World is Mine

「──カノン!」

平日で空いている上に、人並み外れた身体能力を誇る銀色の少年は、歩いているように見えるというのにものすごいスピードで人の間をすり抜けて行く。
こちらも運動神経には自信があるキニアンだったが、しかし人の気配まで察することは出来ず、また現在たったひとりしか視界に入れていないために人とぶつかりそうになることもあり、なかなか距離が縮まらない。

「待てって!」

軽く舌打ちして駆け出し、ようやくのことで追いついて肩に手を掛ける。
睨みつけてくる菫の瞳に、まったく思い当たることがないと言い切る空気の読めない少年は、その端正な容貌に困惑の表情を浮かべた。

「だから、お前は何で怒ってるんだ」
「別に怒ってない。むかついてるだけ」
「……一緒だろうが」
「じゃあ、イラッとしてるだけ」
「だから──……俺、お前に何かしたのか?」

ため息とともに呟かれた言葉に、カノンは打って変わってにっこりと満面の笑みを浮かべた。 キニアンの苦手な、『作った』笑みだ。

「言わないと分からないのかな?」
「……何だよ」
「アリス、童貞でしょう?」
「……」
「童貞だよね? 童貞だよ、間違いない。もう、ぼく今度からアリスのこと『チェリー君』って呼ぼうかな」

確信に満ちた言葉に、キニアンは言葉を失った。
まだ陽は高い、というか正午だ。
しかも気温は夏日と来ている。
照りつける太陽も眩しい真っ昼間に口にする台詞ではない──少なくとも、キニアンの語彙の中には含まれていない。
もう、眩暈すら起こしそうだった。
『王子』だの『天使』だのともてはやされる少年の実態がそんな可愛らしいものでないことは重々承知しているキニアンだったが、いくらなんでもこれは予想外だ。
可愛い顔して、こんな明るいうちから何てことを言うのだ。

「……おま……ほん……」

言いかけた言葉を最後まで紡ぐことが出来ず、キニアンは地面に座り込みそうになった。
この兄妹は、言葉を飾るということを知らないのか。
もう、これは正直とか嘘が吐けないとか、そういうレヴェルの話ではないと思うのだ。
魂ごと吐き出すような深いため息をついた少年に、カノンは腕組みして言ってやった。

「じゃなきゃ不感症」
「……お前……頼むから口閉じてくれ」

心からの願いだったが、カノンはキニアンを睥睨したまま言葉を続けた。

「自分で言うのもなんだけど、ぼく可愛いんだよ」
「……」
「すっごい可愛いと思うんだよ」
「……」
「なのに、何? おかしくない?」
「……」
「ぼく可愛くないのかな?」
「……」
「ねぇ。可愛くない?」
「……いや」
「あのさ。『いや』って何? 可愛いの? 可愛くないの?」
「……かわ、いい……です」
「でしょう?」

公衆の面前で恋人のことを『可愛い』と言わされたキニアンは、気の毒なくらい縮こまって顔を赤くしている。
彼は硬派な男なのだ。
しかも、真面目で素直なピカピカの高校ニ年生・十六歳。
恋人に向かって公衆の面前で愛をささやけるほど、まだイロイロ乗り越えていないのである──ヴァンツァーが同じ歳だった頃のことは気にしないでいただきたい。
けれど、カノンは恥ずかしくて死にそうになっている彼氏のことなどお構いなしに、ジャズバンドショーが催される『ブロードウェイ』へと歩を進める。

「あー、もう、ぼくシェラをこんなに羨ましいと思ったのなんて、初めてかも知れない」

ぷんぷん怒っている美貌の少年は、ぞろぞろと『ブロードウェイ』へ入っていく人の最後尾に並んだ。
長身の少年は、周囲をきょろきょろ見回しながらカノンの後ろに並ぶ。
しかし、本人が気にしているほど周りの人間は他人のことなど見ていない。
ましてや、このような『夢の国』では自分たちが楽しむことに一生懸命で、正直他人のことなどどうでもいい。
けれど、若さゆえかそこのところに気づいていないキニアンは、早いところこの女王様の機嫌を直さないと、外を歩けなくなるようなダメージを与えられるのではないか、と危惧していた。
ピンクのマカロンで機嫌を直したと思ったのに、本当にこの女王様の考えることはよく分からない。

