それから閉園まで、キニアンは計三杯飲んだ。
ギムレットとシャンパン・カクテルで既に頭がふらついていたが、最後に飲んだカクテルはヴァンツァーとライアンが声を揃えて選んだものだ。
「えーと、じゃあ最後にアー君に飲ませるのはぁ」
うきうきとした様子でメニューを見ていたライアンは、とあるジンベースのカクテルに目を留めて笑いそうになるのを堪えた。
そして、隣のヴァンツァーに「パパさん、パパさん」と話しかけたのである。
指差された名前を見て、ヴァンツァーは「妥当だな」と答えた。
「……何ですか」
「やっぱり、これくらいのものを注文出来るようになってもらわないとね」
「……だから、何だって」
ヴァンツァーは、まだようやく成人、という感じの可愛らしい顔立ちの青年ウェイターを指で招き、その耳元に唇を寄せ、キニアンに視線を流した上で口にした。
「──『Kiss in the Dark 』」
彼くらいの美貌の男でないと、注文をすることが赦されないカクテルのひとつだ。
可哀想に、ウェイターの青年は耳まで赤くなっている。
たとえ彼に同性愛の気がなくとも、ヴァンツァーの美貌と美声でそんな言葉を耳元でささやかれた日には、うっかり恋が芽生えるか、怖くて逃げ出したくなるかのどちらかだろう。
上擦った声で「か、かしこまりましたっ」とその場から逃げるように立ち去った青年は、果たしてどちらだったのか。
ヴァンツァーにとっては、どうでもいいことである。
そして、注文を終えたヴァンツァーがキニアンを見ると、ぽっかりと表情が抜け落ちた顔になっていた。
「さすがパパさん。ノーマルのおれでも、『ちょっと抱かれてみてもいいかも♪』とか思っちゃった」
「シェラの前でやると、『恥知らず!』と罵られるがな」
「でも、シェラさんそういうの嫌いじゃないよね」
「うん。結構ベタな演出が好きだから」
「意外と耐性なさそうだもんなぁ」
「ない。時々心配になるくらい、ない」
「だよねぇ~。お兄ちゃんと一緒」
そして、ライアンもぽかん、としているキニアンに目を向けたのである。
「これくらい真顔で注文出来るようになったら、一人前かな~」
にっこり笑ってそんな無茶振りをしてくる男に、キニアンは「出来るわけないだろうがそんなもの!」と言いたげな顔になった。
「外で注文するのが恥ずかしかったら、作れるようになればいいんだよ」
「……は? 作る?」
「うん。教えてあげようか? あ、でも、おれよりパパさんの方が上手いと思うけど」
当然のような顔をして『おれシェイカー振れます』と言い出したライアン。
隣のヴァンツァーも、『男の嗜み』と言わんばかりの顔をしている。
そして、出てきたのは深紅のカクテル。
最上級のルビーを溶かしたような美しい色合いである。
「これ、チェリー・ブランデー使ってるから」
「……」
ぐっ、と詰まったキニアンである。
それは現在の彼に対してはほとんど禁句と言っても差し支えのない単語なのだ。
分かっているくせにわざと口にするライアンに恨みがましい視線を向けたが、にこにことした笑みを絶やさない美青年は、自分が注文していた『Little Princess 』を受け取った。
ヴァンツァーも珍しく、淡い菫色が美しいカクテルを注文したようだ。
その色彩が気になったのか、キニアンは訊ねた。
「……それは?」
「『Blue Moon 』。一番最初に、シェラに作ってやったカクテルだ」
「──『出来ない相談』、か」
「そう──……『愛さずにはいられない』ってね」
「パパさん詩人だね。それ、言ったんですか?」
「いや。言ったら飲んでくれないから」
「あぁ、そっか」
