──夢を、見る。
あの男を、喪う……夢。
かつて、己の手にかけた────夢。
「────……っ」
夜中に、幾度となく跳ね起きる。
そうして、ほとんど無意識のうちに……手に、目を落とす。
「……」
荒い呼吸の中見た両の手が一瞬、赤く染まって見える。
真っ赤に、血塗られた手。
「────」
悲鳴を上げそうになり、声を呑み込む代わりに涙が零れた。
涙が血を洗い流してくれたのか、次に見た手は生来のもので……。
「……っ……」
思わず、ぐっと拳を握った。
この手が汚れていることなど、とうに分かりきっている。
殺した人間の数など、数えたこともない。
あとから思い返したことも。
「──く……っ……」
それなのに、涙が止まらない。
強く握りすぎた拳の震えが、止まらない。
爪が食い込むほどにきつく、……いっそ、砕けてしまえばいい。
そうすれば──この手はもう、誰も傷つけない。
「──シェラ?」
聞こえた声に、びくりっ、と全身が震えた。
物静かな男の声は、低く、甘く……室内の静寂を破るほどの力など持っていないようなのに。
なぜだか、心臓を鷲掴みにされたようだった。
長身が起き上がる微かな音すら、耐えられないほどに大きく聞こえる。
「……」
逃げ出したいのに、微動だにできない。
「シェラ」
ほんの僅か、左に顔を向ければあの男がいる。
けれど、動けない──動きたくない。
それを分かっているのだろう男は、何も言わない。
ため息すらも零さない。
それが、どれだけ私を責めるか、知っているから。
──けれど。
「……何か、言え」
搾り出すように呟いた声は、ひどく掠れていた。
正面を見据え、手に力を込めたまま、カチカチと音が鳴るほどに合わない歯の根の奥から。
「──何とか言え!」
静寂を求めながら、沈黙に耐えられなくなるのはいつも自分。
「……こっちを向け」
浅く吐かれたため息に、安堵しながら胸を痛める自分がいる。
呆れて、責めて……それでいいはずなのに、どうしてこんなに泣きたくなるのだろう。
「シェラ」
「……」
何とか言えと言ったのは自分なのに、顔を見られない。
脳裏では、繰り返し同じ情景が流れている。
何度も、何度も。
「……っ」
一度でたくさんなのに、夢も、現実も、私を解放してはくれない。
「──シェラ」
焦れたのか、力強くて大きな手が、私の手を取る──私の、赤い、手。
「──やっ」
「シェラ」
「や……やだ、はな……っ、放せ!!」
「シェラ」
「やだ……だめ……やめ、ろっ」
思いきり暴れてもびくともしない、強い力。
必死で逃げようとしているのに、まるで子どもを相手にしているみたいに。
取られた手首が熱くて、また、頭の中に映像が流れ込んでくる。
「──あ……っ、く……や……」
熱い……振り切りたくなるほどに熱い手。
けれど逃がしてはもらえなくて、すさまじい力で握られた手に、さらに熱が触れる。
「────っ……!!」
熱い、赤い、────生命の水。
「 」
自分の悲鳴が煩くて、あの男が何を言っているのかも分からない。
心臓の音が煩くて、この音が強い分だけ速く、あの男の命が喪われていく気がした。
だったら止まればいい。
こんな心臓なんかいらない。
こんな音は、聴きたくない。
あの男の命を奪ったこんな心臓なんか、……いらない。
「シェラ」
鋭い舌打ちとともに、新たな熱に唇を塞がれる。
「──っ……」
抵抗しても、掴まれた手も、押さえられた顎も、溢れる涙も、何ひとつ自分の思い通りにならなかった。
息ができないくらい舌を絡められ、痺れていく頭で、……これもいい、とぼんやり考えた。
そうだ。
このまま、呼吸が止まってしまえばいい。
そうすれば、もう夢など見ない。
この熱も感じない。
──もう二度と、この男を喪うこともない。
「……」
それなのに、楽になれると思ったのに、その次の瞬間に熱から解放されてしまった。
