『マーメイド・ラグーン』を出たふたりは、昼過ぎから催される屋内ジャズバンドショーを見に行こう、と『メビテレーニアン・ハーバー』を回って『ウォーター・フロント』へ向かうこととなった。
その途中もカノンはずっとマカロンのストラップを見ており、まだまだカノンの身体能力については疎いキニアンに、「人にぶつかるぞ」と肩を引き寄せられて歩いていた。
そして、『ミステリー・アイランド』に差し掛かったところで、こんな声が聴こえてきた。
「──『海底二万五千マイル』、ただいま五分程度でのご案内となっておりま~す」
ちょうど『キャスト』と呼ばれるパークの従業員の横を通るときにそう言われたものだから、カノンとキニアンは顔を見合わせた。
「──乗るか?」
「──せっかくだからね」
そんなわけで、ふたりは螺旋状のスロープを降りて、乗り場へと向かった。
「ここも五分か」
「歩いてる時間が待ち時間だね」
「ファスト・パスが発行されないくらいだからな」
「うわ、もう着いた」
土日に来ようものなら一時間待ちは当たり前のアトラクションなだけに、早々に乗り場に着いたふたりは苦笑した。
「あれ。しかもこれ貸切じゃない?」
カノンが大笑いして潜水艇を模した乗り物を指差している。
これは通常ふたり掛け三組で乗るアトラクションなのだが、あまりにも空いているためひと組ずつキャストが誘導している。
歩いてきた流れでそのまま潜水艇に乗ったふたりが座席に腰掛けると、外から扉を閉められた。
海底探検の志願クルーとなって神秘の海底世界を探索するこのアトラクションは、小型の潜水艇の窓部分が二重になっており、その間に気泡を生むことによって海底へ沈んで行く様子を表現していた。
薄暗い海底を、手元に装備されたサーチライトで照らしながら進んで行く。
──クルー諸君。どんなちいさな異変も見逃してはならない。
「……無茶なこと言うなぁ」
スピーカーから流れてくる台詞に、キニアンが冷静な突っ込みを入れる。
ただでさえ薄暗い海底、ちいさなサーチライトの明かりくらいでは何かを見つけることなど不可能に等しい。
それでも、ここには隠れネズミやら人魚やらがいるということで、それを探すために何度も乗る人も多い。
「──なぁんかさぁ」
間延びした声でそう呟いたカノンは、ぴとっとキニアンの肩に頭を預けた。
びっくりしたキニアンは、サーチライトも海底探索もそっちのけ。
銀色の頭を見下ろした。
「こう薄暗い中でふたりだけだと、──やりたい放題だよね」
「──は?」
「だぁってさぁ」
肩に頭を預けたまま、腰にきゅっと抱きついてくる女王様に、思い切り心臓が跳ね上がった。
静かに揺られている潜水艇の中が、異様な熱気を帯びている気すらする。
「ね? このまま、キスだってできちゃうよ……?」
言って顔を寄せてくるカノンに、「待て待て待てっ!」と内心叫んではみたものの、声にならないキニアン。
とりあえず、細い肩を押し返してみた。
「……こういうところでそういうのは、言うのもするのもマナー違反だろうが」
「え~? だって、別に誰も見てないしぃ。えっちしよう、って言ってるわけじゃないんだしぃ」
「え────おま、な……っ!」
声がひっくり返りそうになり、慌てふためくキニアンはカノンに笑われた。
「暗くても、アリスが真っ赤なの分かる。か~わいい~」
ふふっ、と笑って、またもやきゅっと抱きつく。
──っ、何なんだこの生き物は! こんなやつ知らないぞ!!
キニアンがそう思った途端に、ガタン、と大きく揺れる潜水艇。
余計に抱きついてくるカノンの腕の力が強くなって、突然の揺れとは別のところで心臓がざわつく。
──艦長! 何かに捕まっています!!
──振り切れ!!
必死な声が、スピーカーから聴こえて来る。
どうやら、潜水艇が巨大イカに捕まってしまった、というシチュエーションらしい。
──捕まってるのは俺だけどな! 振り切れって、無茶言うな!
キニアンがそんなことを考えていると知っているのかいないのか、カノンはゆっくりと顔を上げた。
「ね……? ちょっとだけ……」
潤んだ菫の瞳が見上げてきて、キニアンは思わず息を呑んだ。
けたたましい警報が鳴り響いているが、むしろそれは己の理性に対する警鐘のような気すらしてくる。
深い紫に魅入られたように、指一本動かせない。
心臓はドクドク異様な音を立てて血液を送り出しているし、感情は巨大イカに襲われているこの潜水艇よりもずっと乱れた動きをしている。
しかし、頭の中では「──いやいやいや、ダメだろう、こんなところでそんなこと!」とぶんぶん首を振っている自分がいるのだ。
──……何と言う拷問。
首に腕を回してきたカノンが、そっと瞳を閉じる。
長い銀の睫毛の奥に、湖畔に咲く菫が隠された。
ビスクドールのような綺麗な顔が、アトラクションの青や緑のライトに照らし出される。
息をしていないのではないか、という気にさえなって、震える指先で赤い唇に触れようとして慌てて指を握りこむ。
──艦長! メイン・エンジン、オーバーヒートしそうです!!
──あーもう黙ってろ! 俺の理性がオーバーヒートしそうだ!
まだ冷静に突っ込むだけの余裕があるキニアンだったが、正直そう長くはもたない。
無口だの無表情だの無愛想だの言われても、自分だって健全な高校生なのである。
欲求を感じないわけではない。
人前で抱き合ったりキスをしたりということはとてもではないけれど出来ないが、好きな子に触れたい、と思うことだってある。
しかも、付き合って半年も経たない恋人に薄暗がりの中で迫られて、何もしないでいられる方がおかしい。
しかし、勢いのままに行動してしまうには、これが他に誰もいない室内ではなく、アトラクションの内部なのだ、ということが気になって仕方ない。
あと一分もしないで、このアトラクションは終わってしまうのだ。
そうなったときに、外に出られないような状態では困るではないか。
──これは……! 何かが潜水艇を押し上げています!!
「──……っ、ほら。もう、終わるぞ……」
どうにか、細~く、細~~く残った理性の糸を必死で縒り合わせて、キニアンはカノンの肩を押し返した。
押し返したはずの肩を引き寄せようとしている自分と戦うのが、こんなに苦しいとは思わなかった。
あと三分あったら危なかった。
キスだけで済ませられていたかどうかも分からない。
「つまんないのー」
ぷっくりと頬を膨らませたカノンは、座席に座り直すとふいっ、と横を向いてしまった。
「……つまんないじゃないだろうが」
「せっかく空いててひと組だけだったのに」
「アトラクション楽しめよ」
「いいじゃん、別にキスくらい。他のカップルだってやってるよ」
「あのなぁ」
「ふん、だ。アリスやっぱりぼくのこと好きじゃないんだ」
「そういう問題じゃないだろうが」
「知らないっ!」
──まだまだ、海底は謎に満ちている。諸君の今後の活躍に期待しよう。
キャプテン・ニーモのその台詞で、『海底二万五千マイル』は終わりを告げた。
潜水艇の外に出ると、カノンはスタスタと歩いて行ってしまった。
「待てよ」
聞いちゃいないカノンは振り返りもせずにズンズン出口へと向かっていき、キニアンは「何なんだ」とぼやいて頭を掻いた。
──まったく……俺にとっては、こいつの方がよっぽど謎だ……。
はぁぁ、と身体中の空気を吐き出すようにして、ため息を吐いたキニアンなのであった。
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