あはは、と笑うライアン。
「確か、別の国だとこのリキュール『Parfait Amour 』でしたよね?」
「さすがに、よく知っているな」
「『Parfait Amour 』──『Perfect Love 』か。シェラさん、愛されてるなぁ」
「今でも、これが一番好きだと言っている」
「意味、教えてあげたんですか?」
「教えてやらなかったら、自分で調べたらしい」
「それでも、一番好き?」
「あぁ。──そういうところが、可愛いなぁ、と思う」
愛しげに目許を緩める男に、ライアンは「ごちそうさまです」と笑った。
黙って話を聞いていたキニアンは、何だか難しい顔をしている。
「──これは俺の個人的な意見だが」
そう前置きしたヴァンツァーは、キニアンに向けて微笑した。
「お前が思っているよりずっと、カノンはお前のことが好きだと思うぞ」
「……」
いくら自惚れているふりをしても、相手の好意と嫌悪を嗅ぎ分けられないようでは行者などやっていられない。
だから、何だかんだ言っても、シェラが自分のことを好きだというのをヴァンツァーは知っている。
愛されているか、と言えばそれは疑問だが、間違いなく、この世の中の誰よりも深く想いを傾けられている。
そこには、王妃も仕立て屋も介在出来ない。
二十年以上の年月をかけて、築いてきた関係だ。
そこにどんな言葉がつこうと、人がどんな名前をつけようと、それはどうでもいいことだ。
大事なのは、シェラが自分の傍にいること。
自分が、シェラを想っていること。
そして、──シェラが笑っていること。
それだけで、世界に光が満ちる。
端正な容貌を疑問符でいっぱいにしたキニアンに、成人ふたりはすこし笑った。
「まぁ、そのうち分かる」
「お兄ちゃんは、素直じゃないけど分かりやすいよ」
「あれの本質を見抜けたお前になら、そう難しいことじゃない」
「……」
まだよく分からなかったが、キニアンはとりあえず頷いた。
「それじゃあ、まぁ、ここはひとまず。おれたちのお姫様に、──乾杯」
ちいさくグラスを合わせた三人は、最後のカクテルを味わうと、それぞれ恋人の待つ部屋へと戻って行ったのである。
翌朝目覚めたキニアンは、腕の中に恋人の寝顔があって、飛び上がりそうになった。
「──っ……」
慌てて口許を押さえるが、心臓は異様な煽り方をしている。
肌を突き破って心臓が飛び出しそうな感覚というものを、ここまで鮮明に、また強烈に感じたことはない。
しかし、そのおかげで脳に血液が送られ、昨夜のことが克明に思い返されてきた。
──……いやいやいやいや、それもマズいだろ……。
純真無垢な天使の寝顔を晒しているカノンの甘い声が、脳内を支配している。
女の子のように高くなく、また自分のように低くもないカノンの声は、とても耳に心地良い。
絶対音感を持つ自分が安らげる『音』というものは、意外とこの世の中に多くない。
顔はもちろんのこと、キニアンはカノンの声も大層好みだった。
それが甘く上擦る声でねだってくるのだから、たまったものではなかった。
「……やば」
朝っぱらから醜態を晒しそうな自分をどうにか抑えようと、キニアンはベッドを抜け出しシャワーを浴びようと試みた。
「……んっ……」
しかし、腕の中の天使が身じろいだものだから、思わず動きを止めた。
起こしたか、とふわふわの銀髪や長い睫を見つめていると、ぴくり、と瞼が震え、ゆっくりとその奥から宝石が現れた。
息を呑むほどに深い、極上の紫水晶。
寝起きのせいか、まだとろり、と濃い色合いのそれに、やはり昨夜のことが思い出される。
目を逸らせないでいるキニアンに、カノンはそっと微笑みかけた。
「……おはよ」
