくるな」という言葉が、どこまで厳格さを持たせたものかが分からないので下手に動けない。
本当にキッチンにだけ入ってはいけないなら、ダイニングは構わないはずだ。
それならば浴室へも行けるし、カウンターバーに酒を取りにも行ける。
それがダメだと仕事しかない。
しかし、いつも仕事を家ですると怒られる──究極の選択だった。
とりあえず、ヴァンツァーは端末を操作した。
画面の向こうにシェラの顔。
『何だ?』
「ダイニングは通ってもいいのか?」
『は?』
目を丸くしたシェラ。
「キッチンへは侵入禁止なのだろう? ダイニングは構わないのか?」
ヴァンツァーの言いたいことが分かったシェラは、クスクスと笑った。
『構わない』
ほっとしたヴァンツァーだ。
「酒は?」
自分だけ飲むと、「ずるい!」と怒られることがあるので、これも伺いを立てないといけない。
『あー……お酒はダメ。私も飲むから』
「分かった」
それでヴァンツァーは通信を切った。
消去法により、選ばれたのは風呂だった。
リビングと似たような広さのあるバスルームへと、ヴァンツァーは向かった。
途中通ったリビングには、甘い匂いが立ち込めていた。
チョコレートの匂い。
明日のヴァレンタインデーのものだろう。
しかし、ヴァンツァーは甘味を好まない。
「仕立て屋にでもやるのか?」
キッチンには入らないように注意して、ヴァンツァーは声だけ掛けた。
「あぁ、うん。今はチョコレートケーキを焼いてる。その後に、リィに食べてもらうブランデーケーキだ」
嬉々とした返事が返ってくる。
少々面白くないヴァンツァーは、とっととバスルームへ向かった。
確かに自分は甘いものを好まないが、仕立て屋や王妃にやるくらいなら自分にも作ってくれればいいのに、とつい思ってしまう。
王宮の湯殿かと思うような広さのバスルームは、ふたりで入っても広いが、ひとりだと余計に広い。
風呂の中でもあれこれ考えていたヴァンツァーは、すっかり長湯をしてしまった。
のぼせるほどではないが、一歩手前、といった感じだ。
頭と顔を、冷水のシャワーで冷やしてから出る。
途中覗いたキッチンには、もうシェラはいなかった。
まさか焼きたてのケーキを届けに行ったとも思えないが、あれは時々突拍子もないことをするから、一概には頷けない。
ちょっとした危惧を胸にリビングの扉を開けると、そこにはきちんと銀色の頭が見えた。
ほっとする。
また、そんなことでいちいち感情を波立たせる自分がおかしくもある。
シェラの隣に腰を下ろすと、「ずいぶん長かったな」と言われた。
まさか自分の分のチョコレートがないから腹が立った、とも言えない。
どう言い繕おうかと思案していると、「まぁいい」と呟いたシェラはガラスの器を差し出した。
冷凍室に入れてあったらしく、不透明になったガラス食器。
そのなかに、小指の爪くらいの大きさの黒い塊。
少々面食らったヴァンツァーだ。
「……麦チョコ?」
「馬鹿を言うな。何でコンビニで百円するかしないかのものを、お前に食べさせないといけないんだ」
頬を膨らませるシェラに、ヴァンツァーは口許を緩めた。
「──冗談だ。コーヒーだな」
コーヒー豆に、チョコレートをかけたもの。
「甘いものが苦手でも、ワインの嗜好品としていくつか食べるくらいなら、構わないだろう?」
ヴァンツァーは差し出されたチョコレートを見て、喉の奥で笑った。
「何だ。気に入らないのか?」
「いや」
それでもまだ笑っている。
腹を押さえているところを見ると、かなり痛いらしい。
「この器冷たいんだ。早く食べてくれ」
律儀にも氷の冷たさになった食器を両手で掲げているシェラ。
ひと粒つまみ、口に入れる。
チョコレートが溶け、濃いカカオの香りと僅かな甘み。
噛むと、コーヒーの苦さ。
コーヒーは洋酒に浸けてあるようだ。
すべての香りを殺さないようにするのは大変だったろう。
「──美味い」
素直に感想を口にすると、シェラはふわりと微笑んだ。
「当たり前だ。誰が作ったと思っている?」
「俺のために作ったから、じゃないのか?」
「私はいつでも、料理は食べる人のために作っている。お前だけ特別じゃないぞ」
「そういうことにしておこうか」
まだ何かを言いたい素振りのシェラをよそに、ヴァンツァーはソファを立った。
「どこへ行くんだ」
「ワインと合うのだろう?」
「持ってきてある」
指差したテーブルの上には、確かに赤ワインのボトル。
「これは、ヴァレンタインのプレゼントか?」
ヴァンツァーの言葉に、シェラは胡乱気な顔になる。
「一日早いことに対する厭味か? もうちょっとで日付変わるんだから、いいじゃないか」
「そんなことはどうでもいいんだ。ちょっと待っていろ」
言うと、ヴァンツァーはダイニングの方へと向かった。
何なんだ、と思っているシェラだったが、ほどなくして戻ってきたヴァンツァーの手にはラッピングされた木箱がひとつ──ただし、馬鹿でかい。
両手でやっと持てる、といった感じの大きさ。
成人男性ならば片手で持てるだろうが、赤ん坊くらいの大きさがあるのだ。