「アリス」
「……はい」

何だか、本当に下僕に命令を下す女王様のようなカノンの声音に、キニアンは思わず背筋を伸ばした。

「エスコート」
「……はい?」
「エスコート。ここはブロードウェイのシアターなの。紳士淑女が集まる場所なの」
「はぁ……」
「分かったら、はい。エスコート」
「……」

顎を逸らしているカノンに、きょとん、とした顔を向ければ、思い切り『信じらんない』と瞳が丸くされた。
人として尊敬出来るかどうかは別として、ヴァンツァーを見て育ったカノンにとって、女ひとりエスコート出来ないような男など男ではないのだ。
ケリーでも、レティシアでも、やろうと思えばいくらでもスマートに女性をエスコート出来る。
カノン自身も、ソナタを相手にすればリードする立場に立つのだ。
しかし、そこは天才と名高い頭の回転の持ち主。
自分の恋人はまだ高校生なのだ、と思い、そこはぐっと堪えることとしたのだ。

「はいはい、分かりました。アリスにはハードル高いよね」
「……」

何だかものすごく馬鹿にされた気がしてさすがにむっとしたが、しかし当たっているだけに何も言い返せない。
常以上の仏頂面になっているキニアンに、カノンは手を差し出した。

「とりあえず」
「……何だ、これ」
「このシチュエーションで手ぇ出して握手するわけないでしょう? 手を繋ぐの!」
「……あぁ」

そうか、と呟いてカノンの手を握る。
何で全部言わないといけないの、と嘆くカノンに、これまた何も言い返せず、シアターに入っていく人の流れに沿って歩く。
会場内に入って思ったが、これは本当に『紳士、淑女の集まり』といった感じの場所だ。
天井は高く、分厚い緞帳が下りた舞台の周囲は壁画に彩られている。
ふたりが通されたのは一階席だったが、二階席もある。
超満員のシアターといった感じだ。

──ジャズバンド、ねぇ。

内心でキニアンは呟いた。
このテーマパークへ来たのは初めてではないが、このジャズバンドショーを見るのは初めてだ。
それというのも、彼自身が音楽に携わっているがために、『遊園地のジャズバンド』というイメージにどうも好感を持てないでいるのである。

「これ、ちょーかっこいいんだよ」

隣に座っている女王様は、まだ開演十分前だというのに瞳をきらきらさせている。
余程楽しみなのだろう。

「……音楽、好きなのか?」

とりあえず当たり障りのない会話を、と思い、そう訊ねた。

「うん。父さんもピアノ弾くし、とにかくこれはちょーかっこいいの。多少の当たりはずれはあるけど、ぼく、これのためだけにここに来てもいいくらい好き」
「……ふぅん」
「何より、──『世界のネズミ』がヤバい。あれは確かにスーパースターだよ」
「あぁ、そう……」

どうでも良さそうな返事をする恋人も気にならないのか、カノンはそわそわして開演を待った。

──そして。

ドラムのビートから『It Don’t Mean A Thing (If It Ain’t Got That Swing) 』の演奏が始まり、赤い緞帳に音譜の明かりが当てられ、ゆっくりと幕が上がっていく。
『ビッグバンド』と呼ばれる、サックス、トランペット、トロンボーン、ピアノ、ベース、ドラムから成るバンドの生演奏に、キニアンは緑の目を丸くした。

「ね、かっこいいでしょう?!」

演奏が始まった当初から大興奮の面持ちで手拍子を打っているカノンに、こっくりと頷きを返す。
確かに、これは悪くない。
そして、舞台の両袖からタキシード姿の男性シンガーがやってきた。
これにダンサーとネズミが混じる頃には、もうすでにカノンのテンションはMAXだ。
そして、曲が終わって観客席から盛大な拍手が送られると、男性シンガーのひとりがネズミとともに残って次の曲の紹介をする。
やがて登場したのは、素晴らしいプロポーションの女性シンガー。
彼女の伸びやかな声によるブルースは、その艶と相まって観客席を魅了した。

「ん~。初回からこれだと、夜はもっと期待出来るかも~」

わくわく、といった感じでいるカノンに、夜もまたこれを見るらしい、と想像するキニアン。
予想していたものよりも遥かに質の高い演奏なので、その点は安心した。
次は舞台下手のタップダンサーにピンスポットが当たり、列車の乗り場風景へと場面が変わる。
銀色のコートに身を包んだ美女たちによる歌とダンスに、カノンの目は釘付けだ。
そして、その後はこのテーマパークのキャラクターたちによる歌やダンスが披露され、カノンは始終「可愛い~」と手を叩いている。
何だか舞台よりもカノンを見ている方が楽しくて、でもあまり見ていると怒られそうだったから、キニアンはくすくす笑って舞台に目を戻した。