掠れた声に、キニアンは一瞬はっとした顔になって眉を寄せるとベッドを抜け出した。
「え……アリス……?」
身を起こし、不安気な声で呼ぶと、無愛想な恋人は手にミネラルウォーターのペットボトルを持って戻ってきた。
キニアンはぎょっとして目を瞠った。
「──カ、カノン?!」
こちらを見つめる紫水晶の双眸から、透明な雫が零れ落ちている。
はらはらと零れ落ちるものが何なのか、頭で理解する前に、キニアンはペットボトルを投げ出してカノンの頭を抱えた。
心臓は煽っているし、妙な汗はかいているし、手は震えているし、『狼狽』という言葉がこれほど似合う様子もないだろ。
「ちょ……どうしたんだよ。何で泣くんだ……」
端正な顔を情けなく歪め、その大きな手は必死にカノンの背中を摩っている。
頼むから泣き止んでくれよ、と頬を伝う涙を拭えば、カノンはたどたどしく口を開いた。
「だっ……て」
「うん?」
「……だっ、アリ……なくなっ……」
「落ち着けって。どうしたんだよ」
気位の高い女王様が泣くなんて、余程のことだ。
いや、そりゃあ昨日は昼も夜も泣き顔は見たが、そういうことではない。
「だって……アリス、いなくなっちゃうから……」
「──は?」
「おはよう、って言ったのに……何にも、言わないで、いなくなっちゃうから……」
「……」
「……ぼく、絶対、変なんだ、とおもっ……昨日のぼく、変だった、から……アリス、に、嫌われちゃっ……」
ふえぇぇ、と子どものように胸元にしがみついてくる天使に、キニアンは天井を仰いで盛大なため息を吐いた。
「……悪かった」
「アリス……?」
見上げてくる瞳も、睫も濡れていて、キニアンはその目許に唇を落とした。
「ごめんな」
なぜ謝るのかよく分からず、カノンは首を傾げた。
泣いて赤くなった頬に、キニアンは冷蔵庫から取り出したばかりのペットボトルを当てた。
「……喉、辛そうだったから」
「え……?」
「その……身体、大丈夫か……?」
ボソボソとした声の言わんとしていることを理解すると、カノンは少し頬を染めて頷いた。
「うん、平気」
「……そっか」
ほっとした表情になったキニアンは、よしよし、とカノンのふわふわした銀髪を撫でてやった。
気持ち良さそうにされるがままになって、ペットボトルに口をつけるカノン。
ごくり、と水を飲み干す喉の白さから、キニアンは目を逸らした。
「アリスも飲む?」
「いや、俺は」
「口移しで飲ませてあげようか」
「──はっ?!」
裏返った声に、カノンはくすくすと笑った。
露になっている細い肩が小刻みに震えている。
「お酒飲んでるから、喉渇いてるんじゃない? 水分摂った方がいいよ」
「……自分で飲む」
「遠慮しなくてもいいのにぃ」
「……」
カノンからペットボトルを受け取ると、キニアンは水を口に含んだ。
「間接キス」
「──っ!!」
思わず吹き出しそうになり、激しくむせる。
きゃはは、と笑っているカノンに、ごほごほと咳き込みながらキニアンは眉を吊り上げた。
「──カノン!」
「アリス真っ赤~。か~わい~♪」
「っ、おまっ!」
まだ苦しそうに咳き込んでいる恋人の頬に、カノンはちゅっとキスをした。
「──ごめんね?」
上目遣いでのその台詞に、キニアンは昨夜ヴァンツァーとライアンが言っていた言葉を思い出した。
確かに、『とりあえず謝る』というのは絶大な効果をもたらすらしい。
謝られてしまうと、それ以上怒れなくなる。
どうしていいものか感情のやり場に困ったキニアンは、カノンの上半身が晒されているのを見て目のやり場にも困った。
「……いいから、シャワー浴びて来い」