再びシェラの隣に腰を下ろしたヴァンツァーは、それをシェラに手渡した。
重いなどというものではない。
もちろん日頃から鍛錬を怠らないからひどく重く感じるわけでもないし、落としたりもしないが、それにしても重い。
「……これ、ワインなのか?」
「あぁ」
「見たことないぞ」
「隠しておいた」
「かく──」
絶句したシェラだ。
そんなことしなくても、黙って飲んだりしない、と声を大にして文句を言いたかった。
しかも、こんな大きなものをどこに隠しておいたというのか。
ワインセラーにこんなものがあっただろうか、とシェラは首を捻る。
毎回思うが、この男はいつの間に、こういうものを手に入れているのだろうか。
「開けていいぞ。俺からのプレゼントだ」
「どうせ大きいものでも高いんだ……」
ちいさくて高価な宝石類は山ほどもらったが、大きくても高いに決まっている。
ブツブツ言いながらも、美味しいお酒が大好きなシェラはいそいそとラッピングを解き、木箱の蓋を開ける。
きらきらと照明に反射して光るクッション材の間に、ボトルが一本。
もちろん、馬鹿でかい入れ物に見合うだけの、インペリアルだ。
無言でそのボトルを見ているシェラに、ヴァンツァーは声を掛けた。
「値段を訊かないのか?」
秀麗な口が、三日月型に吊り上げられている。
「……どうせ三桁は超えるんだろう?」
「もう一声」
「いっせ──?!」
目を剥いて飛び上がりそうになったシェラだが、ボトルを落とすと非常にまずい。
ヴァンツァーを射殺しそうなほどに、きつい視線で見つめている。
「俺も飲むんだから、いいだろう?」
シェラひとりのために金を使うと怒られると判断したのか、今年はふたりで楽しめるものにしたらしい。
とはいえ、実は億一歩手前の値段がするプレミアものだ。
「私ひとりで六リットルも飲めるか!」
「飲みたくないのか?」
「飲む! ありがとう!」
ぎゅっと箱を抱える姿を見て、思わず吹き出したヴァンツァー。
嬉しくてたまらないのに、もう少し普通の贈り物はできないのか、と怒りたいのだ。
相反するふたつの感情に挟まれ、本人が一番困惑しているようだ。
「どういたしまして。──まぁ、初めてお前からチョコレートをもらった記念だと思えば安いかな」
「そんなわけあるか……」
「本当にそう思っているんだが?」
「……暗に、イヴェントを忘れる私を非難していないか?」
「別に、何も考えなくていいぞ。その髪か首にリボンでもつけてくれれば」
「……」
箱を大事そうに抱えたまま、僅かに身を引くシェラ。
ヴァンツァーは薄く笑うと、瞳を閉じた。
「特別なものは何もいらない。お前がいればいい」
ソファに身を沈めると、目を合わせもせずに呟いた。
自分の望みが、一番叶え難いものであることを知っているからだ。
どうすれば叶うのか、まったく分からないのだから。
ゆっくりと瞳を開く。
視線の先には、シェラの作ったチョコレート。
「……知っているか?」
シェラに視線だけを向ける。
「カカオにも、コーヒーにも、媚薬としての効果がある」
ちょっと目を瞠るシェラ。
また馬鹿なことを言い出した、とでも思っているのだろうか。
何でもいい、というのがヴァンツァーの本音だ。
再び視線を外して目を閉じる。
結局、自分が与えられるものは限られている。
とりあえず、どれだけ自分が『シェラ』という存在に惚れ込んでいるのかだけは、しっかり伝えておかないといけない。
正直、手段は選んでいられないのだ。
「知ってる」
シェラは木箱をテーブルに置いた。
「何がだ?」
考え事をしていたヴァンツァーは、きょとんとしてシェラを見た。
「お前、自分で話を振っておいて……わざとか、それは?」
シェラがわざとらしく嘆息してみせる。
ガラス器を手に取り、そこからチョコを一粒そっとつまむ。
「だから、知ってる」
その一粒を口に含む。
そのままそれをヴァンツァーに食べさせてやる。
「……懐かしいシチュエーションだな」
場所はここではなく寝室であったが。
「今度は意地悪をしているつもりはないぞ?」
「意地悪のつもりだったのか?」
「お前が私をからかってキスしてくるから、同じようにからかってやろうと思ったんだ」
「そんなつもりは一度もなかったんだがな」
「あのときはそんなこと知らなかった」
シェラが少し顔を顰める。
「……そういえば、何だか刷り込まれていた気がするな……」
「刷り込み?」
まさか、と言いたげなヴァンツァーの顔が、演技としてもあまりに下手で腹が立つ。
わざとそんな態度を取っているのだ、と分かっているから余計だ。
「絶対に、『俺はキスが上手いぞ~、俺の唇は気持ちいいぞ~』って、刷り込まれた」
「それは悪いことをしたな」
「本当だ。──もういっこ」
更に一粒取ろうとしたシェラの手をやんわり掴むヴァンツァー。
「ワインは?」
「あとで」
シェラはうっとりと微笑んだ。
「──もうちょっと、酔ってから……」
このふたりの生活は、日常だろうとイヴェントだろうと、平和以外の何ものでもないようである──。
END.