手首と、顎を捕らえる手の熱はそのまま。
呼吸を奪っていた熱が、離れていってしまった。
「……や……もっと」
もっと、奪って。
何も考えなくていいように。
何も見なくていいように。
「──殺してやれば、楽になるのか?」
静かな声だった。
静か過ぎて言われた言葉の意味が一瞬分からず、僅かに首を傾げた。
「俺が、この手でお前を殺せば……お前は楽になるのか?」
「……」
ゆっくりと紡がれた言葉に、意識がはっきりしていく。
目を瞠り、眼前の美貌を凝視する。
「……ヴァンツァー……?」
暗い寝室では紺に見える瞳は真剣で、それを除いても、冗談でこんなことを言う男でないことは知っている。
「それでお前が楽になるなら……それが、お前が俺に与える罰なら」
甘んじて受け入れよう。
そう、この男は言った。
「お前を殺して、お前がいない世界で生きろ、と言うなら」
そうしよう、と微笑む。
「……」
なぜだか、胸が締めつけられた。
また、勝手に視界が歪む。
「泣かせてばかりだな」
苦笑して、涙を拭ってくれる指がやさしい。
その手に触れたくて、──自分の手が汚れていることに気づいて手を止めた。
けれど、この男はそんな私の手を取り、指先に口づけた。
「……やめろ……」
「なぜ?」
「……」
「血塗られているから、か?」
「──っ、そうだ!! だから──」
「俺を、救った手だ」
「……ヴァンツァー?」
一瞬こちらの瞳を覗きこむと、再び私の手に唇を押しつけた。
「赤く染まった……だからこそ、俺を救うことのできた、手だよ」
「……」
黙り込んだ私に、そっと微笑みかける。
妖艶な美貌が、ほんの少し、幼く見える瞬間。
無条件に母親を慕う、子どもの瞳だ。
「洗い流す必要も、綺麗でいる必要もない。そうでなければ、俺は今こうしてここにいない」
「……」
「それでも、お前が苦しいと言うなら──今度は、俺の番だ」
「……」
やわらかく、抱きすくめられる。
触れ合う肌が、あたたかい。
「俺のものに、なるか?」
「……え?」
「誰にも触らせない。……俺だけのものに、なるか?」
甘い声でささやかれる、甘美な誘いの言葉。
このまま流されてしまいたくなるような、心地良い声とぬくもり。
ふと、思いついた言葉を口にした。
「……お前は?」
「うん?」
「お前は……私のもの……?」
言った途端、耳元でくすくすと笑われた。
「今更」
そのまま、こめかみに音のないキスをされた。
「……それは、私がお前を」
──殺したから?
暗にそう訊ねた私に、ヴァンツァーは言った。
「初めて逢ったときから」
「初めて……?」
「そう。初めて、お前を見たときから」
「私のもの?」
「お前のもの」
「……そう……」
ぼんやりと呟いて、そうなのか、と胸中でまた呟く。
「……私はまだ、お前のものじゃないのか?」
「さぁ?」
「だって、さっき」
「あれは、俺がそう思っている、というだけだ」
「……」
不思議そうに見上げると、藍色の目許が笑みを刻んだ。
「他の誰にも触ることができなければ、俺にしか触れることができなければ、俺のものになったみたいだろう?」
「みたい?」
「そう。俺が、勝手にそう思っているだけだから」
「……でも、お前は私のものなのだろう?」
「それも、俺が勝手にそう思っているだけだ」
「……」
随分、難しい顔をしていたのだろう。
眉間にも、唇が落とされた。
「……」
ヴァンツァーのぬくもりが離れていったそこに、触れてみた。
自分の体温以外、何も残ってはいない。
当然だ。
当たり前なのだけれど、やはり、顔を顰めた。
「シェラ」
呼ばれて、ほんの少し後ろに顔を向けた。
「どうする?」
──お前のいいように。
それは、この男の口癖のようなもの。
まるで、自分の意思などないかのように、この男はよくそう言う。
「……お前は?」
「俺?」
「お前は私を……」
──殺したい?