一応つけるものはつけていたし、身体を拭いてはやったけれど、昨夜はそのまま寝てしまってシャワーを浴びている余裕はなかった。
「一緒にお風呂入ろ」
「はぁ?!」
「だって、ぼく動けない」
「……」
「バスタブにお湯入れてきて。で、用意出来たらお姫様抱っこで連れていって」
「……」
「六十キロまでなら運べるんでしょ?」
「……」
黙り込んでいるキニアンに、カノンは頬を膨らませた。
「じゃあ父さん呼んでお風呂入れてもらう」
「──っ、分かった!」
自棄になって立ち上がるキニアンに、カノンは「最初から素直にそう言えばいいのに」とため息を吐いた。
キニアンがぶつぶつ言いながらバスルームへ消えると、カノンはばふっ、とベッドに寝転がり、シーツに顔を埋めてくすくすと笑った。
もちろん動けないというのは嘘だったが、多少身体がだるいのは事実だ。
けれど、その倦怠感を不快なものとは思わない。
むしろ、それは望むところだった。
「……ちょーしあわせぇ……」
小声で呟くと、戻ってきたキニアンに声を掛けられた。
このホテルは湯量が多いから、数分でバスタブに湯が溜まる。
早々にカノンを迎えに来たらしい。
「ほら。来いよ」
カノンは両腕を広げてベッドの横に立った恋人の首に腕を絡ませた。
次の瞬間にはふわりと身体が浮き上がって、目を瞠る。
「……ホントに持ち上がった」
「は? 何、お前やっぱり六十あるの?」
「ないよ! そうじゃなくて、六十以下なら平気って、冗談かと思ってた」
「はぁ? そんな下らない見栄張るかよ」
「アリス、すごいねぇ」
「……」
思いがけずきらきらした瞳で見つめられ、キニアンは若干たじろいだ。
この女王様は、とんでもなく頭が良いくせに人を見下したところがなく、褒めるときは心の底から全力で褒める。
「やっぱり男たるもの、惚れた女を抱き上げられることが恋人としての最低条件だよねぇ」
「……誰の台詞だ、それ」
「ん~、シェラ」
「……」
「恥ずかしがるくせに、抱っこされるの大好きなんだよ、シェラ。可愛いよねぇ」
「……まぁ、シェラさんは可愛いよなぁ」
とても四十の男とは思えん、と呟いたキニアンに、カノンはにっこり笑って訊ねた。
「ぼくとどっちが可愛い?」
危なげない足取りでバスルームへと入ったキニアンは、ゆっくりと湯の中にカノンを下ろした。
人魚姫のように湯の中から見上げてくる恋人に、彼は少し意地の悪い笑みを浮かべた。
「昨夜みたいに『好きだ』って言ったら、教えてやるよ」
これに対して、カノンは極上の天使の笑みを浮かべたのである。
「──生意気なこと言ってると、捨てるから」
「……悪かった」
半ば反射的に謝ったキニアンに、カノンは「はい、さっさと脱ぐ」と命じたのである。
風呂から出てしばらくすると、朝食に行こう、とシェラからカノンの携帯に連絡が入った。
部屋を出て、エレベーターホールへ向かうと、他のふた組と出くわした。
「おはよう、カノン」
「おはよ、ソナタ」
まずは双子が互いの頬にキスをして朝の挨拶をした。
次いで、カノンは両親にも同様にキスをした。
それを見ていたキニアンに、いつの間にか隣に立っていたライアンが耳打ちした。
「──昨夜は激しかったの?」
「──っ、はぁ?!」
他に客がいなかったのは良かったが、ホールに響き渡るような声にファロット一家全員が振り向く。
キニアンは慌てて「何でもない」と手を振ると、ライアンをホールの端まで引きずって行って小声で叱責した。
「な、何てこと言い出すんだ、あんた!」
「え、だって、お兄ちゃんの歩き方いつもと違うし、声掠れてるし。アー君、腰と脚の筋肉張ってるし」
「……」