「──あっ」

ショーが進んで行き、男性シンガーがバンドのメンバーを紹介するくだりになると、カノンはちいさく声を上げた。

「……今日はあの人が歌うんだぁ」

ぽぉ、っと頬を染める様子に面白くないものを感じたキニアンに、こちらを向いたカノンがにっこりと笑った。

「あのね、次ね、『All of Me』なの」
「はぁ……」
「もうね、ぼくね、これ聴きに来たの」

まるで舞台にいる男性シンガーに恋でもしているような瞳に、『むかっ』としたキニアンだった。
その顔には、

──歌はともかく、あれくらいのピアノなら俺だって……。

と書いてある。
父親に叩き込まれているのはチェロだったが、ピアノの腕もそうそう悪いものではないのだ。

「──All of me. Why not take all of me?」

男性シンガーの声が聴こえた途端、隣からちいさな悲鳴が上がった。
菫の瞳は見たこともないくらいにきらきらしていて、後から聞いたところによると今日の『All of Me』は「ちょー当たり」だったらしい。
それからショーが終わるまで、カノンは興奮しっ放しだった。
ネズミがタップを踊り、ドラムまで叩いたときにはさすがのキニアンも驚いた。
別のネズミがやっているならともかく、同じネズミが踊って叩くのだ。
確かに、これは『スーパースター』だと言うだけのことはある。
大盛況のうちに幕が下り、客席に明かりが戻ると観客たちは退場していった。
カノンとキニアンも、その流れに沿って外に出る。

「あーもー、ちょー興奮した!! 絶対夜も見る~!!」

決めているらしいカノンは、「いいでしょう?」とキニアンの袖を引いた。

「……別にいいけど」
「何か怒ってる?」
「別に」
「あっそう。あー、興奮したらお腹空いたー」
「……」

不機嫌そうな顔をしていることは自分でも分かっているのだが、それをさっくりスルーされると、それはそれで腹立たしい。
何を食べようかなー、と思案しているカノンに、キニアンは訊ねてみた。

「機嫌直ったのか?」
「機嫌?」
「さっきまで怒ってただろう」
「……──あぁ」

明らかに『今思い出した』という反応をしたカノンは、にっこり笑ってこう言った。

「メビテレーニアン・ハーバーのど真ん中で『All of Me』歌ってくれたら、機嫌直してあげてもいいよ」
「──はぁ?!」
「じゃなかったら、ぼくホテルの部屋に戻ってるから、メビテレーニアン・ハーバーから客室のぼくに向かって大声で『愛してるよ』って言ってくれたら、赦してあげる」

にっこりにこにこ邪気のない──ように見える──笑顔でそう言い放つ女王様に、キニアンは青くなった。

「……本気で勘弁してくれ」
「じゃあ赦さな~い」

ふいっ、とそっぽを向くカノンに、キニアンは必死に「絶対無理。死んでもやらない」と繰り返した。

「つまんないのー。父さんも、ライアンだって喜んでやると思うんだけど」
「……人それぞれだろう」

余程、「一緒にするなよ」と言いたくなったキニアンだったが、一応そこは言葉を選んだ。

「世界の中心で愛を叫んでもらうのって、夢なんだけどなぁ」
「だから、何でお前の要求はそう一々ハードル高いんだよ」
「そんなことじゃ、立派な下僕になれないよ?」
「……それ、本気で言ってるんだよな」
「うん、もちろん」

これまたにっこりと天使の微笑みを浮かべた少年に、キニアンはがっくりと肩を落とした。

「まぁいいや。ぼくってやさしいから。──とりあえず、手」
「え?」
「手。繋ぐの」
「……」
「これくらい出来るでしょう? 手ぇ繋ぐのも嫌だとか言われたら、ぼく心底傷つくけど」
「……」

そんなヤワな男かよ、と思いはしたが、しかし本当に傷つかれると困る。
なので、大人しくカノンの手を取った。
満足そうに笑った女王様は、「お昼はパスタね」とキニアンの手を引いた。
なんだか、あと半日とてもではないが身体がもちそうにないキニアンだった。  




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