口にすることはできず、けれど瞳でそう訊ねた。
ヴァンツァーは、見慣れたやさしい顔で微笑んだ。
「それでお前が、楽になれるなら」
私だけに見せる、やさしい……けれど、どこか寂しそうな微笑。
だから訊いた。
「……私がいなくなったら、寂しい……?」
「寂しくはない」
「……」
「ただ──……苦しい」
「……」
「今のお前と同じ。生きていることが、つらくなる」
「……」
妙な顔をしていたのだろう、くしゃり、と髪を撫でられる。
「安心しろ。お前を殺して、俺も死んで……楽になろうなんて思っていないから」
「楽……?」
「俺まで死んだら、今と同じだ」
「……そうなのか?」
「そうだよ。それでは結局、俺はお前の苦しみを理解できない」
「……」
「お前を殺して、苦しんで、自分を責めて、悪夢にうなされて……お前が今、どれだけつらい思いをしているのか分かって、それでも生きて……そうしてやっと、お前のところに逝ける」
「……」
短くはない沈黙。
静まり返った室内に、「すまない」というちいさな声が響いた。
「ヴァンツァー……?」
「もう、いいよ」
「……何を言って……?」
「俺はもう、十分だから」
「……」
「お前は、どうすれば楽になれる?」
「……」
ゆったりと唇を持ち上げ、潤んだようにも見える藍色の瞳に、目の奥を覗かれる。
そっと頬に触れてくる手が、あたたかい。
躊躇ったあと、その手に自分の手を重ねてみた。
「シェラ?」
綺麗な、手だ。
この男も、数え切れないほどの人間の血を浴びている。
「……お前の手……好きだよ」
いつだって自分を包み込んでくれる、大きくてあたたかい手だ。
その手を見つめながら、ちいさく笑った。
「シェラ?」
不思議そうに問いかけられて、また、笑った。
「変、かな?」
「何が?」
力を抜き、背後にある身体にもたれる。
背中からも、私より少しだけ低い体温を感じ取ることができた。
「……どれだけ苦しんでも、毎晩昔の夢にうなされても……今、こうしてお前と一緒にいることを嫌だと思ったことは、一度もないんだ」
「……」
少し誇らしげな気持ちになって、言葉を続けた。
「私は、お前を責めたことはないよ」
「……余計悪い。俺のせいにしておけと言っただろう?」
「ん。でも……」
言葉を切って、身体の向きを変える。
ベッドの上で膝立ちになり、向かい合う。
精悍な美貌を見下ろす。
額にかかる黒髪を指で払って、そのまま、滑らかな頬に両手を這わせる。
「──……抱いてくれ」
唇を重ね、薄く開いた唇から舌を忍び込ませる。
この男との行為で、随分と巧くなったと思う。
初めてこの男に抱かれたときに言われた言葉を思い出して、少し笑った。
「……シェラ?」
急に私に触れることをやめた男。
この美貌とこの肉体、行者として培ってきた手管がありながら、まさかあんなことを言われるとは思わなかった。
「何でもない。……ちょっと、お前の気持ちが分かっただけだ」
怪訝そうな顔をする男。
そのきょとんとした顔がおかしくて、笑いながらまたキスをした。
キスを深くしていきながら、ゆっくりと長身を押し倒す。
この男は何も身に着けないで眠る。
だから、少々つまらない。
──キスをすると舌を入れたくなる。舌を入れると、服を脱がせたくなる。
それが、私に触れなくなった理由。
「何の話──」
「黙れ」
「……」
「お前は、ただ、私の傍にいて……私をあたためてくれればいい……」
「……」
軽く瞠られる瞳。
「余計なことは考えなくていい……ただ、私の傍にいてくれ……」
「……」
「もし、何か罪滅ぼしをしたいと思っているなら……────できるだけ、傍に」
身体が覚えてしまったぬくもりを、奪わないで。
誤魔化さないし、隠さないから。
気持ちを、偽らないから。
「お前の傍にいると、苦しくてつらいときがある」
「……」
「でも、このあたたかさを感じられなくなるのは……嫌だ」
「……」
「──私のいいように、だろう?」
そう言うと、ヴァンツァーは微笑んだ。
男女構わず魅了するような物騒なものではなく、やわらかい、本当に嬉しいときだけに浮かべる表情。
私だけが知っている、他の誰にも見せない顔。
「──あぁ……お前の、いいように」
END.