化け物でも見るような目になったキニアンに、ライアンはにっこりと微笑んだ。
「そうか、そうか。よしよし、今日はお赤飯だね」
「……ちょ」
嫌な予感がしてライアンの服を掴もうとしたが、するり、と身をかわした男は小走りにファロット一家の元へと向かった。
「シェラさ~ん、あのね~」
「──ちょ、待て!!」
慌ててライアンを追いかけ、その口を塞ごうともがくキニアンの態度こそが、何よりも雄弁にすべてを物語っていた。
「そうかぁ。ふふふ。家に帰ったら、お赤飯炊こうねぇ」
「ちょ、シェラさん!」
「カノン、あとで詳しく聞かせてちょうだい!」
「うん、いいよー」
「っ、おい、カノン!!」
「あ、アー君。足腰辛かったら、マッサージしてあげるけど?」
「余計なお世話だ!!」
「じゃあ、お兄ちゃんしてあげる」
「──触るな、俺のだ!!」
息を荒くして、ぐいっ、とカノンの肩を引き寄せるキニアン。
全員がぽかん、とした表情で自分を見ており、次の瞬間彼は愕然とした表情になった。
「……ちょ、今のなしっ」
しかし、時既に遅し。
シェラとソナタは同じように相好を崩しているし、ヴァンツァーはちいさく笑っている。
ライアンは「かぁっこいい~」と手を叩いており、キニアンは恐々とカノンを見下ろした。
「今のなし? なしってどういうこと?」
「……」
にっこり微笑んだ美貌が恐ろしい。
「ねぇ、どういうこと? 何が『なし』なのかな? うん? 『俺のだ』ってやつ? じゃあ、キニアンはぼくの彼氏じゃないってことだよね?」
「いや、その」
「それとも、昨日のことをなかったことにしたいのかな?」
「そうじゃなくて、だから」
「なに? 何が『なし』なの?」
「だ、その……」
「うん?」
にこにこと天使の笑みを浮かべて糾弾してくる女王様に、しばらく視線を彷徨わせていたキニアンはがっくりと頭を垂れた。
「……ごめんなさい」
「反省してるの?」
「……はい」
「本当に?」
「はい」
「じゃあ、メビテレーニアン・ハーバーで愛を叫んでね」
「……いや、それは」
「出来ないの?」
「……」
「じゃあ、お姫様抱っこでパーク一周」
「……いや……」
「これもダメなの?」
「……」
「じゃあ、今日一日ぼくの言うこと何でも聞いてね」
それはいつものことなんじゃ、とは賢明にも言わなかったキニアンである。
そうして、朝食後、彼はカノンに手を引かれて開園前の『シー』へと向かったのである。
この女王様には一生敵わないのだろうな、と思いつつ、機嫌良さそうに笑っている顔はやっぱり可愛いから、まぁいいかな、とか思ったりもする。
「昨日結構乗っちゃったんだよねぇ」
「……怒涛の一日だった」
「不満?」
「お前以外とだったら、ごめんだね」
「……」
真顔で、さらりと口にされた台詞にカノンは目を丸くした。
どうしてこの男はこう、アンバランスなのだろうか。
そういう台詞が言えるなら、最初から口にしていればいいのだ。
それを、下らない見栄だのプライドだのでかっこつけているから、自分に怒られるのだ。
「しんどかったら言えよ?」
「え?」
「……無茶させた自覚はある」
だから今日は大人しくしてろ、とキニアンはふと目に留まった店舗に意識を向けた。
そして、「行くぞ」とカノンの手を引いたのである。
店の名前は『ロメオ・ジュエリー&ウォッチ』──その名の通り、アクセサリーや時計を扱う店だ。
富豪の邸宅を思わせる店内は、美しい紋様の刻まれた天井と煌びやかなシャンデリアが目を引く。
落ち着いた色調の店内には、子ども向けの安価なものから、ケースに入れられたそれなりの値段のものまで様々なアクセサリーや時計が置いてある。
腕時計だけでなく、掛け時計や置時計もある。
「アリス?」
不思議そうな顔で手を引かれるままについてきているカノン。
キニアンは壁際に置かれたアクセサリーなどには最初から興味がないようで、ガラスケースの一角に目を留めた。
オープンハート型でネズミを模しており、ピンクゴールドのやさしい色調が可愛らしいネックレス。
「いらっしゃいませ。プレゼントですか?」
「あ、はい」
にこやかな対応をしてくるキャストに頷きを返したキニアンに、カノンは菫の瞳を瞠った。
「……買ってくれるの?」
「嫌いか、こういうの?」
「ううん。そうじゃなくて」
「何だよ」
「……」
一瞬黙り込んだカノンは、「ねぇ、ねぇ」と恋人の袖を引いた。
「アリス、今日ぼくの言うこと何でも聞くんだよね?」
「……はいはい、聞きますよ。女王様」
「じゃあね、ぼく、こっちがいい」
「──え?」
指差されたところにあるのは、今見ていたものよりはずっと安価な、しかし、明らかにペアで身につけることを前提に作られたネックレスだ。
シンプルなシルバーのプレートに、スーパースターとその恋人が分かれて描かれている。
ふたつ合わせると、二人が火山を背に出逢う形となる。
キニアンはちょっと固まった。
彼はもともと、アクセサリーの類は身につけない。
嫌いなわけではないが、好んでいるわけでもない。
ほとんど、興味の対象ではないのだ。
ましてや、ペアでなんてつけようと思ったこともない。
「……これ?」
「うん、これ。それかこっち」
もうひとつ指差したのは同じようにプレート型で、男性用は黒地に白いネズミ模様が細かく敷き詰められているもの、女性用は男性用より少しちいさめで、白地に黒いネズミ模様が敷き詰められたものだ。
「どっちにしても、ペアなんだな……?」
「当たり前」
「……」
お揃いでなきゃ認めない、と言外に言い切る女王様に、キニアンは「こっちならいいぞ」と後から候補に挙がったものを示した。
「じゃあこっちに決まり!」
にこにこと微笑む女王様が財布を出そうとするので、キニアンは「何してんだよ」と止めた。
「ぼくの買ってくれるんでしょう? だったらぼくがアリスの分買う」
「馬鹿言うな。どっちも俺が買うんだよ」
「何で?」
「何でも。お前、普段女王様のくせに、そういうところ律儀だよな」
「……馬鹿にした」
「してないよ。褒めたの」
「……」
「いいから。財布しまう」
見下ろしてくる緑の瞳が『男を立てろ』と雄弁に物語っている。
ヘタレわんこのくせに、と思ったカノンだったが、買ったばかりのネックレスをそのまま店内でつけてもらったときはちょっとドキドキした。
「アリスのぼくつける」
「届くのか?」
「むかー」
「怒るなよ」
「ぼく怒っても可愛いもん」
「まぁそうだけどさ」
「……」
自分で言っておいてなんだが、カノンはキニアンの首にネックレスをかける手を一瞬止めた。
これだから天然というやつは性質が悪いのだ。
「……生意気」
ボソッと呟いたカノンは、「え?」と訊ねてくる恋人に「何でもない!」と答えて金具を留めた。
自分の首に下がっているものに触れ、キニアンは内心で『首輪みたいだな』と思って苦笑した。
しかし、別に悪い気はしないのでカノンに手を差し出した。
「とりあえず、またゴンドラでも乗るか?」
「──うん!」
嬉しそうに微笑んで手を握り返してくるカノンに、キニアンも珍しく微笑みを浮かべた。
そうして、身悶えたり、目を逸らそうとしても逸らせなかったり、うっかり叫びそうになって困っている女性キャストや数名の客のことなど一顧だにせず、ふたりは晴れ渡った空の下へと踏み出したのである。
END.